考察

いざというとき、柱がある人間は強い。核となる信念や信仰がある人は、困難や問題に対しての抵抗力がある。人生を意味づけするのに、宗教や哲学は強い力を有する。意味を感じられたら、困難や問題を心の儲けの種にできてしまうからだ。
世界をどういう枠組みで見るか、自分自身を世界の中でどういう位置に置くか、そうした視点を持っている方が、何も考えがない人よりも強い。逆に、何も考えないで、無でやり続ける選択肢もある。中途半端が一番厄介だということだ。現代日本においては、馬鹿正直にやり続けて報われる環境はない。だからこそ、自分たちはそういう愛すべき馬鹿が活かされる環境を作っている。真面目なものが報われる世界を、まずは自分たちの周囲から作っている。
器用で思考しがちな人であれば、あえて不器用にひたすら体を動かしてみる。自分もどちらかというと思考しがちだ。自分たちはワークという手段を通して、自分と向き合う体験を積んでいる。
先日、自分も一人でプール掃除をした。普通に考えたら、水をくみだすのもポンプを使うだろう。そこをあえて、バケツを使ってくみ出す。バケツを使う方法も色々やってみる。腰を入れて連続してくみ出してみる。はたまた、一つ一つコップですくってバケツ一杯にしてみる。ただ、綺麗にすることが目的なのではなく、そのプロセスを体験することで、自分の糧にできるかどうか、自分のもうけにできるかどうかを自分に挑戦する。そしてそのプロセスが美しいか?を意識することで美意識が磨かれる。こうした作業自体がストーリーになり、自分を表現するアートとなる。
信仰は依存へとつながりやすい。ただ、宗教団体に簡単に所属して、そこに埋没することは、人間の集団化、個性の放棄へとつながる。一人一人の意味、個人の価値を希薄化してしまう。同質性に依存するのは楽だし、安心ではある。皆で経済活動に励んでいる現代をみれば、経済教の信者がいかに多いことか。ビジネスしていれば安心安全である。であれば、それを逆手に取ればいいのだ。相手の力を利用する合気道のようなものだ。利用されるか、利用するか、器の大きさが立場を決める。同質化していたら、利用される羊のようなものだ。牧場の羊のように暮せば、日々の心配はないかもしれないが、ある日突然運命が相手によって決められてしまうことがある。毛だけ剃られているつもりだったのが、ジンギスカンが流行って、命まで取られることになるかもしれない。
本来、人はこの世に生まれ、家庭や学校で教育を受ける中で、その国特有の文化や風習を身につけていく。個人の習慣の中に、宗教的な要素が育っている。だからこそ、先ず個人が習慣という無意識から脱出することが始まりとなる。その人の存在の意味、役割、使命が問われるのは、無意識から意識的な生を生き始めてからになる。
自分自身としっかり向き合った人間には、その個人の能力が最大限発揮できるタイミング、場所が用意される。その時には、捨て去った体験さえも生きてくる。捨てた時に初めてそれは使えるようになる。この意味がわかるだろうか?
日々個人が、自分自身とワークを通じて向き合い、そのチャンスを待っている。 だからこそ、チャンスの時には真剣勝負!待ったなし! 生きることに懸命になる。いつもあるわけではない、そのチャンスを決して無駄にしないように。
自分という人生のストーリーの脚本や演出が自分の発想だけでは限界がある。タレントにもマネージャーやプロデューサーが必要なように、どの人でも自分より他人のほうが、その人の価値が本人よりも見えることがある。人が活かされるタイミングも、自分で作る部分と人によって作られる部分とがある。どちらが欠けてもうまくいかない。必死で努力して信じてくれる姿を見たら、託される方も燃えるのが人情だろう。適当にやっていたら、誰があいつのために準備してやるものかと思うのが当然だ。
努力も体験もしていない人には何も見えない。ではどういう努力や体験をしたら、本質を見抜く力を身に着けられるのか?そのような問いを自分に問いかける人は少ない。自分が知らない世界に飛び込みたいと願ったとき、知恵がどういう価値を持つのか初めて知ることになる。そのスタートラインに立つまでは、知恵は豚に真珠なのだ。

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