贈りモノの真理

 今生きている。いまこれを読めるのも命があるからだ。そしてその生命は無数の贈りモノを受け取ってきているからあなたも私もいる。モノと書いたのは、物質だけではないからだ。想いや愛といった見えないモノも含んでいる。それを包む、太陽や地球、空気、食物など自然は何もかも与えてくれている。ただ存在するだけでも、我々は多大な恩恵を受けている。

では受けている恩をどう返していくのか?当たり前だが精一杯、真剣に生きて行くことしかない。今しかないという意識をどれだけ日常で持てるかが問われている。
改めてそう書きたくなったのには理由がある。
普通の世界において、お礼状や挨拶など礼儀や礼節は大事だ。私も否定はしない。また、普通の世界にいる人間に対して非常識なことをしろというつもりもない。お盆やお歳暮なども、それはそれでやらないよりはやったほうがいいに違いない。
一方で特別な世界においては、単なる儀礼的な表面だけの対応はない。形式は必要ないが「親しき仲にも礼儀あり」はある。世界を共有している仲間においては、どんなにマメにお礼状や花を送っていようが、そこに気持ちがなければ全く意味が無い。気持ちがなければ、普通は褒められるような行為でも、壁を感じると寂しがられてしまうのだ。
如来にはいつも驚かされる。
我々が頑張ったら頑張った分だけ、想像を超える贈り物をしてくれる。心憎いのが、そうした贈りモノは、お金では買えない特別関係の曰くつきのモノだったり、それを活用するのはこちらの力量も試されてるようなヒトやモノだったりする。
一段と世界を引き上げて、
「どうだ、できるだろう。やってみせてくれ」と言わんばかりなのだ。
特別な贈りモノに触れるたびに、意識が高くなる。普段は忘れている、宇宙や太陽、地球といった大きな環境への感謝が湧き起こる。大きな愛で包まれている感覚だ。
贈りモノは、ただ金をかけたら贈れるようなものではつまらない。
如来からの贈りモノは必ず予想外だ。が、受け取ってみると、なんで今まで気がつかなかったんだろうと不思議になる。あって当然のように感じるのだ。奇抜なわけではないのだ。無理なく矛盾なく、とても自然なのだが、こればかりは言葉では説明するのが難しい。
一つだけ例をあげよう。ジョイントで繋がった仲間の支援によって、新しく拠点ができたとき、沖縄サミットで使われた家具が届けられた。各国の首脳が座った椅子とテーブルのセットだ。ただ同じ型というのではなく、実際に使用されたモノだ。これは特別なつながりがなくして手に入るわけではないとすぐにわかるだろう。
緊張が入る。無邪気に喜んでばかりはいられない。この応接セットの価値を来客者にきちんと伝えていき、その価値を活かしていく責任が生じる。それが出来なければ、ふさわしい人の元へとモノは流れていく。
贈り物を活かしきれれば、更なる展開が待っている。我々はただのモノには最早執着はない。ただ、世界を広げていけるようなモノには興味がある。違う次元の視点を手に入れ、世界を創造していくことに対しては大いなる欲求が存在する。
そうした世界を体験できることを今年は具現化していく。是非直接体験してもらいたい。
モノにしろ、言葉にしろ、本当の贈りモノとは次のステージを感じさせるものだ。その人の可能性を開花させるキッカケを贈ることが、人生で一番大切で大事な贈りモノだ。受け取る方より、贈るほうが大変なのだ。だからこそ真摯に応える必要がある。そうした気持ちの応答がなければ、感謝もなく不平不満が出るだけだ。
「立派そうだけど、なんでこんなの贈ってきたのかな?もっと自分の趣味にあったモノがよかったな」といった具合になる。
こうして想いや愛がある人ほど誤解されていくのだ。本当に愛がある人は、いちいち説明をしない。ただ与えるのみだ。面倒で説明しないのではない。説明したところで進化前の概念では理解できないからだ。先に説明してしまうと余計な概念が入ってしまい混乱してしまう恐れがある。だから、贈られた側で、その意味を深めて感じ続ければ、無限に愛とキッカケを感じることができる。物質的な欲ではなく、想いや愛の為にやる気がでる。これが我々の世界だ。

「贈りモノの真理」への2件のフィードバック

  1. 初めまして。縁がありOZEKIさんのブログを拝読しております。常に本質を書かれている内容に、学ばせて頂き、そして気付きのきっかけを頂いてます。ありがとうございます!そして、余りにも拝見するたびにブログ内容とのシンクロが多く嬉しくなり、つい今回のテーマとは関係ないのですが、ご挨拶させて頂きました。今後も勉強させて頂きます!!
    宜しくお願いします。

  2. 今、色んな不安・嫌悪感・自己不信があって・・悩みつつ毎日を過ごしています。
    親のサガを背負っている
    成長のためだ
    と思えば、少しは気が楽になります。
    でもこの試練を誰か(指導霊)が、私を思って、プレゼントしてくれているのだと(そうでなくても)思えば、私は嬉しく受け取ってそのプレゼントを誠意をもって使おうと意識が全くかわります。
    逆に、因縁・社会のなかでも、私の発言が相手へのプレゼントになるようにしてゆきたい!!!!と思いました!!

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