賭けること

どんなに素晴らしい気付きを得ても、清々しく心が解放されても、目に見える環境を変えなければ、また封印される。元に戻る。

今の環境が今の自分を創ってきているからだ。

啓発セミナーで意識が高くやる気になったとしても、結局環境を変えなければ何もできない。

全身マッサージで疲れが取れ爽快になったとしても、結局環境を変えなければ元通り。

大自然を目の前にして自分の小ささを感じ何かを悟ったとしても、結局環境を変えなければ目の前のことしか見えなくなる。

本当に成果を得たいなら、環境を変え、人・物・金・情報を賭けなければならない。

飛躍するには、今の全存在を賭けなくては始まらない。自分が信じる光に賭け、リスクを背負わなければ、人は本気にならない。(逆説的だが、信じるから賭けるというより賭けたから信じざる得ないのだ)

本気にならなければ、結局は既成概念という鎖に縛られ、元の木阿弥である。

あなたはいつ、生きることに対して本気になるのだろうか?
あなたはいつ、自分の人生に対して、真剣になるのだろうか?

「本気になる!」と自分の中だけで決めたのでは何も始まらない。結局本気になれずに終わる。

本気にならなければならない状態に自分をまず追い込むことだ。それにはまず本気になる対象に対して「賭けること」だ。背水の陣がなければ人は本気になれない。

賭けた途端にあなたの世界はとてつもない広がりを見せる。見えなかったものが見えてくる。そして、「なぜ今まであんなものに縛られていたのか!」と不思議に思うくらい心が開放される。

後はやるだけだ!
できるか、できないか、ではない。
やるか、やらないか、だ。
そして、やらない、は無い。

本当は時間などかけなくても、今すぐにでもあなたは開放される。それは瞬間の出来事だ。

映画マトリクスで、モーフィアスはネオにこう言った。
「やろうとするな。出来ると知れ」意訳

「賭けること」への2件のフィードバック

  1. 封印されるという表現よくわかります。
    光がみえたと思ったのに、その次の朝布団から起きてみたら、いつもと変わらない朝で、昨日の自分はどこ?あの光はいったい何だったんだ?ということがあります。

  2. いまサイトウさんのコメントを読んで思ったんですが、『封印される』ってまるで誰かが意図(わざと邪魔)してるみたいに聞こえます。
    前記事から連想し、悪魔の仕業のように思えてきました。

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