優しさの罪

「あの人はそういう人だからしょうがないよ」とか、
「そういう見方もあるかもね」と相手を理解し許すことは勿論大事だ。

だが、時には、厳しく向かうこともなければ、その人に対して愛がない。すべてを許していて、相手も自分も気付きがなく、お互いに成長はない。それは自分がラクしたいだけだ。

優しい人ほど、喧嘩や言い合いが嫌で許してしまう傾向がある。しかし、その優しさは自分が傷つきたくないという理由もあるだろう。喧嘩して傷つくのが嫌とか、言い合うのは疲れるとか、自分が傷つきたくなくてそうしてる場合もある。相手のためより自分のため。

全部受け入れれば良いというものではない。金持ち喧嘩せずというが、金持ちの子供が好きなだけ甘やかされた結果、どんな子供に成長するか?想像すればわかるだろう。

とかく、声が大きい人の意見が通りやすいものだ。だからこそ、人の気持ちがわかる優しい人が強くなり、毅然と立ち向かわなければならないときもあるのだ。

そして、立ち向かうには信念がいる。信念がなければ、相手に語る言葉もない。優しい人ほど謙虚な気持ちを忘れないものだ。だからこそ、そういう人が強くなり発言をしなければならないのだ。そしていつも穏やかな人が、信念を持って語るとき、芯の強さがしなやかな強さとなり心を打つ。

向かわなければ、ただ優しいだけの人には見逃した罪がある。気付いていても、相手を認める論理(言い訳)で頭を納得させ、本心を隠す。立ち向かうには勇気がいる。優しい人なら尚更だ。相手を傷つけたくない気持ちがあるのもわかる。しかし、自分が向かわなければ、相手から成長の為の機会を奪っているともいえるのだ。

出会いはご縁。ご縁を活かしきるためにも、後悔のない関係を築くほうがお互い幸せではないか?

「優しさの罪」への2件のフィードバック

  1. 何時も勉強のために読ませて頂いてます。私も最近、部下が出来、叱る大切さを身を持って感じております。文句をいって我が儘に振る舞う部下がおります。皆から敵対され、同情からか強く叱ることもできず。と思っていましたが、いやはや尾関さんのブログを読ませて頂き、痛いところをつかれた感じがしました。確かに「叱れば気まずくなるよな」「辞めてしまったら自分の立場が」「嫌われて口も聞いてもらえなくなるかな」(お恥ずかしながら)など思いが正直あります。
    叱らないのは、相手に優しくしているのではなく、己の為だったとは。部下の為を思い、一喝すればいつか思いは届くのでしょうか。勇気がいることですね。我が身を省みず、部下の成長に尽くし、然るべきときにビシッと叱れるよう精進いたします。

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