岡本太郎とクーピー

以前『沖縄文化論』を書いたように、過去岡本太郎は沖縄にかなりハマっていた事が容易に理解できる。

障がい者はアーティストだ!と、太郎も語っていた。
そしてさらに、「人間だれしも障がい者だ!」とも言っていた。

岡本太郎の存在感は、今の日本社会で太郎の死後益々増してきている。これからの時代、太郎の存在はあらゆる意味で、もっともっと大きなものとなるだろう。

岡本太郎は、著名な両親の元に産まれ、ある意味、かなり恵まれた環境で育った。外国にも留学し、帰国後も周囲の期待は高かったはずだ。そして、その時代の日本でのイメージはエリートで大人しく、周囲の受けもよかったはずだ。つまり太郎には、全てが備わっていた。お金も教育も肩書などもあらゆる意味で‥。

しかし彼は、それらを全部捨てた。
あえて全部捨てたのである。
太郎は破壊しなければ進化はない事を知っていた。
恵まれた環境のメリットが致命的デメリットになると気付いていたからだった。
既成概念に挑戦し、あえて社会の体制に真っ正面から逆らった。
異端者、変人、嫌われ者を自らアピールした。

フランスで巨匠ピカソに影響され、その時、魂を入魂されたのだ。
そして、人生の意味、道を見つける。
生まれ変わったのだ!
DNA、概念を飛び越え完全に‥。

自分を高く評価する人からあえて離れ、認めない人にどんどん向かい、徹底的に社会と戦い続けた。そして、なにより自分と闘い続けた。ここで、自然に最大の敵は常に自分自身となっていった。アートは辛い作業だ。帰国後、己との熾烈な戦いを既に確信していた。概念を完全に捨てないといけないのだから。

極端に表現すれば、ある意味で障がい者のためにあるのがアートなのだ。
彼らにとっては、アートは一体で不可欠。自然で普通のことなのだ。
また他にストレートな表現方法がない。
太郎は、書くことも話すことも出来ない人の人生をイメージしていた。アートでの表現しかないのだから。

太郎は、わざと顔をゆがめて、ありったけ障がい者のように堂々とふるまった。
「芸術は爆発だ!」と。

この有名な言葉の本質を理解している人は世の中にどれくらいいるだろうか?

彼こそが究極の菩薩だ!
これから太郎がどんどん必要とされる時代になる。時代が変われば、あのヒトラーだって次第に英雄になる可能性だってある。ナポレオンや織田信長達を今考えてみてほしい。

太郎の『太陽の塔』は、当初酷評された。と言うより熾烈な闘いから生まれた。
しかし今はどうだろう?
ある意味歴史のシンボルそのものである。

しかし、思うに岡本太郎の本質は、恐れずに言うと、絵画や彫刻よりも彼自身のイメージ、パフォーマンスや言葉などから、直接つたわる魂にあるのではないだろうか??作品はその延長線上にあるのでは?と常日頃感じている。彼の言葉の中には、常に『人間』としての本質が含まれている。

その彼が注目し、入魂していた沖縄。
太郎はその時代に沖縄ですでに本土では失われつつある人間の本質を垣間見たのだ。
今の日本社会を読んでいたのだ!

クーピーはそれらの繋がりから、自然に血となり肉となり沖縄の地でこれからの時代の受け皿となるべく設立されたのだ。

「岡本太郎とクーピー」への2件のフィードバック

  1. 独身の頃、岡本太郎美術館に行ったような記憶がうっすらあります。芸術作品は、あまりにもありふれた綺麗すぎるよりもぞっとする変な作品と紙一重のところもあるような気がします。今の代表な人で言えば、安藤忠雄さんや宮崎駿さんも昔の日本人にはない発想の方だとも思います。音楽や歌舞伎や舞踊などでもそうですよね。当たり前を通り越したような方が芸術でとび抜けるような気がします。普通の性格の方だと素晴らしい発想力はないような気がしました。「本土では失われつつある人間の本質を垣間見たのだ」というところをもっと詳しく知りたいです。

  2. 尾関さんの活動してらっしゃるクーピーは凄いですね!
    なぜだか私には岡本太郎さんと尾関さんのイメージが重なってみえます。
    尾関さんは爽やかな容姿の奥には、熱い熱いものがあって
    これから爆発!なさるのでしょうか?
    楽しみです(@^^)/~~~

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