日常のいわゆる普通の状態である平時の時は、誰もがキレイゴトやいわゆるイイコトをいう。しかし、日常が非日常になり、困ったことや問題が起きたとき、途端にその人間の本性が現れる。
問題の時こそチャンスなのだが、普通に見たら問題は危険にしか見えない。だから、逆境のときに、どうやって危機に反応するかで、その人間の本性がわかる。
ピンチだからこそ信じ続けるか?
ピンチだから疑うのか?
ピンチだから裏切るのか?
ピンチだから助けるか?
ピンチだから離れるか?
ピンチだから逃げるか?
ピンチだから非難するか?
ピンチだから向かうか?
問題や危機は、様々な反応をあぶり出す。自分と周囲に、強制的に反応を迫ってくる。
一般大衆の人間は、危機や問題から必死で逃げようとする。しかし、進化を求める人間は、あえて自分で逆境をつくるのだ。自らを追い込んで自分を鍛える。
「苦労は買ってでもしろ」と昔の人はいったものだ。
困った状況の時こそ、自分も周囲も「真価」を発揮できるチャンスなのだ!自分の本性をさらけ出し、魂の真価を表明する絶好の機会だ。気高い人間であると証明するか、堕落した人間であると証明するか。
危機を危機と感じるのは、現状の視点や視野が狭いからに過ぎない。違った視野を提供してくれる仲間の助けがあれば、いくらでもピンチはチャンスになる。
今こそピンチはチャンスと信じて信念を貫けば、必ず道は開ける。
先ほど書いたように、自ら追い込んで問題を起こしているならば、意識が高い証拠だが、意図せずに問題に巻き込まれた場合には、自分の真価、本性が試されていると認識し、思い切って困難な方に向かう事だ。
普通はするであろう選択をせず、あえて難しい方を選択していくのだ。
危険なほうへ舵を取れ。危機から逃げずに向かえば必ず突破口ができる。たとえ見える世界で、道は閉ざされたように見えても、魂は納得し、必ず残るものがある。
そういった試練に立ち向かわず、逃げて自分の成長を留める選択もよいだろう。どの世界にも学びがある。問題を避けて、無難に人生を生きるのも一つの選択だ。
どちらの選択を選ぶのも自由だ。しかし本当のことを言えば、気高い人間には自由はあるが、逃げる人間には自由はない。逃げる人間は、本人の魂からの選択ではなく、他人からの概念に操られているだけだ。そうやっていつまでも利用されていくのだ。悲しく寂しいことだ。
だからこそ、沖縄でのジョイントが本当に必要だと改めて感じている。自らの真の価値を知りたい人間はどんどん飛び込んできてもらいたい。
我々はいつでも待っている。
登校拒否の小学生の話。
ある小学6年生が学校へ行く事を拒否。
その子は成績がよく、親に対しても温厚であるが
生と死の問いかけを行う意識の高い子。
しかし学校の先生や父親は、母親に対し学校へ行かないのは悪いと言い、母親は先生や父親の気持ちを満足させる為、子を学校へ無理にでも通わす。
ここで母親が向かうべき方向はどこだろうか?
部外者が一言。
父親や世間に対して、子供と一緒に戦ってあげるべきではないでしょうか?
それをあなたはサポートしてあげてはいかがですか?
母親が向かうべき方向は子供です。
普通ではない子ども
意識が高いこども
普通の概念で、捉えたら
「この子はオカシイ」「人とちがう」
となる
だけど、見る人が見たら
生と死について子供が考えるなんて
この子は余程の人間になるだろう。と
おっしゃる気がする。
登校拒否について理由は分からないが
その子にとって、学校は、世界がちがうのだと思う。
ありのままを受け入れて、答えを見いだすことがその子の為になるとおもう。
尾関さんのピンチはチャンスと少し似てるのでしょうか。母はピンチだけど、神から試されてる。父や世間、そして子供の信号。信じるはどこかと…。
子供に向かう方が楽でしょう。
因縁の相手と世間と戦う方が大変です。
となると答えは?
早いもので、前回の六本木は、ワールドカップの青いユニフォームでいっぱいでした。
今回、また週末の4日間東京に向かいます
久しぶりの家族四人ですが、決断をする事が目的です
今の現実がすべての結果です
踏ん張るか?否か?
見ていて下さい