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歴史の裏に因縁あり

 少し前に何かの記事で、岡田克也副総理の実弟が東京新聞の政治部長をしているという記事を見た。有名なことだが、岡田副総理の兄である岡田元也氏はイオングループの社長である。その記事を見て面白いと感じたのは、弟の氏名が岡田ではなく、高田昌也なのだ。こうした例はいわゆる上流階級にはよくある話だ。

一般的な感覚では、名字が違えば別人だと思う一方で、名字が同じであれば一族だと思い込んでしまうこともある。結婚に関する意識も、政略結婚という言葉があるように、ただの恋愛だけのこととは見ていない人間たちが時代を作る。因縁関係を作るというのは古今東西を問わず、勢力を作るのに有効な手段だ。岸信介元首相と佐藤栄作元首相が兄弟であることを知らない人もいる。

本名のほかに、通名を持って使い分けている人も居る。芸名も似たような効果がある。言葉のイメージとは意外に大きいものだ。事業で成功した人が、いわゆる名家と繋がろうとするのは、ただ格を得るだけではなく、メリットがあるからだ。どこの世界でも、因縁で世界は回っている。広瀬隆氏の「赤い楯」という本を読むと、ロスチャイルドの系図をよくぞここまで調べたものだと驚嘆する。

東急の創業者五島慶太。彼の元の名前は小林慶太である。彼は婿養子に入ったのだが、義父は久米民之助。二重橋の設計施工に関わったとして有名だが、国内の中国地方や海外では朝鮮、台湾などで鉄道事業に関わっていた。長女であった万千代は、久米民之助の祖母の実家であった五島家を再興するために養女になって、五島万千代となり、その万千代と慶太は結婚し、五島慶太となったのだ。久米民之助は、代々木御殿と呼ばれるほど広大な屋敷を持つほど成功した人間で、その後押しがあったから五島慶太は成功したのだ。ちなみに、恵比寿ガーデンプレイス、赤坂サカス、岡本太郎美術館などを手がけた久米設計は、久米民之助の次男が創業した会社だ。

人間一人では生きていないものなのだ。陰に因縁があり、それが応援することもあれば、足を引っ張ることもある。五島慶太に可愛がられた、小佐野賢治も華族の血族を嫁に迎え入れて発展したのだとしたらどう思うだろうか?それを入れ知恵したのが五島だとしたら?普通に伝記やWikiだけを見ていては裏側はつかめない。

当事者や関係者だけが知っているのだ。歴史の裏側は因縁で回っている。内助の功という言葉があるが、表に出ている人間の裏で関係している人たちがいるから、表面だけ見ても成功の要因はわからない。

今や経済界の大物となった、稲盛和夫氏も面白い。彼は京都の代表選手のようなイメージがあるが、元々は鹿児島出身である。大学も鹿児島大学で、生粋の薩摩っ子だ。勿論、西郷隆盛が大好きで、彼は出家したことからもわかるように、経営よりも宗教に興味がある人間だ。彼の経歴は華々しい。京セラというセラミック(陶磁)の会社をキッカケに、10年で上場したのだ。あの時代にしてはとても早い。そしてまた時代に先駆けて、第二電電(今のKDDI)も立ち上げ成功している。NTTを敵に回してなぜ平気なのか?そしてJALへと続く。華々しく成功しても、なぜ彼はライブドアのように叩かれないのか?それは彼が人格者だからだと不思議に思わないならセンスが無い。

稲盛和夫は、朝子という女性と結婚している。朝子の父は、バイオの神様と呼ばれた禹長春博士だ。長春博士がまた数奇な運命の持ち主だ。博士は朝顔の遺伝研究をしていた。そこから名付けられたのが朝子だ。博士の想いが入っている名前だ。博士の父は、朝鮮で閔妃暗殺に関わったことで日本に亡命していて、そこで出会った日本人と結婚して、長春博士が生まれた。禹長春博士は、日本で生まれ、日本語しか分らなかったが、後に韓国へとわたり、農業の父、キムチの父として有名になっている。国家が認めるほどの才能で、国を挙げて招聘されたのだ。後に、日本に帰られては困ると母の危篤でも日本へ出国させなかったくらいだ。博士の論文「種の合成」はいまだに古典として認められている。これが今まで存在しなかった植物を作ることができる理論として、バイオの神様と言われるゆえんである。

種の会社で有名な、サカタのタネも博士がいなければうまれなかった。彼のお陰でという功績は山ほどある。京都の千枚漬けにも貢献している。植物のプロということは、植物とは切っても切れない土壌にも詳しいということだ。稲盛和夫の研究を朝子も手伝った。セラミックも土と関係している。朝子という因縁を通して支援があったのだ。

数奇な人生を歩んだからこそ得た見識を禹長春博士は持っていた。そうした見識に触れるだけで人生はがらりと変化する。縁とは不思議なものだ。人が歴史を作るのだから、人のつながりこそが豊かな土壌となり花が咲くのだ。

陰謀論のウラ側

天体ショーが続いている。そのイベントがどういう意味を持つのか?といった解釈は他の人に任せて、そうした現象がどんな影響を及ぼすのかについて考えてみる。

例えば、今日6月6日は約6時間かけて金星が太陽面を通過する日だ。6がつ3つ並ぶから獣の数字だとかミロクだとかいう人もいるだろう。大事なことは、そうした出来事を「重要な信号に違いない」と捉えて行動する人がいるということだ。
信号が当たっているかどうかはどうでもよくて、普通の人は恐らく気にしないことを本気で信じて動く人がいる事実を知らないと、モノゴトの一面を見逃すことになる。普通の人は、普通に考えるから、普通の結果しか生まれない。
普通じゃない人は、普通に考えないから、普通ではない結果が出る。成功して物質的な欲求より、世界の真理に興味を持っている人ほど、こうした天体ショーや霊的なことに敏感だ。
笑い話のように思えるだろうが、6が3つ並ぶ話も、意味があるといえば意味があるし、ないといえば意味はない。どちらとも言えるなかで、どちらの話が面白いかで動いていくのだ。もしくは、例えばその人の潜在意識に破滅願望があれば、世界破滅的な物語を受け入れていくのだ。
スピルバーグがどんな世界を信じているのかを聞いたら、普通の人は危ない人だと思うだろう。でも実績ある人間が荒唐無稽な話を信じて動くと、実際に世の中に影響を与えていくのだ。彼が本気で普通からしたら危ない話を作っても、観客はSFだと思いながらも概念として刷り込まれていく。
力がある人間は、自分の周囲に世界を作ってしまう。その世界にいたら、その世界観が当たり前になる。常識とはそんなものだ。聖書の黙示録的終末世界を信じている超金持ちがいるとする。その人間が真剣に、今日のイベントを666の獣の数字、反キリストの信号と捉えていたらどうなるだろうか?
いま世の中は乱れている。世に啓示を与えるためにも、バベルの塔がなければならないという信念をもって、実際に建築してしまう金持ちがいたらどうだろうか?最近出来たスカイツリーを日本のバベルの塔と呼ぶ人たちがいる。
日本の終わりの始まりの象徴として、スカイツリーを創ろうと企画した人がいたらどうだろうか?普通に考えたら、有り得ないで終わるだろう。あり得ないかもしれないし、あり得るかもしれない。普通じゃない人たちはあり得る方を信じるのだ。
実際、スカイツリーは何のために建てられたのか?電波塔のためだとみんな思っている。本当にそうだろうか?電波を届けたいのなら、携帯の基地局のようにしたほうが安いし、早いのではないだろうか?本当の目的は隠され、後から大義名分をもってきて、もっともらしい理由をつけただけではないだろうか?
世界の仕組みがわかってくると、必ず表と裏があることが見えてくる。だからこそ、先を見通せる人間、成功した人ほど、裏を見るのだ。現実はフィクションを超えている。よく考えたらおかしいことはたくさんだ。
よく考える人がいないから気が付かないだけで、日々流されるワイドショーによってじっくりと考えるということが不可能になっている。次から次へと流れてくる話題に圧倒され、ひとつひとつじっくりと考えられない。そのあいだに、大事なことは表で堂々と進められていく。隠さないことが一番の隠し方だ。
天体騒ぎにうつつを抜かしている間に、小川元法相がした爆弾発言などは気にされないまま流れていく。別にそのことを隠すために、天体ショーがあるといいたいわけではない。天体の動きは事前に予測できる。この時期になれば必ず騒がれるのはわかっている。なぜ金環食の日ではなく、次の日にスカイツリーをオープンさせるのか?オープン日だって、事前に決められる。なぜあの日だったのか?天気予報だって、統計で快晴になりやすい日もわかっている。当日は雨だった。
話が事実かどうかは問題ではないのだ。どちらでもいいのだ。大事なことは、そうした視点で動く人間がいるという事実だ。不自然であり得ないことも、堂々とやれば自然であり得ることになる。
世の中は吹っ切ったモノ勝ちなのだ。

考察

いざというとき、柱がある人間は強い。核となる信念や信仰がある人は、困難や問題に対しての抵抗力がある。人生を意味づけするのに、宗教や哲学は強い力を有する。意味を感じられたら、困難や問題を心の儲けの種にできてしまうからだ。
世界をどういう枠組みで見るか、自分自身を世界の中でどういう位置に置くか、そうした視点を持っている方が、何も考えがない人よりも強い。逆に、何も考えないで、無でやり続ける選択肢もある。中途半端が一番厄介だということだ。現代日本においては、馬鹿正直にやり続けて報われる環境はない。だからこそ、自分たちはそういう愛すべき馬鹿が活かされる環境を作っている。真面目なものが報われる世界を、まずは自分たちの周囲から作っている。
器用で思考しがちな人であれば、あえて不器用にひたすら体を動かしてみる。自分もどちらかというと思考しがちだ。自分たちはワークという手段を通して、自分と向き合う体験を積んでいる。
先日、自分も一人でプール掃除をした。普通に考えたら、水をくみだすのもポンプを使うだろう。そこをあえて、バケツを使ってくみ出す。バケツを使う方法も色々やってみる。腰を入れて連続してくみ出してみる。はたまた、一つ一つコップですくってバケツ一杯にしてみる。ただ、綺麗にすることが目的なのではなく、そのプロセスを体験することで、自分の糧にできるかどうか、自分のもうけにできるかどうかを自分に挑戦する。そしてそのプロセスが美しいか?を意識することで美意識が磨かれる。こうした作業自体がストーリーになり、自分を表現するアートとなる。
信仰は依存へとつながりやすい。ただ、宗教団体に簡単に所属して、そこに埋没することは、人間の集団化、個性の放棄へとつながる。一人一人の意味、個人の価値を希薄化してしまう。同質性に依存するのは楽だし、安心ではある。皆で経済活動に励んでいる現代をみれば、経済教の信者がいかに多いことか。ビジネスしていれば安心安全である。であれば、それを逆手に取ればいいのだ。相手の力を利用する合気道のようなものだ。利用されるか、利用するか、器の大きさが立場を決める。同質化していたら、利用される羊のようなものだ。牧場の羊のように暮せば、日々の心配はないかもしれないが、ある日突然運命が相手によって決められてしまうことがある。毛だけ剃られているつもりだったのが、ジンギスカンが流行って、命まで取られることになるかもしれない。
本来、人はこの世に生まれ、家庭や学校で教育を受ける中で、その国特有の文化や風習を身につけていく。個人の習慣の中に、宗教的な要素が育っている。だからこそ、先ず個人が習慣という無意識から脱出することが始まりとなる。その人の存在の意味、役割、使命が問われるのは、無意識から意識的な生を生き始めてからになる。
自分自身としっかり向き合った人間には、その個人の能力が最大限発揮できるタイミング、場所が用意される。その時には、捨て去った体験さえも生きてくる。捨てた時に初めてそれは使えるようになる。この意味がわかるだろうか?
日々個人が、自分自身とワークを通じて向き合い、そのチャンスを待っている。 だからこそ、チャンスの時には真剣勝負!待ったなし! 生きることに懸命になる。いつもあるわけではない、そのチャンスを決して無駄にしないように。
自分という人生のストーリーの脚本や演出が自分の発想だけでは限界がある。タレントにもマネージャーやプロデューサーが必要なように、どの人でも自分より他人のほうが、その人の価値が本人よりも見えることがある。人が活かされるタイミングも、自分で作る部分と人によって作られる部分とがある。どちらが欠けてもうまくいかない。必死で努力して信じてくれる姿を見たら、託される方も燃えるのが人情だろう。適当にやっていたら、誰があいつのために準備してやるものかと思うのが当然だ。
努力も体験もしていない人には何も見えない。ではどういう努力や体験をしたら、本質を見抜く力を身に着けられるのか?そのような問いを自分に問いかける人は少ない。自分が知らない世界に飛び込みたいと願ったとき、知恵がどういう価値を持つのか初めて知ることになる。そのスタートラインに立つまでは、知恵は豚に真珠なのだ。

この世界とは?

 白鳳龍

写真ではその素晴らしさの一端しか伝わらないが、想いの詰まった作品なので掲載した。いつか実物を見て欲しい。圧倒的に伝わるものがある。
日頃、自分たちは沖縄でも東京でも、アートを通してみずからの心に向き合っている。この作品はどれくらいかかったように見えるだろうか?勿論全体像をみていないのでわからないだろうが、この部分だけでも相当細かいのがわかるだろう。
テーマがあり、その時とのシンクロもあり、一つの作品となる。場所との調和、想いの込められたストーリー。価値を高めあい、更なる高みへと目指していく。どんなに綺麗事を言ったとしても、作品になるとすべて内面がでてきてしまう。
この作品は3人の仲間が三日間徹夜して制作したものだ。その中には、筆の使い方すら知らなかった全くの素人もいる。仲間の感想を紹介する。
「過酷な数日間であったと共に、猛烈な感謝がありました。本当にいろいろな自分との葛藤が有りました。直ぐに限界を作ってしまう自分の弱さが嫌でたまらなかった。
沢山の苦しみを感じて、自分がもっとブレずに強くならなければ、人を救うことなんて出来ないのだと改めて痛感しました。私はまだまだだなぁ。弱いよなぁって、まざまざと、感じました。
と同時に、この数日間を乗り越えることが出来たのは、仲間がいたから。共にアートを出来る仲間がいることや、アートを一緒にできなくても、繋がっている仲間たちの想いを本当に沢山沢山感じました。だから、とっても幸せで、その幸せを噛み締めています。
猫寺という、素敵な場所に自分の触らせていただいた作品が残ることの喜びを感じ、感謝すると共にやっぱり、この世界ってスゴいなぁって。愛の深さを改めて感じています」
「この世界」という言葉に閉鎖的な印象を受けるかもしれない。宗教ぽいと毛嫌いする人もいるだろう。我々は特定の教義や神がいるわけではない。宗教を超えようとしているのだから、そこにハマってはしょうがない。表面の言葉に囚われずに、「この世界」という言葉に抵抗があるなら「この会社ってスゴい」「この漫画はスゴい」なんでもいい、理解しやすい形に置き換えてみたらいい。

会社だって漫画だって、そこはひとつの世界だ。いま生きているこの三次元の宇宙をどういう世界観で捉えるか?ただの物質のみの、何の神秘もない世界ととるか、世界は奇跡の表れと見るか。愛を感じることができる世界か?愛などないと感じる世界なのか?
我々の「世界」の本意は、経済の世界も、政治の世界も、宗教の世界も、宇宙の世界も、すべてと繋がっている世界なのだ。決してそれは閉鎖的でなく、かつ上下関係があるわけでもない、役割の相違と尊敬と智慧と愛と感謝がある世界を意味している。
同じ言葉でも、意識が違えば、伝わり方も違う。そこから誤解も生まれる。誤解がまた進化のキッカケになる。この世は何のムダも矛盾もない。目の前の現実をどんな世界として解釈するか?それが他人にも共感されて、真剣に広げようと感じたならば、その世界は発展する。資本主義という世界がここまで広がったのも、現世利益というわかりやすい共感があったからだ。
折角日本は世界の最先端なのだから、面白い世界観を創造し、世界をトコトン楽しんだら最高だ。自分は決して同じ世界観だけを要求しているわけではないが、創造の前には破壊があり、それを受け入れることから始まる。何かを感じるキッカケとして、アートを見て欲しい。自分はそれを見て何を感じるか?そこを大事にすることで自分が見えてくる。

正子の愛

 白洲次郎は、海外で好きに遊ばせてもらっていた。実家はお金があったので、その資金力のお陰で次郎はイギリス人脈が出来た。そこで目を付けられ彼はある秘密の仕事に携わる事になる。そのことについては後に触れるとして、彼は好きに遊ばせてもらった代わりに、政略結婚をさせられる。

そのお相手が、樺山正子。文句なしの貴族の家柄だ。彼女は家柄も良く才女で、何も不満もないようにみえる。今でこそ、白洲次郎と正子夫妻の関係は理想の夫婦関係のように見る人が多いが、最初から良い関係であったわけではない。

正子の苦悩を語るには時代背景を理解しないとわからない。当時は、貴族というものが残っていたように、重厚長大な時代だ。戦艦であれば大和のように、でかくて重くて存在感あるものこそが素晴らしいという価値観の時代だ。人の姿形も、重鎮といったような趣きが求められていた。当時の上流階級はそういう落ち着いた雰囲気の中でパーティなどをしていたのだ。

幼い頃からパーティ三昧の正子にとって、もうパーティーは飽き飽きだった。しかし、次郎はパーティー大好きで女遊びも激しかった。はしゃぐ次郎を見る正子の気持ちがわかるだろうか?

次郎は今でこそ、ジーパンを日本で初めて履いた男などと呼ばれオシャレなイメージがあるが、それは現代の時代感覚でみるとである。重厚な時代にジーパンは軽薄なイメージだ。実際、若い頃の次郎は重厚とはほど遠い、どちらかというとヤンキー的な軽い男だった。

想像してみて欲しい。白洲次郎と正子がデートをしようとレストランに行くとする。立派な車から出てくるのは、いかにも貴族の正子とチンピラ風の次郎。ボーイは面食らう。この似つかわしくない取り合わせはなんだろう?と。下手すると、正子がジゴロの男を連れているのかと見られてしまう。

正子はそれが嫌で嫌で仕方が無かった。自分が下品な人間と見られる事は貴族としてのプライドが許さないし、そんな人間と行動しなくてはならない事が辛くてしょうがない。苦しくて苦しくて、益々趣味の世界や古寺に救いを求めていった。寺に行くにしても、正子は自分のコネを使えば有名寺にいけるのに、あえて名も無いような寺ばかりを回った。

一方、次郎は得意な英語を駆使して、欧米人の間を立ち回ったり、女性にモテまくっていた。しかし、周囲の人間はそんな次郎を認める事は無かった。どんなに彼が頑張ったとしても、その風貌や発言、仕草から、軽い人物に見られていた。女性にモテたのもよくなかったのだろう。

さて彼の秘密の仕事はなんであったか?一言で言うと、彼はスパイだった。だから吉田茂にとっても使い勝手がよかったのだ。次郎の威勢のいい話しは種がわかってしまえばなーんだとなってしまう。「従順ならざる唯一の日本人」と呼ばれ、連合国に楯突いたという話しがあるが、当然である。出来レースなのだから怖くも何ともない。

さて話しは正子に戻る。正子は苦悩があったから随筆家として名を残したとも言える。岡本かの子もそうであったように、苦悩があるから光を生み出せるのだ。苦悩なき偉人はいないのである。

正子は夫である次郎の事が因縁だからこそ余計に嫌でしょうがなかった。夫は正子の家柄を利用して好き勝手に遊んでいるだけではないかと。だが、ある時ハッと正子は気がついた。

いつものように、「このチンピラが偉そうに」と、次郎のことを見ている人をみたときである。いつもなら「またか」とイラつくところだが、正子はその人から目をそらし、ふと次郎の顔を見たときに、その表情に苦悩を発見したのだ。

次郎は自分がチンピラのように見られてしまう事に苛立ちがあった。イギリス留学し、秘密の仕事もしているプライドがあるのに、自分が軽く見られてしまうのが許せず、人に対して傲慢に接してしまう始末だった。そしてそれが益々チンピラぽく見える悪循環である。その事に正子は気がついたのだ。

「この人は誤解されてしまう人なんだ。私しか彼の本当の姿を理解してあげられる人はいない。私だけが理解して支えてあげよう」と。そこから本当の夫婦として歩みだすのだ。正子の愛によって、白洲次郎は自分らしく生きられたのだ。

たった一人でも、自分の事を理解して支えてくれる味方がいれば幸せだ。それだけでどんな敵とも戦えるのだ。

太郎の背景

生誕100年を祝して、つい最近まで展覧会が行われていた二人の人物がいる。岡本太郎と白洲正子。時代を超えて再評価されている二人に新時代のヒントがある。そして面白いことに、この二人の人間関係がまた似ているのだ。

岡本太郎は「職業は人間だ」と言ったが、私に言わせれば、彼の職業は菩薩だ。彼の表の歴史は調べればわかるだろうが、普通ではわからない歴史に触れていく。

以前に書いた、調べてもどうしてもわからない壁の先の話だ。

まず、太郎の絵は本当に評価されていたのだろうか?実は才能がないと学校では散々だったのだ。日本で画家として活躍することなど到底無理だと宣告されていた。

しかし、そんな太郎に入魂とも、呪術とも、念とも言える情熱を注いでいたのが母かの子である。彼女が特別だったからこそ、岡本太郎は誕生したのだ。彼女自身は夫との関係に苦悩し、精神も病むが、苦悩したからこそ魂は磨かれた。晩年は夫の一平から観音菩薩と崇められていたほどだ。彼女は仏教学者として仏教に造詣も深かった。

その狂気とも言える愛情を受けて太郎は「岡本太郎」になったのだ。

学校から才能がないと烙印された太郎を連れてパリに行く。学校の評価など気にしない。太郎には何かがあると信じ、そしてそのままパリに置き去りにするのだ。

パリでもやはり才能がないと批判されて絵も描くのが嫌だった太郎は、最初遊び呆けて暮らしていた。そして景気よくお金を使う日本人として、お金のない貧乏な画家たちのパトロンのような、道化師のようなことをしていた。さて、そのお金はどうしたのだろうか?
当時はかなりの資産がなければ、海外留学など、ましてや遊学などできるわけがなかった。皇族や華族などのエリートだけがヨーロッパでの生活を満喫できたのだ。一体そのお金はどこから?

これはどんなに調べても、その資金の出処はわからない。両親である、かの子と一平にそれほどの収入があっただろうか?普通に考えたら、ただの新聞社員の一平には到底無理である。ましてかの子の実家は元々大地主とはいえ傾いていた。実家からの支援は受けられず苦労していたのだ。

太郎はお金の力で出版や展覧会もしている。お金があるから相手にされたようものだ。結論から言うと、父の一平はただの新聞社員ではなかったのだ。

当時の一平は、大人気の漫画家であった。大衆への影響力を持つ一平を利用して、世論を誘導する目的で機密費が使われていたのだ。その機密費を一平は太郎のために流用したのだ。

いわば、国のカネで太郎を創り上げたと言える。こうして、現代では多くの人間に影響力を与えているのだから、その投資は意味があった。不思議なものである。

帰国してからも、太郎は美術界からも評価されず、逆に戦いを挑んだ。そんな彼が、いまや芸術家においては人気ナンバーワンなのだから面白い。しかし、晩年の太郎は忘れ去られていた。今のように人気がでて、再評価のキッカケを作ったのは、岡本敏子だった。

敏子は、元々太郎の母である小説家であるかの子に憧れていた。太郎との出会いは、かの子がキッカケなのだ。敏子は、太郎の中にかの子をみて、一心同体になろうとした。彼のために生きることを決意し、岡本太郎の文章は全部敏子が書いていた。かの子の霊が敏子に降りたのだ。かの子の霊は敏子に引き継がれた。

そして岡本太郎は、絵ではなく文章がキッカケで再評価され注目されるようになった。太郎の母である「岡本かの子」の文学を裏で受け継いだのが、敏子。表で受け継いだのが、瀬戸内寂聴だ。実は、太郎と敏子、寂聴は三角関係であった。それがキッカケで寂聴は出家したのだ。因縁という凄さの一端が理解できるのではないだろうか。「岡本かの子」の影響力は現代にまで続いている。

長くなったので、岡本かの子と同じく仏教研究者だった白洲正子についてはまた次回に。

特別な人間とは

世の中には真面目で優しくて責任感に溢れた人間は結構いる。それと同じくらい不真面目で冷たくて無責任な人間もいる。勿論、友達にしたいのは前者だろう。だからといって、後者の人間を避けていては狭い殻に閉じこもるのと同じだ。
どんな人間にも持ち場がある。出会った意味があるのだ。それを追求しない限り、自分も活かされることはない。人を活かせなければ、自分も活かされることはない。
現代は、普通にいいことをしていても儲からない。
社会的に素晴らしい活動ほど、貧乏暇なしとなっているケースが多い。
それでいいのだろうか?
社会に対して愛の貸付をしているのに、踏み倒されているのだ。もっと自分たちの価値に貪欲にならなければならない。自分がしている仕事はどんな価値があるのか?きちんと認識していないから、対価を得られないのだ。当人もそこまでわかっていないのだ。
一見、金を稼ぐ仕事こそが出来る仕事のように見える。
しかし、人が変わるキッカケを提供していたり、愛で包んだり、やる気を与えていたらどうだろうか?その価値はお金には変え難いし、多くの人間は「ありがとう」の一言で終わりだ。タダ乗りだ。実際、愛ほどタダ乗りされやすいものはない。
いい人だから、無料奉仕してしまうのだ。それでまたいいと思ってしまう。それはそれで本人はいいだろう。自分は良くても、周囲は困る。それが当たり前と思われてしまう。当人や周囲にきちんと価値を伝える人間は、それだけで特別な仕事をしている。
特別な人間ほど、本質的な価値をよくわかっている。だからこそ、執着なく自然と富も徳も人も集まる。無理がなく、矛盾もない。いいことをしているのに、貧乏暇なしといったおかしな苦労するのはどこかが間違っているからだ。どの世界も楽ではないが、ここで言う苦労とは、成長の苦労とはまた違うものだ。
本質的な価値がわかる人間は、周囲にその価値を利用されやすい。だからこそ簡単に人には会えなくなってくる。本当は当人も会いたいのだが、相手のことを想って会えなくなるのだ。その切なさがわかるだろうか?
影響力のある人間は危険な兵器と同じだから、当人も周囲も取り扱いに慎重になる。緊張感のある関係がないと欺瞞に陥りやすいからそれも大事なのだ。すべてのことに意味があり無駄がない。そんな世界を知ることが出来て私は幸せだなと改めて感じた。
こうした特別な人間たちがいる世界のことを今年はもっと伝えていきたい。

この世は修行

前回の記事に興味深いコメントを頂きありがとうございます。そして、それに対していくつかの反応を頂き感謝です。
 
私が直感で感じるところは、夫婦の因縁の関係もあるでしょうから、目にみえるところに向かっても答えは見えないように感じます。

向かい方にも色々あります。まずはお子様­と共に、旦那や学校と距離をおいてみるというのも一つの方法です。離れてみて初めて見えるものがあります。

実は、問題にみえる子供が天使で、周囲に気付きを与えるために、その役割を担ってきているとしたらどうでしょうか?

世間からみたら問題児でも、実は天使の役割ということはよくありま­す。例えば、ダウン症やいわゆる障ガイ者の子は天使があえてやっているのです。

この世は修行の場です。 重力があり、思い通りにならない場所で、ただでさえ大変なのに、そこにあえて不自由をもって産まれてくる人間は霊格が高いのです。

問題から何を学ぶか?ピンチはチャンスですね!

国は崩壊しコロニーが生まれる

国や地方自治体はすでに崩壊過程に入っている。すでに日本の借金は800兆円を超え、世界第二位の日本のGDPは今年までで来年には中国に抜かれる。

そして本日の朝日新聞一面記事の見出し。‘悪夢「20XX年」日本破綻’大手新聞でここまで踏み込んだ記事がかつてあっただろうか?

日本の象徴であった「日本航空」も破綻してしまった。また世界のトヨタがこうなるとは、だれが予測できただろうか?世界的にみて、日本はすでに死にかけている。

この貧困国の国内のみで経済が回るはずがないにも関わらず、多くの国民は未だ世界を見ていない。世界の中心であったアメリカは、すでに日本国など眼中になく、中国及び中央アジア諸国を見ている。

今後、日本は素通りされる国になるだろう。すでに日本人は無意識のうちに戦えない人種になってしまった。今のままでは、これから日本が世界の中心になることはなく、どこか発展する国の金魚の糞のように動く癖がついてしまっている。

日本の金魚であるアメリカはすでに瀕死の状態である。リーマンショックやサブプライム問題によって、死にゆく金融機関を、連銀が救済に入ってなんとか回復してきた、という報道が流れているが、すでに連銀すらゾンビ状態だ。

いくら回復してきているとは言っても、実際にアメリカは失業者が増える一方だし、不動産価格も落ち続け、ローン破綻の増加も止まっていない。今の状態は1930年代の世界恐慌と似ている。今年の夏以降に、もっとひどい不況の二番底に陥る可能性が高い。

日本の金魚がそんな状態だから、その糞である日本の経済は益々疲弊していき、地方自治体もうまく機能せずに、国のシステム自体が寿命を迎える。

国というシステムが崩壊後、人々はそれぞれが生き、最小単位のコロニーになる。世界の再構築が始まり、時代に乗り遅れる人は、淘汰される。

破壊と創造である。
これほどの世界的大変化に直面出来ることはそうはない。
面白い時代である。

シンクロニシティ

シンクロは、気がつかないと意味がない。

我々の世界では、シンクロが頻繁におこる。すると、論理を超えたつながりが生まれ、一足飛びに事態が進展する。これからの社会は、こうしたことが自然になっていく。いま常識とされている論理的なやり方が、効率悪いことがわかってくる。

シンクロに気づけるか?これからの主流の人間には必須のスキルだ。そして、その流れに乗ることが出来るか?時代を創る人間に必須の特攻精神だ。

多くの人は、意味ある偶然(シンクロニシティ)とは捉えず、偶然の一致と捉える。それでは何も生まれない。

シンクロの連続こそが、非連続な結果を生み出し、驚異的な出来事を出現させる。振り返ってみれば、絶妙なタイミングの連鎖による化学反応のように。

時代の変化というのは、こうしたシンクロにより加速していく。絶妙なタイミングが重ならない限り、大きな変化は一気には起きない。ドミノ倒しに似ている。バタフライ効果といってもいい。

手元の些細な一手が、やがて大きな変化として戻ってくる。これが意識できないと、今の現実に潰されるだろう。

世界を単純な因果関係とみるか、もっとダイナミックで有機的な世界と見るかで意識は変わる。

近年、時代の流れを見ると、企業の発展も論理の世界である程度まではいけることがわかったが、そこからの飛躍はないということもわかった。その先はシンクロの中に飛躍の芽が隠されている。その信号に気づくものが、成果を得られるだろう。