ゆいによる邦つくり

日本にはかつて結(ゆい)と呼ばれるつながりがあった。結は、お互いに助け合って共同作業を行うことをいう。もやいともいったようで、沖縄で言う模合(もあい)と似ている。

Wikiによると、厳密には「もやい」が「共にあるものが共に事を行う、あるいは共にもつ」のに対し、「ゆい」は「共にはないが、たがいの約束にもとづいて共に事を行う」ものであるという。

沖縄では、ゆいまーると呼ばれていて、私はそのとき初めてゆいの精神を知った。調べてみたら本土でもあったことがわかり、日本の原点は沖縄に残っているのだと改めて感じた例の一つだ。

かつての絆はこうしたつながりもあって維持されていたが、近所付き合いもなくなると共に、つながりは薄くなっていった。それに応じて、しがらみや責任も薄まった訳で、それが現代の無責任、一億総評論家とも無縁ではない。絆が濃いと、それだけ厄介な事も増えるのは当然だ。無責任に暮らすのは楽で良いが、楽と引き換えに失っているものはツケとなって社会にたまっていく。

難しいのは、本人が楽をしていると自覚していない事にある。自分がどれだけ楽をしているかを知るには、無人島で一人暮らしたらよくわかるが、それを知ろうとも思わないだろう。仕事人間は、ビジネスを通して社会貢献していると言うに違いない。しかしビジネスにハマる事で本当は楽してるとも言える。ビジネスだけの絆しかなければ寂しいものだが、その寂しさにすら気がつかない。新しいビジネスアイデアのような好奇心の波に飲まれるか、趣味や薄い繋がりで、寂しさを誤摩化しているのが大半ではないだろうか。

都市では、共にあるものが行う「もやい」は難しいかもしれないが、共にはないが約束にもとづいて行う「ゆい」ならば形を変えて残っている。NPOのように、興味や意識が近い人同士が連携を組んでいるのは、結と言えるだろう。

今ではリアルに会わなくても、インターネットのお陰で、新たな繋がりが生まれやすくなっている。ノマドワーカーだとか、新たな働き方を模索する中で、多様な繋がりが生まれている。

ネットの繋がりは、気楽に繋がれるから、薄い繋がりだ。すぐに参加できるし、すぐに離れる事も出来る。深くコミットすると、それだけ責任も生じる。程よい距離感で付き合うには最適だが、やはりそれ故に弱点もある。

本来、あちらを立てればこちらが立たずが世の中だ。それを言いとこ取りしようとしてきた結果のツケが、回り回って戻って来てるだけの話しだ。現代の諸問題は人間関係から生まれている。だからこそ、薄い繋がりだけでなく、深い繋がりの再創造が必要ではないだろうか。

薄い関係も勿論あっていい。しかし、深い繋がりが根本になければ、根無し草のように、何か事があったときには流されてしまう。危機のときに本当の姿が見えてくるが、その時に分かったのでは遅いのだ。

深いつながりは簡単にはできない。お互いに覚悟がいる。嫌になったから、「ハイさようなら」とはいかないのだ。難しいからこそ学びが大きいし、簡単には真似ができない価値がある。

自分たちは仲間作りを通して、新たな「ゆい」を創ってきた。その約束は、真剣に自らの使命を追求すると共に、世界を共に創造し続ける事だ。その世界観に共感し参加、協力してくれる人たちの繋がりで、邦(くに)づくりは進んでいる。場所や人種は関係ない。心が共にあるかが大事なのだ。

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