経済の世界から、日本を変えようとする人たちもいる。それが悪いとは言わないが、自分はそこでは燃えられなかった。なぜ自分はただの経済に飽きてしまったのか?
飽きっぽい自分は、熱心になれるものを求めて、会社を起こし投資をしてきた。しかし、どれもこれもすぐに飽きてしまった。好奇心が満たされるだけで魂が燃えないのだ。
「飽きるということは、逆に言えば、もっと他に夢中になれる何かがあることを無意識に知っているからだ」と如来に言われた。
飽き続けて、やっと飽きないものにたどり着いた。しかし、そこにたどり着けたのは、まるで召集令状のように、有無を言わさず、経済の世界から魂の世界へと連れてこられたからだった。使命は自分ではわからないものだ。人に導かれてたどりつける。
結局、経済の世界でどんなに極めたとしても、経済は政治の影響力に置かれている。ライブドアや武富士がいい例だろう。法律で規制されてしまえば、蛇口を閉められてしまうようなものだ。逆に、好きなところで蛇口を開けることもできる。だから政治家に大企業は献金するのだ。消費税がいま世間を騒がしているように、政治であれば企業とは違い無理やり集金できてしまうのだ。いざとなれば罰する力まである。そんな力があるのだから、一生懸命知恵を凝らして、なんとか納税したい気にさせるなどの工夫は生まれようがない。まして足らなければお札を刷れるのだから無敵だ。
政治は経済の論理を超える。経済的に不都合だとしても、国のためになるという信念があれば、経済なんてあとでどうにでもできると考えている。どんなに異論、反論、文句が出ようとも、信念を貫く者が政治家だといわれる。経済の論理で政治をやったら、ただの利権政治になり、それが政治屋だ。
政治決断のいい例がある。80年代のバブル経済を終わらせたのは、日銀の三重野総裁と橋本龍太郎だ。今では、急激な金融引き締め政策は失策だったと言われている。そのお蔭で日本は失われた10年を過ごしたと。彼らは馬鹿だったのだろうか?なぜゆっくりと軟着陸させようとしなかったのだろうか?
彼らには信念があったのだ。ゆっくり着地をさせたら確かにショックは少なかっただろう。しかしバブルで退廃した国民の精神にはショックが必要だったのだ。このままでは国民の精神は荒廃し、日本が壊れるとおもい、あえて急に経済の流れをストップさせたのだ。形のないものを基準に決断し、だからこそ日本人は大切なことに気が付き、経済もまだ維持できたのだといえるのだ。
やり直しや言い訳はできない。多くの人間に影響を与えるからこそ、そこには経済の論理を超えた政治の信念がある。では政治の信念はどこから生まれるか?結論から言おう。政治は宗教哲学に影響されるのだ。
どちらが正しいとか間違っているというのは、どこに基準を置くかで変わってくる。ただの金儲けを考えるなら、その基準は簡単だ。しかし、民族としては何を選択し、経験をするべきなのか?途端に意見はまとまらなくなる。
経済でも政治でも、人間たちの世界のことであれば、対策というものが打てる。その対策が有効かどうかは、本当は問題にしていない。本当の対策など誰も求めていないし、理解できない。表面的な対応をすれば、みな満足するし、言い訳がたつのだ。
例えば、失業が多ければ、失業対策のためにあれこれの施策を求め、実施する。それでもうあとは、それがいいとか悪いとか、他に違うことをしろとか、50歩100歩の話しかできない。本当に失業が問題なのか?仕事があっても生き甲斐がない人もいる。仕事がなくても生き甲斐から仕事を作れる人もいる。結局は人の問題は千差万別で一律に解決できるものではない。それを言ったら、大衆は理解できないから納得できない。お役所仕事の範疇を超えるから何もできなくなる。とりあえずホームラン(本当の問題解決)はなくてもヒット(少しは役立つ対策)を狙って、やってみようということだ。
人間は対策を立てねば心配でしょうがない生き物だ。では、対策が立てようがない問題があったらどうするだろうか? 自分たちではどうしようもない地震や津波などがおきるとき、人はただ黙って受け入れるのではない。不安を何とかしてコントロールしようとするのが人間だ。
では、一体なにをするのかというと、土木工事もするが最後は厄除けの儀式を行うのだ。結局は神頼みで宗教に戻ってくる。お正月の参拝がいい例だ。どこかで神様仏様に救いを求める。
地震災害に対して、何とかその影響を抑えようと、地震の神に対して祈祷する。ではその祈祷が、日本なのにキリスト教やイスラム教の方式で祈祷していたとしたら、その祈祷は効くと感じるだろうか?民族に影響を与えようとしたら、宗教的要素は欠かせない。
宗教は民族に影響を与える。宗教は習慣だ。お墓参りや行事や儀式を通して、人の無意識に影響を与えている。いまや宗教も形骸化してしまった。意識していないからこそ機能する仕掛けもあるが、現代ではお祭りの意味も分からず、ただ騒ぐだけになってしまった。お祭りは神事のなんたるかなど意識もない。
新しい祭りが必要なのだ。自分たちの祭りは、人が生まれ変われるジョイントを中心に行っている。宗教のようだけど宗教のように教義や主義があるわけではない。宗教であって宗教でない。だからこそ最先端なのだ。
これから宗教哲学がますます注目されてくる。我々はさらにその先を言っている。そうでなければ、世界がいま抱えている宗教の争いの間に入ることは出来ない。これからアジアは儒教の経済圏ができるとも言われている。
そもそも、経済という言葉も、儒教の「経世済民」からきている。原点から経済を理解したとき、経済で大成功したければ、人とは何か?自分とはなにか?を理解するのが早道だとわかる。難しいことから挑戦すれば、最初は大変だが後で楽できる。
2月に入ってから、もう経済効果で500億以上の仕事をした。嘘かハッタリか、これからじっくり見ていてほしい。見えないところから固めているので、見えた時には潜水艦のように驚くに違いない。