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決定論か、ランダム論か

 秋分の日が過ぎた。22日が秋分の日となるのは116年ぶりとのことだ。気にしなければ何ともないことだ。天体の動きなど何の影響もないと考えるのが科学的な見方。というのが一般的な視点だろう。ではなぜそれがニュースになるのか?ただのお知らせか?珍しいからか?

天体の動きは前もって予想できる。暦(こよみ)いわゆるカレンダーも、天体の動きを元にしている。昔から、暦を制定できるものは権力者だけで、暦には権力者の思想が織り込まれている。暦を支配するものが、世界を支配するのだ。現代の我々は普通に西暦を使っているが、それは無意識に西洋の思想に支配されているのと同じだ。ちなみに敗戦までは皇紀が使われていて、この皇紀は聖徳太子が制定したものだ。これも深い話しがある。堂々と誰もが使うカレンダーを通して、潜在意識に働きかけられているのだ。

サブリミナル効果というのを聞いた事がないだろうか?映画とかで、目にも留まらぬ早さでコーラを飲んでいるシーンを入れると、意識せずにコーラが飲みたくなるという話しで有名だ。人は意外に簡単に影響を受けやすい。マスコミや常識、雰囲気といったモノに無意識に影響されて洗脳されている。良い悪いの判断も、一体どこにその起源があるのか?よくよく考えずに受け入れる。

カレンダーは何年先も数字で決まっている。先を考える中で、片方は1万年先を考えている人と、片方は明日のことしか考えられない人では、話しが合う訳がない。明日のことしか見えていない人は、先の事を見ている人間に誘導されていく。これは良い悪いではない。そうしなければどうなるだろうか?世界はどうなるのだろう?

リードする人間たちは決定論で動いている。そして、リーダーは大衆にはランダム論で話すのだ。こういう形に持っていくぞという絵があって、それを実現するための方法を落とし込んでいく。大衆にはランダムでそれが起こっているように見える。

方向が決まってから落とし込むのが得意なのは官僚たちだ。官僚は学習と反復を得意としている。自分では決められない。決めてくれる人に弱い。企画と実行部隊は違うのだ。

仕掛ける側の例を書こう。ユダヤ教の実力者は、キリスト教の教会を豪華に作る。そしてキリスト教を発展させ、その幹部に対してユダヤ教の実力者が影響を及ぼす。キリスト教の信者に間接的に影響を与えるのだ。そして、その信者には、
「皆さん、明日は何が起こるかわかりません。だから神に祈りましょう」と教えるのだ。で、明日の事件を仕掛けて、
「ほら、何があるかわからない世の中です。怖いですね」とマッチポンプするのだ。

決定論か?ランダム論?かで問われると、ついどちらかのスタンスだけを選んでしまいがちだ。両方の考え方を利用してるとは考えにくい。思考の罠に大衆はハマりやすい。真面目脳だ。問いを作った人の真意はどこにあるのか?カオスを作る為なのか?どこかに誘導するためなのか?

カオス(混沌)の中から、新たな創造は起こっていく。カオスとランダムは似ている。意図があるのか?ないのか?管理できるのか?管理できないのか?

カオスを創りだし、そのなかを決定論を持ちながらランダムに楽しむ。人生、目的があるから頑張れるし、先がわからないから楽しい。いずれにせよ、変化が加速する事は決定している。

徹底の先に愛がある

台風のエネルギーは凄い。破壊もするし、浄化もする。台風がなければ助かる事もあれば、来なければ困る事もある。短期的には台風はなければ良い。長期的には台風がなくては困るだ。影響力がある存在は善悪を超える。天使も悪魔も半端な状態が一番たちが悪い。助けられもせず、かといって破壊も出来ないようでは中途半端な状態が続いていく。

世の中の大半の人は、中途半端な状態が良いと思っている。中途半端とバランスが取れている状態は似ているように見える。中途半端なのか?バランスが取れているのか?自分だけでは判断が難しい。

現代では、個人主義、自由主義が正しいものだと大半が受け入れている。絶対的な正義などはない。自分一人だけ、個人だけの幸せを追求しても、分かち合えなければムナしいだけである。一人の満足は小さな自己満足にすぎない。かといって、自分一人の満足を追求するなというのでもない。

繋がりのある状態で、自分の持ち場を極めていく。繋がりのない状態では、自分が中途半端なのか?バランスがどうなのか?も見えてこない。お互い、真剣勝負の眼があるから磨かれる。普通の会社ではどうしても上下関係が出て来て遠慮が出てしまう。また、普通の組織は上下関係がなければ収拾がつかなくなる。だから、立場の上下関係でなく、持ち場と意識によって創られる関係は難しい。難しいからこそ価値がある。

どんな関係で繋がっているのか?お金なのか?情なのか?大義なのか?愛なのか?
それぞれにメリット、デメリットがある。使い分けられる人は少ない。とことん徹底的にどんな立場も極める事で、他の立場も見えてくる。徹底できなければ、天使が大天使へと進化する事はない。大天使と大悪魔は同じようなものだ。それぞれ力量がなければつとまらない。

徹底と言えば、かつて「いい人が飛躍できない理由」で書いた事だ。そのとき、トムクルーズの話しを書いた。そのトムは今年離婚をした。彼は徹底している。歴代の奥さんとかつての彼女を含め7人連続で同じ事を実行している。普通は情が入るものだ。情との戦いは苦しいものがある。なかなか出来る事ではないが彼は徹底して実行している。その詳細は敢えてここでは書かない。

破壊がなければ創造もない。日本全体が破壊を待っている。政治で言えば、議会制民主主義が限界に来ているのではないか?多数決がすべて正しいわけではない。どういう政治体制が機能するのか?経済的視点から見て資本主義は限界ではないか?金融はどうあるべきなのか?そもそも日本とはどうあるべきなのか?日本文化とは何か?根本から問うべき時代だと感じる。日本から見たら悪霊に見える国も、変化のためには必要なのだ。

自分たちは、来るべき時代の為の雛形を作っている。実践を通して学ぶしかない。家族のあり方も含めて、新たな生き方が問われている。いま当たり前と思っているスタイルは当たり前でなくなる。

ただでさえ、人口構造が代わるのだ。時代が変われば、考え方も変わらなければついていけない。目の前の事を徹底する事でそのヒントは見えてくる。短期ではなく、長い眼で物事を見なければ先は見通せない。見る目がなければ、どんな苦労も報われない。誰もが持っている直感と言う心の眼に従う事で道は開ける。

徹底して自分の心に従えば、途中の状態はどうあれ、最後は必ず
「終わりよければすべて良し」になる。途中良いけど終わり悪しより良いではないか。

肯定も否定もせず

今年の1月13日の金曜日に「聖と俗の境目」を書いた。その日に野田内閣が発足し、13日の金曜日に組閣したのは歴代初めてという。今日も13日の金曜日。まだまだ不吉というイメージがすぐ湧くだろうか?ちなみに、いまオスプレイ配備が話題になっているが、普天間で起きた沖国大米軍ヘリ墜落事故は、13日の金曜日に起きている。偶然その日に起きたのか?それとも狙って起こされたのか?今度のオスプレイ配備は強引に感じないだろうか?だとしたら何故か?墜落させて話題を作りたいのだとしたらどうだろうか?

真面目脳では絶対に出てこない視点だ。13日の金曜日が不吉とする意見の一つに、その日にテンプル騎士団が迫害された日だからという説がある。映画「ダヴィンチコード」でおなじみの陰謀論のスター騎士団だ。映画にも出て来たロスリン礼拝堂は明治維新後の岩倉使節団も訪問したという。その礼拝堂を作ったのがフリーメーソンとかテンプル騎士団だとかいう話しよりも、自分が面白いと思うのは、世界初のクローン羊が誕生した場所がロスリン研究所ということだ。つながりがあるのか?偶然なのか?そもそも一体何を求めてクローンの研究をしているのか興味深い。

テンプル騎士団やフリーメーソンというと、すぐに陰謀論という連想で思考停止してしまう。では、陰謀論の反対は何論なのだろう?世間の常識をそのまま受け入れろ論だろうか。陰謀という言葉は、怪しく受け入れてはならないという概念に洗脳されているのではないだろうか?歴史は勝者によって書かれることを忘れてはならない。

余談だが、誤解を恐れずに書くと、覚醒剤という言葉もそうだ。もうその言葉を聞いただけで、無条件にイコール悪となる。洗脳されている。剤という言葉をとって、覚醒という言葉だけを見たら、覚醒という概念は素晴らしいことではないか。覚醒させる剤があったとしたら、(例えば映画マトリクスでモーフィアスがネモに提示した薬のようなもの)本当は素晴らしい。いま言われている覚醒剤は、覚醒ではなく、興奮剤、麻痺剤、逃避剤、幻覚剤とか言うべきものだ。それを覚醒という言葉を使うところに、意図を感じるのだ。

「覚醒するな、奴隷でいることが大事だぞ」と。
「うん?何かおかしくないか?」と違和感を感じる人間は、非常識でおかしい人間とされていく。言葉の意味をよくよく考えることもせず、洗脳パターン化された反応をする、まさに奴隷だ。千と千尋で感じなかっただろうか?

薬による覚醒のイメージを描いている映画が最近では、「リミットレス」だ。善悪を超えて、もはやそうした薬も現実に出来ているのだろう。思いついたら試さなくては気が済まないのが人間の性だ。肉体でさえドーピングが話題になっている。頭脳のドーピングも確実にある。頭脳の生み出す価値は、肉体の生み出す価値に比べたら計り知れない。頭が良ければ世界は違って見える。小説「ジェノサイド」や映画「フィリップきみを愛してる」「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」などを見たら、頭をドーピングしたいイメージにかられるだろう。

私たちには思いつきもしない発想で、世界を見ている人間がいるのだ。13という数字に踊らされるのか?13という数字を使って、世界を誘導するのか?そのまま何の疑問もなく受け入れている人間は踊らされるだけだ。奴隷と同じだ。なぜ誘導したいのか?どこに誘導したいのか?何も考えない人間は、千尋の両親のように豚と同じ扱いを受けてしまう。銭婆の世界観が分かれば、自ずと自分の役目も見えてくる。

かつて13は聖なる数字だった。私たちが普段使っている西暦によって、今日は13日の金曜日になっている。別の暦であったら今日は違う日で、金曜日という概念さえなかっただろう。無意識に暦に支配されている。暦についてはまた詳しく書く。

13という数字はアメリカの一ドル札に見ることが出来る。スターウォーズに影響を与えた、神話学者のキャンベルによれば、
「十三という数字は、変身と再生の数字。十二という限界範囲から脱出して、超越界に入ることを示す」という。

今までの概念を破って、新たな世界に飛び込むにはちょうど良い日だ。世界を偶然の連続で出来ているカオスだけと見るのでもなく、意図的に仕組まれた世界だけと見るのでもない、善悪二元論を超えた世界だ。

偏見を捨てて、何でも受け入れつつも、尋ねる心はもち続ける。そこで次のステップに行ける。それはまた次の機会に。

わかるとわからないの間

貴重な体験であった昨年の出来事から1年が経ち、喪が明けたかのように展開が促進している。あの事件があったからこそ出来ていることがたくさんある。失ったように見えたのは表面だけで、裏面では得たものが大きい。ただのゴシップにしては意味がないために、真相などは表に今のところ書かない。直接関わる人だけがわかればいいことであるが、意味があれば書くこともあるだろう。
秘密というものは、秘密だからいいのであって、公開されてしまえば判断されてしまう。人は理解したがり、わかった気になりたいのだ。本当のことを知りたいのも、ただ好奇心だけであって、そこから真理を掴みたいなどとは思ってもいない。知っても何も生み出せない。
知ってしまったものには人は興味を抱かない。人間底が知れたらオシマイだ。この人はこういう人物だとレッテルを張られた瞬間に興味がなくなる。分かってしまったら見くびられるのだ。かといって、わからなすぎても、認められない。
わかるようなわからないような、微妙なニュアンスが絶妙。人でもモノゴトでも、わかったような、わからないような、はっきりと言えない状態が最高だ。それは普通の人にはストレスになるのだが、ストレスがないからいいとは限らない。
例えば、お金持ちを考えてみよう。長者番付とか上場とかしてると、資産が見えているのでランクをつけられる。ランクが付いていたら間違いないものとしてわかりやすい。しかし、見えてわかっているということは、形になっているということだ。形になっていたら動かしづらい。
見えない資産のほうが、いくらでも動かせるし、資本主義のルールではお金のスピードをあげれば上がるほど儲かるわけだ。表に出てこない人のほうが資産を持っているのは当たり前なのだ。でもそうした人の存在はわからない。わからないから、ないものと同じになる。
真面目脳であれば、自分の資産は自分の名義で持っていると思い込む。しかし、西武の名義株の件を見たらわかるだろう。資産を人の名義で管理している人はたくさんいる。錬金術の一つでもある。
陰謀論も「陰謀論だね」とレッテルを張った途端に、その情報が生み出す意味をとらえることは出来なくなる。どんな情報にもレッテルを張ることなく、捉えることが出来る人間が、人を動かせる。
視点が上がらない限り、目先の出来事に操られてしまう。一喜一憂して、一生操り人形のままだ。かといって、すべてを疑っていてはキリがない。自分が違和感を感じるものを追及するのがいいが、違和感を磨く方法を大半は知らない。
意図的にわからないようにしようとやりすぎても輩になってしまう。そこに筋とか柱といった、信念がなければ隠し事もつけが回ってくる。考えすぎてわからなくなるかもしれない。それは人のためなのか?自分のためなのか?悩んだ末に決めて、決めたらやり抜くしかない。
ニュースを聞いて違和感を感じるだろうか?
なぜ、6月6日に66歳で三笠宮はなくなったのか?
なぜ、急に原発再稼働を言い出したのか?
他にもなぜ、なぜと言い出せばキリがないが、物事をそのまま捉えていては、その裏に隠されている真意に気が付くことはできない。知りたければ、伝える人はいる。それを望むかどうかだけで道は開ける。
裏があろうとなかろうと、どんなモノゴトにも捉われずに受け取ることで、柔軟な思考がうまれる。何があってもおかしくない時代なのだから、変化に対応するにはわかった気にならないことが一番だ。

マーロンブランドの人生に学ぶ

 事実は小説より奇なりという。現実の世界のほうがはるかに面白いから、ハリウッドも現実に起きたことからネタを拾っている。実話ほど実話とは思えない波乱万丈に満ちているのだ。しかし、それは一部の吹っ切った人が起こしているのも事実だ。大衆には触れることがない世界。だから映画でそれを味わって非日常を体験する。

小説より面白い現実を生きている人の日常は、普通の人にとっては非日常だ。どちらがいいとか悪いとかいう話ではない。普通の人がやらないことをする人は、その人にとって譲れない信念がある。それがモチベーションとなり、常識という殻を破る力になる。そういう人間は近くにいたら、強烈な個性のために、熱狂するか不愉快になるだろう。
織田信長も、今となっては英雄だが、当時の同世代人にとっては第六天魔王と恐れられた。それはそうだ。比叡山を焼き討ちしたり、今でいう大量虐殺者なのだから、神をも恐れぬ所業に度肝を抜かれただろう。近くにいたら迷惑だが、時代が下がって、遠くなると格好いいとなる。
世間に自分を合わせようとするのではなく、自分に世間を合わせようとする。いまの世界はおかしい。そんな世界は納得いかないと欲する人間が時代を創る。またそういう人間がスターになる。ハリウッドスターのなかで、飛び切り反骨心があったマーロンブランドの人生は格好いい。
今だから格好いいといえるが、それが確立するまではダメな人とか落ち目だとか言われてきた。真面目脳であると、一つ一つ評価を積み重ねていかないとダメで、一回でも落とされてしまったらもうダメだと考えてしまう。本当は、ダメなところがないと逆に面白くないことに気が付かない。紆余曲折があるからドラマになるのだ。
世間とは面白いもので、突き抜けて看板ができてしまうと、どんな失態も逆に物語の一部になってしまう。「ああ、やっぱり彼らしい」といった具合に。それが魅力となる。


何も汚点がないというのは、何も利点がないというのと同じだ。
「いい人、いい人、どうでもいい人」なのだ。世間では、何も問題がなく素晴らしいように見える人もいるだろう。それは汚点が見えていないか、もしくは作られた人物である。世間を誘導するためには、カリスマを作ることが有効だからだ。
作られたカリスマではない、本物のカリスマにしても、その魂に火をつける人がいなければスターも生まれない。人は人に影響されて変わっていく。マイケルジャクソンは、マーロンブランドをファーザー、エリザベステーラーをマザーと呼び、慕っていた。魂の親子だ。
ファーザーと呼ばれたマーロンブランドの人生は興味深い。自分たちの世代では、ゴッドファーザーのイメージが強いが、彼がT-シャツやジーパン、革ジャン、バイクといったアメリカ文化を創り出したのだ。ジェームスディーンもプレスリーもビートルズも、とにかくすべての人がマーロンブランドに多大な影響を受けた。それくらいのスターだった。
彼は幼いころから反骨心があって、当時は黒人差別が当然の時代に、平気で一緒に遊んでいて、教師ににらまれたりしていた。その性格はずっと続き、数度の結婚で選んだ奥さんも有色人種だった。
ジェームスディーンの出世作も、元はマーロンブランドが出演するはずだった。彼がお世話になってきた監督だったが、納得できないことがあって蹴ったために、ジェームスディーンのチャンスへと繋がった。信念を通せば、世界はうまく回るようになっている。蹴った理由も、彼が仲間を売ったからというのだからシビレル。
父親はどうしようもない人だったが、金に困った父のためにと、それまでは厳選して出演作を選んでいたのだが、役を選ばず出演して評価を落とした。因縁の作用だ。因縁は足を引っ張る仕事をする。それに負けていたら大スターではなく、ただのスターで終わっていた。
ゴッドファーザーの企画を知ったとき、制作側からは落ち目だと嫌われていたが、自分しかその役はいないと、歯を抜いたり役作りをして、オーディションにまで出て見事役を射止めた。ゴッドファーザーで一気にスターダムに復帰するが、マーロンブランドらしいのが同時に出演した映画ラストタンゴ・イン・パリがポルノ映画と酷評されたことだ。共演した女優の人生もこの映画に出演してからめちゃくちゃになり、いったいなぜあんな駄作を作ったのだと謎を振りまいた。ゴッドファーザーで期待が高まり、注目が集まっている時期に、あえて自ら貶めるかのように。同時代に理解されるのを拒むようでもある。
ちなみに、ゴッドファーザーで、無名だったアルパチーノがスターになり、アカデミー賞も得た。しかし、ハリウッドはアメリカ先住民への人種差別があると、マーロンブランドは受賞拒否した。アカデミー賞を欲しがる人はいても、人種差別を理由に拒否する人は彼しかいない。恰好いいではないか。そのせいもあって、それ以降は西部劇はあまり制作されなくなった。
マーロンブランドは、自分だけの王国を作ろうと無人島を購入していた。理想の場所を作るためには金がいくらあっても足りない。そのための役者の仕事だと割り切って、一本でいくらお金を稼げるかに挑戦していった。ゴッドファーザーが当たったために、次回作もとお願いに行くも高額すぎて断念。わずかばかりの使用でも高額すぎて、脚本を大幅に変更せざるを得なかった。
彼が出演したスーパーマンでは、世界一ギャラの高い俳優としてギネス記録を残した。しかも、出演時間もわずかしかない。出来るだけ少ない時間で高額収入を目指したのだ。そうした金を自らの王国のために注ぎ込んだ。ハリウッドは、そうした信念ある人間たちがいるから魅力がある。もはや、彼の人生が一本の映画だ。彼の心にあったものが彼を形作った。
あなたの心がつくる映画はどんなであろうか?

真の悪党とは

 綺麗ごとの世界を成り立たせたいのなら、どこかが悪を引き受けなければならない。悪を必要以上につぶして回ると、結局は自らのもとにそのつけは回ってくる。誰かしら汚れる役目が必要なのだ。正義のヒーローが成り立つには、悪役がいなければ始まらない。そのバランスが大事なことは、生態系という自然の教師に学べることだ。

衛生状態を気にしすぎて無菌にこだわり続ければ、免疫がなくなり結果として病気になってしまう。多少のばい菌は必要なのだ。また、消毒しすぎて、その消毒が効かなくなり、更に強い毒性を持つ場合だってある。過ぎたるは及ばざるがごとしの言葉通りだ。さらに言えば、細菌がいなければ、細菌がつないでいた連鎖の輪がなくなることになり、全体が崩壊してしまう。
その他にも、ブレーキだって遊びが必要なように、無意味と思われる余白が社会には必要だ。無意味だからそんなものはなくてもいいと切り捨てていけばいくほど、社会の余裕はなくなり、ぎすぎすしたものとなっていく。効率化だけを求める社会はそうなるしかない。
ITによって加速された経済が、多数から少数へと富を移転する動きをしている。絆を利益に変えてきた。そして、深く考えもせずにスピード優先で企業活動を邁進していると、回りまわって自分の首を絞めることになる。利益の極大化を推し進めるならば、スピードこそ命だ。だが、肉食動物だけでは生態系が成り立たないのは明白だ。草食動物が育つには時間がかかる。それを無視して、スピードを追い続ければ、すべてを刈りつくして自らのエサもなくなる。
世界を人と例えるならば、癌細胞は際限のない拡大を目指している会社だといえよう。しかし、成長期であれば、一見際限のない拡大をしていると同じように見える。正常な細胞なのか、癌細胞なのか、自分では判断つかないものだ。気付けばミイラ取りがミイラになるようなものだ。
悪党というものは、既存の秩序を脅かす存在だ。だからこそ叩かれやすい。しかし、その性格ゆえに、新しい秩序を作り出す芽が眠っている。実体世界からすれば、ITや金融、革命家などは悪党に見える。この悪党がそのまま秩序を崩壊させたとしたら、どんな秩序が待っているのか?それは今よりも幸福なのだろうか?次の世界をイメージできていないと、自分の行為が地獄への高速道路を作っていることになるかもしれないのだ。
そしてITによって加速された金融こそが、世界の秩序を破壊しつつある。その先には、持つものと、持たない者の二極化された世界だけが残って、持たない者は諦めと一瞬の楽しみだけを追い求める人生となる恐れがある。夢も希望もない社会だ。
夢や希望は、バーチャルの中にしかない世界ともいえる。ある意味完成された世界だ。しかし、そこにはドラマがなく、自分が主人公にはなれない世界だ。この病に対するワクチンは、悪党の中にあるのだ。ただの悪党で秩序を破壊するだけなのか?それとも、新しい秩序を創造する英雄になるのか?真の悪党とは、悪党に見えて実は正義の味方だったというのが面白いドラマではないだろうか。

歴史の創造

 鳩山元首相がまた面白い動きをしてくれている。馬鹿だ馬鹿だと言われているが、バカにしか世の中は変えられないのもまた事実である。細かい発言などは時の流れにおいては忘れ去られていき、印象的なことだけが残っていくから、案外100年後には鳩山さんは歴史に名を残している可能性がある。アメリカ追従の鎖をはじめに解こうとした人物といわれるかもしれないのだ。

評価や意味は時代によって変化する。私はキリスト教の学校で学んだが、キリストの生誕時に登場する東方三博士(マギ)が、ゾロアスター教の祭司だったとは習わなかった。祭司の名称であるマギから、魔法(マジック)などの言葉がうまれてきた。エヴァンゲリオンにもマギというコンピューターがでてくる。魔法少女まどか☆マギカのマギカも、同じ由来だ。
祭司が魔法使いになり、聖なるものから魔なるものへと変貌していった。歴史は公平でも事実でもない。偏(かたよ)った世界観でストーリーをつづっている。善とか悪とか、世界観が変わればその役目も入れ替わることは何度もあった。
いまは西洋世界の歴史が正統な人類史のような形で進んでいるが、この先はどうなるかわからない。東洋史からみた世界。中東世界からみた世界など、多面的な世界史を理解するとさらにこの世界を面白くみられる。
世界の発展には、人間の欲望が原動力となってきた。その欲望が分かりやすいのが、輩ともいえる。人間世界を上手に動かすのは、輩的な人間たちだ。またそうした存在がなければ、社会は停滞してしまうだろう。やる気や希望を人に感じさせるのがうまいのも、その人の欲望を見抜けるからでもある。表面的な欲を見抜くことに関しては、輩にかなうものはない。その力を目先の自分のために使っていては、輩という言葉はイメージが悪いままだ。その力を社会の発展に使用したとき、輩という言葉が有能という良いイメージに変わるだろう。
実際、輩的な才能をより大きなことに使っている人間は、輩とは呼ばれなくなっているのが現状だ。成功者と呼ばれている。以前も書いたが、成功も詐欺も紙一重だ。自分から言わせれば、資本主義自体が詐欺だ。だからといって、社会に参加している人々が詐欺しようとしているわけでもないのは当然だ。人は気づかないままに、大きな枠組みに乗せられている。
自分の本当の使命を知らずに、表面的な目的で生きている人間個人の姿の延長線上に、いまの社会の姿がある。自分の姿が世界の姿だ。自分を知ることで、世界を知ることになる。自分の歴史が世界の歴史と繋がってくる。世界をどういう世界観で見るか。
自分の目先の欲望のために生きている人なのか、大義をもって長期的な大きな目的のために生きているのか、決めるのは自分だ。我々は沖縄において、どういう自分像なのかをトコトン向き合って作っていっている。歴史を作っているのと同じなのだ。
天使か大天使か、悪魔か大悪魔か、どちらがいい悪いではない。自分の力の特性をどのように活かすかしかない。活かすためには、特性を知ることから始まる。

狐と狸の化かし合い

 世の中は、嘘や綺麗ごとであふれている。だから面白くもある。残念なことは、面白く興味深い嘘や、夢を見られる綺麗ごとが少ないことだ。レベルの低い嘘では、聞かされるほうもすぐに相手の目的が透けて見えて、嘘っぽいけど乗ってやろうかとは思えない。どうせ騙すなら上手にだましてほしいのが人情だろう。

東電の一連の騒動を見ていると、なんて馬鹿なのだろうと感じるに違いない。勿体ない。折角、このピンチを活かして、さらに巨大企業になれるチャンスにも変えられるのに、機会を活かそうとする意思がないから、綺麗ごとも上手な嘘もつけない。どうせ払わなくてはいけないものならば、何かに役に立つと信じたいのが人情だ。
千両役者がいないから世間という舞台はしけた三流芝居しか上演されない。そういう意味では、一流の脚本家も演出家もいないのだ。また観客も目が肥えていないから、三流芝居のほうに流れてしまう。一流の良さを伝えようと芝居案内を作っても、観客はそんなものより三流だけどわかりやすくて刺激的な案内を求めてしまう。まさに、鶏が先か、卵が先かだ。
答えを言えば、順番などない。どれも大事に決まってる。役者だろうが、脚本家だろうと、演出家だろうと、観客だろうと、目の前のことを真剣に楽しもうとするだけで、本物は本物を知る。勉強して、痛い経験を積んで、目が肥えてくれば、自然とモノゴトの良し悪しは見えてくるものだ。楽な道を選ぼうとするから、いつまでたっても狐と狸に騙される。
楽しようとする心があるから、その心の隙に、悪霊は入り込む。不安にさせ、簡単な判断へと導かれる。人を信じるより疑うほうが簡単だ。悪霊は仲間が欲しいのだ。自分と同じように、人を疑い、いつも不安な状態の仲間が欲しい。自分が幸せでないから、他人には幸せになってほしくない。足を引っ張ることが仕事だ。誰も得がないのに、どうしてこんなことをするのだろう?と思うことはないだろうか?(これもすぐにはわからない視点だが、原点や感謝を忘れなければわかる)悪霊は嫌がらせが目的なのだから、悪霊は悪霊を産むことで得になるのだ。
嘘も方便という言葉もある。これは前から書こうと思っているテーマだが、伝えるのが非常に難しいためにタイミングを見ている。少しだけ書くと、自分の利益のためについている嘘は、どこまでいっても嘘にしかならない。相手が真理へと到達し、救われるのだとしたら、それは方便になる。最後になるまで嘘なのか方便なのかわからない。だからこそ難しい。
人は誰しも本当は救われたいと同時に救われたくないという、相反する気持ちを持っている。楽したいからだ。本物になろうとするならば、苦労は覚悟しなければならない。怠け者からすぐに悟ったものになれるわけではない。自分もお気楽な人間から菩薩を志すまで、方便によって導かれてきた。嘘といえば嘘だが、逆に信じ続けたお蔭で嘘が本当になった。
「嘘から出たまこと」という言葉の通りだ。
ブッダもキリストも、詐欺師やペテン師だと言われた。ベンチャー企業でも、夢を語り、成功すれば立派な人。失敗すれば、実力がないとか、悪く言えば詐欺師となる。たちが悪いのは、本当に信じて実行して失敗した人と、最初から騙すつもりで失敗した人との見分けがつきづらいことだ。表面だけ見ていては騙される。
また騙す人のほうが、上手な嘘をつくものだ。自分すらも騙しているから、本人には騙すつもりはなかったと堂々と言うだろう。騙せない人間は、根が真面目だから逆に責任を感じすぎ、背負いすぎて失敗しやすい。真面目脳だけではうまくいかない。
世の中は、表面しか見ない人が大半だ。綺麗なスーツを着て、流ちょうに話して、理路整然と説明する人間のほうが信用されやすい。失敗しても堂々とされたら、仕方がなかったのかと納得してしまうものだ。そういう人は、次のネタを忘れない。そしてまた次こそはと何度でも騙されるのだ。
勝てば官軍とはよく言ったものだ。負けてしまえば賊軍。詐欺師扱いなのだ。最初からどこかで負けてもいいと思ってやっているのが、狐や狸たちだ。将来はどうなっても、目先のご飯が確保できればいいのだ。
今年の決算さえ赤字でなければ。自分が関わっている時だけ嘘がばれなければ。そんな気持ちでやっているから、東電もオリンパスも救われない。ピンチはチャンスなのだ。今こそ、誰もが驚くビジョンを出して、目先の利益ではないことに投資したらいいのだ。どうせ赤字になるのだとしたら、とことん出したらいい。その勇気がないだけだ。
これは彼らに限った話ではなく、今を生きる私たちの問題だ。何も失うことなど本来はないのだから、勇気をもって、狐と狸の化かし合いから離れることだ。より高度な仕事をする上では、狐も狸も必要になってくることも分かる。この世に無駄はない。すべて必要なのだ。狐と狸が増えたら、それを餌にする猟師になればいい。
狐と狸が化けている人間なのか、本当の人間なのかを見極める目を持たないと、猟師にはなれない。イエスが弟子に、
「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と話した意味がこれでわかるだろうか?

本物の価値

 どの世界でも道を極めようと努力している人には共通している特徴がある。本物は本物をすぐ見抜く。偽物はそれがわからない。自分も数多くの失敗をして、少しづつ本物を学んできた。本物ほどわかりづらい。

何年越しで、人によっては数十年越しで、自分の担当する道で革命を志している人々がいる。いまの権威に挑戦し、破壊して新たな道を創造しようと淡々に進めている。表面は淡々とでも、魂は熱く燃えている。一見、そんなことを志しているとは見えない。
自分から言わせれば、そういう人物に投資することが一番投資効果が高い。今の投資は短期的な利益しか見ていない。長期とは最低100年、長くて千年、人によっては1万年のスパンで見ている人もいる。道を追求している人は、はした金よりも、道を追求して得られる精神的なリターンのほうが素晴らしいと知っているから、金では動かない。道を極めようとしたことがない人には一生涯わからない境地だ。
偉大な人物には不遇な時代やひきこもりの時代が必ずある。そうして内省して熟成されなければ、本物にはなれない。こんな話を聞いたことがある。
明治維新の英雄、桂小五郎は優秀な官僚だった。次から次へと藩の仕事を頼まれ、優秀だからこそ、仕事をこなしてしまう。すると目先の仕事に益々忙殺されることになる。そこである人物が彼にこう言った。
「このままでは使われる役人になるだけだぞ。仕事は自分がやらなかったとしたら必ず誰かそれを埋める人が現れる。仕事を断る勇気を持って、自分の時間を作ることが大事だ。そうでなければ本当の仕事はできない」と。素直にその助言に従い、実行した桂もスゴい。
いま自分が手がけている仕事をやめて、何の目的もなく内省する時間をとれる勇気がある人は少ない。そうはいっても家賃がとかカネのことを言い出すのが関の山だ。自分でその選択を出来る人は素晴らしい。
いまやっていることが、本当に魂の喜びに繋がるのか、何のために生きているのか、自分の使命は何なのかをゆっくり考えたことがない人が大半だ。自分が中心だと思って社長業をしている人であっても、実態は会社に使われているようなものだ。
どうでもいい情報の渦に巻き込まれ、自分の人生を生きていない。くだらない情報に一喜一憂してしまう。本物でなければ、メッキは剥がれ、無様な姿をさらすことになる。まぁ、それが無様だと感じる感性がある人が少ないから、本人も周囲もそのことに気が付かないだろう。
美意識はだからこそ重要だ。どんな道でも、美意識なければ極めることはできない。お金があっても、使い方に品がなければ馬鹿にされるだけだ。お金は稼ぐより使うほうが難しいのだ。
信念のために痩せ我慢出来なければ本物にはなれない。目先の欲に負けずに強く生きている人と会うと勇気をもらえる。
この前あった方は、確信犯的に実践してきた人だった。教養ある知識人になるには20年は最低かかると覚悟して今まで努力してこられたのだ。頭は良いのだからいくらでも出世の道はあっただろう。それを投げ捨て、信念に生きる。そんな人物にあったことあるだろうか?
自分たちの周囲にはそのような本物の人物が集まりだしている。そうした人たちと話をするだけで楽しい。お互いの道で苦難を乗り越えてきたからこそわかる実感。あ・うんの呼吸のように話が早いのだ。
利益ではなく、価値を考えたらいい。どれほどの価値なのかを。それがわからない人は、わかるまで苦労するしかない。体験していない人に教えることは不可能だ。苦労は買ってでもしろと昔の人はうまいことを言ったものだ。
楽な道だけを選んでいたら、絶対に本物の価値を知ることはない。アップダウンがあるからこそ、物語は面白いのだから。勿論、そのまっただ中にいる時はそんな風に感じる余裕はないだろうが、振り返ってみたら、辛いことこそ良い思い出になるものだ。

人間の原点

 困ったとき、迷った時、同じ問題が繰り返される時、すでに枝葉にハマっている可能性が高い。一生懸命にやればやるほど、ドツボにハマっていく。幹という原点を見逃し、枝葉に意識が行ってしまう。

今年に入ってから、キチンと向き合ってきた人間は結果も出てきたことだろう。いい調子の人も、そうではない不調な人も、今は原点を意識するときだ。更に飛躍するために、好調に戻すために、自分の原点を見つめ、深める時期だ。
どんな人間も修行の時代がなければ、飛躍はない。それは、一度やったら終わりというものではない。例え成功していたとしても、原点への意識を通して新たな気付きを得る。修行に終わりはない。感謝を忘れなければ、更なる機会に気がつける。原点を思い出せば、ヤル気が更にみなぎってくる。
今後、人間の原点を感じたいという人間が益々増えてくる。アニメ脳やバーチャル脳が増えれば増えるほど、インターネットの世界も発展する。発展すればするほど、その逆のものを求めだす。ヴァーチャルにハマればハマるほど、リアルを求める。リア充なんて言葉が生まれるのも当然だ。
仮想現実の世界は、死後の世界と同じなのだ。どちらも、自由に何でも思ったとおりに出来る。抵抗のない世界。イメージが創りだす世界。何でも実現できるからこそ、そこには実感が伴わない。マトリクスの中で、ネオが感じた違和感もそこにある。どんなにリアルに見えても、何かが違うと感じる。
どの道をたどろうとも、半端をせずに、極めれば極めるほど、本物がすぐわかるようになる。わからない、不安なのであれば、それは半端だからだ。半端に行うのが一番苦しい。トコトンやるわけでもなく、トコトンやらないわけでもない。チョコチョコと様子をみるかのようにやっても、何も見えなくて余計に自分が辛くなる。もしくは半端に見えて、誤解をして否定的にモノゴトを見てしまう。
徹底的にトコトンやるのは大変なように考えてしまう。辛そうだなとか相手に悪いなとかイメージして、ほどほどの所で自分に妥協して、自分を偽る。自己欺瞞をすると、自分以外のすべてが悪い原因となる。
引きこもるなら徹底的に引きこもるのだ。飽きるまで体験すればいい。迷惑をかけるならトコトンかけるのだ。半端な優しさは自分にも相手にも良くない。時間の無駄使いだ。我慢の限界は早く来たほうがいい。
金を稼ぎたいのならトコトンやってみる事だ。自分の限界も欲望の深さも見えてくる。言い訳などせずに、自分に正直に生きたらいい。綺麗事や良い人などやめて、摩擦を起こすのだ。摩擦を体験するために生まれてきたのだから。今の時代、そうしなければ、自然災害で嫌でも摩擦が起きるだけだ。だとしたら、トコトン摩擦を起こせばいい。
摩擦こそリアルだ。人はぶつかり合いの中でしか、真理の体験をすることはできない。慣れ合いや綺麗事の世界は、ヴァーチャルの世界にいるのと同じだ。摩擦のない世界の究極がITの世界だ。
話していて嫌になれば、接続を切ればいい。人との摩擦はゼロ。
どこの誰かもわからないのだから、やりたい放題、言いたい放題。自分との摩擦もゼロ。
露骨なのは霊の世界と一緒だ。だからこそ見えるものもある。ITが悪いと言っているのではない。
芸能人のオセロ中島氏のニュースがいい例だ。芸能界で極めたあと、突然の引きこもり。霊能者に何と言われたのだろうか?家族との縁も絶ち、家賃も払わない吹っ切りぶり。すごいことだ。なかなかできることではない。一体なぜそこまでのことができるのか?
芸能界は元々、以前にも書いたが河原者や穢多非人(えたひにん)と呼ばれる差別された人たちが担当してきた仕事だった。本来は恥ずかしい、笑いものにされてきた仕事で、決して尊敬される仕事ではなかった。そんな歴史的背景も知り、だからこそ良い影響を与えたいと自分の原点を深める。なぜこの仕事に関わったのか?自分の使命は何なのか?
深めれば深めるほど、以前のように単純な仕事として割りきって仕事が出来なくなる。芸能界の世界で極めたからこそ、その先を求めての苦悩。真剣だからこその悩みだ。真剣に人生に向き合っていなければ、適当に半端に仕事をし続けて、何の問題も報道されることなく生きる選択も出来ただろう。
だがそれで魂は納得するのか?世間で何と言われようとも、自分の魂と正直に向かい合う人間は少ない。若いのに急逝したホイットニー・ヒューストン。彼女もまた、生きることの葛藤で苦しんだ人間だ。辛い、悲しい、嫌な事のように見える苦しみこそが、魂にとっては貴重な体験なのだ。極めたからこそわかるものがある。
極めてないものには、絶対に一生理解出来ない世界がある。これから、彼女たちのような人間が益々増えてくる。だからこそ、その受け皿を作っている。人間の原点に気がつくことが出来る場所。それが沖縄であり、我々の拠点であるライラックなのだ。
沖縄で人間の原点である体を動かすことをし、汗を流す。そこから気がつくものがある。原点に戻れば、今までの経験を活かして飛躍が出来るのだ。本来この世に善悪はない。差別にも善悪とかそういう次元を超えた意味があるのだ。
パワーがあるから差別される。それについてはまたにしよう。