大海の波打ツ如シ

またこの季節がやってきました。なぜか、226事件のことは必ず思い出すのです。きっと前世で関係していたのかもしれないと夢想してしまいます。魔王と呼ばれた男、北一輝。こんな面白い男はそうはいません。もはやその存在は風化して、忘れ去られているのでしょうか。彼が熱心な法華経信者であったことも、そして、そもそも法華経自体をわからない人が増えているのが現代です。彼の書いた本をバイブルにして、青年将校たちは226事件を起こしました。
法華経と言えば日蓮。日蓮も北一輝も佐渡ヶ島と縁があり、あの島にはいつか行きたいと思っています。ついでにいうと世阿弥も流刑されて佐渡ヶ島に縁があります。法華経で触れられている地湧(じゆ)の菩薩を自認していた彼らは、熱烈な使命感で人生を全うしました。評価がどうあれ、人生としては生き切ったと言えるでしょう。世の中が乱れているときに、仏法(仏の教え)を守る役目を持つと言われている地涌の菩薩。この菩薩は修行の身ではなく、仏なのにわざわざ降りてきている大菩薩と言われています。大義を持った時、人は命さえ惜しみません。それは最近ではイスラム国を見ればわかります。
純粋に貧困な農民たちを救いたいと願った、貧困層出身者の多かったエリートではない叩き上げの青年将校たちの想いは忘れてはならないと思います。行為の良し悪しは後で何とでも言えることです。実際に行動したこと、想いがあったことは感じます。想いだけで突き進んだ青年将校の純粋さには共感すれど、もうそれは経験したので、私自身は私なりのあり方を示していこうと思います。

過激派の日蓮は、法華経の敵を殺すのは第一の善行としばしば語っています。満州国の立役者の石原莞爾も、宮沢賢治も熱烈な日蓮信者です。昭和の血なまぐさい時代は日蓮信者たちがプロデュースしていました。そうした生々しいところから離れて、北一輝はシャーマンの奥さんと自らの霊夢を「神仏言集」に記録していました。それは霊告日記と呼ばれています。
理論的革命家と知られている北一輝が、オカルティストで宗教にハマっていたとは面白いですよね。私は仏教もキリスト教も神道も縁があるので、それぞれの違いというか、好きなところがあって、形にとらわれないで本質を掴んでいきたいと思っています。北一輝も素直な心があったからこそ、神仏を感じられたのではないでしょうか。
「大海の波打ツ如シ」これが北一輝の最後の「神仏言集」の言葉です。何を感じていたのか色々と感じ入ります。226事件の二日後の記録です。この後彼は逮捕され投獄されてそのまま刑死しました。直接、事件に参加していないのにも関わらずです。ファンが勝手にやったことで責任取って殺されるなんて、普通であれば無念でありましょう。魔王はもちろん違いますが。それだけ権力者に恐れられていたわけです。
大海の波には岩をも砕く力も、大船を転覆する力もあります。波打たせるのは風の力です。沖縄でよく波を見ていたのを思い出します。一つとして同じ波はありません。ただの海ではなく大海の波です。どんな音が北一輝の中では響いていたのか夢想します。きっと佐渡の海の音なのでしょう。
松岡正剛氏はこんなことを書いています。
弟は兄の危険な思想にいっさい近寄らず、早稲田の教授から温厚な衆議院議員となり、戦後の自民党長老の一人となった。そういう弟を北一輝はずっとバカ呼ばわりをした」
兄は死刑にされ、弟はこの世では成功したわけです。どちらが本当の成功なのかは、人によることでしょう。私は自分が尊敬する人間に、時間も空間も越えて出会ったときに、誇れるような人生を送りたいと思います。
 

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