狐と狸の化かし合い

 世の中は、嘘や綺麗ごとであふれている。だから面白くもある。残念なことは、面白く興味深い嘘や、夢を見られる綺麗ごとが少ないことだ。レベルの低い嘘では、聞かされるほうもすぐに相手の目的が透けて見えて、嘘っぽいけど乗ってやろうかとは思えない。どうせ騙すなら上手にだましてほしいのが人情だろう。

東電の一連の騒動を見ていると、なんて馬鹿なのだろうと感じるに違いない。勿体ない。折角、このピンチを活かして、さらに巨大企業になれるチャンスにも変えられるのに、機会を活かそうとする意思がないから、綺麗ごとも上手な嘘もつけない。どうせ払わなくてはいけないものならば、何かに役に立つと信じたいのが人情だ。
千両役者がいないから世間という舞台はしけた三流芝居しか上演されない。そういう意味では、一流の脚本家も演出家もいないのだ。また観客も目が肥えていないから、三流芝居のほうに流れてしまう。一流の良さを伝えようと芝居案内を作っても、観客はそんなものより三流だけどわかりやすくて刺激的な案内を求めてしまう。まさに、鶏が先か、卵が先かだ。
答えを言えば、順番などない。どれも大事に決まってる。役者だろうが、脚本家だろうと、演出家だろうと、観客だろうと、目の前のことを真剣に楽しもうとするだけで、本物は本物を知る。勉強して、痛い経験を積んで、目が肥えてくれば、自然とモノゴトの良し悪しは見えてくるものだ。楽な道を選ぼうとするから、いつまでたっても狐と狸に騙される。
楽しようとする心があるから、その心の隙に、悪霊は入り込む。不安にさせ、簡単な判断へと導かれる。人を信じるより疑うほうが簡単だ。悪霊は仲間が欲しいのだ。自分と同じように、人を疑い、いつも不安な状態の仲間が欲しい。自分が幸せでないから、他人には幸せになってほしくない。足を引っ張ることが仕事だ。誰も得がないのに、どうしてこんなことをするのだろう?と思うことはないだろうか?(これもすぐにはわからない視点だが、原点や感謝を忘れなければわかる)悪霊は嫌がらせが目的なのだから、悪霊は悪霊を産むことで得になるのだ。
嘘も方便という言葉もある。これは前から書こうと思っているテーマだが、伝えるのが非常に難しいためにタイミングを見ている。少しだけ書くと、自分の利益のためについている嘘は、どこまでいっても嘘にしかならない。相手が真理へと到達し、救われるのだとしたら、それは方便になる。最後になるまで嘘なのか方便なのかわからない。だからこそ難しい。
人は誰しも本当は救われたいと同時に救われたくないという、相反する気持ちを持っている。楽したいからだ。本物になろうとするならば、苦労は覚悟しなければならない。怠け者からすぐに悟ったものになれるわけではない。自分もお気楽な人間から菩薩を志すまで、方便によって導かれてきた。嘘といえば嘘だが、逆に信じ続けたお蔭で嘘が本当になった。
「嘘から出たまこと」という言葉の通りだ。
ブッダもキリストも、詐欺師やペテン師だと言われた。ベンチャー企業でも、夢を語り、成功すれば立派な人。失敗すれば、実力がないとか、悪く言えば詐欺師となる。たちが悪いのは、本当に信じて実行して失敗した人と、最初から騙すつもりで失敗した人との見分けがつきづらいことだ。表面だけ見ていては騙される。
また騙す人のほうが、上手な嘘をつくものだ。自分すらも騙しているから、本人には騙すつもりはなかったと堂々と言うだろう。騙せない人間は、根が真面目だから逆に責任を感じすぎ、背負いすぎて失敗しやすい。真面目脳だけではうまくいかない。
世の中は、表面しか見ない人が大半だ。綺麗なスーツを着て、流ちょうに話して、理路整然と説明する人間のほうが信用されやすい。失敗しても堂々とされたら、仕方がなかったのかと納得してしまうものだ。そういう人は、次のネタを忘れない。そしてまた次こそはと何度でも騙されるのだ。
勝てば官軍とはよく言ったものだ。負けてしまえば賊軍。詐欺師扱いなのだ。最初からどこかで負けてもいいと思ってやっているのが、狐や狸たちだ。将来はどうなっても、目先のご飯が確保できればいいのだ。
今年の決算さえ赤字でなければ。自分が関わっている時だけ嘘がばれなければ。そんな気持ちでやっているから、東電もオリンパスも救われない。ピンチはチャンスなのだ。今こそ、誰もが驚くビジョンを出して、目先の利益ではないことに投資したらいいのだ。どうせ赤字になるのだとしたら、とことん出したらいい。その勇気がないだけだ。
これは彼らに限った話ではなく、今を生きる私たちの問題だ。何も失うことなど本来はないのだから、勇気をもって、狐と狸の化かし合いから離れることだ。より高度な仕事をする上では、狐も狸も必要になってくることも分かる。この世に無駄はない。すべて必要なのだ。狐と狸が増えたら、それを餌にする猟師になればいい。
狐と狸が化けている人間なのか、本当の人間なのかを見極める目を持たないと、猟師にはなれない。イエスが弟子に、
「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と話した意味がこれでわかるだろうか?

子供の目

人は我欲だけでは限界がある。自分のことだけでは頑張れない。大義や人を背負うことで、自分の潜在能力が引き出される。人は人の生きざまを見て感じる。恥ずかしくない生き方とは何だろうか?美意識が問われる。

信念を持って生きるには強さがいる。責任感の強さが、その人の強さになる。顔も見たこともない人のために一生懸命になれるだろうか?どこまで責任を感じられるかで強さは変わってくる。

フランスでユダヤ系子女を狙ったテロが起きた。今も中東で起きている、パレスチナ子女に対する弾圧への抗議だという。なんと切ないことか。どうしようもない無力感から、憎しみの連鎖はいま世界をおおいつつある。子供は未来の宝。子供を大事にしない社会は長続きしない。まして自民族だけの子供を優遇し、多民族の子供を虐げていては、敵が増えていくだけである。会う人を味方にしていかずに、敵にしていく人に未来はあるだろうか?

アタリマエのことが当たり前でない社会。今回の事件は遠い国の出来事だけに、他人ごとに思えるだろう。他人ごとだからこそ、当事者にはできない見方ができる。離れているからこそ、見えることがある。すべては根本で繋がっている。お節介が必要な世の中なのだ。
自分の子供が殺されたとしたらどうだろうか?報復して憎しみの連鎖を産み出すだろうか?嘆き悲しみ苦しみと共に生きるだろうか?自暴自棄になるだろうか?子供たちのためにいま自分ができることは何だろうか?311以降多くの方がそう感じているに違いない。
目の前の子供に恥じない生き方をしているか?子供は親たちの背中を見て育つ。誇りに思ってもらえる親だろうか?父としての役割、母としての役割、それぞれ違う役目がある。子供たちのために素晴らしい社会を残せるか?今を生きる世代の仕事である。子供たちの目は正直である。子供の目に映る姿が、鏡のように自分たちにかえってくる。
男は子供が産めないので、創造行為の代償作用を求めているという。価値有る人生を創造することが、社会にとっても家族にとっても有意義なことだ。価値有る人生を創造しようと思えば、傷つくことを恐れてはできない。傷つくことは磨かれることだ。同じ事を別の言葉で表現しているだけにすぎない。傷つくと取るか、磨かれたと取るか。
必死で磨きまくらねば魂は輝かない。一人ひとりが輝く社会こそが、素晴らしい社会だ。子供たちのために何とかしなくてはという想いは、自分が親になって初めてわかったことだ。産んでくれた母と子供には感謝しかない。そのお陰で今日も自分は創造の決意を日々更新できる。
生まれてきてくれて、ありがとう!そして、おめでとう!

本物の価値

 どの世界でも道を極めようと努力している人には共通している特徴がある。本物は本物をすぐ見抜く。偽物はそれがわからない。自分も数多くの失敗をして、少しづつ本物を学んできた。本物ほどわかりづらい。

何年越しで、人によっては数十年越しで、自分の担当する道で革命を志している人々がいる。いまの権威に挑戦し、破壊して新たな道を創造しようと淡々に進めている。表面は淡々とでも、魂は熱く燃えている。一見、そんなことを志しているとは見えない。
自分から言わせれば、そういう人物に投資することが一番投資効果が高い。今の投資は短期的な利益しか見ていない。長期とは最低100年、長くて千年、人によっては1万年のスパンで見ている人もいる。道を追求している人は、はした金よりも、道を追求して得られる精神的なリターンのほうが素晴らしいと知っているから、金では動かない。道を極めようとしたことがない人には一生涯わからない境地だ。
偉大な人物には不遇な時代やひきこもりの時代が必ずある。そうして内省して熟成されなければ、本物にはなれない。こんな話を聞いたことがある。
明治維新の英雄、桂小五郎は優秀な官僚だった。次から次へと藩の仕事を頼まれ、優秀だからこそ、仕事をこなしてしまう。すると目先の仕事に益々忙殺されることになる。そこである人物が彼にこう言った。
「このままでは使われる役人になるだけだぞ。仕事は自分がやらなかったとしたら必ず誰かそれを埋める人が現れる。仕事を断る勇気を持って、自分の時間を作ることが大事だ。そうでなければ本当の仕事はできない」と。素直にその助言に従い、実行した桂もスゴい。
いま自分が手がけている仕事をやめて、何の目的もなく内省する時間をとれる勇気がある人は少ない。そうはいっても家賃がとかカネのことを言い出すのが関の山だ。自分でその選択を出来る人は素晴らしい。
いまやっていることが、本当に魂の喜びに繋がるのか、何のために生きているのか、自分の使命は何なのかをゆっくり考えたことがない人が大半だ。自分が中心だと思って社長業をしている人であっても、実態は会社に使われているようなものだ。
どうでもいい情報の渦に巻き込まれ、自分の人生を生きていない。くだらない情報に一喜一憂してしまう。本物でなければ、メッキは剥がれ、無様な姿をさらすことになる。まぁ、それが無様だと感じる感性がある人が少ないから、本人も周囲もそのことに気が付かないだろう。
美意識はだからこそ重要だ。どんな道でも、美意識なければ極めることはできない。お金があっても、使い方に品がなければ馬鹿にされるだけだ。お金は稼ぐより使うほうが難しいのだ。
信念のために痩せ我慢出来なければ本物にはなれない。目先の欲に負けずに強く生きている人と会うと勇気をもらえる。
この前あった方は、確信犯的に実践してきた人だった。教養ある知識人になるには20年は最低かかると覚悟して今まで努力してこられたのだ。頭は良いのだからいくらでも出世の道はあっただろう。それを投げ捨て、信念に生きる。そんな人物にあったことあるだろうか?
自分たちの周囲にはそのような本物の人物が集まりだしている。そうした人たちと話をするだけで楽しい。お互いの道で苦難を乗り越えてきたからこそわかる実感。あ・うんの呼吸のように話が早いのだ。
利益ではなく、価値を考えたらいい。どれほどの価値なのかを。それがわからない人は、わかるまで苦労するしかない。体験していない人に教えることは不可能だ。苦労は買ってでもしろと昔の人はうまいことを言ったものだ。
楽な道だけを選んでいたら、絶対に本物の価値を知ることはない。アップダウンがあるからこそ、物語は面白いのだから。勿論、そのまっただ中にいる時はそんな風に感じる余裕はないだろうが、振り返ってみたら、辛いことこそ良い思い出になるものだ。

現代病

現代に生きる人々が普通と感じている考え方は、時代が違えば普通ではない。かつて世界は恐れ多いものであふれていた。例えば地震はただ揺れるから怖いとか、災害だから嫌だとかいう意味ではなく、神の力を感じておそれていた。何かの意味があるに違いないと感じていた。
現代では、科学的思考によって一応は数々の自然現象も説明ができるようになり、その仕組を再現、利用することで文明を発達させてきた。その力はめざましく、人間を中心とした科学信仰を生み出した。アタリマエのこととして意識していないが、現代人は科学的思考によって洗脳されている。
全体を部分に分けて、部分ごとに理解していく。例えば、仕事をしてると、全体の数値目標を設定し、部分ごとに目標数値を決める。そして、目標を達成できない問題を解決しようと思考し、その裏側にある想いというものを感じる力が欠如してしまう。想いは見えない。そんなことより、見える化が大事になってくる。
仕事に限らず、何かを問題と捉えたら、それは解決しないといけないものとしてしまう。心の葛藤はどんなに細分化しても解決はできまい。しかし気持ちでさえも、操作可能なものとして扱おうとする。
問題の根っこを見つめることなしに、表面的なことをやっても解決はしない。そもそも、問題ではないかもしれない。問題と考えてしまう、考え方自体に原因はあるやもしれない。マッチポンプのように、問題を創りだしては解決する。何かが変わるが、本質は変わらない。
何もやらないと焦ってしまう。時間がただすぎることに罪悪感を感じてしまう。産業革命の頃から、時間は直線的な過去・現在・未来という流れになってきた。始りから終わりへの流れ。自然の四季のように、循環する時間においては、螺旋状に時間は流れていく。
また流れてくるなら焦ることはない。ただ、それは同じものではない。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」方丈記
同じように見えて違う、永遠が今にある心境から、ワビサビといった日本人の感覚が生まれてきたのではないだろうか。
別に科学的思考をやめろと言っているわけではない。それだけしか考え方がないのでは、狭い視野に陥ってしまう。視点を変えるだけで違う世界が見えてくる。考え方は一つの武器である。武器は多いほうが、状況に応じて最適な選択ができる。一つしかない武器を無理やり使おうとするから、余計に問題が増えるように見える。
仕事も人生も流れがある。その流れを断ち切り感じづらくしてしまうのが、現代病の特徴だ。世界を狭くし、可能性を見えなくしてしまう。世界を広くするためにも、自分と違う世界の人達とあったらいい。違いの中から、新しい流れが生まれる。

お気楽から菩薩道へ

 ここ数年引きこもりのように、初めて会う人たち以外とはあまり会わないできた。真剣じゃなければ話をしない覚悟だったので、以前のお気楽な自分を知る人達からみたら、どこか違う世界に行っちゃったなと思われていたようだ。
外に向かうより、内に向かったお陰で、結果を早く求める現代病に、自分が陥っていたことがわかった。スピード優先の世界で生きてきた弊害。短絡的になり、表面しかみられなくなってしまう、視野が狭くなるのは、車を高速で運転をしている時と同じだ。
風景を楽しむ余裕すらない。いま自分がどこにいるかじっくり落ち着いて考えることも無駄にみえてしまう。刺激的なジェットコースターも楽しい。でもそればかりでは勿体無い。草花を愛でることも、風景から偉大な感覚を感じることもできなくなる。次から次へと変わる景色は好奇心を満たしてくれるのも間違いない。旅の楽しみ方は人それぞれだ。いま自分は何を感じたいのか?本当に感じたいものは自分の中に答えはあるが、ない。気づかなければあってもないのと同じだからだ。
その他にも、絆や責任、想いという、人が真に動かされるものを感じることができた。そして、信念を持って人に向かった結果、摩擦が起こり、心も鍛えられた。自分で言うのもなんだけど、大分強くなった。事件の渦中にいてわかったことは、本当に世の中嘘ばかりでいい加減なモノだということ。だからこそ、だったらどうせ誤解されるのだから思い切りやったほうがいい。その方が後々伝わる。中途半端にやると何も残らない上に、誤解されて誰にとってもよくない。だったら何もしないで引き篭っていたほうが断然いい。
人の数だけ正義がある。相手の言い分もわかる。だからといって、認めていたら利用されるか、何も成し遂げることはできない。(注:自己欺瞞に注意)
闘いがあるからこそ、人は磨かれる。そして形がなければ、多くの人は認めないのも事実だ。(形があるから誤解するのもある)
大衆は、いちいち本質を考えたり、真理を知ろうとはしない。そのまま受け取るのが楽でいい。情報を送る方も、そのまま考えないで伝えたほうが楽なのだ。
トコトンやっていたら、あとでいくらでも評価は変わってくる。歴史を見ていたら明らかだ。評価されたり、落とされたり、そんなものを気にしていたら何もできない。世間に対していい顔をしたかった自分にも、事件のお陰で向き合うことが出来た。普通の道を閉ざしていただいたお陰で、背水の陣で頑張れる。去年で本当によかった。それまでの体験がなければ、本当に終わっていた。こんな呑気にBlogなんて書いていられなかっただろう。
どんなことがあってもブレない仲間や、本質真理を観る人たちに救われた。それは自分たちが本質真理を求めて、ブレないように真剣に生きてきたからだ。必死で求め、信じ続けることで道は拓けると改めて思う。それをやり続けるのが難しいのだ。
例え表面では敵に見えても、その存在があったから、頑張れたり、意識が高くなれる。普段は、嫌いだったり、ムカツイていたりするが、改めて考えると心の中に意識する相手がいることでモチベーションが維持できていることに感謝できる。いつかはお互いこの世を去ると想うと、遊び仲間のようで、嫌だけどなんか愛しい複雑な気分になる。
お気楽だけだったらこんな気持ちにはなれなかった。試練は人を変える。そのキッカケをどう活かすかは自分とその周囲にかかっている。自分だけでもないし、周りだけでもない。自分が変われば周囲も変わる。周囲も変われば自分も変わる。鶏が先か、卵が先か。
好きな方をいきなり持ってくるのが錬金術だ。環境を変えてもいい。自分がいきなり変わってもいい。自分が驚くか、周囲が驚くか、どちらにしても想像したら面白いじゃないか。人生は楽しんだ者勝ちだとつくづく感じる。 
気付きの信号を送ってくれる存在に感謝。ミロクの日に記す。

視点の拡大

目の前のことにハマりすぎると、視点が狭くなる。日々の仕事に埋もれてしまうと、何のためにそれをしていたのかを忘れがちだ。大事を忘れて小事にハマりすぎると、大事を失うことにもなる。

 かといって、小事をおろそかにして、大事は成し遂げられない。基本は目の前のことができなければ、その先もない。ただ、時には小事だからこそ、大事のために優先順位を考えることも出てくる。目の前の仕事をやり遂げようとするあまりに、大きな仕事のチャンスを失っては元も子もないからだ。
 コツは、自分で気付こうとしないことだ。
自分ではどうしてもハマりやすい。客観的に見てくれる仲間がいると心強い。
問題にハマっていないか?
いま優先すべきなのか?
意識を向ける先が違うのではないか?
問題は単独では存在しない。つながり合っているからこそ、そこだけを見ていては「木を見て森を見ず」となる。バタフライ効果のように、全然関係ないと思われることが関係してるかもしれない。日本流に言えば、風が吹けば桶屋が儲かるだ。
桶を何とかしようとしても、風が吹かなければどうにもならないのかもしれない。見えないこと、分かり難いこと、一見遠回りに見えることから挑戦するのがいい。難しいことからやるべきだ。簡単なやり方はいつでも出来る。いつでも出来ることからやるのではなく、いつでも出来るからこそ、それを取っておいて、難しいやり方から挑戦するのだ。
1+1=2
当たり前だ。しかし、
1+1=6
1+1=11
にならないだろうか?と発想を飛ばしてみる。すると、思いがけないヒントが見えたりする。そこから独創は生まれる。
ビジネスマンだからビジネス本しか読まないのは世界を狭くしている。関係ない世界と触れることで、新たな気付きが得られる。
この世の真理を最初に見出したのは、宗教や芸術だ。感性が先で、あとから論理がやってきた。科学にしたって、先に仮説があって検証してきたのだ。だからこそ、美意識が必要なのだ。ビジネス上の問題を解決するのでも、センスがあるのか、センスがないのかで、全然違ってくる。
どの世界にいたって、道を極めるには苦悩が必要なのだ。どんな道も楽ではない。センスは簡単には身につかないのだから。