わかるとわからないの間

貴重な体験であった昨年の出来事から1年が経ち、喪が明けたかのように展開が促進している。あの事件があったからこそ出来ていることがたくさんある。失ったように見えたのは表面だけで、裏面では得たものが大きい。ただのゴシップにしては意味がないために、真相などは表に今のところ書かない。直接関わる人だけがわかればいいことであるが、意味があれば書くこともあるだろう。
秘密というものは、秘密だからいいのであって、公開されてしまえば判断されてしまう。人は理解したがり、わかった気になりたいのだ。本当のことを知りたいのも、ただ好奇心だけであって、そこから真理を掴みたいなどとは思ってもいない。知っても何も生み出せない。
知ってしまったものには人は興味を抱かない。人間底が知れたらオシマイだ。この人はこういう人物だとレッテルを張られた瞬間に興味がなくなる。分かってしまったら見くびられるのだ。かといって、わからなすぎても、認められない。
わかるようなわからないような、微妙なニュアンスが絶妙。人でもモノゴトでも、わかったような、わからないような、はっきりと言えない状態が最高だ。それは普通の人にはストレスになるのだが、ストレスがないからいいとは限らない。
例えば、お金持ちを考えてみよう。長者番付とか上場とかしてると、資産が見えているのでランクをつけられる。ランクが付いていたら間違いないものとしてわかりやすい。しかし、見えてわかっているということは、形になっているということだ。形になっていたら動かしづらい。
見えない資産のほうが、いくらでも動かせるし、資本主義のルールではお金のスピードをあげれば上がるほど儲かるわけだ。表に出てこない人のほうが資産を持っているのは当たり前なのだ。でもそうした人の存在はわからない。わからないから、ないものと同じになる。
真面目脳であれば、自分の資産は自分の名義で持っていると思い込む。しかし、西武の名義株の件を見たらわかるだろう。資産を人の名義で管理している人はたくさんいる。錬金術の一つでもある。
陰謀論も「陰謀論だね」とレッテルを張った途端に、その情報が生み出す意味をとらえることは出来なくなる。どんな情報にもレッテルを張ることなく、捉えることが出来る人間が、人を動かせる。
視点が上がらない限り、目先の出来事に操られてしまう。一喜一憂して、一生操り人形のままだ。かといって、すべてを疑っていてはキリがない。自分が違和感を感じるものを追及するのがいいが、違和感を磨く方法を大半は知らない。
意図的にわからないようにしようとやりすぎても輩になってしまう。そこに筋とか柱といった、信念がなければ隠し事もつけが回ってくる。考えすぎてわからなくなるかもしれない。それは人のためなのか?自分のためなのか?悩んだ末に決めて、決めたらやり抜くしかない。
ニュースを聞いて違和感を感じるだろうか?
なぜ、6月6日に66歳で三笠宮はなくなったのか?
なぜ、急に原発再稼働を言い出したのか?
他にもなぜ、なぜと言い出せばキリがないが、物事をそのまま捉えていては、その裏に隠されている真意に気が付くことはできない。知りたければ、伝える人はいる。それを望むかどうかだけで道は開ける。
裏があろうとなかろうと、どんなモノゴトにも捉われずに受け取ることで、柔軟な思考がうまれる。何があってもおかしくない時代なのだから、変化に対応するにはわかった気にならないことが一番だ。

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