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危険は魅力

危険なモノは面白いし、興味深い。しかしそれには、責任と能力が伴う。

中途半端に関わると、それこそ「死」に直結する。興味本位で関わると身を滅ぼしかねない危険であればあるほど、環境は飛躍するし、有り得ない成果を手にすることに繋がる。核兵器が良い例だ。

では、普通の人の危険とは何か?生命の危機や経済的な危機を想像する人が大半であろう。

しかし本当に危険なのは、それが危険だとそう思わされている、自らの「既成概念」なのだ。その考えこそが人生を無駄にさせる。

あなたは今、何者かによって創られた世界の中にいる。それはいわゆる「社会」と呼ばれるモノであり、または、「会社」という世界を考えてみても良いだろう。

そこには何者かが作った法律や規則があり、それを守らないものは罰せられる。まるで映画「トゥルーマンショー」の主人公のように、すべて創られた世界で生きている。そのなかで暮らしていれば、安心・安全に生活することができる。

そこから抜け出されることが、環境の支配者にとっては危険なことで、あなたにとって一番身近な生死を賭けた危険なのだ。

その安心・安全の世界に生きるならそれもいい。否定も肯定もしない。しかし、そこには夢も希望もない。いや、正確には夢も希望も持つことはできるが、それを実現することはできない。

夢と希望を本気で実現させたいのであれば、危険に身を投じるしかない。危険は本来魅力的なものだ。そこには、真逆の光がある。

危険であればあるほど、それをチャンスに変えることができたときのリターンは大きい。そして、危険であればあるほど、自分は「生きている!」という実感が持てるのだ。

今の時代、光を掴みたければ、危険に向かえ!

危険と思わされているにすぎないのだから。だが、時代の変わり目に、思考することも行動することもできず、いつまでも既成概念に捉われているあなた自身がいる。

自分が苦しんでいるのを自分自身で気づいていない。これこそが一番の危険だ。

危険は自覚が伴わなければチャンスに変えることはできない。そこには魅力もなにもない。

長生きしたい?一瞬の生もない長生きに満足はない。

経済的に不安?不安を感じるのは余裕がある証拠。必死であれば不安もクソもない。ただやるだけだ。戦後の物不足の中のほうが、人々は生きている実感を得ていたのではないか?

今自分がいる環境の危機を感じ取って、それをチャンスに変えていこう。

今自分がいる環境が安心・安全であるならば、すぐにそこを抜け出して、危険な場所に身を投げ出そう。

そのときにあなたは自分が「生きる」という真理に気が付くはずだ。

デスノートとは社会である

「デスノート」は時代を表す一つの作品だ。これはかなり奥が深くて、少し帝王学の要素も入っている。

ここから学べる帝王学はかなり有効なものばかりだ。これに関しては、ブログで書けることには限界がある。文字では情報量が少なすぎて誤解を招くので、詳しく知りたい人は是非沖縄にきてほしい。

と、それだけだと何なので、誤解を恐れず一部だけ書いてみよう。

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肩書きの限界

2005年前後、「デスノート」という漫画が連載されていた。人を殺せる死神のノートを使って理想郷を作ろうとする「キラ=夜神月」と、「キラ」を捕まえようとする「L」という探偵とその後継者の物語だ。

お互いに、知恵をこらして名前も顔も知らない相手を探し出す、という大雑把に言えばそんなストーリーだ。

デスノートで面白いのは、「キラ」が「L」を倒した後に、「キラ」が「L」にもなり、また「L」の助手の「ワタリ」にもなっているということ。一人で何人もの役をこなしている。

「キラ」と「L」は同一人物になるが、見せかけの対立をすることによって、まるで本当に存在しない人間を存在するかのように見せている。

これは「一人は一人」であるという概念を吹っ飛ばしたものであり、実際にこの手法は特別な世界ほど使われている。

例えば、私の尊敬する沖縄の人物は、あるところでは「黒幕」、あるところでは「資産家」、あるところでは「宗教家」、あるところでは「政治家」、あるところでは・・・、といくつもの顔を持っている。

世界を創っている人間というのはそういった人であり、本当にすごい人間というのは、見る角度を変えるだけでいくつもの顔が見えてくるのだ。多重人格とも違い、我々がよく使う言葉として、「霊」と呼ぶことができるモノだ。

物語内では、夜神月=優秀な学生=キラ=L=繋ぐ者=・・・であったりする。これは頭の中で、同時に2つ3つの思考をしているのだ。つまり、世界を動かすくらい本当にすごい人は、いくつもの顔を持っている分だけ、同時に思考を展開している。

これは普通の世界に生きる人、つまりは、肩書を持って「自分は~~です。」と言いきってしまえる人は、一生たどり着けない領域であり、絶対に超えることのできない壁なのである。

これは漫画のなかの話ではない。肩書きをつけることによって、人は自分自身で可能性をそこまでの領域に留めてしまう。そうであるほうが安心できるからだ。そして、さらに上の肩書きを求めるようになり、どこまでいっても満足しない。

大企業の社長であれ、その肩書きで押さえつけられている。本当にすごい人は、名刺に肩書きなどは書いていない。名刺さえない。「人間」で勝負するのだ。

自分が培ってきたオーラのみで勝負できるからだ。また、それを支える環境が構築されているからだ。

こうした特別なやり方も、ただ手法だけ真似ると輩(やから)となる。例えば、詐欺師。一人何役もこなして人を騙すが、それは自分の利益のためだ。

すごい人間の場合は、相手を導くために、話しを受け入れやすくするために、その人に合った顔となる。観音様が相手に応じて多彩な顔をするようなものだ。自分の利益ではなく、その人の為にする行為なのだ。

しかし、人はその愛に気づくより、自分の概念を優先し、「何者なのだ?怪しい」と警戒してしまうのだ。自分の概念が世界を狭くする。

本当に愛から来ているのか?利益のためにやっているか?これを判断するのは難しい。しかし、すべて向き合って逃げずにいれば、自ずと答えはでてくる。インチキは長続きはしないものだ。

本物しか残らない。肩書きを超えて、自分の本質を磨き続けよう。

菩薩シザーハンズ

映画「シザーハンズ」は我々の世界すべてが表現されている。

如来、菩薩、菩薩道を歩もうとする人間、大衆、悪霊、ユタ。

シザーハンズでいえば、お城に住んでいた博士が「如来」である。博士は一見「手がハサミ」という化け物を作ったマッドサイエンティストのようにも見える。しかし、映画のなかをよく観察すると、可愛らしい暖かい機械たちが、ハート形のクッキーを焼いていたのがわかる。心優しいからそういう形の機械とハートのクッキーを作るのだ。

広大なお城に一人で住んでいて寂しいように感じるが、本人の博士自身は微笑んでいて楽しそうでもある。

またあれほどのお城を持っているのだから、経済的にも成功しているし、博士が死んだ後も、その城は治外法権のように残されている。エドワードがジムを殺しても、警察は立ち入らなかったし、その後もエドワードは住み続けた。

体制に守られているともいえる。特別な地域として残されている神社仏閣のようなものの象徴でもある。

神社仏閣といえば、シャーマン(巫女、またはユタ)も映画には登場している。彼女は最初からエドワードを悪魔の使いとみなしていたが、彼女自身も世の中では浮いた存在だ。

彼女のような人間も、社会には必ず存在するという信号だ。彼女のような感じやすい霊感の持ち主は、どこの社会にもいて、ある一定のパワーを超えた人をみると、悪魔とか天使とか言うが、その二つはパワーのベクトルが違うだけである。

自分を超えたパワーの持ち主のことは、当人には理解できないものだ。彼女は、目に見える物質的なことよりも、心が大事とわかっているから、大衆とも仲良く一緒にはいられない。

でも、エドワードのような愛そのものが来たら怖い。だから否定する。人より霊感があり、見えない世界をわかっている自信から、理解できない存在は認めないのだ。

大衆はなにか未知のものが来ると、興味本位と本来の噂好きでみんな集まってくる。そして、お祭りのようにゴシップで騒ぎ立てる。

エドワードが町にきたとき、町に住む人々は最初エドワードを賑やかに迎え入れてくれた。興味本位で彼に庭を整備させたり、髪を切らせたりした。使えると思うと本人の意思など関係なく事業をやらせようとして、果ては性的に襲いかかってきた。

しかし、どうだろう。一度悪い噂が流れると、それが事実ではなくとも、一気に悪者に仕立て上げる。あれだけ、みんなが喜ぶことをしていたのに、一変して「あいつは悪だ!」と騒ぎ立てる。無責任この上ない。

これを「大衆」と呼ぶ。
そして、大衆は何の罪悪感もなく、次の未知なるものをただ待つだけの生活に戻る。

最後にこの映画の最も大事なメッセージだ。

なぜ博士は最初から普通の手を作らなかったのであろうか?これも意味がある。

普通に考えたら、人型ロボットを作るのに一番苦労するのは「心」である。他のどのロボット映画も「心」を創ることができなくて困っている。それは現実のロボット工学でもそうだ。

しかし、博士が創ったエドワードは心は完璧なのだ。人間の心を完全に創りだした天才なのだ。その天才が普通の手を先に作れないはずがない。完成していないのは「手」だけなのである。

エドワードは手がハサミであるせいで、人間に近づけば近づくほど、文字通り人を傷つけてしまう。悪い者に利用されたり、愛する人を抱きしめてあげることもできない。

だからこそ、この映画はものすごい人間の深い心(愛しさ、切なさ、尊さ)というもの、つまりは、愛と自己犠牲というものを表現することができるのである。

つまり、博士はわざと手を完成させなかったのだ。
(映画ではそれだとわかりづらいから、演出として死んだことにしたのだ)

エドワードがそれによって苦しむことも知っていた。悲しむことも知っていた。(だから城の庭には手の形をした木があるのだ。あれは、エドワードが、せめて片手だけでもあったらという願いの表れだ)

しかし、如来である博士はエドワードに菩薩としての、「愛」と「自己犠牲」を教えたかったのである。本当の愛は深いのだ。

これもまた私が進むべき菩薩への道のりなのである。

因縁の法則

以前、シザーハンズの解説をしたが、その続きである。
http://ozeki.fa-fa.com/?eid=1227017

シザーハンズを観たことのない人はわからない内容になっているので、是非映画をみてほしい。

因縁に興味ある方が多いようなので、その話からしよう。

主人公のエドワードとヒロインのキムは「因縁」だろうか?

実は彼らは因縁ではなく、キムとジムが因縁なのだ。因縁は究極の関係になると最後は殺しあいになる。キムとジムは、エドワードがいなかったとしたら、最後はどちらかが相手を殺していただろう。それを菩薩であるエドワードが自己犠牲で救ったのである。

よく、夫婦や恋人、親子で殺人事件があるのはこういう理由もある。
今生でいよいよ、因縁解消かというクライマックスで、殺して終わるか、
昇華できるかが問われているのだ。

因縁の問題は、当事者だけでは解決できないという法則がある。だからこそ、昔は仲人という制度があったのだ。当事者では冷静な話し合いはできない。信頼できる第三者の存在が欠かせないのだ。その他にも因縁の法則はある。それはまた書こう。

話を戻して、ジムは実は悪霊である。だからこそ菩薩が引導を渡した。また彼の父親は深層意識では財産を憎んでいた。だからジムはそれを盗もうとした。その為にエドワードは利用されたが、知っていてもそれをやるのが菩薩なのである。

因縁の特徴として、意味がわからないことを相手がする、ということがある。この場合、親からしてみたら、子が盗みに入るのは意味がわからない。なんでこんなことをするのだろうか?ということを因縁の相手はするし、またそういうことを言う。

因縁だからか!とわからなければ、ずっとそのことで悩み苦しむ。逆に因縁だからなと理解できれば、心も納得し苦しむことはすくない。

理解できないことを相手が行ったり言ったりするのは、相手が因縁である信号の一つである。

これがわかるだけで、どれほどの価値があることか考えてもらいたい。煩悶し、苦しむことが解消される価値を!

みなそうした苦しみを解消するために、金を使って癒すわけである。男性であれば、女性に使ってみたり、女性であれば買い物などだ。

そうではなく、互いが信頼できる第三者に間に入ってもらうだけで、因縁のほとんどの問題は解決することができる。

ただし、その第三者に入る人間も因縁の関係というものを理解していなければならない。

重大な責任を背負わなければならない大変な役割なのだ。
それを忘れてはならない。

因縁の知恵があるだけで、心安らかになれるのだから大きな財産といえるだろう。

シザーハンズ

シザーハンズ<製作15周年 アニバーサリー・エディション data-recalc-dims= [DVD]” />
シザーハンズ<製作15周年 アニバーサリー・エディション> [DVD]
ティム・バートン,ジョニー・デップ,ウィノナ・ライダー,ダイアン・ウィースト,キャロライン・トンプソン
◆あらすじ
「エドワードは人造人間。だが、完成直前に博士が急死し、両手がハサミのままこの世に残された。心やさしい化粧品セールスウーマン、ペグに引き取られたエドワードは、ペグの娘キムに恋してしまう…。
鬼才ティム・バートン監督の描くラブファンタジー。純真無垢な心をもつエドワードはキムに恋をするが、哀しいかなハサミの手をした彼は、永遠に彼女を抱くことができない。そんなおかしく哀しく美しいラブストーリーを、詩的で夢幻的なタッチで描いた傑作。」
今日は広島に原爆が落とされた日ですね。
原子力という力をどういう方向に使うかで、破壊してしまうか、
大勢の人を助けるか、変わってきます。原子力自体は巨大なパワーで、
それ自体には罪はありません。
使う人の心が大事なのです。
これからを考える際に、今日はで新たな見方を教わった映画を
基にして書きたいと思います。
映画「シザーハンズ」は、手がハサミの人造人間の話です。
見られた方も多いのではないでしょうか。見てる前提で書きます。
見てない人は見てから、この続きを読んでください(^^)
普通は紹介した粗筋のように、ラブファンタジーだと思っているでしょう。
しかし、ある方に教わった見方をするならば、とても深い話となります。
その話を聞いて、勝手に私が原爆とつなげたのですが、結論から言うと、
原子力がハサミだと思ってみてください。
ここで一旦、私が教わった新しい見方に話を戻します。

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イエスマン

ジムキャリーの映画はコメディのなかに真理を入れ込んでいて面白い!
自分の概念で拒否したいものを受け入れてみた時、新たな可能性が現れる。
チャンスは外からそれとわからない形で現れるのだろう。

コンスタンティン


再度私の中で、「コンスタンティン」ブームがやってきました。
「コンスタンティン」はテーマが自己犠牲の映画だと思っていました。
しかし今見ると、他にも新たなメッセージを発見し、見るたびに新鮮です。
今日はその中で、自己欺瞞について書きたいと思います。
自己欺瞞とは?はてなキーワードで調べると、
「単純にいえば自分をだますこと。
他者欺瞞する誘因があり、その他者欺瞞を上手にやりおおせるために、自己(の一部分)を欺瞞する。
人生に意味や論理的な統一性を与えることで、人生や人間のあり方を合理化しようとする場合である。[1905-80]ジャン・ポール・サルトル 」
とあります。
人は、気付かぬうちに自己欺瞞に陥りやすいです。
人間に困難を与えることで、精神の進化を引き起こそうとするガブリエル。
本来務めるべき自分の使命を謙虚に捉えず、自己欺瞞により使命感を持ち、
一線を越えていってしまう。
勇気によって成長した途端、自己欺瞞に陥り、死んでしまうチャズ。
面倒なことを避けて中立でいるという自己欺瞞をしていて、現実を見ないようにしていたパパミッドナイト。
結果どうなるか?
ガブリエルは神によって羽をもがれ、チャズは死んでしまう。
パパミッドナイトは、コンスタンティンの魂の言葉によって、自己欺瞞に気付き、彼を応援する。
私が学んだメッセージは、謙虚、油断禁物、素直になる、です。
コンスタンティンも、悪魔退治という自己欺瞞をしていた。いくら、退治しようとも、自己欺瞞している限り、神は救わない。それが神の愛情なのだ。
自由意志を尊重するからこそ、自己欺瞞をする自由も許されている。人間が神から愛されている証拠は、どんな罪人でも悔い改めれば許されることではないだろうか。
なぜなら、すべては一つで、自分が自分を許すようなものだから。
理解と体験は違うから、今はただ自己欺瞞という罠に気をつけて試行錯誤するのみ。
こうしたことを書くのも、自己欺瞞に繋がるかもと思いつつ書いてみた。
最後に、自戒を込めて。
「あなた方、生きているのが何か当然のように思っていないか?」
中村天風