「徒然なるままに」カテゴリーアーカイブ

物語のはじめ

建国記念日だ。また旧正月も迎えた。そもそも建国記念日とは何だろうか?国の原点を考えるキッカケにしてもいい。権威と権力の成り立ち。人が人を統治する縮図としての企業にも活かす事が出来る。

オランダのベアトリクス女王の退位が発表された。なぜこの時期に?彼女の父親は、ドイツ人で国際ロータリーやWWFの設立に関わり初代総裁である。そして、彼の働きかけでビルダーバーグ会議が始まった。

毎年行われているが、唯一中止になったのは、彼自身がロッキード事件に巻き込まれた時だけだ。そしてその娘の退位が発表されたこの時期に、ボーイング787の事故があり面白い。本当に事故だったのだろうか?ロッキードは関係していないだろうか?

関係あるのか?ないのか?あるんだとしたらどういう関係?ただのゴシップを超えて、発想を飛ばせるか?あり得ないと思う事で世界は満ちている。日本の中の常識の方が世界の中ではあり得ない。

自分の場合も、よく色んなことと関連づけて報道される。毎回、忘れた頃に報道してくれるお陰で、ただで宣伝してくれているようなものだ。

悪名は無名に勝るという。心理的には、最初悪印象の方が、後で好印象に変わりやすい。真実は予想外な事のほうが面白い。どうせなら、世界の流れに関わっていく方が面白い。日本はまだまだ鎖国状態だ。たった100万人しか海外に住んでいない。

海外に行くと、日本語が通じるのが、ブランドショップと夜の遊び場ばかりだ。帝国歴が長いイギリスは統治も洗練している。実際歴史を見ると、結構えぐい事をしているのにも関わらず、植民地国から尊敬されていたり、文化的な影響を受けていたりと、悪い関係になっているのは少ない。

それに比べて、未だに日本は悪く言われがちだ。良い事もしていても、それをアピールするのも下手だし、それより悪い事の方が目についてしまう。

外国に出て行けば良いという簡単なものでもない。出て行ったとしても、魂がなければ馬鹿にされるだけだ。建国の由来も知らず、先祖の想いも知らず、ただ受け身に生きているだけでは、ゾンビのようなものだ。そんな奴は誰も相手にしたくない。

語るべき物語を持っているだろうか?経済の話ししか出来ない、つまらない人間など世界で通用しない。素直でいい人だけでは、子供の世界だけでしか通用しない。

気付いた人間はいつの時代も少ない。日本という小さい世界だけを相手にしていてもしょうがないのだ。世界は広いし、可能性に満ちている。

語るべき物語をスタートしてから飛び込むのだ。物語の始めとして、これ以上ない場所が沖縄であるのは言うまでもない事だ。

新世界へ

年末から年始へと予想外の連続だった。予想外には慣れていたつもりだったが、まだまだ概念があるのだと改めて認識させられた。概念を壊し続けていく中で、自由な視点が生まれてくる。自分ではその概念には気がつかないから、予想外の出来事には感謝だ。

自分の概念は、他人から突きつけられてわかるものだ。それをするのは簡単ではない。それについては去年の正月に、「ひとつになること」という記事を書いた。ひとつになりたいと自分だけが願っても、相手がそれに真剣に答えてくれなければ、一人相撲になる。かといって、適当に相手に合わせていたら、上辺だけの関係になる。大抵はその中間くらいのところで、良く言えばバランスをとって生きている。率直に言えば中途半端ということだ。

我々の仲間はそれをしない。トコトン向き合い、トコトン実践する。だからこそ生き甲斐がある。志を同じにする仲間がいる価値は計り知れない。人の面倒な部分に踏み込むのは、半端では出来ない。心の交流を描いた「ココロコネクト」というアニメがある。普通では起こらない出来事が起こる事によって、心が繋がっていく。まさに自分たちがしていることを描いている。

人生は長いようで短い。学べるタイミングというものもある。今だからこそわかることがある。そのタイミングを逃してしまえば、二度と同じ事はない。人は弱い。簡単に不安や恐怖に負けてしまう。そんなときに、どれだけの想いを周囲の人間から受けてきたかを思い出すことで、勇気に変えられる。が、それが出来ない人もいる。

ミスチルの最大のヒット曲「Tommorrow never knows」の歌詞にこんなフレーズがある。

「人は悲しいくらい忘れてゆく生きもの
愛される喜びも 寂しい過去も

今より前に進む為には
争いを避けて通れない
そんな風にして世界は今日も回り続けている

優しさだけじゃ生きられない
別れを選んだ人もいる
再び僕らは出会うだろう
この長い旅路のどこかで

心のまま僕はゆくのさ 誰も知ることのない明日へ」

出会いがあれば別れもある。切ない悲しい想いがない人生に深みがうまれるだろうか?しかし視点を変えれば、その存在が歯止めになっていたとも言える。リスクとチャンスは表裏一体。離れる事でお互いにわかる事もある。

すべての出来事をどん欲に自分に取り込み、血と肉にしていく。自己の存在を進化させることでしか、想いに報いる方法はない。
「あなたのお陰で進化できました」と。

時の裁判所

今日はダライ・ラマ猊下を沖縄にお呼びした日だ。尖閣諸島問題もあり、中国との関係性が微妙な時期にあえてお呼びしている。奇しくも、(ランダムか?決定か?)共産党大会が行われているこの時期に!そしてチベット族の過去最大のデモが起こっているこの時期に!

偶然だろうか?必然だろうか?偶然でもすごいし、必然だとしたらもっとすごいではないか。中国のチベット問題と尖閣諸島問題は関係ないだろうか?どちらも領土問題は存在しないことになっている。この時期に来沖するのは中国に対する挑戦とも見られるし、かといって訪問中止したとしたら、圧力に屈したことになる。日程は先に決まっていた。すると、こうなることがわかっていたのか?それとも偶然か?

「誰に会ってみたいか?」と聞かれた際に、
「天皇陛下かダライ・ラマ」と答えてきた私にとっても感慨深い。そして今日はその招聘に関係している、ある重要人物の方にとっての記念日でもある。この日に行われてるのは偶然か?必然か?毎日同じに見えるが運命的な日というものがある。多くの人間にとっても節目となる日だ。見える形では元旦などはわかりやすい。気付かれないが、見えない影響を及ぼす日もある。

話しを戻そう。血族ではない、予言によって選ばれるダライ・ラマ。血縁という因縁を超えた因縁。わずか3歳で生まれ変わりと認定されている。ノーベル平和賞も受賞して、欧米からも支持があつい。ハリウッドにファンが多数いる。なぜだろうか?チベットは裕福な国でもなく、有名な大学や教育機関があるわけでもない。暗殺されそうになりながら教育されたきた人間が、生き仏として慕われている。不思議ではないか?また、なぜ14世までダライ・ラマ制度が続いてこられたのか?どちらも形ではない、本質に触れる何かしら理由があるからではないか?

チベットは独立国ではなく中国の一部になっている。似ているが、ヴァチカンはイタリアの中でヴァチカン市国という扱いだ。対照的で面白い。ローマ教皇は高齢で選ばれる。ダライ・ラマは5歳で指導者の地位に就いた。どちらも血縁ではない。どちらかが分かれば一方もわかる。世界は相似で満ちている。

11月は私にとって節目の月になっている。チャンスと共にピンチも訪れる。飛躍できるか?それとも落ちるか?年々、誕生日プレゼントのサプライズのスケールが大きくなってきている。だからこそ、それを活かせなければ一気にツケがやってくる。嬉しい反面、崖っぷちに立たされる気分にもなる。常に逃げ場がない環境。それがあることに感謝である。

やり続けられる環境を作る事がどんなに難しい事か。作る側になって初めてわかることである。予想を超えてキッカケを作る事は簡単ではない。しかし、目の前の事にキチンと向かっていれば必ず導かれる。天の応援というものを強く感じる。環境が人を変えるのだ。

焦らず、力まず、だがシッカリと向かって形にしていく。根を張ることから、実を結ぶことへと意識を向けている。熟れた果物が自然と落ちる時に、落ちるその場に自然といられたら最高だ。熟する前に、力づくで摘むのでもなく、落ちてしまった実を拾うのでもなく。そっと手を伸ばすと同時に落ちてくるような共時性。そんな瞬間に微笑みが自然と生まれる。

しかし、その瞬間瞬間の判断をしないと、その先に行動もない。すると、
「やっておけばよかった!」では終わらない。しなかったことのツケがやってくるのだ。同じ時は二度とない。やらなかったことのツケは大きい。やりさえすれば、失敗したとしても執行猶予がつくか、また判決までの挽回ができる。何もしなければ、判決がくだされてしまうのだ。判決が下されてしまうと、それを覆すのは大変だ。時の裁判所が判決を下す前に、一生懸命努力して証拠作りをしておくことで、良い判決がくだるのだ(笑)

Ps:世界に一つしかない手作り装飾の帽子を頂きました!

ゆいによる邦つくり

日本にはかつて結(ゆい)と呼ばれるつながりがあった。結は、お互いに助け合って共同作業を行うことをいう。もやいともいったようで、沖縄で言う模合(もあい)と似ている。

Wikiによると、厳密には「もやい」が「共にあるものが共に事を行う、あるいは共にもつ」のに対し、「ゆい」は「共にはないが、たがいの約束にもとづいて共に事を行う」ものであるという。

沖縄では、ゆいまーると呼ばれていて、私はそのとき初めてゆいの精神を知った。調べてみたら本土でもあったことがわかり、日本の原点は沖縄に残っているのだと改めて感じた例の一つだ。

かつての絆はこうしたつながりもあって維持されていたが、近所付き合いもなくなると共に、つながりは薄くなっていった。それに応じて、しがらみや責任も薄まった訳で、それが現代の無責任、一億総評論家とも無縁ではない。絆が濃いと、それだけ厄介な事も増えるのは当然だ。無責任に暮らすのは楽で良いが、楽と引き換えに失っているものはツケとなって社会にたまっていく。

難しいのは、本人が楽をしていると自覚していない事にある。自分がどれだけ楽をしているかを知るには、無人島で一人暮らしたらよくわかるが、それを知ろうとも思わないだろう。仕事人間は、ビジネスを通して社会貢献していると言うに違いない。しかしビジネスにハマる事で本当は楽してるとも言える。ビジネスだけの絆しかなければ寂しいものだが、その寂しさにすら気がつかない。新しいビジネスアイデアのような好奇心の波に飲まれるか、趣味や薄い繋がりで、寂しさを誤摩化しているのが大半ではないだろうか。

都市では、共にあるものが行う「もやい」は難しいかもしれないが、共にはないが約束にもとづいて行う「ゆい」ならば形を変えて残っている。NPOのように、興味や意識が近い人同士が連携を組んでいるのは、結と言えるだろう。

今ではリアルに会わなくても、インターネットのお陰で、新たな繋がりが生まれやすくなっている。ノマドワーカーだとか、新たな働き方を模索する中で、多様な繋がりが生まれている。

ネットの繋がりは、気楽に繋がれるから、薄い繋がりだ。すぐに参加できるし、すぐに離れる事も出来る。深くコミットすると、それだけ責任も生じる。程よい距離感で付き合うには最適だが、やはりそれ故に弱点もある。

本来、あちらを立てればこちらが立たずが世の中だ。それを言いとこ取りしようとしてきた結果のツケが、回り回って戻って来てるだけの話しだ。現代の諸問題は人間関係から生まれている。だからこそ、薄い繋がりだけでなく、深い繋がりの再創造が必要ではないだろうか。

薄い関係も勿論あっていい。しかし、深い繋がりが根本になければ、根無し草のように、何か事があったときには流されてしまう。危機のときに本当の姿が見えてくるが、その時に分かったのでは遅いのだ。

深いつながりは簡単にはできない。お互いに覚悟がいる。嫌になったから、「ハイさようなら」とはいかないのだ。難しいからこそ学びが大きいし、簡単には真似ができない価値がある。

自分たちは仲間作りを通して、新たな「ゆい」を創ってきた。その約束は、真剣に自らの使命を追求すると共に、世界を共に創造し続ける事だ。その世界観に共感し参加、協力してくれる人たちの繋がりで、邦(くに)づくりは進んでいる。場所や人種は関係ない。心が共にあるかが大事なのだ。

イスラムの可能性

先日、ご縁がありインドネシア大使公邸にお邪魔してきた。沖縄に関わるキッカケになった会社の創業者は、インドネシアの独立運動を支援していたことで投獄されたことのある方だ。インドネシアの独立に日本は深く関係している。ちなみに、沖縄とインドネシアの関係は琉球貿易時代から深くて、沖縄の民謡にインドネシア語が使われているくらいだ。

インドネシアは、世界最大のイスラム教徒を抱える国でもある。イスラム教は調べてみると面白い歴史がある。キリスト教はどちらかというと大衆から広まっていったが、イスラム教はエリート層から広まっていった経緯があり、驚くべき速さで普及していった。最初は敵であった人物が、その後改宗してイスラムのトップになったりしている。寛容性もあり、イスラム創成期の人物は魅力的な人が揃っていて、読み物としても面白い。ルネッサンスはつまるところ、実はイスラム世界に残されていた知識の再発見にすぎない。当時の世界最高の知識はイスラム世界にあり、イスラム側からみた歴史を学べば、世界史を複眼で見ることになり、世界の景色が違って見えるに違いない。
話は変わるが、宗教の役目とはなんだろう?経済活動が盛り上がってきて、社会のお約束なんかより金儲けしようぜという気分の時に、宗教はそれを抑える役目として機能してきた。儲けた金を宗教建築で吸い上げたり、利子を制限したりと、人々の欲の皮を消化(昇華)させる働きがあったのだ。そうすることでバブルを事前に防ぐ役割を果たしてきた。余計なお金が社会に生まれると、そのお金は悪さをするのだ。昔の知恵というのはそれなりの意味があるものだが、意味が失われて形だけになるから、知恵は失われる。
イスラム教というのは現代においても、社会に対して影響力を持っている宗教で、そこから学ぶことは大きい。イスラムの原点の確認と本来の知恵というものをとらえなおして、新たに現代でその知恵が働くように再設計する必要がある。日本においては、宗教というより、武士道のような「道をきわめる」という方法が、宗教の代わりを果たしてきた。
いずれにしても、西洋と東洋のハイブリッド日本は、イスラムという世界との関係で助け合える関係になれる。資本主義への新たな処方箋のヒントがそこにはある。際限なく拡大しようとするマネーとどう付き合うか。多様な選択肢の一つとなるのだ。
世界というのは、勝手に出来ていくものではない。イメージを持っている人間に引っ張られるのだ。イメージが持てない人間は、持っている人間に振り回される。そこに良い悪いはない。どういう世界にしたいのか?世界は世界観同士の戦いで満ちている。イメージを持っている人間がルールを作っていく。その積み重ねで今がある。だから原点を知ることは大事なのだ。原点と経緯を知ることで、未来をイメージできる。
人が引いたレールの上を走るのは安心安定に見える。しかし、そのレールはどこに向かって走っているのか?自分でレールを作るのは大変だが、自分で目的地を決められる。レールに乗ったり、作ったりと人生色々だ。こうしたイメージを持つのに、映画トゥルーマンショーをお勧めする。

イメージの力

 今日は言わずと知れた子供の日。端午の節句である。季節のイベントは歴史を重ねるごとに本来の意味が失われたり、別の意味を持ち始めたりすることが多い。今は子供の日ということが大きな意味を持っている。子供は未来の象徴だ。

そんな日にシンクロするかのように、未来の象徴ともいえる国内の商業原子炉50基がすべて停止する日でもある。原子力は核の平和利用の象徴でもあり、経済の根本を支えてきた電気の中心であった。一年前に誰がこんな事態が予想できただろうか?
そんな地上を照らし、物事をはっきりと明らかにするように天体ではスーパームーンと呼ばれるイベントが起きている。さらに、流星群もピークだという。この重なりは単なる偶然と普通は捉えるだろう。
時代が違えば、こうした信号は時代を象徴する出来事として捉えられていた。関係ないと言えば関係ない。一体この出来事はどんな意味を持つのか?ゲームとしても考えてみたらいい。世界は決して切り離されてはいない。目の前の出来事から自分へのヒントを探ることができる。
自分の中でこの信号はどんな物語となるのか?人は物語を聞きたいのだ。そして物語の主人公になりたがっている。例えば、起業したいと思っているとする。実際に起業したことがなければ、起業への心の抵抗は大きい。実際に、周囲で起業した人がいなければさらに遠い次元の話となる。主人公になることを諦めてしまう。
実際、自分たちが創業したときは、まだまだ若い人の起業は一般的でなかった。ビットバレーをやっていたときも、インターネット企業というものがまだまだイメージわかなかったので、そのイメージをつかみたくて、みな集まっていたのだ。
知ったり、体験すれば、身近に感じる。いまや起業は選択肢の一つになっている。そうなれば特別なことはなく、心の抵抗も少ない。イメージ持てるかどうかで行動も変わってくる。
いまの社会の問題は、次のイメージがないことだ。一体どんな社会がいいのか?原発ではないとしたらどうやってエネルギーを得るのか?IT革命、金融革命の次は一体なんなのか?
次の夢がないのだ。世界を変えようとするより、どうしたら一生安定した職場が探せるかや、好きなサッカー選手の応援のほうに興味がいってしまう。
自分が起業したときは、次世代のロールモデルになろうと思っていた。あんな生き方もあるんだとおもってもらえたらと。バイアウトなどした人はいなかった。何人かに、
「尾関さんの例を見てバイアウトを自分もしました」と言われたこともある。少しは貢献できたのだろう。
菩薩というロールモデルはそれよりもスケールが大きい貢献を目指している。IT革命の初期に感じた、歴史に参画するという意識を取り戻せると自負している。しかしながら、一人一人が主人公のこの世界で、自ら脇役になりたがる人ばかりなのだ。なんと勿体ない。
自分を主人公としたイメージが持てたとしたら、それが身近に感じられたとしたら、菩薩という生き方への抵抗も少なくなる。菩薩もあくまで方便だ。菩薩でなくてもいい。魂が燃えて使命感あふれる生き方であれば、どんな生き方もロールモデルになる。
自分たちが手掛けている仕事の責任の重さと、新たな世界を切り開いている喜びを感じている。誰にでもできる仕事ではない。そのために多くのものを賭けてきた。真剣に自らの使命を求めて、怠惰や常識と戦っている人間はそうはいない。こんなバカなことをしている人間はそうはいない。その少ないながらも、心の通じ合った同志がいるだけでどれほど幸せなことか。
もう既に新しい世界はここにある。そしてそれは進化し続ける。だから面白い。いつでも新鮮なのだ。なんでもすぐに飽きていた自分が飽きずにやっていることに、自分でも驚いているくらいだ。
自分だけじゃイメージできないからこそ、面白いイメージになる。自分で作った物語は予想できてつまらない。仲間とともに作った物語は予想を超えて面白くなる。
月を見ながら沖縄にて

回想

 6年前の今日、「今年は」というBlogを書いた。

「こうして諦めないで作っていった土台を元に、40代は世界貢献できるようになりたいなと思うようになりました。
今までは目標がないから、いくらでも成長できるとおもっていましたが、漸く、自分なりの理想像が見えてきた感じです。まずは、6年後が楽しみです!!」

あれから6年。自ら予言した6年後に本当に土台ができていて驚きだ。6年の間に、涙あり、戦いあり、笑いあり、色々あったから、根性が鍛えられた。もうすぐ先が見えるのではないかと葛藤を抱えながらも、なんとかここまでブレずに続けてきたことを誇りにおもう。共に求め続けて一緒に戦ってきた同志の存在が、今もとても頼もしい。
何があっても切れることのない信頼。必死でやってきたからこそ、ぶつかり合い、残ったメンバーも少数精鋭。いよいよ、守破離でいえば破の段階に来た。今まで学んできたモノを次のステージへと引き上げる時が来た。
間違える勇気が必要だ。正しいことだけでは前に進めない。時には間違えることで伝わることもある。真面目脳を超えて、正しさの枠から超えられない人の代わりに間違える勇気を。
こうしていたら間違いはないという枠組みから外れるのは勇気がいる。自分も今まで魂が感じることを学ぶために守ってきたやり方がある。そこにいたら安心だが、間違えたらどうしようという不安も常に伴う。
何もしても不安は尽きない。不安を希望に変えて、自分なりの道を表現する。
今が幸せじゃなければ、未来も幸せではない。完全な幸せなんかない。自分ただ一人の心の平安だけを求めているわけではない。共に感じたいからこそ、社会に働きかける。自分たちがやりたいことはまだまだ道途中だが、形にできる仲間と可能性の芽とイメージがある。
6年前に比べて進化している。6年前の言葉を読み、経験前だからこそ純粋な部分もある。
これからも諦めずに向かい続ける。
生存戦略しましょうか。by 輪るピングドラム

レッテルとブランド

常識的な人間ほど、肩書きやレッテルのイメージに左右されやすい。東大出てるから頭がいいとか、大企業の社長は立派だとか、本当は人によって違うのに、そうした偏見を持っている。本質を考えるより、レッテルを信じたほうが楽だ。矛盾したレッテルを貼られていても、それほど疑問に思わない。

自分は昔から天邪鬼だったので、何か裏があるのではないかと斜めにモノゴトを見ていた。受験の時も、まともに勉強するよりは、問題作成者の意図を探り、どういう答えを望んでいるのか?正解の答えから、どのように間違いを誘導する選択肢をつくるのか?などを考えていた。
株式相場の格言にも、「人の行く裏道に道あり花の山」とある。正攻法よりも裏口が気になるタイプなのだ。一昔前は裏口入学など話題になったが、そんなのは当たり前のようにあることだ。東大のような組織は裏口などあり得ないと思われている。しかし、権威がある組織は権力者にとっては非常に便利な道具だ。
はした金のためではなく、国のために使える人間であれば、権威付けにブランドを利用するのだ。その権威を利用するために、あえて入学させたり、あえて教授にさせたりするのだ。人はレッテルに弱いからだ。本来の実力とは関係なしに、あの人はスゴいというレッテル貼るために使うのだ。用意されたエリートコースを歩く人もいる。あやつり人形のようだ。
メディアはレッテル張りが得意だ。世論を誘導する力として、日々毎日目にし続ければ誰でも無意識に刷り込まれてしまう。最近報道されていた北朝鮮の件も、落ち着いて考えればあれほど騒ぐ話でもない。でも毎日その報道に接していたら、なんとなく危ない国家が近くにいるなーと刷り込まれていく。もっと危ない国家については何も触れない・・・。
ちなみに、鳩山さんは東京大学を出て、スタンフォード大学大学院をでている。普通に入学したのか、裏口なのかは知らない。真っ当だとして、そんないわゆる高学歴のインテリが、自分のしていることでどのような反応があるかわからないものだろうか?わかっているのだとしたら、なぜあえて問題を起こすような方法を選択しているのか?
沖縄の基地問題の時も、今回のイランの件も、最初は味方かと思わせるような発言をして話題を起こし、後で否定する。結局どちらの側からも、
「一体あんたはなんやねん」と思われ、どちらの側からも呆れられる。どちらの味方でもない発言を結局はしつつも、常にその発言は注目される。話題を提供し、話題の中心でいることはスゴいことだ。メディアに振り回されるのではなく、メディアを振り回している。これが本当に馬鹿にできることなのか?もし本当に馬鹿なら、その価値をわかってアドバイスしてる人がいるのではないか?いずれにしても、良い人そうであることには誰も異論がない。色々と考えさせられて面白い人なのだ。
鳩山さんと似ている人がアメリカにもいる。ブッシュ元大統領は、イェール大学を出て、ハーバード大学でMBAを取得している。これまたインテリだ。しかし、成績が悪かったとバレちゃっていて、誰も言わないが裏口だと思っているだろう。
しかし、中身はどうあれ、そうしたエリートコースを歩めるように用意できる環境がスゴいのだ。多少、あれ?とおもわれる素質でも、肩書きさえあれば本当はスゴいのかもと勘違いしてくれる。レッテルの効果がわかれば、それを逆に利用することで、イメージを操作できる。悪く使えばレッテルで、よく使えばブランドになる。
例えば銀座に出店してるお店というブランドは高級なイメージがある。一昔前のほうがその効果は高かった。銀座の価値が落ちたように、日本のあちこちで価値の破壊が起きている。
昔のイメージが破壊されることが多くなり、新しいブランドを必要としている世界が増えている。一体なにがスゴいのか?価値があるのかを証明しなければならない。それが出来なければ衰退していく。新しいイメージはすぐには受け入れがたい。投資と同じで、まだまだ未開拓だからこそ美味しいのだ。
馬鹿と思われてもやれる勇気。それを支える環境の価値。そうした世界があちこちに生まれつつ有る。やがてその受け皿が新たなブランドとなる。時代にあったブランドを生み出していくのは面白いことだ。ブランドは近い人間に信用されることから始まる。すべては目の前の人間に信じてもらうことからだ。

子供の目

人は我欲だけでは限界がある。自分のことだけでは頑張れない。大義や人を背負うことで、自分の潜在能力が引き出される。人は人の生きざまを見て感じる。恥ずかしくない生き方とは何だろうか?美意識が問われる。

信念を持って生きるには強さがいる。責任感の強さが、その人の強さになる。顔も見たこともない人のために一生懸命になれるだろうか?どこまで責任を感じられるかで強さは変わってくる。

フランスでユダヤ系子女を狙ったテロが起きた。今も中東で起きている、パレスチナ子女に対する弾圧への抗議だという。なんと切ないことか。どうしようもない無力感から、憎しみの連鎖はいま世界をおおいつつある。子供は未来の宝。子供を大事にしない社会は長続きしない。まして自民族だけの子供を優遇し、多民族の子供を虐げていては、敵が増えていくだけである。会う人を味方にしていかずに、敵にしていく人に未来はあるだろうか?

アタリマエのことが当たり前でない社会。今回の事件は遠い国の出来事だけに、他人ごとに思えるだろう。他人ごとだからこそ、当事者にはできない見方ができる。離れているからこそ、見えることがある。すべては根本で繋がっている。お節介が必要な世の中なのだ。
自分の子供が殺されたとしたらどうだろうか?報復して憎しみの連鎖を産み出すだろうか?嘆き悲しみ苦しみと共に生きるだろうか?自暴自棄になるだろうか?子供たちのためにいま自分ができることは何だろうか?311以降多くの方がそう感じているに違いない。
目の前の子供に恥じない生き方をしているか?子供は親たちの背中を見て育つ。誇りに思ってもらえる親だろうか?父としての役割、母としての役割、それぞれ違う役目がある。子供たちのために素晴らしい社会を残せるか?今を生きる世代の仕事である。子供たちの目は正直である。子供の目に映る姿が、鏡のように自分たちにかえってくる。
男は子供が産めないので、創造行為の代償作用を求めているという。価値有る人生を創造することが、社会にとっても家族にとっても有意義なことだ。価値有る人生を創造しようと思えば、傷つくことを恐れてはできない。傷つくことは磨かれることだ。同じ事を別の言葉で表現しているだけにすぎない。傷つくと取るか、磨かれたと取るか。
必死で磨きまくらねば魂は輝かない。一人ひとりが輝く社会こそが、素晴らしい社会だ。子供たちのために何とかしなくてはという想いは、自分が親になって初めてわかったことだ。産んでくれた母と子供には感謝しかない。そのお陰で今日も自分は創造の決意を日々更新できる。
生まれてきてくれて、ありがとう!そして、おめでとう!

現代病

現代に生きる人々が普通と感じている考え方は、時代が違えば普通ではない。かつて世界は恐れ多いものであふれていた。例えば地震はただ揺れるから怖いとか、災害だから嫌だとかいう意味ではなく、神の力を感じておそれていた。何かの意味があるに違いないと感じていた。
現代では、科学的思考によって一応は数々の自然現象も説明ができるようになり、その仕組を再現、利用することで文明を発達させてきた。その力はめざましく、人間を中心とした科学信仰を生み出した。アタリマエのこととして意識していないが、現代人は科学的思考によって洗脳されている。
全体を部分に分けて、部分ごとに理解していく。例えば、仕事をしてると、全体の数値目標を設定し、部分ごとに目標数値を決める。そして、目標を達成できない問題を解決しようと思考し、その裏側にある想いというものを感じる力が欠如してしまう。想いは見えない。そんなことより、見える化が大事になってくる。
仕事に限らず、何かを問題と捉えたら、それは解決しないといけないものとしてしまう。心の葛藤はどんなに細分化しても解決はできまい。しかし気持ちでさえも、操作可能なものとして扱おうとする。
問題の根っこを見つめることなしに、表面的なことをやっても解決はしない。そもそも、問題ではないかもしれない。問題と考えてしまう、考え方自体に原因はあるやもしれない。マッチポンプのように、問題を創りだしては解決する。何かが変わるが、本質は変わらない。
何もやらないと焦ってしまう。時間がただすぎることに罪悪感を感じてしまう。産業革命の頃から、時間は直線的な過去・現在・未来という流れになってきた。始りから終わりへの流れ。自然の四季のように、循環する時間においては、螺旋状に時間は流れていく。
また流れてくるなら焦ることはない。ただ、それは同じものではない。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」方丈記
同じように見えて違う、永遠が今にある心境から、ワビサビといった日本人の感覚が生まれてきたのではないだろうか。
別に科学的思考をやめろと言っているわけではない。それだけしか考え方がないのでは、狭い視野に陥ってしまう。視点を変えるだけで違う世界が見えてくる。考え方は一つの武器である。武器は多いほうが、状況に応じて最適な選択ができる。一つしかない武器を無理やり使おうとするから、余計に問題が増えるように見える。
仕事も人生も流れがある。その流れを断ち切り感じづらくしてしまうのが、現代病の特徴だ。世界を狭くし、可能性を見えなくしてしまう。世界を広くするためにも、自分と違う世界の人達とあったらいい。違いの中から、新しい流れが生まれる。