背負うということ

自分ひとりだけは楽だ。
一人でご飯を食べるなら、好きなモノを食べられる。
一人でいれば、煩わしい会話に付き合うこともせずにすむ。
相手の言動で、イライラさせられることも、悩むことも、一人でいればない。
でも寂しい。喜怒哀楽がなくなっていく。テレビやネットなどで喜怒哀楽を得ても、表層的で心に残りづらい。関係が薄いと楽だ。楽に逃げやすい時代である。インターネットはとても便利に楽を加速してくれる。
だからこそ、楽ではないモノを魂は求めている。
目の前の人間の人生を背負ってみる。
何があっても一緒に向かう。一緒に立つ。一緒に泣き笑い、怒る。
どんなことがあっても見捨てない。だからこそ厳しくも向かう。ただの仲良しごっこではない、本物の関係。そんな関係に憧れて、大衆はワンピースなどを読む。
背負い背負われる。両者は同じだ。委ねてくれなければ背負えない。背負っているつもりが、気がついたら実は背負われていたりもする。助けて助けられる。救うものこそが救われるのだ。一心同体になってしまえば、もうそこに自分と他人という壁はない。
今日一人の人間が、背負う覚悟をした現場に立ち会った。そんな現場に立ち会えるのはとても幸せなことだ。映画のようだが現実だ。相手が背負われたいのかどうかは関係ない。自分が背負う覚悟をするかどうかが問題だ。相手を思うとおりに動かしたいから背負おうとするのではなく、相手を信じ愛するがゆえに背負うのがホンモノだ。間違っても、相手がこれをしてくれるから背負うといった取引の気持ちでは断じて背負えない。何があっても向かい続けると決心する。どんなことがあっても信じ続けると誓う。
決心も誓いも楽ではない。だが、決心や誓いをした気持ちは揺らぎやすい。多くの人間が、永遠の愛を誓った結果がどうなっているだろうか?問題が起きた時ほど、その決心や誓いが試されるのだ。問題に負けてしまう決心や誓いのほうが多い。
困難なときほど、
不安なときほど、
信じられないときほど、
相手を背負う覚悟でいられるかどうか、相手を信じ委ねられるかどうか、なのだ。
背負えば背負うほど、人は力を得る。人や組織を背負っているとき、困難に立ち向かうエネルギーを与えられる。この人間のために頑張ろう!このチームのために頑張ろう!この地域のために頑張ろう!この国のために頑張ろう!この地球のために頑張ろう!この宇宙のために頑張ろう!となる。
究極まで行けば、地球、宇宙を背負うのだ。

「背負うということ」への2件のフィードバック

  1. 強者は泥沼で戦う。
    弱者は結論を出したがる。
    僕も、自己完結で終わらずに、
    泥試合でも向かい続ける真に強い人になりたい。でありたい。
    本質を掴みたいから。
    「悪霊喰」の解釈も圧巻でした。
    目に見えるものだけ見ていては、だめですね。
    もっと表と裏、目に見えるものと見えないもの、
    全体から背景まで、心で見えるようにならないと。
    知識は大事だけど、そんな誰でも手に入る情報より、
    自分自身の感性をもっと大切にしていきたいと思う。
    そのためにも自分の殻にこもらず、行動して、
    肌で感じ、心で記憶する経験を積み重ねたい。
    僕は、光を放ち時に眩し過ぎる表舞台でもなく、
    ただ光を受けて与えられるだけの観客でもなく、
    光の裏側のもっと静かで暗い?が本物が集まる舞台から、
    表舞台と観客、ひいてはこの世界の真理を知りたいです。
    P.S.
    宇多田ヒカルにも、成功者の孤独と影を感じます。

  2. 在家の者です。
    質問です。
    例えば、自分は会社入社5年です。
    まだまだ、長年勤務の先輩には、意見をしたり出来ない立場だと感じます。
    職場の先輩とは仲が良いものの、確かに尾関さんがいうように「仲良しごっこ」なんです。
    私の様な在家は、修行は、職場だと思います。
    その職場でも、愛や信念のために、行動してゆきたいと思うのですが、職場で「背負っている」人を見たことがないし(たぶん)、背負うことが具体的にどういうことなのか分かりません。
    尾関さんのブログを読むと、力が内側から出てくるのを感じます。
    でも自分は具体的に、背負うことをイメージすることが出来ないんです。私の様に先輩が多い場合は、どんな風に背負えばよいのでしょうか。

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