悪魔の誘惑

仕事においても、人生においても、美味しそうな話ほど罠がある。そのことを大体の人間は頭では理解しているが、自分だけは違うと思ってしまう。他人からみれば、あからさまに怪しい話で、一体どんな人間が信じるのかと見えるような話でもだ。だからこそ、ニュースをみると、如何にも怪しい事件で満ちているのだ。

お金が欲しいという欲からくる罠は、ここでは話題にしない。私がここで触れたい、美味しそうな話の罠とは何か?今日書きたいのは、悪魔の誘惑についてだ。霊的な成長を求めて修行をしていると、好奇心の罠、自己欺瞞の罠などに陥りやすい。
ダマされる人間、罠にハマる人間は、みなバカなのだろうか?そんなことはない。一見、悪魔の罠に見えないからこそ罠にハマってしまうのだ。知的な人間ほど陥りやすい罠でもある。情報というものは、人を簡単に魔界に連れていく。自分でハマっていることに気がつくことはほとんど出来ない。だから師匠、仲間が必要なのだ。

どんな話も、結局は自分自身の成長の材料に過ぎない。その材料を通して初めて体験ができる。ただの観念(考え)だけでは魂は成長しない。体験、実践をするために、この世があるのだ。恐れすぎても、体験から遠ざかってしまう。痛みが怖いあまりに行動できなくなってしまっては本末転倒だ。

罠を避けることが賢い生き方だろうか?その罠は本当に罠だろうか?成長のための試練と、奈落に落ちて行く罠とでは、どう違うのだろうか?
相手を変えようとするのか?自分が変わろうとするのか?
自分の価値観だけで判断するのか?相手の価値観をも理解した上での判断なのか?
各自の人生のステージに置いて、体験実践すべき課題は変わってくる。一概に言える解答などない。自分の中にしか答えはない。成長するに連れて、罠はどんどん高度になっていく。内面に向かっているようで、逃げていることもある。
痛みのない成長はない。しかし、この痛みが厄介だ。本当の成長につながる痛みは耐え難いものだ。ついつい、それを避けるために、無意識に楽の道を選ぶ。そして、それがあたかも正しいかのような理由をつける。知識があればあるほど、正しい理由をつくれる。それが当然だと思えるのだ。
世界は、知れば知るほど、裏があり、どこまで知っても切りがないように感じる。魔界に入っていれば、それが恐怖に感じる。本来、計り知れないからこそ面白いし、感謝ができるのにだ。
悪魔の誘惑はとても魅力的だ。魅力的な話に出会ったとき、心が浮ついて飛び乗りやすくなる。一度落ち着いて、話に飛び乗りたい自分の中に、嫌なことから逃げたい自分がいないか探してみる。辛い時こそ、誘惑はやってくる。
悪魔は自分なのだ。自分が誘惑を作り出す。霊的に見れば、自作自演なのだ。人間は弱いからこそ、すぐに解決に飛び込みたくなる。自分は弱いと知らねばならない。何に対して弱いのか?それを知らねば無意識の罠にハマり続ける。
逆に言えば、悪魔の誘惑の時こそ、自分を深く知るチャンスでもある。ピンチはチャンスなのだ。自分を追い込んで辛い状態の時こそ、本当の救いもある。悪魔の誘惑の救いにホイホイ乗ってしまっては、本当には救われない。救われなくてもいいと覚悟して向かうのだ。精神的切腹だ。
現代では、肉体的切腹ではなく、精神的切腹こそが武士道なのだ。勿論、自己犠牲という名の自己欺瞞もあるからこそ、自分だけで判断せず検証が必要だ。自己犠牲という名の自己欺瞞も厄介だが、これについては映画「容疑者Xの献身」でも見て深めて欲しい。

「悪魔の誘惑」への2件のフィードバック

  1. こんばんは!
    なんで、こんな多忙な状態に自ら飛び込んじゃったんだろ。。
    無駄だったんじゃ。。。と思ってた矢先、「自分を追い込んで辛い状態の時こそ、本当の救いもある」
    ちょっとこのフレーズに心が救われました。
    ここしばらく急な坂道駆け上がり状態なので心髄がぶれないよう、尾関さんの
    ブログメッセージの助けがもっと欲しい今日この頃です。。
    次回のメッセージも楽しみにしております。

  2. 難しい(>_<)でも結論を出さずに、(尾関さんのブログの内容を)心で温めて、実践で感じようと思えた!
    ありがとうございます(*^-^*)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です