執着というキッカケ

人は自分が何に執着しているか、気付いていない。わかっていないから、執着を捨てることもできない。

この世が幸せに回るのは実は簡単だ。執着を皆が捨てればいい。自分の所有にこだわらず、分けあえば足りるのだ。言うは易し、行うは難しである。また、満たされてしまえば資本主義経済では儲からない。それではお金は困ってしまう。だからこそ、人生は面白い。愛着があるモノであればあるほど、捨てるときに複雑な感情が胸に湧き起こる。切ない、悲しい、離れがたい、怖い、懐かしいなどなど。

しかし、執着を捨てた人のほうが、捨てない人より強いのだ。この世の面白い仕組みの一つだ。失うものが無い人ほど怖いものはない。命さえ執着せずに投げだしてしまうテロリストを想像してみたら、その怖さがわかるだろう。持っている人間のほうが有利に見えるが、持たない人間の強みもあるのだ。
 面白いことに、大きい家に住める人ほど、その家にはいないものだ。忙しくて家にいる時間がない。大きい家に住むことにこだわっていないから、その人の器の大きさに合う場所が向こうから自然とやってきて、そこに収まるのだ。そういうものは失われることがない。だが、大きい家に住むことに執着して、ガムシャラに働いて、やっと大きい家に住んだとしても、幸せなのは一瞬で、次からはその家を失う恐怖に怯えることになる。執着すればするほど、失う恐怖が増える。
 ブッダが、お金持ちに全財産を賭けさせたのは何故だろうか?
キリストは、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」といったのはどうしてだろうか?執着があるうちは、心が真の喜びを体験できないからではないか。
だからといって、全部裸になれといっているのではないし、金持ちだからといってお金に執着していない人間もいる。
 企業の上には国家があり、国家の上には宗教があり、宗教の上には、無執着の人間たちがいるのだ。
表に出ることも名誉も求めることもなく、悪く言われようとも気にせずに。まるでイルミナティのような人たちが。
執着を捨てたからといって、すべてが正しく見えるわけでもない。どんなときも無執着が正解でもない。執着があるからこそ、必死になって成長できることもある。大事なことは、自分では気が付かないことを指摘してくれる仲間がいるかだ。
同じ指摘をされても、
「お前には言われたくないよ」ということもある。魂は露骨だ。見下してる相手のいうことは聞かないものだ。
ビジネス社会にいると、売上や成績で優劣を判断しやすい。同じような価値観を持つ中にいては、その中で優劣ができるため、下から上への指摘は難しい。部下の言うことを素直に受け取るより、部下に教えようとする意識のほうが強くなりがちなのだ。価値観も執着の一つだ。
だからスティーブ・ジョブズだって、ビジネス世界にいないお坊さんに意見を求めたのだ。自分が何に執着して、それをどう活かすか?もしくは捨てるか?そうした視点で、執着を活かさなければ、執着に自分が使われてしまう。
世間から見たら成功者に見えても、ただ執着に使われている人も一杯いる。執着のために働いて、本当の自分のためには働かない。すると魂は死んでいくのだ。
本当の自分の人生を生きるために、執着を利用して自分を知る。そして執着をキッカケとして使い、一回り大きい自分を創造しよう。執着は階段だ。上に登るも下に登るも自分次第である。

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