「知恵」カテゴリーアーカイブ

人間はどこで満足するのか?

普通の世界は、比較によって思考されている。

例えば、ブルジェドバイ。世界一高いビル。上空は人間にとって適切な環境ではない。高すぎるほど、景色という美は損なわれ、開きもしない窓に囲まれた閉鎖空間である。

そこに何があるのだろうか?
その先に何があるのだろうか?
くだらない見栄の張り合いである。次に、どこかの国が「こっちのほうが高い!」などと言って、追い越し追い越されの、永遠の魔界の入口でしかない。

例えば、コーヒー。
「このコーヒーおいしい!」というのは、~と比べておいしい、ということだ。では、豆がよかったらおいしいのか?プロが入れたらおいしいのか?

どこまでいったらそのおいしさに満足できるのだろうか?その先に人間として満足できるところなどない。一時の幸せでしかない。

世界一おいしいコーヒーでも毎日飲んでいたら飽きるものだ。人間とはそういう生き物である。

例えば、お金。
どれだけお金を持っていたら満足なのか?
お金をいっぱい持っていて豪遊できたら満足なのか?

その先には孤独と虚しさがあるだけだ。
自分はお金を持っている!と言っている人間こそ、本当は寂しいのだ。寂しくなかったらそんなことを他人に言う必要はないのだから。

どのくらいお金を持っているかなんて、比べても上には上がいて、どこまでいっても満足しない。

逆に失う不安に陥るだけだ。一番魔界に入りやすい魔物である。お金を持つのであれば、まずは、それを持つことができる器を身につけなければならない。

「比較」は魔界の入口になりやすい。比較はキリがない。終着点がないのだ。終着点がないということは永遠にそれに囚われ執着し、抜けだせないということ。つまり、その先には何もないということだ。

どんなに栄光を掴もうが、それは過ぎゆくもの。

私は、あなたに自分のオリジナルの魂を見つけ出すためのキッカケを与えることができる。
その環境が整った。みんなに時代を享受してほしい。

因縁の特性

最近、夫婦間の相談で聞かれることが多い質問に、
「因縁の相手とは切れないのか?」というのが多い。

結論から言うと、切れることは切れるが、また同じことを繰り返すだけだ。離婚した人はまた離婚するのと似ている。相手が問題ではなく自分が問題なのだから。だからといって、絶対関係を切るなというものでもない。

そのニュアンスはケースバイケースだ。

また濃い因縁ほど切れづらい。関係を切るのも一苦労だ。それなら、因縁に向かった方がいいと私はおもう。逆に言うと、なかなか切れないのだから思い切っていろんなことをやったらいいともいえる。

ひと口に因縁に向かうといっても、馬鹿正直に自分の思うがままにぶちまけろというのではない。相手を想うだけでも向かうことになる。要は諦めないことが大事だ。

困ったときは、止めるのではなく休むことが大事だ。まずは距離を置くことから初めてみることをお勧めする。お互いに冷静になり、いろいろ考えることができるだろう。

因縁の相手に対する感謝が突破口になる。

因縁の戦い

魂の進化のために因縁は存在する。因縁との相互作用で人は進化をする。人は人によってしか磨かれないというが、どんな人でも磨かれるという訳ではない。例えば、知りもしない人から欠点を指摘されても、感情的に受け取ることはないだろう。他人からみたら、そんな風に映っているのかと冷静に受け取れる。

でも、その意見が親や兄弟、恋人、夫婦、親友からだと、途端に感情が入り、冷静に意見を受け取ることが出来なくなる。普通、全く頓珍漢な指摘であれば、「それは違うよ」と冷静に受け取れるのだが、因縁からの指摘は正しいかどうかより、その人にとって一番指摘されたくない部分を指摘してくるので、更に厄介になる。これは、良い悪いではなく、その人が傷つく部分を無意識に理解しているのだ。

だから、因縁ほど言葉に気をつけなくてはならない。言葉で、人を救うことも殺すこともできるのだ。日本は特に因縁間の殺害事件が多い。たった一言で、相手の感情に火をつけて、逆に刺し殺されたりする。傾向として、女性は言葉で、男性は暴力で表現しやすい。

言葉の暴力、肉体の暴力。どちらも愛があれば、愛のムチになるが、それには感情を制御できなくてはならない。大抵は相手を傷つけるだけだ。心に長く残る傷になるので、こうしたことは避けたいが、これこそが因縁の学びでそこから人は成長する。嫌なことだと避けていては、何も得られないのだ。

また、因縁の関係でよくあるのが、意味が分からない言動をするということだ。鳩山兄弟がいい例だ。兄と弟、肉親なのだから不利なことをしないようにするのが普通と思うが、因縁だから逆をしたりする。

今まで何度も話題を振りまいているが、今回も弟が発端で、自分の母親までまた巻き込んで、兄を傷つける。これはかなり吹っ切っている例だが、どんな人にでもこういう例はある。しかし彼らは親不孝ものだ。

ここでこんなことして、誰も得にならないのに何故こんなことをするんだろう?と思ったことはないだろうか?もうこれは普通に理解しようとしても無理だ。ストレスがたまるだけだ。

その背景には、二つの原因がある。一つは、発言した本人の魂が自分の人生に納得していないためストレスを発散している。二つ目は、相手の魂の進化のために、気づきを与えるための例。

どちらも、大抵は無意識だ。だから厄介なのだ。当事者同士も本質的な理由がわかっていないのだから、いくら議論や説明をしても解決をすることはない。また違う理由で意味が分からないことをしだす。

一見、意味がわかることでも、それは表面的な問題で、それを解決してもまた違う表面的な問題がおこるだけだ。例えば、親が子供に勉強しなさいという。子供はおとなしく勉強したと思ったら、次は部屋が汚いと言い出す。といった具合だ。どんどんあら探しをする。他人の子供と比べたりすればいくらでも問題はでる。

人を非難する前に、自分に向かうべきなのだが、それはやり方がわからないし、面倒で大変なのでそれを避け、他人のあら探しをしてしまうのが多い。先ほどの例では、子供に向かう前に親自身が自分の人生に満足をしていないことの方が重要だ。本当に子供(相手)のことを想って、愛から出た言葉であれば、子供(相手)には素直に通じる。

しかし、指摘されたことにも真摯に向かうことが大事だ。それは、言葉通りではなくて、その言葉の奥にあるメッセージを受け取れたら、自分の進化につながるヒントを得られる。

よく仕事では摩擦に向かう人は多いが、本当に人間的に学べるのは、因縁の相手なのである。仕事の相手は、ビジネスとして割り切って我慢できるからだ。

大抵の人は、因縁の相手とは諦めの関係になる。すると、一番身近な赤の他人となってしまう。因縁は、最大の味方でもあり、最大の敵でもある。

一番エネルギーを吸われる相手でもあるし、
一番エネルギーを与えてくれる相手でもある。

自分が成長すれば、相手も成長する。相手も成長すれば、自分が成長する。こうした相互作用で人は進化することが出来る。

こうした特性を理解し、魂の成長に役立ててほしい。相手が因縁だと理解するだけで、ストレスは減るだろう。

時代の溝

最近、寝ても覚めても考えていることがある。どのようにしたら、真に我々の活動の価値を伝えられるか。これは本当に難しい問題だ。どんなに素晴らしいものでも、価値が伝わっていなければ何もないのと同じだ。

半端な人間にこの価値がわかるものかと、一人悦に入ってしまえば自己欺瞞となってしまう。仏でさえも、皆を悟りへと導くために、様々な方便を使って導いた。素直に説明してわかるものだったら、それは今までと同じ概念だ。簡単に理解できないから新しい概念なのだ。

時代が移り変わる時には、「時代の交通整理」がある。新時代に移行するには、ある程度の犠牲が必要になる。例えば、武士が刀を捨てたように。

廃刀が世の流れとなるまでは、刀は武士の魂だという強固な概念を持つ人々と戦っていかねばならない。やがて、時代がその戦いを応援するが、それまでは新たな概念を訴え続ける必要がある。

時代に逆行するものとは、戦い続けなければならない。中途半端に残しておいてはいけないのだ。廃刀令がでたことで、時代の変化を嫌でも感じ、次の時代へと向かうことができたのだ。

時代を読むことができる人間は大勢いるが、その人間達も2種類に分けることができる。
「時空を飛び越え、リスクを背負って新時代に突入する人間」と
「今までの概念に執着して、旧時代の終わりが来るまで待機する人間」である。

後者が新時代に移行するには、新時代の流れが出来るまでの時間が必要となる。旧時代と新時代の間には溝があるのだ。その溝を埋める人間にならなければならない。それは新時代に生きる人たちの役割である。

私は現在、昔の人脈に時代を享受させきれていない。それは意識的であれ、無意識的であれ、そうなのだから認めなければならない。その上で、ご縁があった人々に時代を享受させるためにはどうしたら良いか、と思考錯誤をしている。

まず、今までの歴史を見ると、石油(旧々時代)→IT(旧時代)→沖縄(新時代)と時代の変化が起こっている。言い方を変えると、工業化→情報化→感性化社会となる。

最初にITの人間は石油の人間を誘導することが必要であり、沖縄の人間はITの人間を誘導することが必要となる。要は石油とIT、ITと沖縄の間の溝を埋めていかなければならないのだ。

石油からITへはすでに起こった出来事だ。前時代の変化時、ITの人間は、上手にIT時代をイメージさせることによって、石油の人間から資金を投資させた。金融というシステムもIT時代を迎えたから飛躍した。最初さえうまくいけば、後は大衆の原理により、自然に時代が移行していく。前時代変化はそう起こった。

では、次の時代の鍵となるのは、やはりITのなかでも先に新時代を体験した私なのである。(如来から「お前は先の時代を走っているのになんで時代を昔の人脈に享受してないんだ。しっかり菩薩の仕事をしろ。」と言われてしまった。)

ITの世界に生きる人々は、ITの世界のなかでの比較によって、物事を決定するようになっている。それはその世界を創ったモノの強固な概念であり、そうでなければ困る人間もいるのである。しかし、その世界の比較の中に答えはない。

そこではないところに、人間としての本当の答えがあり、
そこではないところに、時代というモノの物質がある。

それを私が感じさせなければいけないが、例えば、私がいくら一生懸命説明したところで、沖縄に逃げている、宗教に逃げている、などと低レベルな次元で話をされたら、そこで終わってしまう。

そうではなく、本当は旧時代から新時代に移行した人間の変化をお見せしたいのである。体験すれば一発で理解させることができるのであるが、説明することはできないのだ。

旧時代と新時代の溝、普通の世界と特別な世界との溝、を埋めることが重要だ。おそらく、その溝を超えることは人間の進化とも呼べるべきものであろう。つまり、我々がやろうとしていることは、人間の進化の促進につながる。この溝は、いつの時代でも常に現われてきたものである。

人類の歴史は変化の連続によって成り立っている。その大きな流れの中で、時代が一瞬にして変わってしまう時期がある。それは人類が発展するのに必ず必要な時期であり、その連続で時代はできている。

有事に生きる人と、あくせく働く人

沖縄にはすぐそこに米軍基地があり、その中はアメリカ合衆国である。

柵の外にいる日本人が、柵の中にいて優雅に芝生刈りをしているアメリカ人を見てこう思った。
「なんか自分たちは毎日毎日あくせくと朝から晩まで働いているのに、あいつらはいいよな~。しかも、彼らは自分らの税金で暮らしているわけだろ。納得いかないよな~。」と。

しかし、これは納得いくとか納得いかないとかの問題ではない。これが全てなのだ。人間は生まれる前と死んだ後は選べない。選べるのは、生まれてから死ぬまでの間だけだ。唯一、生きている間だけ選択をすることができる。

人間は生まれる場所も時代も選ぶことはできない。
「なんでこんな家に生まれてしまったのか?」などと考えるだけ無駄である。そのときその場所に生まれたのだから受け入れるしかない。また、死ぬときも選ぶことはできない。突然事故にあったり、病気になったりする。

全てをありのまま受け止め、それをどう活かすかが大事なのだ。というより、どう活かすか、しかない。

今の時代、本当にやりたいこと、自分に合っていること、自分の使命を全うしている人は、極わずかである。

今しか選択して生きることはできないのに、流れに流され生きている人がほとんどだろう。
「それは本当にやりたいことなのか?一生そのままでいいのか?」

究極は一日に全てが凝縮される。
朝、目覚めとともに生まれ、
夜、眠るときに死ぬ。

その中で自分は何ができるだろうか?本当にやりたいことはなんなのか?それを常に、考え、葛藤している人間に、流れに流されている人間が勝てるわけがない。100回人生を繰り返したって、それは真剣な人の一日に過ぎない。

柵のなかにいるアメリカ人は、有事のときに命を懸ける。だから、別に普段は優雅に過ごすことが許される。一般人が毎日あくせく働いて納めた税金で生活することができる。

有事とはどういうことか。
50年、100年に一回あるかないかの戦争。
一方は人生に一回あるかないかの大勝負に賭ける人間、
一方は毎日をつつが無く過ごすために面倒が起きないように生きている人間。

この両者が何を話し合ったとしてもわかりあえるわけがない。住んでいる世界、見ている世界が違うのだから。次元が違うと言ってもよいだろう。

一瞬の大勝負に命を懸けて魂を燃やす生き方をする人生と、日々をつつが無く過ごして毎日あくせく働く生き方をする人生。

どちらを選ぶかは、自由であり、選べるのは「今」しかないのである。

運命と宿命の出会い

人生には、運命と宿命がある。自分で変えられるのが運命。変えられないのが宿命である。人生のスタート地点は宿命で決まる。アジア人とか日本人とか男か女とかである。

人生が始まり、宿命のターニングポイントがある。いつそれが起こるか?それを求めて占いも発達した。知ってもしょうがないことを求めるのが人間だ!

さてその宿命の出会いともいうべきポイントとポイントの間が運命だ。命を運ぶと書いて運命。命が宿るで宿命。言葉って面白い。

人生はあみだくじのようだ。分かれ道が必ずあって、その選択で人生は変わっていく。だから人生は自分で好きなように創造できるのだ。

人それぞれが自分の課題や体験したいことを持って生まれてきている。その中で、運命の出会い、宿命の出会いがある。この出会いはどちらだろう?などと気にしても意味がない。好奇心を満たすことより、その出会いから信号を受け取り人生に活かすことのほうが大事だ。

先日こんなことがあった。1週間以内の出来事だ。

1.道端で偶然Aさんに会った。
2.イベントを主催しているBさんからお誘いを受けた。
3.メールやニュースで占いという言葉が頻繁に目についた。

私は頻繁に偶然人に出会うことが多い。突然の連絡などもあるのだが、こうした出来事に出合った時、私はそれを信号と捉える。その時点で、その出来事を中心としたマンダラを描く。

3の時点で、1と2のマンダラを思い出し、ぱっと連想したのが占いという言葉だった。Aさんはかつて占い会社勤務だった。Bさんは占いが得意だった。それから、下記出来事が続く。

4.待ち合わせた場所の目の前に占い屋があった。
5.前から約束していた人にあったが、その人にあった時、占い師の話をされた。

といった具合で、「あ、占いのことについてBlogで書こう」と思った。信号は連鎖的で、また意味も一つではない。そうした信号を受け取り行動に変えていくと、更にシンクロが起きることがある。そうすると、その信号の理解はそれで良かったのだと感じる。

他にも、先日はふと気になって入ったお店で、10年前に行きつけだったお店の板前さんに会った。10年前にそのお店からいなくなって、その時どこにいったのかな?と思っていたら、10年後に会うとは!この信号は、10年近く前に出会った人たちから連絡がくるようになると捉えている。ここ数日昔の人からの連絡が続いたからだ。

ふとお店に入ってみたら、隣に知人や著名人がいたことも結構多い。出会いというのは不思議なものだ。私はご縁に恵まれているなといつも感謝する。

不思議なことなのだが、人のつながりがクモの巣のように絡んでくるのだ。5年ぶりに会った友人が連れてきた人の親が、沖縄に絡む官僚だった!といった具合だ。昔は気軽に人を紹介していたが、それが仕事になったり、会社になったりしたことが多かった。しかし、そういう人たちは成功しても、原点を忘れてしまう人が多かった。

「私はただ紹介しただけだ。あとは本人の頑張りだし、キッカケを作ったことは覚えていてくれればそれでいい」と思っていたが、それでは小さく利用されただけで終わってしまう。

また、キッカケの価値も軽く見ていた。0から1がなければ、その先はないのだ。宿命のキッカケだとしたら、とてつもない価値があるのだと感じるようになった。

私自身もっと大きく利用されるために、考えて紹介するようになった結果、今のいい循環が生まれるようになった。紹介が紹介を呼び、更なる発展をお互いがして、更に応援するという具合だ。

今年も益々、人の出会いが楽しみだ!

日本航空破綻に見るヒトとモノの本質

日本航空の出来事は何を意味しているだろうか?これはとても重要な信号だ。この信号が意味していることを考えてみよう。

JALは私にとっても思い入れが深い会社である。親戚、友人、知人と関係者が多数いるし、飛行機といえばJALだったのだ。

そもそも、もとは国の肝いりで作られた国策会社で、ブランド価値も高かった。テレビドラマの「スチュワーデス物語」はドラマ界の歴史に残る作品だった。最近ではCAと呼ばれているが、女性が憧れる職業になったのもこのドラマの影響が大きいだろう。

ラジオ番組の「ジェットストリーム」もとても好きな番組で、ナレーターの声と定番の音楽は耳に残り忘れられない。旅への気持を掻き立てられたものだ。

ビートルズが来日した時に着用していた、JALのロゴ付きハッピを着ている姿は何度も放映されている。

とてもブランド力のある会社だし、実際就職ランキングでも数年前まで一位だった。長年の人気企業ゆえ、優秀な人材も揃っており、数年前のJASとの合併で更に力が増すのではないかと思われていた。

そして日本の富豪のベストテンに入るであろう、投資家糸山氏が勝算もなしにあれほど投資するだろうか?誰よりもよく調べて、価値があると踏んだから投資したはずだ。

ほんの一年前まで、一般の人は誰も今の現状を予測できたものはいないだろう。

もっとも5年ほど前から、警告を発していた人もいるが、危険かもしれないがJALだから大丈夫だろうと誰もが高をくくっていたのだ。

ところが、去年くらいから、まるでタイミングを合わせたかのように映画「沈まぬ太陽」が公開され、この会社は問題なのではないか?という機運が高まった。そして、現在JALはすでに1兆円近い債務超過に陥っており、会社更生法が適用された。実質の破産。1兆円の債務超過など、幼稚園生が経営してもそこまではないだろう。

人間とはそういうものだ。ここで面白い例え話がある。
「茹で蛙」と「逃げ鼠」

■茹で蛙とは、カエルをいきなり鍋の熱湯に入れると火傷はするだろうが、必ず飛んで逃げ出す。しかし、常温の鍋にカエルを入れ、だんだんと温度を上げていくとカエルは逃げずに、茹であがって死んでしまう。

この例えは、カエル=大衆であり、水の温度=景気である。だんだんと悪化していく景気に大衆は反応することができずに死んでしまう。

■逃げ鼠とは、鼠が敵から逃げるときに、周りのネズミも一斉に逃げ出す。そして、前に走るネズミの後姿しか見えずに走り続け、前のネズミが消えたと思ったら、自分も谷底に落ちている。

この例えは、鼠=大衆であり、敵=バブルである。大衆はみんなが走る方向に走り、いつの間にかみんなで谷底に落ちている。

JALの話は、時代の転換を説明するのに根拠ある証拠であり、これほど今の日本という国、そこに安住する人間の本質を表している例えはない。

私には、一気に追い込まれた、太陽のロゴマークを付けたJALの行方と日本の行方がダブって見える。これは日本の将来を示した信号だろう。日本航空=日本国なのだ。

日本も同じように、価値があり大丈夫だと思っているけど、一気に追い込まれるだろう。株価の推移をみれば、価値なんてものは相対的なものだと否が応でもわかる。わずかの間に、200円が60円になり2円になる。お金の価値もそんなもんだ。

しかし、だからといって悲観することはない。世の中はよく出来ていて、器が備わってない場合は取り上げられて、器がある人に移っていくものだ。

芸術品が良い例だ。古代よりの価値ある資産は、長年その価値を守れる人を伝わって残ってきた。価値のないものは時代によって淘汰され、価値あるモノだけが残っていく。どんな富豪が所有していても、それは一時的に借りているのと同じだ。

必要な人が必要な時に借りられる(所有する)ようになっている。

皇居を見てみよう。今では誰も江戸城だとは思わない。徳川家の城であったことは知っているだろうが、江戸城とは呼ばないし、思いもしない。完全に天皇とイメージは一体化している。

まるで今では、天皇のために徳川家が作っておいたかのようだ。JALもJALが似合う人の手に渡るか、もしくは淘汰されることになる。

真に価値あるものだけが歴史の重みに耐えるのだ。

占いの功罪

占いが好きな人は多いだろう。古今東西、あらゆる時代で占いは活用されてきた。戦争から恋愛までその守備範囲は幅広い。かくいう私も昔から占いにご縁があって、学生時代に関係した会社は、占いコンテンツ制作会社の草分けだった。今では、占いコンテンツは儲かるとわかっているので多くの会社が制作しているが、時代に先駆けて占いコンテンツを作っていた会社だった。その会社を通して知り合った人たちは、今も様々な分野で活躍している。

何故か私は、昔から占い師や霊能者の方々を紹介されることが多く、そしてそういう人たちに私は好かれることが多い。例えば、見てもらったら普通はそれで終了だろう。しかし、のちにあなたに紹介したい人がいるからと人を紹介してくれたり、こういうことをやらないか?と奇抜な話を持ってきたり、はたまた占い師ゆえに知り得た内緒の話をしてくれたりする。

今はもう有料で占いにいこうとは全く思わない。当たるも八卦、当たらぬも八卦の世界だなと体験から理解した。占いの話は面白いけど、エンターテイメントでしかない。ゴシップと似たようなものだ。

確かに四柱推命などは統計学だから、確率的に参考になることは多い。そういう傾向にあるなと納得することはある。でもそれがわかったからといって好奇心が満たされるだけで、魂の進化や幸福とは何の関係もない。むしろ遠ざかるかもしれない。

外部の知識に判断を委ねると、自らの中にある直感を弱めてしまう。

また、言われたことに縛られて、自分でその予言を実現化してしまうこともある。不安なことほど人は気になって、不安に感じている事柄を引き寄せてしまいがちだ。予言の自己成就である。

心理セラピーとして占いを活用している人もいるから、それで救われている人もいるだろう。しかしながらそれで立ち直って人生を歩んでいく人は少ない。大抵は、益々占いにハマって人生をおかしくしたり、依存心が強くなったりする。好奇心、エンターテイメントで楽しむ程度なら良いだろう。

良くあたるという人ほど要注意である。蛇やキツネの霊が関わっているかもしれない。

それにしても、最近久しぶりにテレビである霊能者をみたが、随分と悪人顔になっていてびっくりした。彼のお陰で霊の世界もスピリチュアルと呼ばれて随分と世間の抵抗感がなくなった功績は大きい。そんな人だからこそ、魔界には気をつけないといけないのだが、それが一番難しいのだ。

成功者がその成功体験で失敗するようなものだ。

進化成長への早道は、目の前の出来事に思いを巡らし、自分の中の直感に照らし合わせて行動し、仲間に検証してもらうのが一番だ!

猫寺-祐天寺庵

猫寺を開けてから1年以上経過した。この間にどんどん猫の時代がやってきた。そもそも、私は猫アレルギーだったのだが、猫寺を始めてから猫アレルギーが治ってしまった。

しかし、猫アレルギーだった私がなぜ猫寺をやったか?それは時代だからである。これからは、猫に象徴される時代となっていくのだ。

猫は古来エジプトの時代より神聖視されてきた。人間に一番近い霊的動物として、人間のそばに存在していた。映画「コンスタンティン」でも、猫の目から霊界に入っていく。

ちなみに沖縄に猫の文化というものがあり、そこでもやはり猫が象徴するものは霊なのだ。

大体、猫はよく何もいない空間を見つめていることがある。霊が見えるのだろう。何を見てるのかなと不審に思った飼い主は多いに違いない。

また、よく猫と女性は似ているいう言い方もする。自由気ままで、媚びない様子のほかに、霊感が鋭いという意味もある。

これからは、「霊と女性の時代」なのである。もう時代は、予想を越えたスピードでまっしぐらに進んでいる。

以前に、20世紀は攻めの時代、21世紀は守りの時代といったが、守るのは女性が得意分野であるのは疑いもない。

こうしたテーマのほかに、猫寺では修行も行っている。沖縄で修業した方が、更に深めるために修行しているのだ。仏像を彫ったり、絵を描いたり、写経をしたりと幅広い。ちなみに、猫寺での仏像作りの修業を入れたあたりから仏像ブームがやって来た。それまでは仏像描く人がいた程度だった。ほとんどの人が猫寺で仏像彫りは初めてだった。

猫寺ではアート的な修業が中心だが、こうして真剣で神聖な空気を維持するようにしているからこそ、ここでは普段と違う深い話をすることができる。

私は、深く内面の話や時代の話をしたいときは、ここで会うようにしている。ここでなら、お互いに心の壁が取り払われ、余計な説明が少なくて済むのだ。

多くの著名人が猫寺を訪れている。それもあって、猫寺は完全予約制として運営しているのだ。完璧にプライバシーは守られる。ここは現代の志士が集まる、池田屋・寺田屋のようなものなのだ。ビットバレーの時の同様に、やはり自分自身は魂が来るべき時代を受け取り、未来に橋を架け続けたいと思う。

沖縄のホテルで食事も兼ねて打ち合わせをしていた時のことである。元大臣が後からやってきて、近くのテーブル席に座った。最初はこちらに気がついていなかったが、気付いた途端に気まずそうな顔となり、席を移動していった。

気を使ってくれたのだろうが、ちょっと寂しくなる。逆に親しげに来られて辟易する人もいるが・・。

仕事柄、人には多く会うが、中には、輩(やから)も多くいる。

「輩」とは、人を利用することで自分の価値を高める人間のことだ。例えば、誰それを知っているとか、仲が良いとか、こんな情報があるよ、と話す感じだ。

一回会って写真を撮っただけで、「自分はこの人と特別な仲だ。」と言って他人から見た自分の価値を上げる手法をよく使う。大衆も行為は似ているが輩は確実に利益を狙う。

別にこれが悪いといっているわけではないが、「諸刃の剣」となることが多い。

これはいわばゴシップ記事を話しているだけのようなものだ。最初は相手も面白いかも知れないが、最後はそれでどうしたの?となるのが関の山だ。

輩はそういった手法で金を稼ごうとするが、結局大した額は稼げない。もっと稼ぎたいなら、小さく利用しないで大きく利用すべきだ。

ゴシップ話をしているだけでも、快感現象で面白いかも知れないが、その人の価値は上がらない。

間に入って自分の存在を高めるよりも、直接つないだほうが、皆でHappyになる。

だが、繋いだら自分の存在価値がなくなるのではないかという、深層意識の不安から無意識に人を繋げることを避ける。

今のご時世、恩を忘れる人が多い世の中だから無理もないと思うかもしれないが、本人はそれを意識しているわけではない。輩は、無意識に金の匂いに敏感なのだ。

金しか信じていないから、人も自分も信じられないのだ。しかし本来、輩だからこそ、時代の変化に敏感に気づくことも多い。

誰よりも先に、美味しそうな匂いがするところに集まれば、それだけ美味しい思いができることを知っているのだ。

しかし、輩には限界がある。結局それで運よく成功しても知れている。金額的には5億くらいが関の山であろう(私の知る何人かの方々参考)。しかも、金しか信じていないから金を失うことを極端に恐れる。

だから、いくら稼いだとしても満足できない。
そして、いつの間にか結局金を失う。

どうしたら自分が満足するのか?と根源的な問いを考えるよりも、金を無くさないで増やすにはどうしたらよいか?ばかり考えるようになる。いつも不安なので、何かしらの取引をして、魂を売り渡し魔界に落ちていく・・・。

本物の成功者(菩薩の道を極めた者)は、愛で世界を創る。その世界に生きる人間は愛に包まれているので、自分の特性を活かした能力をフルに発揮することができる。そうすることによって、一般的に言われる経済循環なるものが活性化する。

別にそれを狙っていなくても自然とお金が集まるようになる。
特別な世界には何の矛盾もない。

一例を挙げるとすれば、輩は「人を利用して自分の価値を高める」が、菩薩の道では「自分を利用して人の価値を高める」のだ。人を信じなければそれはできない。また裏切られる痛みにも耐えなければならない。だから、いつも心が痛い。

しかし、それで人が喜んでくれるのなら、この心の痛みも耐えられる。そして、何よりそれを理解してくれるたくさんの仲間達がいるから突き進んでいける。
輩は一人だ。
しかし、菩薩にはいつも多くの仲間達が存在する。

とても単純でわかりやすい。

良い悪いではなく、時代に先駆ける人は、どちらにせよ山師的要素を併せ持つものだ。
だとしたら、それを活かして自分を輝かせてほしい。