自然体であること

私は自然体だと見られることが多いのですが、修行が足りません。自然体というのはともすれば怠け者とも言えます。老和尚などの自然体とどこが違うのか。そうした自然について考える機会がありました。
先日、石笛(いわぶえ)奏者の方のお話と演奏を聞く機会を頂いた時のことです。初体験の石笛はとても素晴らしい響きを感じて浄化される感じがしました。目を閉じて聞いていると、違う次元に飛べるようなイメージが沸き起こります。また、人の声の響きに共鳴し、共に声を出したくなる感覚も味わいました。人間の声にはまだまだ明かされていない秘密を感じます。地球の自転の音は人間には聞こえません。同じく他の天体も音を鳴らしています。音はつまり神に通じ、言葉は神との交信のために発展したのかもしれません。石笛は神様のための音を鳴らすものですから、魂が感じるのも当然なのですね。
石笛・横澤和也の世界

音の話は長くなりそうなので、この体験の中で自分なりに解釈し心に残ったものをお伝えできればと思います。あくまで私が勝手に感じたことで、横澤氏の想いとは違う可能性のほうが高いかと思います。もっともそんなものも天にお任せしているのがあの演奏だとは思いますが。
■適当と即興の違い
普段の積み重ねがあってその上で臨機応変にできるのは即興。何もないままに対応するのは適当。とだけ簡単に言えないのが面白いところです。自然の会話も、経験や知恵が裏付けされていれば、どんな会話でも場になじむものになるのでしょう。ただ合わせただけでは、心に残るものとはならないのです。積み重ねしてるから大丈夫というわけでもなく、真剣に一期一会と向き合う勇気と心持ちが、自然と何か見えない覚悟を匂わし、伝わるのだと思います。自由なんだけど、何か導かれるものを感じることができるのか?自分の意志ではなく、音の意志とか場の意志とか天の意志とか、いろんな表現があるけれど、つまりは人為を超えたものを感じるかが問われるのだと思います。
■作為と想い
石笛は自然のままで何も手を加えていない楽器。人間はあるがままを受け入れるより、理想に近づけたり、工夫したりして作為を加えてきました。その作為は人の想いに通じます。想いがあるから作為をして、想いを表現しようとします。作為が悪いわけではないですが、自然はコントロールできないという本質的なことを錯覚しているのが私たちです。科学が進み、コントロール出来ているように見えるけど、それは自然のほんの一部をなぞっているだけなのでしょう。
かといって作為を放棄するのではなく、作為も楽しむことで自然体に近づくといいます。楽しみながら、そして自分に正直になることで自然になっていきます。真剣に楽しんでいる姿は自然と伝わるし、自分と向き合えば向き合うほど、周囲への意識は消えて、ただ感謝が自然と湧き出る表現になっていくように感じます。相手のためでもなく、ただその瞬間に表現できる喜び。無我の境地の片りんを感じさせていただきました。
■一期一会
同じ音はなくて、再現できているようでも、湿度や時間や空気など同じ状態は再現できないのです。CDで聞いても、CDでは伝えきれない雰囲気や耳には聞こえないけど体で感じた音は再現できません。リアルな場で聞くことが一番感じられるわけですが、さっきの曲をまたやってといっても、それは再現できないのです。
これは私もよく味について感じていたことですが、食事も脳が同じだと思っているから、同じ味に感じるけど、実は毎回違う環境で食べているのだから、同じ料理でも完全に同じにはできないわけです。実際には、毎回驚きや感動があるはずが、脳が同じだと認識するから感動もなくなっていく。本来生きているだけでこうした感覚を古来の人々は味わっていたのではないでしょうか。二度とない体験をより楽しむために、欲という思いが生まれて、作為が生まれたのかもと夢想しました。原点に戻って、あるがままを感じる意識を持ちたいと感じた演奏でした。
横澤さんのインタビュー記事も面白いので是非どうぞ。
Vol.03 横澤和也さん│Quest Cafe [クエストカフェ] 自分という人生を旅する。魂の物語。

 

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