葛藤こそ財産

 時代の流れを感じる。「待つのも愛」と前回書いたが、信じるとは何か?も同時に問われている。以前、「錬金術の秘密」を書いた。その中で信じることについて触れているが、信じるとは奥が深いものだ。

信じられない人間を責めるのは簡単だ。相手を責めても始まらない。信じさせることの出来なかった自分を反省しなければ進化はない。謙虚にその意味しているものを汲み取らねば、独善的な自分たちさえ良ければいいという道に入り込んでしまう。

それは「信じる」を悪用している道で、先に光はない。盲信している姿が魅力的でないのは、自分の道を生きていないからだ。自立しつつも、信じる。委ねていても自立している。信じるを悪用して楽をしていないか、自分に問いかける。信じて任せずとはよくいったものだ。
人の成長を望んで指摘するつもりでも、言う側のレベルが低ければそれは足を引っ張ることになる。良かれと思って、結果的には落としているというやつだ。でも、表面的には足を引っ張っていても、それは期待の現れで、もっと突き抜けろと励ましてくれているのだ。
いい人で真面目であると、そう言われるからにはそういう点があるに違いない。世間的にはいいのだろうが、それだけではただ利用されてしまう恐れがある。私の好きなセリフに、
「いい人、いい人、どうでもいい人」がある。
かといって、素直に直そうとしてしまえば、逆に本来の良さが失われる。焦ることはない。ただ、まだやり方が未熟なだけだと知れば良い。真摯にやり続けていれば、どの道も上達する。
どんな人間も自分は正しいと思っている。自分と違う人間を見つけたら、それは自分と違うのだから間違っていると言いたいのだ。その一方で、間違っているとも言われない人間もいる。構って貰えるだけ有り難い事だが、その感謝を忘れてしまえば、
「なんだあいつは何もわかってない」と独り心地になる。
正しいも、間違っているもない。善と悪、光と闇、陰と陽、それぞれが必要だ。関心のある人たちをどれだけ巻き込めるか?器の問題になってくる。形を見せて納得させるのは簡単だ。形を見せずに納得させるのは、詐欺師と紙一重になる。
起業したときもそんな葛藤があった。良いことを言って金を集めて自分の為に使っているだけではないのか?実際そういう人もゴロゴロいた(笑)利益が出ていなくても、車だけは立派で運転手付きだったりと世の中は広いと驚かされた。でも長い目で見ると、そういう人はいなくなってしまう。
疑ってばかりいるのも、何でもかんでも信じるのも、同じ事だ。どちらも相手のせいにしている。自分の道を生きねば輝かない。輝く者同士のツナガリで真世界は広がっていく。小さい世界の王様のなんと多いことか。心の中の秘密の花園。それぞれの王国と花園を結びつけることが出来たら、更に面白くなる。
経済的に自立していると、自我が強くなる。自我が強いとツナガルことが出来ない。真の自立とはなにか?心の自立は見えないだけにわかりにくい。責任を背負って生きることで自立していくのだが、そこにも罠はある。
嫌なことから逃げるために背負うこともあるからだ。子供のためというセリフはそういう時によく使われる。それは背負うのではなく、利用しているのだ。
大岡裁きで、子争いの話がある。似たような話が聖書にもあり、ソロモン王はもっと苛烈なことをいうが、結果は同じ話だ。愛とは、信じるとは、を考えさせられる小話である。興味ある人は調べてみたらいい。
簡単に自分の心を信じてはいけない。心は楽をするために、頭を使って正当化しようとするのだ。信念と葛藤の中で心は磨かれる。

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