聖と俗の境目

 13日の金曜日だ。不吉だとか気にしている人もいるだろう。誰かが作った概念に支配されて、気分を左右されるのは面白く無いではないか。その裏の意図、もしくは、ある世界観による理屈を理解することで、その概念を逆に使えるようになったらどうだろうか?

東日本大震災も、鬼門の方角だからだという人もいる。正しいといえば正しいし、正しくないといえば正しくない。じゃあ、そこからどうするか?が大事なのだ。鬼門だとしたらどうするのか?裏鬼門に気をつけるのか?気をつけて何とかなるものなのか?自分にとって何の意味があるのか?そうしたことを深めずに、危ない危ないと避けようとしても、全く意味が無い。
忌み嫌われるものは、同時に聖なるものでもある。聖なるものは、普通ではないゆえに聖なるものとなる。異端もまた、普通ではないゆえ異端となる。キリストも、最初は忌み嫌われ、後に聖なるものとなった。
今の世界は、悪を許さないという、ひどく狭い世界になっている。そういう意味では、人類は退化している。聖なるものと俗なるものは、本来は切り離せないのだ。正負のバランスを上手にとってきたのが日本人なのに、いまや善か悪か、単純なハリウッドスタイルしかない。
差別は悪いで思考停止。江戸時代であれば、貸金業は目の見えない人だけに許された職業で、勝海舟の祖先はそれで成り上がって旗本の権利を買った人だった。歌舞伎の興行だって、汚物の処理を担っていた人の許可がなければ、興行できなかったのだ。汚物処理という人の嫌な仕事をする代わりに、利益と人気を得ていたのだ。歌舞伎という芸能に彼らが関わっていることに、妬みや嫉妬が湧いたとしても、所詮は汚物処理屋だと思うことで、大衆は胸のつかえを下ろしたのだ。
差別や悪を、無批判に拒否するのではなく、現実にどう活かすか?その視点を忘れて、切り捨てようとしても、そのしっぺ返しは必ずくる。知恵のない世の中だ。
弱い者たちや、世間とは違う生き方しかできない人たちの居場所がドンドンと奪われていく。しかし、そうした弱い者たちこそが、普通の人たちが超えない境界を超えて、新たな活力を生み出してきたのも事実だ。
昔は、河原者と呼ばれた、どこから来て何処へ行くのかわからない人たちがいた。役者や革職人たちが多く、そうした流れ者たちの中から、芸能は生まれてきた。元からアウトローだと誰もが自覚することで、自ずと役割は見えてくる。
それを忘れて綺麗事を言った所で、何か時代を作るものは生まれないのだ。わかりやすいラベルを貼って、感じることを忘れてしまえば、そこには常識という非常識があるだけだ。この意味がわかるだろうか?
日本人の常識である、お正月には鏡餅と門松、注連縄。一体それらはなぜ飾るのか?と疑問を持たないのが一般常識だ。これについては、面白いコトタマ理論もあるが、知っても好奇心が満たされるだけだろうから、書かないでおこう。
聖なる日々が去り、俗なる日常がやってきた。ハレ(非日常)とケ(日常)の狭間が面白いではないか。ケが枯れて、ケガレというが、活力を再生させる装置は、両極がハッキリしないことには機能しない。
ハッキリさせたり、清濁併せ呑んだりと、矛盾の中にしか、真理はない!

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