パワースポット巡りの無意味

多くの人は、神社仏閣に行く時に御利益を期待する。エゴの為に参拝するのだ。本来は現世的な利益を期待する場所ではなく、自分と向き合うことのできる特別な場所である。

様々なつながりから、今生きて存在していることに感謝を捧げ、自分と向き合う。感謝と内観は日常でも大事であるが、特別な磁場があるからこそ、更に深いものとなる。

経営者の中にも信心深い人は多い。昨今は、パワースポットめぐりと称してパワーをもらいに行くという。

そんなパワースポット巡りが大好きな経営者や政治家から、パワースポットの案内と、沖縄の霊能者であるユタを紹介して欲しいと頼まれることが多い。それは別に構わないのだが、いつも注意をする。

「ご利益を外に求めて何かを引き寄せても、その分代償を支払うことになりますよ。パワーを得たと思ったら、知らぬ内に魂を売っていたり、悪霊を身につけてパワーと勘違いしたりします。」

そういった人たちが抱える問題への答えは、自分自身の内側に既にある。それを知るためのヒントとして霊的パワーを活用するのであれば意味がある。また、ヒントを得たとしても、助言する第三者がいないことには、自分のエゴの為にどんなパワーも悪用してしまう。

霊的なもの、神秘的なものというのは、興味深いものだ。しかしながら、霊的知識はただそれだけを探求しても、好奇心が満たされるだけでキリがない。パワースポットを周り、エネルギーを貯め、自分の殻を破っていくことが本当の目的なのに、いつの間にかパワースポットを回ること自体が目的になってしまったりする。(ほとんどの人がそうなのではないだろうか。)

結局は、感性を磨き、信号を得て、今どんな行動をするかにかかっている。ただ、それだけだ。その信号を感じるために霊的なエネルギーを使うだけ。それ自体はきっかけに過ぎない。問題を解決するのは自分自身なのだ。

霊を商売にしている人は多々いる。彼らは自分でもどこまでわかっているのかわかっていないが商売だから適当なことをいう。そうした商売に依存は危険だ。頼ることで自らの光を弱めてしまう。

本当に何でもわかるなら、その人自身が政治家や経営者にでもなればいいが、霊的な人は常識的なことが苦手だし、全部わかるわけでもない。

よく言われる例えだが、グラスに半分入った水をみて、「あと半分もある」というか、「あと半分しかない」とみるかで印象が大分変わる。同じ事象を見ても、占い師・霊能者の立場によっては全く違うことを言ったりするのだ。

見えない世界のほうがより慎重さが要求される。言葉通りでなかったり、言葉の概念が双方で違ったり、とにかくお手軽なものではない。

というものの、その人に合った段階が用意されているので、心の赴くままにして段々と深めていけばいい。当たり前かもしれないが、大成功している人ほど、陰にユタや官僚などのアドバイザーが付いている。

そして実は、神社仏閣などは堕天使と呼べるような人たちが大口寄付していたりする。映画「コンスタンティン」で大天使ガブリエルが堕天使になったように、何かに秀でている人は表裏一体の要素があるのだ。

よく私が、「善悪はない」というのは、こういうことを考えてみてもわかるだろう。

有事に生きる人と、あくせく働く人

沖縄にはすぐそこに米軍基地があり、その中はアメリカ合衆国である。

柵の外にいる日本人が、柵の中にいて優雅に芝生刈りをしているアメリカ人を見てこう思った。
「なんか自分たちは毎日毎日あくせくと朝から晩まで働いているのに、あいつらはいいよな~。しかも、彼らは自分らの税金で暮らしているわけだろ。納得いかないよな~。」と。

しかし、これは納得いくとか納得いかないとかの問題ではない。これが全てなのだ。人間は生まれる前と死んだ後は選べない。選べるのは、生まれてから死ぬまでの間だけだ。唯一、生きている間だけ選択をすることができる。

人間は生まれる場所も時代も選ぶことはできない。
「なんでこんな家に生まれてしまったのか?」などと考えるだけ無駄である。そのときその場所に生まれたのだから受け入れるしかない。また、死ぬときも選ぶことはできない。突然事故にあったり、病気になったりする。

全てをありのまま受け止め、それをどう活かすかが大事なのだ。というより、どう活かすか、しかない。

今の時代、本当にやりたいこと、自分に合っていること、自分の使命を全うしている人は、極わずかである。

今しか選択して生きることはできないのに、流れに流され生きている人がほとんどだろう。
「それは本当にやりたいことなのか?一生そのままでいいのか?」

究極は一日に全てが凝縮される。
朝、目覚めとともに生まれ、
夜、眠るときに死ぬ。

その中で自分は何ができるだろうか?本当にやりたいことはなんなのか?それを常に、考え、葛藤している人間に、流れに流されている人間が勝てるわけがない。100回人生を繰り返したって、それは真剣な人の一日に過ぎない。

柵のなかにいるアメリカ人は、有事のときに命を懸ける。だから、別に普段は優雅に過ごすことが許される。一般人が毎日あくせく働いて納めた税金で生活することができる。

有事とはどういうことか。
50年、100年に一回あるかないかの戦争。
一方は人生に一回あるかないかの大勝負に賭ける人間、
一方は毎日をつつが無く過ごすために面倒が起きないように生きている人間。

この両者が何を話し合ったとしてもわかりあえるわけがない。住んでいる世界、見ている世界が違うのだから。次元が違うと言ってもよいだろう。

一瞬の大勝負に命を懸けて魂を燃やす生き方をする人生と、日々をつつが無く過ごして毎日あくせく働く生き方をする人生。

どちらを選ぶかは、自由であり、選べるのは「今」しかないのである。