この世では罪にならない罪というものがある。法の抜け穴をくぐった詐欺や悪徳商法もその類いだが、もっと厄介なことがある。例えば言葉の暴力。
AがBをネチネチと言葉でいじめ続けて、ある日Bの堪忍袋の緒が切れて殴ってしまえば、傷害罪で捕まるのはいじめられたBのほうである。そうせざるを得ないところまで、Bを追い込んだ罪をAに問う事はできない。暴力はいけないが、悪賢い人間はわざと相手を法律で罰せられるように追い込むこともできるのだ。
そこまでいかないとしても、嫌な気分にさせたりは頻繁に誰にでもあるだろう。言葉というのは恐ろしいものだ。ほんの一言で自殺してしまうこともある。言葉の暴力で負った心の傷は、目には見えないだけに、加害者意識は薄くなる。傷つけられた相手が表面に出さなければ、傷つけた当人は気づかぬままだ。
警察や弁護士などでは解決できない問題は多々ある。法律上は解決できたとしても、双方か、もしくはどちらかの心に、怨みや無念が残ってしまう。結局、本当の意味で解決することはできない。彼らも、心の納得を一番に考えている訳ではないので、杓子定規で対応するしかないからだ。
例えば「法律上問題ありませんから」と言われたらどう思うだろうか?
「そういう問題じゃないんだよ」と叫びたくなる。その想いは、無意識に投影され、社会に影響していくのだ。
想いを無視する言動は、罪にならない罪なのだ。そして、想いこそが一番価値があり高いものだ。それをお金の為に踏みにじったりするのは、人として最低だ。昔は義理や人情として大事にされたものが、経済論理で踏みにじられている。
かつては、共同体というしがらみがあったから、無茶はできなかった。しかし今は縁もゆかりもないものだから、周囲の目を気にしないし、何をするかわからない恐怖もある。
ジョイントはそういった、罪にならない罪の問題でも解決できる。問題や葛藤は魂の成長の為にあるのだから。一番大事な事は、一人一人が、「罪にならない罪」を意識する事である。平気で軽い言葉を発し、無自覚に言動していないかを自覚することだ。
今の世の中、本質よりも表面が問われる。どんなに悪気があっても、表面上は問題ない言葉であれば責められはしない。しかし、悪気が無くても、問題ありと見なされたら言葉狩りにあう。こういう時代に「罪にならない罪」を気にしていたら、生き辛いだろう。しかし、こんな時代だからこそ、世の風潮に立ち向かう気概がなければ、何事も成し遂げられない。
言葉の罪も最近では、表に出てくる機会が多く
あるように感じます。それはほとんどが幼少期の
体験をとおしての話ですが・・・
大人になって感じる、無意識下にある言葉の罪
それも因縁の一部でしょうか?
無意識下にある言葉の罪を越えたとき・・・
新たな一歩となりえるのはわかっているが
その一歩が大変です。
まさに少し前にそのような悔しい思いをしました。このブログを読ませて頂いて、いつも勉強になります。
AとBの例え話がありますが、時には手を出すことも必要なのかもしれません。
残念ながら話しても分からない、どうしようもない人間が世の中にはいます。
そういう人間ほど一旦恐怖を感じると弱くなるのです。
要は覚悟が出来ていない。
反撃される事を想像する力も無いんです。
力で分からせることもアリだと思います。ただしこちらにも覚悟があれば。
大切なものは目に見えない
それをテーマに、
世界は回っているのだと、改めて思いました。
法律が許すからといって、人をいじめたり、そういう人を見ると悲しいし、それが許される時代に生きる切なさ、
未来では、人類は成長して、「小さな宇宙人アミ」の様な、愛のある人間ばかりになるのでしょうか。
この時代に生まれてきたからには、
大切なものは目に見えない
という事が理解できない人間に
それを正すことで教え教えられるのだと思い、正しながら自らを成長させるよう努力します。努力のラインを超えて。