フィリピンと沖縄の未来

◾️過去を知り、未来を夢見て、今を生きる

フィリピンと沖縄は似ている部分があって、比較すれば未来を考える上で、とても参考になると思いました。沖縄からフィリピンへの距離と、沖縄から東京への距離は同じくらいです。近いから一緒に発展する仕掛けが出来ないものかと夢見ています。あと、実は台湾も含めて、かつて琉球と呼ばれた地域つながりで考えるのも面白いと思っています。

でも、日本人はフィリピンのこと、歴史などを知っている人は少ないでしょう。大抵の人にとっては、フィリピンといえば、フィリピンパブなイメージではないでしょうか。調べて見たら、今後の沖縄の行方の参考になるかもしれないと思ったのでまとめて見ました。沖縄、日本はこれからどうしたらいいの?というのを考えるキッカケの一つになればいいなと思います。

◾️似ている部分

  • 島国である
  • 日本軍の戦争に巻き込まれた
  • 宗主国に長期支配されてた
  • 米国に統治されていた
  • アジア最大の米軍基地(かつてあった)
  • 出生率が高い
  • 芸能民族
  • 南国気質
  • フィリピン、台湾は小琉球と呼ばれたこともある

もちろん異論もあるでしょうが、他にも思いついたら追記していきます。酒とか台風とか、コンクリ造りの家とか、そういうのは省きました。

◾️余談ですが、最古の人骨が出土している地域としても似ています。
まずアジアで最古のホモサピエンス の化石が発掘されているのは、はい、フィリピンです。6万7千年前のカヤオ人という化石人骨が発見されています。日本国内の最古の人骨は、沖縄で発見された、山下洞人で3万2千年前と言われています。最古つながりですね。

日本においては、大体3万8千年前以降から遺跡が増えだしているので、それくらいから移住してきたと言われています。日本の歴史よりも前にフィリピンでは人が住んでいたわけです。先人たちはよく冒険しましたね。土地はたくさんあっただろうに。命をかけていた昔と違って、いまは冒険しやすいのですから、挑戦していく楽しみを伝えたいです。

ちなみに国立科学博物館の人類進化学者・海部陽介氏によると、ホモ・サピエンスの日本への渡来について、
「北海道ルート」(2万5千年前)
「対馬ルート」(3万8千年前)
「沖縄ルート」(3万5千年前)の3ルートが考えられるそうです。そのなかで最も長い距離で、黒潮が邪魔して難しいのが「沖縄ルート」と。来年、実証実験が行われるのが楽しみです。

参考:三万年前の航海再現プロジェクト

話が少しそれましたが、フィリピンの歴史を軽くまとめてみます。スペイン統治前の時代はあまり資料が残っていないのと、群雄割拠状態に近いので割愛します。

◾️スペイン統治時代 333年間(1565−1898)、薩摩統治時代263年間(1609−1872)

スペインに長く植民地とされてきたフィリピンですが、その前はイスラムの影響が強かったのです。スペインが支配するキッカケを作ったマゼランは、フィリピンの人々にキリスト教徒への改宗と服従を求めていました。初めてイスラム教徒のラプ=ラプが反抗し、彼によってマゼランは殺されました。初めて東南アジア人として、ヨーロッパ人の侵略に反抗した人として英雄になっています。ラプ=ラプもマゼランもどちらも信念は強かったでしょうね。想いの力は大事だと思います。

スペインは、1565年から1898年までの333年間支配していた間、完全にフィリピン全土を支配することはできませんでした。300年以上続いたモロ戦争でイスラム系の勢力が残っていました。今だに残っていますからね。イスラムは強いです。イスラムも信じる力強くて、’一念岩をも通す’ということわざを思い出します。

沖縄は、薩摩による琉球侵攻が1609年で、琉球処分が1872年。263年間なので、少し沖縄の方が短いですね。また、一応薩摩の植民地としてでも、琉球王国として存在できていたので、フィリピンよりはいいのかもしれません。違う宗教に改宗させられる苦痛もないわけですから。ちなみに、1570年ごろには琉球は東アジアからは撤退していました。外国による侵略を目の当たりにして、権益も失っていたのですから、危機感もあったでしょうけど、経済が弱体化していたから、薩摩経由での日本貿易に依存するようになり、結局は侵攻されたのでした。ポルトガル進出や中国の変化という時代背景が、琉球貿易を成り立たなくしていたのです。

参考:琉球王国の興隆と衰退を中心に十六世紀東アジア貿易と島津-琉球外交略史

経済というものが大事だということが良くわかります。仮に、琉球王国が貿易盛んで儲かっていたら、薩摩や日本への対応も違ったことでしょう。琉球独立を維持できていた可能性があります。経済力と影響力は関係しています。独自の価値を作り出していなければ、他の強い力に振り回されてしまうのです。大企業とベンチャー企業の関係のような感じです。同じ仕事をしていたら大企業には勝てません。彼らができないことをしなければなりません。

沖縄と違って、フィリピンにはフィリピン人だという自負は生まれにくい歴史があると思います。フィリピンという国名の由来は、スペインの皇太子フェリペにちなんで命名された、ラス・イスラス・フェリピナス (Las Islas Felipinas,フェリペナス諸島)からきていますのでアイデンティティは喪失していますね。そしてキリスト教も浸透していますから、OS(基本的な思考)が支配されてた感じですね。当時フィリピンはメキシコの管轄として管理されていました。数百年も前の時代からグローバルですよね。日本も鎖国していなければ、キリスト教によってフィリピンのように一部が外国支配されていたかもしれません。実際、日本が鎖国ののちも、スペインはキリスト教徒の日本人を琉球に送ったりしていました。

◾️中継貿易地

フィリピンは、スペインによって、メキシコとマニラとの間で定期貿易路線がありました。フィリピンの貿易は、フィリピン産のものではなく、中国産のものをメキシコ、スペインに送り、メキシコ産の銀などを中国に送るのが主でした。中継地点ですね。

琉球王国も中継貿易でした。ポルトガルやスペインが来るまでは、琉球は中国による特別待遇のおかげで中継貿易で栄えました。中国商人が海禁政策で表向き出られなかったので、代わりに琉球がその任務を担っていました。実務を担当していたのは、中国商人だったりしましたが。東アジアのマラッカをポルトガルに落とされてからは、琉球貿易は他国の商人へと役割を奪われて行きました。また中国も海禁政策をやめたことで、琉球王国への特別待遇がなくなったわけです。あと、日本人による貿易進出ということもありました。

フィリピンはルソンとも呼ばれていて、豊臣秀吉時代にルソンの壺が人気になりました。これを秀吉に献上したのが、商人の呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)。彼は巨万の富を築きました。結果、石田三成の進言で秀吉に派手な生活をにらまれたので、日本を脱出し、カンボジアでも成功した大商人です。海外商人とのやり取りで、日本がつまらなく見えていたんでしょうね。

一商人でそこまで大儲けできるなら、政府が国家をあげて貿易すればとはならないのが日本です。他の商人も追随などしません。出る杭は打たれます。現代においても視野が狭いのは伝統芸のようです。日本は経済よりも政治的野心で朝鮮戦争を始めてしまいます。日本人は昔から野蛮だったわけです。凶暴だったのです。鎖国していて良かったと私は思います。開国後も、あれだけ勇猛果敢に戦争するわけですから、好戦的民族です。そりゃ周囲の国も警戒しますよね。

◾️経済発展をどう考えるか?

さてフィリピンの話に戻ります。スペイン時代からの財閥で、フィリピンでは有名なアヤラグループがあります。アヤラホテルとか有名ですね。アヤラは1834年創業で、7代目くらいになっていますが、見た目はスペイン人のままです。現地人の血を入れずに、スペイン血統を維持しているようです。ちなみにアヤラグループには三菱グループが出資しています。日本でも沖縄でも、アメリカ人などによる財閥が残っていないのですから、フィリピンの問題の根深さが伺えます。

現在のフィリピンのお金持ちランキングなどを見ると、スペイン系よりは圧倒的に中国系が経済を握っています。これはアジア諸国に行くと大体そうですが、中国系の方達は商売上手です。で、実際に経済は中国人に握られていても、中国とフィリピンは領土問題などでもめていますよね。政治と経済は別にやっています。

沖縄も中国に占領されるとか、バカなことを言ってる人がいますが、現代では戦争による占領など割りに合わないわけです。一人っ子政策が長かった中国では、高齢化社会がすぐそこです。そんな時に、若者を戦場に送ったら、親たちが黙っているわけありません。今や、戦争はコストに合わないと統治者ならわかっているのです。

日本人は、日本人だけでとか、ウチナンチューだけでとかに発想がなりがちですよね。もう少し柔軟に一緒にやって学べばいいと思います。呂宋助左衛門のような人物は必ず出てくると思いますので、出る杭を伸ばす方向でお願いしたいと思います。琉球王国も、中国人たちが多く住んでいて、その力を十分に活用できたので貿易も盛んだったわけですからね。相互発展のためには、憎しみよりも融和をです。過去の歴史を見ても、ヨーロッパ人や中国人による商売上手さは群を抜いています。そして豊かであれば争うことも減りますから。

また、歴史を学ぶと、中国人より欧州、アメリカの方が余程むごいことしているんですよね。いまは、〇〇人というくくりで見るよりは、人それぞれで見たほうがいいですね。国民性もありますが、日本人だって、いい奴、嫌な奴いるわけですから、どこの国でもそれは同じです。中国人嫌いとか、簡単に決めつけないで、交流していくことが大事だと思います。

沖縄もフィリピンも、興味を持ってくれてる人たちと一緒に、価値あるものを作り上げていけたら最高ですね。辛い体験をしたからこそ、人の痛みがわかり、人に優しく出来るのではないかと思うので、人に寄り添うビジネスが生まれていくのではないかと考えています。千里の道も一歩から。

◾️独立運動とアメリカ支配(1898−1946)

歴史に話を戻します。フィリピンでエミリオ・アギナルドが独立運動をしていたちょうどその時期、アメリカはスペインのメキシコから次々と領土を奪い取って行き、スペインとの戦争にも勝利しました。少し長くなりますが、アメリカのやり方が説明されていた文章を転載します。

米西戦争は、実はキューバとともにフィリンピンをめぐるスペインとアメリカの戦争でもあった。
フィリンピンではエミリオ・アギナルドによって、スペインからの独立を勝ち取るための革命軍が動いていた。アメリカは、ウサマ・ビンラディンの関与したムジャヒディンをソ連に対するアフガニスタンの抵抗に活用したあの手口と同様、最初はアギナルドを支援した。そのためデューイ准将の艦隊を派遣して、フィリンピン解放を伝え、アメリカがフィリンピンを植民地化する意図がないことを告げた。アギナルドはそのことを文書にするように申し入れたが、デューイは「アメリカ人の口約束はスペイン人の文書より確実だ」と言って、これを蹴った。
デューイのアジア艦隊は米西戦争の宣戦布告とともに、マニラ湾のスペイン艦隊をあっというまに撃破、アメリカはマニラに軍政を布いた。1898年(明治31)6月12日に、アギナルドはフィリンピン共和国の誕生を宣言した。この日は今日なおフィリンピンの独立記念日になっている。
これでアギナルドはアメリカに独立を承認するように求めるのだが、アメリカはそんな約束はしていないと突っぱね、あまつさえアギナルドの革命軍を攻撃した。革命軍は山に立て籠もりゲリラ戦を展開したものの、アメリカ軍は戦闘民も一般民も区別なく虐殺すると言う掃討作戦に徹して、3年にわたる戦闘で2万人を死なせ、20万人を餓えや病気で死なせた。
掃討作戦の総指揮をとったのはアーサー・マッカーサーだ。かのダグラス・マッカーサーの父親だ。このとき将軍スミスが「捕虜はいらない、殺し尽くせ、焼き尽くせ」と言ったことを、のちにフランシス・コッポラは舞台をベトナムに移して『地獄の黙示録』で描いた。こうして、フィリンピンのスービック海軍基地とクラーク空軍基地が、その後のアメリカのアジア戦略の最大基地となったわけである。

引用:松岡正剛の千夜千冊1232夜『反米大陸』伊藤千尋

アメリカの非道なやり方をもっと知りたい方は、反米大陸のリンク先を見てください。中南米諸国にしてきたことがよくわかります。アメリカとスペインの米西戦争は、アメリカの勝利で終わります。

そこで結ばれたパリ条約で、

原因の一つであったキューバの反乱に伴い、米国はこのパリ条約で名目上キューバを独立(1902年)させた、しかしプラット条項により事実上保護国化(1901年~1934年)されていた。
Wikipediaより

米比戦争で戦闘を指揮した、アメリカ将軍30人のうち、26人がインディアン虐殺に従事していたので、人殺しはお手の物だったでしょう。不幸にも、虐殺者たちの次の戦場に選ばれてしまったわけです。のちに米大統領になるウィリアム=タフトの主導で植民地支配が進められて行きます。

そして、タフトが1905年に来日し、日本の総理大臣桂太郎と会談し、

・アメリカは日本の韓国支配を認める
・日本はアメリカのフィリピン支配を認める

という内容のタフト、桂協定が結ばれます。当時も、どっちもどっちの野蛮な動物的な世界が繰り広げられていたのです。21世紀の私たちは、理性と愛による社会を築けるでしょうか?

フィリピンも沖縄も、大国の陰で、振り回されてきた小国の悲哀があったわけです。これからは、武力ではなく、創造力によって、社会をリードしていく時代だと思います。

◾️アメリカ時代と日本時代

アメリカはスペインも出来なかった、フィリピン全土を支配しました。また、麻の栽培のために日本人移民もうけいれていました。かつて、日本人は移民であちこちに行っていましたね。さて、1935年にアメリカは、フィリピンに将来独立させるよという約束をします。それで、独立への準備政府ができます。10年後には独立させますよと独立への機運が再度盛り上がってきたところで、1942年のマニラ占領、日本の侵攻です。タイミング悪いです。

日本は植民地経営に慣れていないから、下手でした。結局、アメリカは沖縄と同じく艦砲射撃などで虐殺もしましたが、日本軍も同じようにフィリピン人を虐殺しています。

こうした被害者の歴史も、沖縄とフィリピンは似ているところです。もうこの辺は暗くなるのでやめておきましょう。

◾️アメリカ軍基地と中国

フィリピンにはかつて、米軍のスービック海軍基地とクラーク空軍基地がありました。火山の噴火の影響で、米軍は退去しましたが、また2012年から米軍が駐留しています。

かつての基地跡は、経済特別区になりましたが、大成功という話は聞きません。また、2012年からアメリカが戻ってきていますが、その年くらいから、中国は南沙諸島で埋め立てを開始して、領土問題が起きています。

大きい基地がなくなっていたから侵略してきたのかもしれないし、そうではないかもしれない。沖縄の領海にも資源はあるので、いつか同様の問題が起こってもおかしくないと思います。

その時までに、沖縄として出来ることはなんでしょうか?アメリカに陳情?日本の基地強化?争いの方向では、小舟は翻弄されるのみだと思います。

◾️どうしたら良いか?(私案)

・一言で言えば、魅力がある場所にする

人は、よく知らない他人だとモノのように扱っても心が痛みません。自分とは関係ない場所でどんなに悲劇が起きていても、気にしないのは、いまのシリアやパレスチナ問題についてのいまの日本人をみればわかると思います。

民間外交で、沖縄にはあの人がいるなぁと思い出してもらえる人を沢山作っていくことが、争いへの一番の抑止力になると私は思います。こちらが関心を持って関われば、相手も必ず関心を持ってくれます。

平和であるいまのうちから、観光や仕事を通して、アジアの人々と交流をして行くことが、一番の問題対策になると思います。沖縄を我が事のように捉えてくれる人を増やして行くことが大事ではないでしょうか?

比較するものではないかもしれません、過去の歴史を見れば、琉球よりフィリピンの方が過酷な歴史と言えます。誤解を恐れずに書けば、沖縄は過去のことや基地のことに囚われすぎてはいないでしょうか。

フィリピンに行くと、過去の恨み辛みよりも、いまを楽しく生きることへの意識を感じます。この点は彼らに見習って、未来志向で今を生きることが、沖縄の明るい未来を作ると思います。

そうはいっても、人間、気持ちは簡単に変えられません。基地の反対運動をするなというのではありません。もちろん、それはしても良いのですが、それだけではないこともしましょうということです。

両方やれば良いのです。私のような内地から来た人間は、しがらみがないからこそ、そうしたことがやりやすいと思っています。しがらみがある人は無理せずに、徐々に変化をしていけば良いのです。

・実際に魅力ある場所作りをする

いま、私は那覇から2時間以上もかかる山奥に住んでいます。稲穂産業という歴史ある農場で、広さが50万坪近くあります。ちょっとした村の広さです。

私はここから寺子屋のような場を作って行き、沖縄と日本、アジアの平和について関心を持って、何かを創り出そうとする人たちを集めて行きたいと思っています。そして、ここから実際に事業などを創り出して行きます。下記の言葉のように、まずは自分のいる場所から照らして行きます。興味がある人は遊びにいらしてくださいませ。お問い合わせはこちらからお待ちしています。

 

一燈照隅万燈照国(いっとうしょうぐうばんとうしょうこう

一つ灯火だけでは隅しか照らせないが、その灯火万という数になると国中を照らすことができるという意味の語。最澄が説いた言葉として知られている。

https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%80%E7%87%88%E7%85%A7%E9%9A%85%E4%B8%87%E7%87%88%E7%85%A7%E5%9B%BD

 

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