「私生活」カテゴリーアーカイブ

舞台裏の内幕

昨日の朝、読売福祉文化賞の授賞式のために、沖縄から東京に来ていた仲間とミーティングをしていた。彼は数年間も沖縄にある我々の原点である大切な場所を守ってきた人間だ。純粋さゆえに、社会に嫌気がさし引きこもっていた人間が、ジョイントを通じて光を感じ、一緒に歩いてきた大切な仲間の一人である。

我々の世界は、居続けることが非常に難しい。ただ居ることは許されないからだ。常に何のために?が求められ、意志と覚悟や縁がなければ、他の世界で修業という道になる。それはこの世界だけが良いとか、他の世界が悪いというのではない。その人にとって望んだ道であれば、どの世界も必要な体験だ。

葛藤(かっとう)を通じて人は進化するが、ここ数年で磨き続けてきた魂が開花し始めているからこそ、彼はさらなるキッカケを欲しがっていた。もちろんこれまでにも魂を輝かせて、光を感じてきた。満足したらおしまいである。常に次の課題へと向かっていく中で、ときに節目となる大きな変化がやってくる。
彼自身は、人からやる気をもらって頑張ってきたからこそ、ここまで気付きを得てきた。一方で、自分以外の外部にやる気を求めていたから、常に外部からやる気を補充しないと心が苦しくなるという仕組みから抜け出そうとしていた。内側からの真のやる気はないのか?と自問自答を何年も繰り返し、そのたびに必死に目の前のことに打ち込んできた。
やりたいこともそんなにない。欲しいものもそんなにない。お金のためだけでは頑張れない。どうしたらよいかわからない。これらは多くの人が抱えている問題ではないか?
もがき、葛藤しなければ魂は開花しない。そうした苦しみの中で、自分を制約していたものを解き放ち開花していく。開花したと思ったら、また次の制約がでてきて、常に新たな花を咲かせていくのが進化だ。
「クーピーの仕事をやってみたら?」という仲間からのきっかけをもらって、読売福祉賞やみずほ福祉財団など、いくつかの募集に対して動きを起こした。彼が資料を作成して応募したら、次々と大きな賞をいただいた。この時期に、この評価を受けることの意味。彼にとっても、我々にとっても、社会にとっても、その意味は深い。大きな流れの中での、いま自分がやっている役割の自覚が芽生えたと彼はいう。

受賞したことより、彼がきっかけを活かしたことのほうが嬉しい。単なる受賞以上の価値があるのだ。自分が動いたことによって仕事がうまれ、いまこの時期に東京に来たことの意味。それを朝のミーティングで数人の仲間で深めていた。
沖縄と東京での役割の違いという話をキッカケに、それぞれの場所だからこそできることを追及していく。そして今目の前でしていることが、離れた土地にいる仲間とつながっていることを体感できたとき、つまりお互いが役割を全うしたとき、一つであることを体験できる。
言葉では簡単だが、実際には難しいことだ。そうした話の流れの中で、いま沖縄から東京に来ている仲間の意味を深めていたのだ。そして、それとは別の話の流れで、菩薩であり時代魂があるOZ(尾関菩薩の意)の存在と意味の話があった。
次に続く。

サプライズ

いつも言葉の限界を感じながら文章を書いている。出来るだけわかりやすく。難しい漢字や言葉使いをさけるようにしながら、いかにして言葉の奥にある世界観を伝えられるかを心がけている。

簡単な言葉ほど深い意味がある。「学ぶ心深ければ師は姿を現す」といわれるが、 同じ文章でも過去に読んだ時と、いま読むのとではまた違った感じを受けるだろう。自分の成長に応じて、受け取る内容が深くなっていく。少なくても、一つの文章で3回は違った視点を感じてもらえるよう意識して書いている。以前書いた、一石三鳥の話を覚えているだろうか?
面白いことに、意識して3つの効果を狙わなくても、自分の役目に徹して動いている人間には自然と一石三鳥の効果があらわれる。自然と無意識にシンクロが起こり、自分の予想を超えて価値を生み出すようになる。
仲間の体験した最近の事例をあげよう。クーピー体験を実施したいと感じた場所に、スタッフAたちが飛び込みで訪問した。突然にも関わらず、こころよく受け入れてくださったばかりか、心温まるショーを見ることができた。そのショーをしていた人々は、滅多にその場にはこない方々で、沖縄でも拠点がある人々だった。
 余談だが、面白いポイントとして、訪れたスタッフ全員が心温まったわけではなく、そのうちスタッフC一人は違和感を感じたと。この意味は深いがテーマがずれるので、そのうち書こう。今は読んだ人が各自で深めてほしい。同じ感覚だけの組織は弱いとだけ書いておく。
 そして帰り際に。たまたまその場に来ていた方から声をかけられたら、その方が福祉関係の関係者で、クーピーのことを説明したら、
「それって今朝読売新聞にでていた団体ですよね!」と自分たちも知らなかった情報を得ることができた。そしてまた新たなつながりもできて、はじめにつながろうとしていた場所とそれ以外の二つの接点の成果を得た。人のつながりだけでなく、ショーを見て感じた気づきや、自分たちも知らなかった情報の入手なども、動いた結果わかったことだ。一石三鳥以上の効果だ。
「自分たちの団体が今朝新聞に出ていることを知らないんて嘘だー」と思われることだろう。この点がいつも周囲から不思議がられるところなのだが、我々は相手のことを想って、その時、必要なことしか伝えないということを誰に対しても徹底している。魂にとって、一番良いタイミングということを意識しているからだ。なんでも情報共有のITの世界にいた私にとっては、この概念を受け入れるのには抵抗があった。
普通の世界では内部の人間から新聞掲載の情報は関係者全員に伝わっているのが当たり前だろう。外の世界と接するのが多いスタッフからしてみたら、「それを伝えてもらわなければ、宣伝材料として使えないではないか?」と取材を受けた人間に、「なぜ新聞掲載を教えてくれなかったのか?」と詰め寄ることだろう。それが普通の組織である。
我々の中では、必要なことは自然とわかるようになっているという価値観、スタンスが共有されている。伝えたければ伝えるし、そうでなければ無理する必要はない。今回は知らなかったお蔭で、動いた結果のご褒美ともなった。また、動いたほうも、そうした記事なしに話をすることで、自分の真価だけで勝負できる。外の価値(新聞という信用)に頼らずに、自分の存在だけの勝負をすることで力が付くのだ。
新聞掲載を上手に使えば、多くの人々にアピールすることができて、支援の輪は広がるかもしれない。しかしその一方で、真剣にかかわろうとする人間が見えなくなる恐れがある。今までは、真剣な少数の人間を集めるために、あえて間口を狭くしていた。そのお蔭で、核となる人間たちが育ってきた。これからは間口を広くしても大丈夫になってきたと感じていたら、今回の新聞掲載と自然と流れがやってきている。
あえて伝えない。そのことがサプライズになる。
極めつけがこれだ。

久しぶりに沖縄入りしたら、なんとプールのプレゼントのサプライズ。しかも全部人力で掘り作ったプール。硬い岩盤で大変な作業であったと聞いた。沖縄は日差しも暑いし、この作業で死線をさまよったという。仲間が想いを込めて掘ったプール。約40トンの作業をする大変さが想像できるだろうか?体験しないとわからないだろう。
プールを作っていたこともサプライズだが、本当のサプライズは・・・・。
長くなったのでまた次回に!

本当の豊かさ

 ふとテレビを見たら、昔にBirthでお会いした森泉さんがでていた。中古の別荘を買って、自分でDIY(自身で作る)しているという。ホームセンターで楽しそうにお買い物をして、プールサイドのデッキのペンキ塗りをしていた。

さすが時代を掴んでいるなと感心した。一昔前であれば、新築でデザイナー別荘のほうがイケていた。それに、眺めがいいとか、温泉があるとか、高級別荘地だとか、何かしらのウリがあってそこに建てられる。
金持ちであれば、山や海や温泉など、それぞれの条件ごとに別荘がある。それでも、全部条件が揃っているという物件は数少ない。不動産は人と同じで、同じ物件は存在しない。良い物件に巡り合うには、良い人とご縁がなくてはならない。いくら金を積もうと、真に価値があるものは抑えることはできない。本当に価値有る人は、金で動かないのと同じだ。
価値ある特別な物件は、お金よりも、人脈と人格が備わった相応しい人物のもとで活かされるものだ。そのことは、以前に「日本航空破綻に見るヒトとモノの本質」や「自然界の法則」で書いた。
特別な条件が揃った物件は手に入らなくても、特別な物件にすることは出来る。ではどうするか?簡単でいて簡単ではない。答えは、想いを込めるということだ。森泉さんが何百回と別荘に通い、自分で手を入れてきた価値。自分にとって思い出も深いし、その過程で物語が生まれる。これを製作しているときにこんなことがあったとか、これは誰ソレが作ったとか、人はただ綺麗とか表面的なものだけではないモノにひかれる。
物語という付加価値がこれから更に求められる。自分にとっても特別なモノになるし、それを欲しがる人もでてくる。星の王子さまが、自分の手をかけたバラは特別だと狐から教えられたことだ。想いを込めることで特別になる。
それは簡単ではない。手間暇と労力がかかる。でも、お金をかけなくても出来る。ある意味簡単である。別荘でも自宅でもいいが、立派な庭があるとしよう。それを自分で手入れするのは大変だし時間がかかるので、業者に頼むのが普通のお金持ちだ。
その結果、綺麗な庭にはなる。しかし、そこには想い入れがないから、飽きてくる。そしたら、違う木でも植えようかとなる。金で何でも解決できてしまうし、また金で解決しようとしてしまうから、金持ちほど虚しくなるのだ。
でも本当に豊かな人は、その人を慕って、是非庭を手入れさせて欲しいという人が出てくるのだ。金で作った庭より、慕って喜ばせたいという想いで作った庭のほうが想いがこもるのは当たり前だ。見た目はお金をかけたほうが綺麗に仕上げるかもしれないが、そこに物語はない。せいぜい、日本一の職人がいじったとか、金で買えるブランドに頼るしかない。
職人さんにしたって、日本一の職人というブランドを利用したいだけなのか、本当に豊かな庭をつくろうとしているのか、発注者の考えを見ぬくだろう。頼む方も器がないと、成金だと馬鹿にされるだけである。金を出して馬鹿にされる。間抜けだがこんなことはよくある話だ。
金で買えるブランド庭よりも、縁のある人が喜ばせたいという一心で念を込めた庭のほうが、価値があり、それが金では買えない特別なブランドになるのだ。想いで庭を作った人は、仕事として庭作りをしたのではないから、他の人がいくら庭を気に入っても他の人のために作ることはない。金のためでなく、自分が喜ばせたいと思った相手にだけするからこそ、それがブランドになる。
一点ものが一番価値があるのだ。他にはないのだから。アートと一緒だ。自分たちはそうした想いのあるモノに囲まれている。これが本当の豊かさだと伝えていきたい。金では買えない想いのこもった行為で生まれるモノゴト。
先月誕生日祝いのために、鳳凰の欄間を彫った話をした。誕生会も開いてもらえたのだが、数々のサプライズがあった。想いを込めた歌や、ダンス。それもまさかこの人が踊って歌うとは誰もが想像しなかったサプライズ。普段なら絶対にしないようなことを、あえてチャレンジする想い。その踊りと歌も勿論嬉しいが、その想いと姿勢に感動する。
今まで大人数でお祝いしてもらった時も嬉しかったが、その時と比べて人は少ないかもしれないが、本当に一人ひとりの想いが伝わり、最高の誕生日だった。心が豊かになる。大人数も少人数もいろんな体験ができて、なんと素晴らしい恵まれた人生だと感謝で一杯になった。
幸せいっぱいに久しぶりに沖縄入りしたら、更にとんでもないサプライズが待っていた。それについてはまた次回!

鳳凰と龍

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 私の菩薩道は、鳳凰に導かれて始まった。かつて、沖縄に関わるかどうか悩んでいたときの話だ。当時、自分の周囲でやたらと鳳凰に出会う機会が多く、不思議な縁があるものだなと感じていた。例えば、お店でふと座った椅子から、鳳凰の絵が見えたり、渡された本の表紙に鳳凰がいたり、そうした信号が続いていた。そして依頼していた特別な部屋の内装のデザインに、火の鳥が使われて提案された時、やはりこの鳳凰とのご縁は何かの信号なのだと確信した。

一体この鳳凰とのご縁は何だろう?と気にかけながらも、沖縄に関わるべきか、やめるべきか悩んでいた。「沖縄詐欺の話は多いぞ」と心配されたり、「全くの畑違いのことをするのはリスクがありすぎる」など、どちらかというと否定的な話が多かった。しかしながら、なぜか自分でもわからないが沖縄のことが気になり、すぐに判断がつかなくて悩んでいた。
昔から自分は、大きな判断の時には特に信号を探す癖があった。自分なりの信号の取り方は人それぞれであるが、私はイメージや数字を使うことが多い。余談だが、沖縄に関わってから、信号を感じる力が増したと感じる。バシバシ出会うのだ。そして、偶然人と出会うことが格段に多くなった。人の出会いも、勿論信号である。
話を戻すと、決断がつかないまま、契約をするかしないか判断をする日がやってきた。「仕方がない、会ってから決めよう」と約束の場所へと向かった。すると、出会ってそうそう、相手があるモノを見せてくれた。
「今日は特別な日だから、特別なモノを持ってきた」と。具体的に書いてしまうと関係者に差し障りがあるので書けないが、なんとそのモノに「鳳凰」が描かれていたのだ。それを見た瞬間に私は決断した。
「これはやるしかないという信号だ」と。人生を変えるような大きな決断ほど、論理ではない直感や何か説明できないものによって行われて、道は開けるものだ。嘘のような本当の話である。そんな理由でやっちゃうの?と不思議に思われるかもしれない。
論理の先には、驚きの結末は何も無い。論理を超えるからこそ、予想外の結果が良くも悪くも起こるのだ。予想外のほうが人生は楽しい。人は誰しも予想外を求めている。結末のわかっている映画など誰も見たくないのと同じだ。
この話には続きがある。決断をしたその日から、これまた不思議なことに今度はパッタリと鳳凰に会わなくなった。その代わり、今度は龍によく会うようになったのだ。何年かして、この話を友人に話した。友人が言うには、

「鳳凰は本土の象徴、龍は琉球の象徴。鳳凰によって、ヤマトから琉球へと導かれ、龍へと渡されたんでしょうね」と。そう思ったほうが私は人生楽しいと思っている。意外に、人はそうしたストーリーで動くものなのだ。そうした想いを受けて、人は繋がり世代を超えていく。不思議なことに、それを応援するかのように、シンクロが起きたりするのだ。
試練の夏が始まった時、沖縄にいた仲間たちは、念を込めて龍を作りだした。その想いが伝播して、東京では鳳凰を作りだした。鳳凰の方は自分も念を込めて、特に眼の部分に入魂した。自分が言い出したわけではないが、自然と龍と鳳凰が作られる動きとなったのだ。
想いのある仲間に囲まれることが本当の豊かさであり、幸せなことなのだ。今回、誕生日のお祝いをしてくれた仲間たちとは、一人ひとりと深い思い出がある。深く関わったからこそ、一つひとつの言葉が心に染みる。自分を理解してくれる人がいる幸せは、ナニモノにも代えがたいものだ。この広い宇宙で、いつかは死んでいく我々。同じ時代に巡りあわせ生きて、共に生きられるという奇跡は、とても大事で愛おしい。敵とか憎んだ相手でさえも感慨深く感じる。
ご縁があることに感謝しかない。生きて出会って、関わってくれてありがとう。

出会いと別れ

「出会いの数だけ別れは増える」とミスチルが歌っていた。

 我々の場合、別れる理由はただ一つ。
「信じる」か、「信じない」かしかない。
 信じることや、人に向かう事の本質は、自分との戦いである。
周りに何を言われても、一度信じたことをつき通せるか?
感じたことを相手に問い続けられるか?
テンションが高い時にはそれは簡単だ。
気分が落ちている時こそ、自分との戦いがやってくる。
 今やらねばと感じているのに、
「ああ、疲れたから怠けたい」とさぼるか、
「よっしゃー、今こそ自分を超える時だ!」と燃えるか、自分次第だ。
 人は人で磨かれるが、相手と自分、お互いが高い視点で向き合えることは少ない。
高い視点を維持するのは大変だ。それに引き換え、低い視点は勝手にほおっておけばそうなる。
すると、低い視点の人間は、高い視点の人間を無意識に引っ張って落とそうとする。自覚がないのが厄介だ。自分と戦って相手に向かうのではなく、
自分から逃げて、相手の粗探しをする。
 例えばこんな感じだ。
意識が高いAと、意識が低いBがいたとする。
AはBに「Bさん、あなたは怠けぐせがあるよ。自分に向かうことが大事だよ」と説明し、Bもそれに納得をして信じて努力する。
時間が経ち、また怠け始めた時、ことの経緯を知らないCにBはこう言われた。「Bは頑張っているよ。Aって普通じゃないし、極端なこと言うよね」。BはCの言葉が心地よいために、そのとおりだと考えて、Aに不満を持つ。そして、Aに対して、「Aは普通じゃないよ。極端すぎるよ。あなたがおかしいのだ。私は正しい」と攻撃する。
それに対して、Aは相手のために戦う。そしてまた、Bは納得し、謝罪する。そしてCは決して騒動の責任を取らない。
 意識がある人間は、意識が低い人間を意識が高い状態へと引っ張り上げようと努力する。相手も気づいたら謝罪し、感謝する。でも人は戻りやすい。一時的に意識が高くなっても、努力しなければすぐにまた元に戻る。それを繰り返して、徐々に意識が上がっていく。しかし、努力し続けることが嫌になり逃げる人もいる。
 高い意識へと引っ張る方は大変な仕事なのだ。そのことへの感謝を忘れて、教えてもらったほうが、教え方が悪いと文句をつける。教える方は何度でも伝えるが、本人が学ぶ気にならなければどうしようもない。学ぶ気がなければ、意識の引っ張り合いを何度も繰り返すことになる。
一体、何度繰り返せばいいのか?
相手が逃げる場合はそこで終わるが、因縁の場合はそう簡単ではない。
成長したい気持ちと、ただ相手に構ってもらいたい気持ちが混じり合っていると、問題を起こすことで構ってもらうパターンを創りだす。これでは相手も自分も疲労して、お互いに落ちて行ってしまう。
 トコトンまでやったとAが納得できるまでやった上で、まだBが同じ事を繰り返すようなら、敢えて別れを選択しなければならない。この世は有限なのだ。自分の今の力では限界だと感じたならば、一度別れることでわかることがある。離れて、失って、初めて気づくことがあるのだ。
悲しいし、切ないが、お互いのために別れが必要な時期もある。
真剣に目の前の人に向き合っていくことで、次の出会いのレベルが変わってくる。こうして、出会いと別れを通して、人は螺旋状に進化していくのだ。

希望の光

言葉では表現しがたい現実が今も進行中であるが、我が家では暗闇に光を灯すように、第二子が誕生した。長い間、お腹の中で守ってきた母親の心は本当に愛そのものだ。男も出産という経験を出来るのだとしたら、社会はもっと平和になるのではないか。一方でわからないからこそ、思いやりがうまれるとも言える。この世の仕組みに無駄はない。出産という新たな生命の誕生を通して、世界の神秘を改めて感じた。

社会の一員である私たち自身が、次の世代へどんな社会をバトンタッチするか問われている。今までの価値が逆転した今だからこそ、幸せな社会を創造する時だ。幸せは画一的でない。が、根底にあるものは同じだ。見た目は違っても、根っこの在り方は同じだ。愛があるかどうかだ。愛の表現は人それぞれ。違うからこそ美しい。
この世では、何事も完成という終わりがない。常に進化できるし、変化し続ける。自分の時代を精一杯生きて、次の世代へとバトンを渡していく。堂々と誇りを持って、次の変化、進化を願ってバトンを託す。バトンを渡したい人がいるから、責任も感じるし頑張れる。
自分と縁のある人たちとの繋がりを感じ、その繋がりに対して責任を感じる。人を救いたい、助けたいという気持ちは高貴だ。時にそれはお節介かもしれない。しかし、気持ちなんてもんは一方通行なんだ。完全な理解を待っていたら、タイミングを逃してしまう。
このような大変化の時に産まれてきてくれた子に感謝する。産まれてきてすぐに彼は仕事をしてくれた。人の暖かさ、繋がりを感じられる出来事をつないでくれたのだ。そして、産まれてくるまでにも、私たち夫婦、家族にとって、この子の存在が結びの働きをしてくれた。
まさに、ジョイントベビーだ。この時期だからこそ、破壊のあとの創造の象徴として産まれてきてくれたように感じている。愛の繋がりによる邦作りの始まりだ。

言葉を超えて伝わるモノ

先日、清水ミチコさんに妻がお会いした時、
「結婚式で泣いていた人元気?」と言われたよ、と教えてくれた。私は結婚式で号泣していたので、私のことである。結婚式の後、
「普通は泣く人は奥さんのほうで、男女逆でしょう!」とよく冷やかされた。
もう結婚式から4年以上経つのだが、未だに私が泣いていたことはあちこちで印象に残っているらしく、方々でこのことを言われる。
「おれ、いいこと言っていたのかな?」と一度だけ、結婚式のDVDを再生し、自分の泣いている姿を見た。これが本当に自分でも何を言っているのかわからない、嗚咽交じりの恥ずかしい姿だった。それ以来もう二度と見ていない。言われるたびに気恥ずかしい想い出だ。
結婚式以外でも、ある講演会のとき、話し始める前から感極まって泣き出してしまったことがある。来場者は面食らっただろう。出てきてすぐ泣いているのだから。我ながらバカだなぁと思うが、感じる力が強い時は、泣き虫でしょうがないのだ。
言葉でどんなに上手に説明しても伝わらないことがある一方、泣いてるだけで伝わることもある。どんな方法でも伝わればいい。上手に伝えようとしなくても、一生懸命に伝えようとすれば伝わる。
その姿や雰囲気だけでもだ。言葉に説明できないけど、なんとなく伝わる、なんとなくわかるのが一番なのだ。本当の感動は説明できない。存在するだけで訴える美術品などが良い例だ。
感動の涙を体験してしまうと、その素晴らしさに病みつきになる。映画や小説のなかではなく、現実の人生の中で体験する感動に勝るものはない。ジョイントでは毎回作り物ではない感動がある。一人の人間が真剣に向かい、自分の殻を破る瞬間に同席できる喜びは、言葉を超えている。あ、思い出したらまた泣けてきた。

自己愛

 自分でも本当は気が付いていたけど、直視するのを避けていたことに直面することになった。自分で自分を騙すのは簡単なことだ。追及する心を持たなければいい。何事も流れに任せてしまい、自己探求を怠れば、自分では前進してるつもりだが、実際は後退している。

簡単にいえば、
「楽したい」
「逃げたい」
「安心したい」
といった自己愛からくる欲求が湧きおこったとき、すぐその場で向かわず、
「まぁ今はいいか」と許した途端に心は落ちていく。元気がなくなり弱くなっていく。向かい続ければ、ドンドン心が強くなっていく!
自分もその癖が強い。何度も繰り返して自己嫌悪に陥るが、楽天的という逃げによってまた繰り返してしまう。嫌な思いをしなければ人は学ばないのだ。辛い気持を感じて、もう二度とこんな気持ちは繰り返したくないと心に刻みつけなければ、人はすぐ同じ過ちを繰り返す。
自ら動こうとせず、受け身でいるのも自己愛だ。私は今まで受け身でいすぎた。反省している。常に攻めていかねば、時代に取り残される。それだけ時代の流れが速くなっている。
自己愛は結局自分を苦しめる。目先の楽を得るために、将来の苦痛を受け取るのは割が合わない。今向かえば、それすらも楽しみになる。苦しいと思うのはやっていないからだ。実際はやってみたらそうではないのだ。
どんな世界も楽なところはないのだから。

宝物


今回は沖縄でいろんな気付きを得た。
自分の内面を掘り下げるのは辛い作業だ。
毎回、締め切りごとにそんな作業をしているであろう
漫画家の井上雄彦さんはすごいなと改めて尊敬する。
さて、そんな辛い時には、家族の支えがあるといいねーと
以前書いたけど、今日感動しましたよー!!
私が子供に対して、躾けようと自分で何でもやらせるように
していたら、泣き出して、
「ママに会いたい、パパ嫌い」と言われました。
「そっか、パパは大好きなのに、嫌いなんだー。寂しいな」
と言ってみたら、しばらくして、
「パパ大好きだよ」と言ってくれて、それだけで嬉しくなる
とは今まで想像もしなかった。子供が可愛いというのは
ペットみたいなもんだと思ったけど、違うもんですね。
で、寝るときに、
「明日にはママくるからね!ママのこと大好きだよ!パパのことも大好きだよ!」と話してくれて、そのあとぎゅっと抱きついてくれました。愛おしすぎる!!
親馬鹿ですいません。たまにはいいかなと。
個人的には、パパよりお父さんと呼ばれたいので、
教えているのですが、たまにしかお父さんと言わないのが残念。
3歳くらいまでに子供にもらった愛情で、残りは育てるもんだと
誰かいってましたけど、それで一生頑張れるくらい可愛いって
ことですからね。そのあと憎たらしくなるらしいですが・・・。

家族


よく聞く話で、
「家族がいるから頑張れる」とか
「子供の寝顔を見て癒される」とか、今までは
「ふーん」くらいにしか感じてなかった。
落ち込んだ時に、今まで一人で復旧措置していたけど、
家族の存在で助けられることを今さら自覚した。
人より感じるのが遅いのだろうけど、当たり前のように
いてくれたり、どんな時も離れなそうな安心感はかけがえのないものだ。
それだけでも嬉しいが、私たちにはこれまでの活動を通して
家族といえる仲間がたくさんいる。
恵まれているからこそ、当たり前になり、感謝がなくなる。
親がいて当たり前、子がいて当たり前、仲間がいて当たり前と。
昨日も交流会で、
「自浄作用が働くよね」と話していた。
おかしくなったら、指摘してくれる仲間がいて、
困ったら助けてくれる人がいる。それもちょうどいいタイミングで。
こうした環境に感謝です。
読んでくださり、ありがとうございます。