鳳凰と龍

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 私の菩薩道は、鳳凰に導かれて始まった。かつて、沖縄に関わるかどうか悩んでいたときの話だ。当時、自分の周囲でやたらと鳳凰に出会う機会が多く、不思議な縁があるものだなと感じていた。例えば、お店でふと座った椅子から、鳳凰の絵が見えたり、渡された本の表紙に鳳凰がいたり、そうした信号が続いていた。そして依頼していた特別な部屋の内装のデザインに、火の鳥が使われて提案された時、やはりこの鳳凰とのご縁は何かの信号なのだと確信した。

一体この鳳凰とのご縁は何だろう?と気にかけながらも、沖縄に関わるべきか、やめるべきか悩んでいた。「沖縄詐欺の話は多いぞ」と心配されたり、「全くの畑違いのことをするのはリスクがありすぎる」など、どちらかというと否定的な話が多かった。しかしながら、なぜか自分でもわからないが沖縄のことが気になり、すぐに判断がつかなくて悩んでいた。
昔から自分は、大きな判断の時には特に信号を探す癖があった。自分なりの信号の取り方は人それぞれであるが、私はイメージや数字を使うことが多い。余談だが、沖縄に関わってから、信号を感じる力が増したと感じる。バシバシ出会うのだ。そして、偶然人と出会うことが格段に多くなった。人の出会いも、勿論信号である。
話を戻すと、決断がつかないまま、契約をするかしないか判断をする日がやってきた。「仕方がない、会ってから決めよう」と約束の場所へと向かった。すると、出会ってそうそう、相手があるモノを見せてくれた。
「今日は特別な日だから、特別なモノを持ってきた」と。具体的に書いてしまうと関係者に差し障りがあるので書けないが、なんとそのモノに「鳳凰」が描かれていたのだ。それを見た瞬間に私は決断した。
「これはやるしかないという信号だ」と。人生を変えるような大きな決断ほど、論理ではない直感や何か説明できないものによって行われて、道は開けるものだ。嘘のような本当の話である。そんな理由でやっちゃうの?と不思議に思われるかもしれない。
論理の先には、驚きの結末は何も無い。論理を超えるからこそ、予想外の結果が良くも悪くも起こるのだ。予想外のほうが人生は楽しい。人は誰しも予想外を求めている。結末のわかっている映画など誰も見たくないのと同じだ。
この話には続きがある。決断をしたその日から、これまた不思議なことに今度はパッタリと鳳凰に会わなくなった。その代わり、今度は龍によく会うようになったのだ。何年かして、この話を友人に話した。友人が言うには、

「鳳凰は本土の象徴、龍は琉球の象徴。鳳凰によって、ヤマトから琉球へと導かれ、龍へと渡されたんでしょうね」と。そう思ったほうが私は人生楽しいと思っている。意外に、人はそうしたストーリーで動くものなのだ。そうした想いを受けて、人は繋がり世代を超えていく。不思議なことに、それを応援するかのように、シンクロが起きたりするのだ。
試練の夏が始まった時、沖縄にいた仲間たちは、念を込めて龍を作りだした。その想いが伝播して、東京では鳳凰を作りだした。鳳凰の方は自分も念を込めて、特に眼の部分に入魂した。自分が言い出したわけではないが、自然と龍と鳳凰が作られる動きとなったのだ。
想いのある仲間に囲まれることが本当の豊かさであり、幸せなことなのだ。今回、誕生日のお祝いをしてくれた仲間たちとは、一人ひとりと深い思い出がある。深く関わったからこそ、一つひとつの言葉が心に染みる。自分を理解してくれる人がいる幸せは、ナニモノにも代えがたいものだ。この広い宇宙で、いつかは死んでいく我々。同じ時代に巡りあわせ生きて、共に生きられるという奇跡は、とても大事で愛おしい。敵とか憎んだ相手でさえも感慨深く感じる。
ご縁があることに感謝しかない。生きて出会って、関わってくれてありがとう。

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