因縁の力

 日付は節目となる。誕生日はいい例であろう。本当を言えば、毎日が誕生日で、同じ日など二度とないが、一年に一度だからこそ感慨深いし、自分以外の人間を想うキッカケにもなる。

自分の縁ある数字に触れると何か嬉しくなる。それが時間だろうと、整理番号だろうと、走行距離や、車のナンバーでもいい。そこから連想する人やモノゴトに、想いを飛ばしたりして、念を込めている。

人知れず、祈りをあげる。自分の場合、毎朝掃除をしているとき、必ず想っている人の名前を心の中で唱え、念を飛ばしている人たちがいる。実際には会っていなくても、いつも想うことは出来る。
お百度参りとかで、人に見られないほうがいいと言われているのは、表面的なことよりも、心の中の状態を重視してのことだ。真意(真実の意味)をはき違えて、形だけにこだわって、こそこそ見えないようにお参りしても意味がない。
お百度参りしたいと思う相手は、その人にとって因縁の相手だ。そうでなければ、そこまでの想いは湧くものではない。愛するにしろ、憎むにしろ、相手に対して深い想いがなければ、無関心で思い出しもしない。
そうした相手がいることは幸せなことだ。そのために人は頑張れたり、自殺を思いとどまったり、普通では投げてしまうことも頑張れたりする。悔しさで、あいつを見返すまでは死ねないというのもいい。そのエネルギーを生み出すのは因縁にしかできない。
あの人は今どうしてるだろうか?
苦しいとき、切ないとき、悲しいとき、嬉しいとき、その人と分かち合いたいと思う相手がいないことはとても寂しいことだ。実際にできなくても、想いを飛ばすことは出来る。彼女、彼らのために頑張ろうと思えるのが最高だ。
血縁というわかりやすい因縁であれば、分かち合いたいのは当然だ。それも目に見える表面的な分かち合いをしたがるのが普通だ。あえて、目に見えない形(心中心)で分かち合うことを選択する人間は少ない。自分たちの仲間で、特別な家族関係を作っている人がいる。
夫は沖縄。妻は東京。子供たちは父とも母とも一緒に暮らしていない。普通であれば、家族バラバラと見るだろう。しかし、そういう家族の形があってもいいし、またそうすることを魂は望んでいたからこうなった。普通であれば、そういうのは常識に反するとか真面目脳で判断してしまう。また、当人も「私は普通の人と違うからおかしいのか?」と悩んでしまう。
いろんな家族の形があってもいい。どういう形にするかは、当事者たちが決めればいいことだ。試行錯誤して、常に創造していけば、いつか各自が輝く形が見えてくる。大事なことは、相手を想えるかしかない。心が一番大事なのだ。形にこだわっても、表面は仲良し家族に見えるけど、内情はバラバラなんてこと、よくある話だ。
他にも、因縁である子供を、他人であるが仲間である人間たちに預けている親もいる。預けられたほうも、普通は面倒だし、とても責任とれないと尻込みするだろう。他人の子供に対しても、どこまで想いを持てるか?血縁である相手に想いがあるのは、ある意味当然だ。血縁でない相手に想いを持てるか?
因縁に対してのヒントは、感情が入ってしまう相手ほど冷静に見て、感情が入らない相手にこそ感情的になることだ。肉親は他人のように。他人を肉親のように。
私には、自分たちを信じて、自分に正直に生きることを選択した仲間も共に家族だ。血縁関係だけではない、大きな家族。中には、誰にも達成できないような金字塔を打ち立てた人間もいる。これもいつか書く。誰かの励みになるような因縁は貴重だ。赤の他人がいくら頑張っても、自分も頑張ろうとは思えない。所詮、他人ごとだ。因縁づけで繋がった仲間は、他人だけど他人事ではない。そうした人間を裏切ることは決してない。
因縁づけによって、肉親・家族と同等以上の因縁になった仲間たち。因縁であるからこそ、伝わる想いと伝わらない想い。両方ある。血縁因縁には伝わらない想いも、因縁づけによって繋がった因縁からは伝わることもある。また、血縁ではない因縁だからこそ伝わらない想いもある。
濃い因縁、薄い因縁。いろんな因縁があるから、人生は面白い。深い学びを感じ取れる。嬉しい思いも、嫌な思いも、全部魂が進化するための材料だ。どんな因縁であろうと、因縁から逃げずに向かうことで人生は輝くのだ!

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