回想

 6年前の今日、「今年は」というBlogを書いた。

「こうして諦めないで作っていった土台を元に、40代は世界貢献できるようになりたいなと思うようになりました。
今までは目標がないから、いくらでも成長できるとおもっていましたが、漸く、自分なりの理想像が見えてきた感じです。まずは、6年後が楽しみです!!」

あれから6年。自ら予言した6年後に本当に土台ができていて驚きだ。6年の間に、涙あり、戦いあり、笑いあり、色々あったから、根性が鍛えられた。もうすぐ先が見えるのではないかと葛藤を抱えながらも、なんとかここまでブレずに続けてきたことを誇りにおもう。共に求め続けて一緒に戦ってきた同志の存在が、今もとても頼もしい。
何があっても切れることのない信頼。必死でやってきたからこそ、ぶつかり合い、残ったメンバーも少数精鋭。いよいよ、守破離でいえば破の段階に来た。今まで学んできたモノを次のステージへと引き上げる時が来た。
間違える勇気が必要だ。正しいことだけでは前に進めない。時には間違えることで伝わることもある。真面目脳を超えて、正しさの枠から超えられない人の代わりに間違える勇気を。
こうしていたら間違いはないという枠組みから外れるのは勇気がいる。自分も今まで魂が感じることを学ぶために守ってきたやり方がある。そこにいたら安心だが、間違えたらどうしようという不安も常に伴う。
何もしても不安は尽きない。不安を希望に変えて、自分なりの道を表現する。
今が幸せじゃなければ、未来も幸せではない。完全な幸せなんかない。自分ただ一人の心の平安だけを求めているわけではない。共に感じたいからこそ、社会に働きかける。自分たちがやりたいことはまだまだ道途中だが、形にできる仲間と可能性の芽とイメージがある。
6年前に比べて進化している。6年前の言葉を読み、経験前だからこそ純粋な部分もある。
これからも諦めずに向かい続ける。
生存戦略しましょうか。by 輪るピングドラム

レッテルとブランド

常識的な人間ほど、肩書きやレッテルのイメージに左右されやすい。東大出てるから頭がいいとか、大企業の社長は立派だとか、本当は人によって違うのに、そうした偏見を持っている。本質を考えるより、レッテルを信じたほうが楽だ。矛盾したレッテルを貼られていても、それほど疑問に思わない。

自分は昔から天邪鬼だったので、何か裏があるのではないかと斜めにモノゴトを見ていた。受験の時も、まともに勉強するよりは、問題作成者の意図を探り、どういう答えを望んでいるのか?正解の答えから、どのように間違いを誘導する選択肢をつくるのか?などを考えていた。
株式相場の格言にも、「人の行く裏道に道あり花の山」とある。正攻法よりも裏口が気になるタイプなのだ。一昔前は裏口入学など話題になったが、そんなのは当たり前のようにあることだ。東大のような組織は裏口などあり得ないと思われている。しかし、権威がある組織は権力者にとっては非常に便利な道具だ。
はした金のためではなく、国のために使える人間であれば、権威付けにブランドを利用するのだ。その権威を利用するために、あえて入学させたり、あえて教授にさせたりするのだ。人はレッテルに弱いからだ。本来の実力とは関係なしに、あの人はスゴいというレッテル貼るために使うのだ。用意されたエリートコースを歩く人もいる。あやつり人形のようだ。
メディアはレッテル張りが得意だ。世論を誘導する力として、日々毎日目にし続ければ誰でも無意識に刷り込まれてしまう。最近報道されていた北朝鮮の件も、落ち着いて考えればあれほど騒ぐ話でもない。でも毎日その報道に接していたら、なんとなく危ない国家が近くにいるなーと刷り込まれていく。もっと危ない国家については何も触れない・・・。
ちなみに、鳩山さんは東京大学を出て、スタンフォード大学大学院をでている。普通に入学したのか、裏口なのかは知らない。真っ当だとして、そんないわゆる高学歴のインテリが、自分のしていることでどのような反応があるかわからないものだろうか?わかっているのだとしたら、なぜあえて問題を起こすような方法を選択しているのか?
沖縄の基地問題の時も、今回のイランの件も、最初は味方かと思わせるような発言をして話題を起こし、後で否定する。結局どちらの側からも、
「一体あんたはなんやねん」と思われ、どちらの側からも呆れられる。どちらの味方でもない発言を結局はしつつも、常にその発言は注目される。話題を提供し、話題の中心でいることはスゴいことだ。メディアに振り回されるのではなく、メディアを振り回している。これが本当に馬鹿にできることなのか?もし本当に馬鹿なら、その価値をわかってアドバイスしてる人がいるのではないか?いずれにしても、良い人そうであることには誰も異論がない。色々と考えさせられて面白い人なのだ。
鳩山さんと似ている人がアメリカにもいる。ブッシュ元大統領は、イェール大学を出て、ハーバード大学でMBAを取得している。これまたインテリだ。しかし、成績が悪かったとバレちゃっていて、誰も言わないが裏口だと思っているだろう。
しかし、中身はどうあれ、そうしたエリートコースを歩めるように用意できる環境がスゴいのだ。多少、あれ?とおもわれる素質でも、肩書きさえあれば本当はスゴいのかもと勘違いしてくれる。レッテルの効果がわかれば、それを逆に利用することで、イメージを操作できる。悪く使えばレッテルで、よく使えばブランドになる。
例えば銀座に出店してるお店というブランドは高級なイメージがある。一昔前のほうがその効果は高かった。銀座の価値が落ちたように、日本のあちこちで価値の破壊が起きている。
昔のイメージが破壊されることが多くなり、新しいブランドを必要としている世界が増えている。一体なにがスゴいのか?価値があるのかを証明しなければならない。それが出来なければ衰退していく。新しいイメージはすぐには受け入れがたい。投資と同じで、まだまだ未開拓だからこそ美味しいのだ。
馬鹿と思われてもやれる勇気。それを支える環境の価値。そうした世界があちこちに生まれつつ有る。やがてその受け皿が新たなブランドとなる。時代にあったブランドを生み出していくのは面白いことだ。ブランドは近い人間に信用されることから始まる。すべては目の前の人間に信じてもらうことからだ。

歴史の創造

 鳩山元首相がまた面白い動きをしてくれている。馬鹿だ馬鹿だと言われているが、バカにしか世の中は変えられないのもまた事実である。細かい発言などは時の流れにおいては忘れ去られていき、印象的なことだけが残っていくから、案外100年後には鳩山さんは歴史に名を残している可能性がある。アメリカ追従の鎖をはじめに解こうとした人物といわれるかもしれないのだ。

評価や意味は時代によって変化する。私はキリスト教の学校で学んだが、キリストの生誕時に登場する東方三博士(マギ)が、ゾロアスター教の祭司だったとは習わなかった。祭司の名称であるマギから、魔法(マジック)などの言葉がうまれてきた。エヴァンゲリオンにもマギというコンピューターがでてくる。魔法少女まどか☆マギカのマギカも、同じ由来だ。
祭司が魔法使いになり、聖なるものから魔なるものへと変貌していった。歴史は公平でも事実でもない。偏(かたよ)った世界観でストーリーをつづっている。善とか悪とか、世界観が変わればその役目も入れ替わることは何度もあった。
いまは西洋世界の歴史が正統な人類史のような形で進んでいるが、この先はどうなるかわからない。東洋史からみた世界。中東世界からみた世界など、多面的な世界史を理解するとさらにこの世界を面白くみられる。
世界の発展には、人間の欲望が原動力となってきた。その欲望が分かりやすいのが、輩ともいえる。人間世界を上手に動かすのは、輩的な人間たちだ。またそうした存在がなければ、社会は停滞してしまうだろう。やる気や希望を人に感じさせるのがうまいのも、その人の欲望を見抜けるからでもある。表面的な欲を見抜くことに関しては、輩にかなうものはない。その力を目先の自分のために使っていては、輩という言葉はイメージが悪いままだ。その力を社会の発展に使用したとき、輩という言葉が有能という良いイメージに変わるだろう。
実際、輩的な才能をより大きなことに使っている人間は、輩とは呼ばれなくなっているのが現状だ。成功者と呼ばれている。以前も書いたが、成功も詐欺も紙一重だ。自分から言わせれば、資本主義自体が詐欺だ。だからといって、社会に参加している人々が詐欺しようとしているわけでもないのは当然だ。人は気づかないままに、大きな枠組みに乗せられている。
自分の本当の使命を知らずに、表面的な目的で生きている人間個人の姿の延長線上に、いまの社会の姿がある。自分の姿が世界の姿だ。自分を知ることで、世界を知ることになる。自分の歴史が世界の歴史と繋がってくる。世界をどういう世界観で見るか。
自分の目先の欲望のために生きている人なのか、大義をもって長期的な大きな目的のために生きているのか、決めるのは自分だ。我々は沖縄において、どういう自分像なのかをトコトン向き合って作っていっている。歴史を作っているのと同じなのだ。
天使か大天使か、悪魔か大悪魔か、どちらがいい悪いではない。自分の力の特性をどのように活かすかしかない。活かすためには、特性を知ることから始まる。

沖縄の価値

投資が面白いのは、新たな価値を創造することだ。投資に関して、私がやっていることの一つとして、投資家のために、新たな投資先を用意することをしている。投資しやすい環境を整備しているといったらわかりやすいだろうか。投資家のためのプレ投資だ。

一番美味しい投資はなんだろうか?土地でいえば、魅力がないと思われている土地を安く手に入れ、その土地の価値をあげて価値を膨らませることだ。誰かがやってくれるのを待つのでは宝くじを買うようなものだ。

価値とは何か?を理解していれば、価値の上げ方も下げ方もわかる。価値を上げさせては売り、下げさせては買う。だから必ず儲かる経済の仕組みはマッチポンプ、出来レースなのだ。いつも損をするのは無知な者というわけだ。
経済活動と戦争はとてもよく似ている。経済も戦争も、その両方が得意なアメリカが世界帝国なのは理にかなっている。そんなアメリカが日本の中で一番土地を持っている沖縄。日本全体の中では小さいが、その小さい資本で大きな資本を動かしている。経済ではそれをレバレッジ、てこの原理という。最小の力で最大の効果を生み出すのが投資の基本だ。
資本主義教の教祖であるアメリカが押さえている沖縄に、興味を持たないほうが馬鹿ではないか?ビジネス教の信者失格である。わかる人間は、311以降特に沖縄に投資を加速している。時代の流れを敏感に感じる人間は、沖縄をテーマにしつつある。エウレカセブンという人気アニメの最新作は沖縄に住んでいる少年が主人公だ。沖縄という言葉が日常に触れる機会は確実に増している。どうして沖縄というキーワードを使うのか考えてみてほしい。どんなイメージがあるのか、そうしたイメージが投資においては重要だ。イメージこそが、価値を左右する。株式市場は美人投票とは本質をついている。
沖縄に支社を作る人、移住する人、理由は人それぞれだ。花粉がないからとか、放射能が怖いからとか、地震がないからとか・・・。でも実は投資先としても魅力があることはまだまだ知られていない。気付いてる人間はとっくに投資をしている。美味しい話は表には出てこない。出てきた時には、売り時だからだ。しかし、長期的に見れば沖縄という島の価値が上がることは間違いない。
土地でも会社でも人でも、投資の基本は同じだ。まだ気づかれていないだけで、実は価値が眠っているのが一番投資効果が高い。先程あげた中で、一番投資効果が高いのは人だ。一人の人間が自分の価値に気が付くだけで、どれほどの価値を創造できるようになるだろうか?経済も所詮人が動かしているのだから、本物の価値ある人間が一人でもいれば、その人間を中心として経済圏がうまれる。アーティストの例を考えたら分かりやすいだろう。レディーガガひとりでどれほどの経済圏が生れたことか。
ダイヤの原石を見分けられる知恵ある人は少ない。大抵の人にとってはただの石ころだ。見分けられないのだとしたら、自分の役目はなんだろうか?世の中は不平等だ。ダイヤの人もいれば、本当にただの石炭の人もいる。良い悪いではない。ただ、石炭は石炭として燃える覚悟さえあれば、本来の自分以上の力を発揮できる。
一人で燃える分にはただの火だが、タイミングと場所さえ用意されたら、とんでもないキッカケを作ることもできる。例えば、爆薬と繋がった導火線に火をつけるのだとしたら、ビルひとつ解体する力のキッカケを作ることもできる。
話を戻そう。沖縄という価値も活かすことができれば、世界に大きなインパクトを与える可能性がある。政治的にも、経済的にも、文化的にも、地政学的にも、沖縄には大きな可能性が眠っている。橋本市長も、沖縄で同じことをしていたら、もっとアメリカも中国も巻き込んで、国政にでる必要を感じなかっただろう。
海外留学などするくらいなら、沖縄に住んで、軍のエリートと交流したらいい。世界情勢の勉強は、彼らに聞くのが一番だ。当事者なのだから、一番の情報を知ることができる。沖縄にいても、積極的に交流する人は少ない。ITだって、元々軍隊の技術からきているのだから、シリコンバレーに行くよりもよほど勉強になるだろう。
人の行かぬ裏道だからこそ、世の中の意外な本質が見えたりするのだ。いつも異端者が新世界を開くのだ。日本の中で、他に異端の地があるだろうか?その価値がわからない人は、豚に真珠、猫に小判としかいいようがない。
沖縄のほかに、どこに希望の光があるのか、逆に聞きたいくらいだ。ビジネスの世界に夢があるか?量子コンピューターを作って世界を変えるぞ!くらいの意気込みだったら、それはすごいと納得する。
でもそんなことに、資金も人もつかないことは誰もがわかるだろう。本当の価値ある夢は誰も追わずに、どうしようもない食い扶持を稼ぐためだけに一生懸命。一体そこに人生を賭ける意味があるのか?世界の問題に自分なりに向かう意識はないのか?
日本人だからこそできることを強く意識したら、もっと違う世界が見えるのではないか?我々は、そんな意識のある人間たちと邦創りをしているのだ。そうした人間たちが集まる場所が沖縄という地なのである。価値ある人間が集うのだから、価値が出ないほうがおかしいのだ。

考察

いざというとき、柱がある人間は強い。核となる信念や信仰がある人は、困難や問題に対しての抵抗力がある。人生を意味づけするのに、宗教や哲学は強い力を有する。意味を感じられたら、困難や問題を心の儲けの種にできてしまうからだ。
世界をどういう枠組みで見るか、自分自身を世界の中でどういう位置に置くか、そうした視点を持っている方が、何も考えがない人よりも強い。逆に、何も考えないで、無でやり続ける選択肢もある。中途半端が一番厄介だということだ。現代日本においては、馬鹿正直にやり続けて報われる環境はない。だからこそ、自分たちはそういう愛すべき馬鹿が活かされる環境を作っている。真面目なものが報われる世界を、まずは自分たちの周囲から作っている。
器用で思考しがちな人であれば、あえて不器用にひたすら体を動かしてみる。自分もどちらかというと思考しがちだ。自分たちはワークという手段を通して、自分と向き合う体験を積んでいる。
先日、自分も一人でプール掃除をした。普通に考えたら、水をくみだすのもポンプを使うだろう。そこをあえて、バケツを使ってくみ出す。バケツを使う方法も色々やってみる。腰を入れて連続してくみ出してみる。はたまた、一つ一つコップですくってバケツ一杯にしてみる。ただ、綺麗にすることが目的なのではなく、そのプロセスを体験することで、自分の糧にできるかどうか、自分のもうけにできるかどうかを自分に挑戦する。そしてそのプロセスが美しいか?を意識することで美意識が磨かれる。こうした作業自体がストーリーになり、自分を表現するアートとなる。
信仰は依存へとつながりやすい。ただ、宗教団体に簡単に所属して、そこに埋没することは、人間の集団化、個性の放棄へとつながる。一人一人の意味、個人の価値を希薄化してしまう。同質性に依存するのは楽だし、安心ではある。皆で経済活動に励んでいる現代をみれば、経済教の信者がいかに多いことか。ビジネスしていれば安心安全である。であれば、それを逆手に取ればいいのだ。相手の力を利用する合気道のようなものだ。利用されるか、利用するか、器の大きさが立場を決める。同質化していたら、利用される羊のようなものだ。牧場の羊のように暮せば、日々の心配はないかもしれないが、ある日突然運命が相手によって決められてしまうことがある。毛だけ剃られているつもりだったのが、ジンギスカンが流行って、命まで取られることになるかもしれない。
本来、人はこの世に生まれ、家庭や学校で教育を受ける中で、その国特有の文化や風習を身につけていく。個人の習慣の中に、宗教的な要素が育っている。だからこそ、先ず個人が習慣という無意識から脱出することが始まりとなる。その人の存在の意味、役割、使命が問われるのは、無意識から意識的な生を生き始めてからになる。
自分自身としっかり向き合った人間には、その個人の能力が最大限発揮できるタイミング、場所が用意される。その時には、捨て去った体験さえも生きてくる。捨てた時に初めてそれは使えるようになる。この意味がわかるだろうか?
日々個人が、自分自身とワークを通じて向き合い、そのチャンスを待っている。 だからこそ、チャンスの時には真剣勝負!待ったなし! 生きることに懸命になる。いつもあるわけではない、そのチャンスを決して無駄にしないように。
自分という人生のストーリーの脚本や演出が自分の発想だけでは限界がある。タレントにもマネージャーやプロデューサーが必要なように、どの人でも自分より他人のほうが、その人の価値が本人よりも見えることがある。人が活かされるタイミングも、自分で作る部分と人によって作られる部分とがある。どちらが欠けてもうまくいかない。必死で努力して信じてくれる姿を見たら、託される方も燃えるのが人情だろう。適当にやっていたら、誰があいつのために準備してやるものかと思うのが当然だ。
努力も体験もしていない人には何も見えない。ではどういう努力や体験をしたら、本質を見抜く力を身に着けられるのか?そのような問いを自分に問いかける人は少ない。自分が知らない世界に飛び込みたいと願ったとき、知恵がどういう価値を持つのか初めて知ることになる。そのスタートラインに立つまでは、知恵は豚に真珠なのだ。