いわゆる偶然の一致が起こると、ただの偶然だと思ったとしても、何かしら少しは意識するのではないだろうか。それが意味するものは何なのか、わからないことが多いに違いない。シンクロというと良いことのように思うかもしれないが、最終的には良いことでも表面的には最悪ということもある。
今日は7月30日。かつて、沖縄では730キャンペーンがあった。1978年に右側通行から左側通行へと県内の道路で一斉に変更した日だ。それを知っている人で、今日何か特別なことが起きた人にとっては、人生の切り返しのように感じシンクロに感じるだろう。この時代を知っている人間にとってはただの懐かしい思い出にしか過ぎないかもしれない。
シンクロニシティは個人的なものだ。本人にとっては、人生の鍵となるかもしれない価値がある。だがその鍵はわかりづらい。曼荼羅を書いて深めることも以前書いたが、そこまでする人は少ない。真剣に求めていたら、どんなキッカケも活かそうとする。それが善い悪いではない。
意味づけするもしないも自分次第だ。逆に、今日をキッカケに自分の人生を切り替えようとしてもいい。ふとしたキッカケで、今日この文に触れたとして、まるで左右逆にするように、正反対の考え方をしてみるシンクロニシティと捉えることも出来る。
自分の良いと思っていることがそうではないかもしれない。
自分が悪いと思っていることが、実は良いことかもしれない。
物事の本質から送られた信号がシンクロニシティとして現れるときもある。全部が全部そうであるわけではないし、シンクロニシティにも種類がある。
深層意識からのヒントだと思って、シンクロニシティと接したほうが面白いと私は思うだけだ。去年の7月は死にかけた。今年の7月も生死を意識することが多かった。夏は霊が騒ぐという人もいる。それが本当かわからないがどちらでもいい。
大事なことは受け入れられるか。器の問題だ。どんな視点も何かしらの真実を含んでいる。受け入れないで世界を狭くしてしまうのは勿体無い。偶然の一致をコジツケだと思うよりは、何かしらのまだわからない法則や世界があるのかもしれないと、1%でも可能性を認めたほうが世界は広がるではないか。
ほんのすこし受け入れるだけで、劇的な変化が起こる。蟻の穴から堤も崩れるというコトワザがある。自分の硬い概念を壊すキッカケにシンクロニシティは応援してくれる。見えない世界にこそ雛形があり、そこからのつながりでシンクロニシティが起きていると信じている。
慣れ親しんだ考えを変えるのは大変だ。右側通行から左側通行へ変わるのもそうだ。かわってしまえばまたそれに慣れる。慣れてきたらまた変化を起こす。形にとらわれないで、心が感じることを大事にしていきたい。