擬態

時代の動きが速すぎて大変だ。なかなか落ち着いて書けない間に、随分と動きが出てきている。表面の動きに目くらましされて、気が付いたら大衆は誘導されているだろう。なぜ突然小沢氏の報道は消えたのか?このことだけ見ても、いかにメディアがある意図をもって動いていることがわかる。

ミスチルに「擬態(ギタイ)」という歌がある。

富を得た者はそうでない者より
満たされてるって思ってるの!?
障害を持つ者はそうでない者より
不自由だって誰が決めんの!?
目じゃないとこ
耳じゃないどこかを使って見聞きをしなければ
見落としてしまう
何かに擬態したものばかり

表面だけに捉われていたら、見落としてしまう。政治も経済も、表に出てくる情報だけを見ていたら本質はわからない。何かに擬態したものばかりだからだ。擬態とは、簡単にいえば偽の姿だ。本当の姿を隠して、偽の姿を本当だと思わせている。

小沢が消えて、話題になっているのが橋下市長だろう。朝日との間にその出自をめぐって戦いをしていたのが新しい。彼の名前は、戸籍上はハシシタと読む。差別を嫌ってハシモトと自称している。数年前までは、彼がこのように政治の注目の的になるとはだれが想像しただろうか?

弁護士だった彼が注目されたキッカケは、法廷に立つのが弁護士の華であるのに、示談専門の弁護士でやっていたことにある。弁護士なのに法廷に立たないのは面白いと注目されてテレビに出だした。仲間が昔、彼と番組をやっていたことがある。その時は大人しい人で、今のような攻撃的な姿は全く想像つかなかったと口を揃えて言う。

一体何が彼を変えたのか?目立つ人間には試練が訪れる。人によっては、逮捕だったり、脱税だったりと国が影響力を行使する手段は色々ある。橋下氏も例にもれず、脱税で因縁づけされた。それがキッカケで彼は別人のように大きく変わっていった。

本来なら今こそ小沢氏のように責められてもおかしくないはずだ。言いたい放題いっても、浮気がばれても、堂々と注目され続けている。さぁそこに何があるのか?

いまや、彼にはSPといって、ソフトバンクとパソナがバックアップしている。パチンコのPでもある。資金力も付け、次の選挙では橋下旋風が起こるのではないかといわれている。さて本当にそうなるだろうか?

選挙といえば小沢が強いという話はどこにいったのだろうか?面白いことに、橋下氏自身は選挙には出ないという。これは歴史上のある人物のやり方にそっくりである。わかるだろうか?歴史は繰り返すのか?彼が本当にあこがれている人は誰かわかるだろうか?

一連の尖閣諸島問題の火付け役である石原都知事。彼はどこで尖閣諸島買い取りを発表したか知っているだろうか?わざわざアメリカにいって、ヘリテージ財団主催の講演会で言い出したのだ。この財団はどんな財団か調べてみたらいい。しかもその発表の数日前に、中国では薄熙来が攻撃されだした。関係ないと思うだろうか?じゃあなぜ、日本政府は尖閣国有化を盧溝橋事件の日に発表し、911に国有化したのか?9月18日は満州事変の日で問題となるはわかっていたのにだ。

いまや、尖閣諸島では中国と揉め、竹島で韓国と揉め、北方領土ではロシアと揉め、日本の周囲はもはや敵しかいなくなっている。大東亜戦争前夜とそっくりではないか。まるでABCD包囲網の再来だ。もはや種はまかれてたのだ。いつ戦争という芽が出始めてもおかしくない。

戦争したがっている人がいたとしたらどうだろう?少なくとも石原氏は戦争しなければならないという使命感に燃えている。腐った日本に活を入れるために戦争を望んでいるかもしれない。もしくは借金を帳消しにするためかもしれない。いずれにせよ、自分と同じ考えの人が当たり前で普通だと思わない方がいい。いつの世も、先を見通せる人間は少ない。少ないからこそ価値がある。大衆は数に惑わされる。

質より量に走るのだ。質も量も揃えようとしたらすぐには出来ない。質はすぐには高まらないが、量はすぐに作れる。このBlogの読者は少ないが、その分真剣に読んでいる人が多い。コメントしづらいとよく言われるが、気軽に書けないからこそ、書かれたコメントには価値がある。その反面、アイドルのBlogは読者数もコメントも多いだろうが、中身はほとんどない。広告をして、アイドルのBlog並みに私のBlogが読まれたとしても、その価値がわかる人は少ないから、そんな無駄なことはしない。

擬態を見破る眼力は、求める心によって導かれる。いまの空気を感じておくことだ。後で振り返って、とんでもない時代に生きていたと思う時が来るだろうから。

因縁の世界

 進化を続けていくと、新たな壁にぶつかる。ところが、その新たな壁は今までの壁と同じに見えるから、同じようなやり方で対処してしまう。まさか、ルールが変わったとは思いつかない。

同じやり方でやっても、解決できなかったりする。問題は、問題そのものには答えがない。問題を解く一つの方法として、より大きな問題を持ってくるという高度なやり方もある。ルールが変わったときには有効な手段となる。

慣れてきた、得意になってきたら要注意だ。意味が分からないというのは良い信号だ。わかりづらいかな?いつまでも同じやり方をしているのでは能がない。進化しなければ利用されてしまう。大衆はいつも同じ過ちを繰り返す。考えないし、楽だからだ。わからないことに向き合い続ける人間だけが光をつかめる。

一方で、不変の法則を活用し、時代をリードし続ける人々もいる。ロスチャイルド家がこれほど長く語り続けられているのには訳がある。平清盛は一代で栄華を極めすぐに没落した。長い間栄え続けるには、表に立っては難しい。

裏に回る事で、長く影響力を持ち続けられる。密教的にもエネルギーを得られるやり方だ。存在するのか?存在しないのか?よくわからないから価値がある。ではよくわからないのに、なぜロスチャイルドやロックフェラーはよく名前が出てくるのか?

一体彼らは本当にユダヤ人なのか?時代は進んでいる。もはや、最先端ではロスチャイルドは古くて、タクシス家だと言われている。ロスチャイルドは金融で、情報を握っているのがタクシス家だ。更に言うと、テロとか暴力を担当しているのがサヴォイ家だ。

名前が出ているときには、既にその実態は他に移っているのだ。移っているからこそ、その名前を使えるのだ。今が良いと思われているものは、実はもう終わっているのだ。終わっているからこそ、それを使えるのだ。

最後は家に行き着く。因縁が結局は中心になってくる。その下に企業などがある。因縁に企業がひもつくのだ。因縁管理が出来ないと家は衰退する。因縁管理が世界で一番上手くいっているのが、日本の天皇家だ。世界で一番長く続いている王家だ。

因縁の力を国家は良く理解している。また因縁の力を利用しなければ、国家はうまく治まらない。因縁の作用を利用して統治するのだ。その証拠に、国家は近親婚を禁止する。表向きの理由は遺伝子異常がでるからとされている。本当は霊的な作用が起こるからなのだ。それは表で堂々と言えないから、肉体のせいにして規制するのだ。本当に問題なら、なぜ近親婚を繰り返してきた天皇家が続いているのだろうか?

長く続くのには理由がある。多くの壁を乗り越えたからこそ、継続できている。因縁にヒントがある。一番大変な問題だからこそ、その作用次第で大きな効果が生まれるのだ。論理では到底解決できないのが、因縁問題だ。

色んな方向からのアプローチがなければ因縁は難しい。近くて遠い問題。深くて浅く見える問題が因縁問題なのだ。ここに世界の秘密が隠されている。

菩薩冥利に尽きる

 想い通りにいかないと嫌な気持ちになるのが普通だ。仕事でも家族でも恋でも、自分の想いが伝わらないとか、理解不能な行動するとか、好きになってくれないとかで苦しい想いをする。それぞれ別のように見えるが、根っこは同じだ。相手の想いより、自分の想いが優先してしまうことで理不尽なように感じてしまう。

かといって、相手の方が想いがあるとは限らない。また、想い方の違いもある。一概に比較はできない。その人なりの想い方も認めつつも、それに合わせすぎてもおかしくなる。考えすぎると段々わからなくなってくる。気持ちが入っている因縁関係であれば尚更だ。冷静に見る事は難しい。感情が入るとほとんどの場合水掛け論になってしまう。

信頼や愛情はどこから生まれるのだろうか?

何も問題がないほうが生まれるのだろうか?だが時間がある以上、物事は変わっていく。いつかは必ず変化が起き、同じ状態ではいられない。
「このままの状態が続けばいいのに」と思う事もあるだろう。状態や感動が充実したものであればあるほど、終わった後、祭りの後の余韻は切なく、寂しくなる。逆に言えば、切なく寂しい気持ちを感じたなら、それは素晴らしい体験をしたという事だ。それだけ人生の質は豊かになっている。

いつかは終わってしまう。生きていると同時に死に向かっているのが生命だ。時間は有限だ。であるならば、問題には早く向き合って体験した方が良い。辛い事も苦しい事も、過ぎてしまえば良い思い出に出来る。ただ、きちんと向き合ってこそだ。逃げてしまえばいつまでも心の痛みとして残ってしまう。

それが悪い訳ではない。人間は痛い経験をしないと学ばない。しかしいつかは、その体験を克服し、次の世界へと旅立つ時が来る。卒業は寂しいが、また新たな世界も待っている。卒業したからといって、全く関係なくなる訳ではない。本人の霊魂に刻まれた体験は永遠のものだ。二度と同じ体験はできないからこそ、愛しく切ないのだ。

辛い体験も問題も、今だからこそ体験できる事だ。今しか体験できない。同じ時間を共有できることの素晴らしさは、後になってわかることだ。今分からなくてもいい。勿論、分かった方が良いが、分からなくても構わない。いつかは分かる事だ。

逆に後で分かった方が、感謝や感動、切なさは膨らむ。と同時に、
「なんて自分は世界が狭かったのか」と恥ずかしくなる。その気持ちををまた次のエネルギーに代えられる。次こそは一期一会を大事にしようと。

人は皆未熟だからこそ、この世に生を受けて体験している。同じ仲間だ。それぞれが助け合って、最適な経験をできるよう無意識に協力し合っている。一人ではできないことだ。敵でさえもありがたいことだと頭ではわかる。心では納得できないものだ。無理に納得しようとするとおかしくなる。嫌なものは嫌で、素直でいい。

ただ、その嫌なものの先に光がある。

どの道も楽ではない。この言葉に自分はどれだけ救われてきたか。どうせ辛いのであれば、魂の糧になる辛さが良い。辛いからこそ愛しい。見えないからこそ希望がある。自分の限界、試されている飛躍の機会、大きな喜びの前には必ず試練がある。

試練に向かっていると、時に思わぬご褒美がある。

回数にして言えば、ほんの数回しか合っていなかった男性がいた。後から聞いたが、私の事を相当怪しい人だと思って警戒していたという。彼は科学者で真面目な方だ。それに引き換え、自分は何者か不明な人間で、ネットで調べたら怪しい話ししか出てこない。それは警戒するだろう。警戒しない方が変だ。自分でもそう思う。

それでもご縁があって、信じて沖縄にまで来てくれた。来てよかったと感動してくれたが、そういう感動を味わう前に想いのこもった行動をしてくれていた。感動したからしたのではない。時に人は説明のつかない行動をする。本当に大事な事は説明などつかないことが多い。

彼は私の肖像画を描いてくれていた。一日で集中して、それを書く為にネットで写真を集め、ひたすらどんな人間かを考えて集中して書き上げてくれた。ただ、肖像画を描いてくれたから嬉しいというだけではない。

よくわからない人間の為に、そこまで時間と労力をかけてくれたのだ。そうさせたのは、自分の代わりに会って話していてくれた仲間の存在のお陰だ。想いがある彼らのお陰で、私もそうした魂を持っていると彼の霊魂は感じてくれたのだ。

肖像画のプレゼントをされて、改めて色々あったけど、沖縄や仲間を信じてここまでやってきてよかったなと報われた気分になった。幸せは予期せぬタイミングでやってくる。エネルギーを貰い、また更に頑張れる。濃い体験が出来て本当に菩薩行は素晴らしい。確かに大変だけど、それだけの価値があるよと、皆さんにも菩薩の道をお勧めしたい。