空想が世界を変える

「新時代は、アニメ脳とかバーチャル脳とかいうような人種が世界を創っていく」と以前書いたのを覚えているだろうか?
新世紀エヴァンゲリオンの秘密」という記事だ。たまたま友人と、時代と若者についての会話をFacebookでしていたときに、アニメ脳について書いたら、面白い感想をくれた。
「コスプレは特殊な人だけの趣味嗜好だと思ってたけど、新たな時代の価値観を伝える先行指標であったのかぁ。」と。以前、エヴァンゲリオンを題材にアニメ脳の記事を書いたのはもう二年も前のことだ。
改めて、アニメ脳について書いてみたい。アニメ脳とは、現実より空想が優先される脳だ。3次元(現実)の人間より、二次元(アニメ、ヴァーチャル)のキャラクターに魅かれる。現実にいないからこそいいのだ。
ファッション誌のモデルに憧れて、同じような洋服を買うのと一見似ているが、キャラの内面や設定をより重視するのがアニメ脳だ。そのアニメの設定(自分の空想含む)と現実をシンクロさせたくて、コスプレをする。恰好だけでなく、その世界観の中で、キャラクターの性格も同期させたいのである。 
空想を現実とシンクロ(同期)させたいので、リアルなガンダムが登場すると動かなくても嬉しい。現実にいながら、空想にいる。が、自分のシチュエーションがつまらないから、空想に逃げている人が多いのも確かだ。現実よりも空想世界のほうが面白いのだから、夢中になるのも無理はない。
「あの世界に登場したい」現実の世界を、ディズニーランドにしたくてたまらない。その世界にどっぷりと浸ろうとする。空想に浸れば浸るほど、逆にリアルにそれを感じたくなる。
本当は現実ほど面白い物語はないのだが、目の前にありすぎてそれに気が付かない。空想世界は、作られた限りのある世界だから、すぐに消費しつくしてしまう。なので、その題材を借りて、新たにストーリを作っていくのが同人誌の世界だ。
しかし、空想はどこまでいっても空想である。現実の深みに比べたら、圧倒的な体験が情報量としてある。情熱的な仕事の例として、こんな話を聞いたことないだろうか?ただ石を積んでいる仕事とみるか、教会を作っているとみるかで、仕事のやりがいが違ってくると。
教会という偉大な存在を作るプレイヤーとしての自分。これも空想を現実に持ち込んでいる例だ。
ヴァーチャル物語の登場人物になりきる人が、燃えてその世界を更につくりあげる。たとえば 、菩薩劇場という物語が、現実に展開している。その意識がない人は、自分がその物語の登場人物であることに気付かない。現実の世界は即興劇のようなものだ。意識しない人がいても、その人は意識しない人の役を担うことになる。
この世界では、皆が役持ちで、自覚して動きだせる環境でもある。自覚したら、ただの脇役から主役へと躍り出る。大きな脚本のもとに、いまこの瞬間に物語がつくられている。役を譲り合ってたらストーリーにならない。
アニメ脳の人間たちは、現実世界の動きに興味を失っているが、現実が物語を超えることがわかったら途端に燃える。たとえわからなかったとしても、一瞬でもアニメの世界を現実に感じたら熱狂する。それが、単純に言葉のフレーズに惹かれ、その世界に酔っていただけだとしてもだ。
江戸時代の日本人もオタクのような職人が、あれこれ技を競っていた。そのお宅芸が世界に受けたのだ。葛飾北斎がいい例だ。今も昔も日本は最先端の視点を持っている。アニメ脳のなかにヒントがあるのだ。
今の自分の状況をどんなアニメや漫画、映画のシーンと同期させることができるか?同期できたら、その世界の中で自分が脚本を書けるのだ。こんな楽しいことはないではないか。イメージ持っている人間のほうが、現実をリードするのだ。これも錬金術なのである。

アルケミスト

 先日、「錬金術の秘密」を書いた。それを更に深めてみる。まず、紙コップと聖杯の例えを書いたが、実は聖杯の対極が紙コップではない。聖杯の対極は、汚物入れみたいなヘドロカップとでも名付けよう。

聖杯が光の象徴だとしたら、闇の象徴としてヘドロカップがある。ヘドロが次々と湧いてきちゃうし、臭いので蓋をする。しかし、金じゃないと蓋できないのだ。蓋ができないと汚物を垂れ流し続けてしまう。貧乏人だと問題が露骨にならざるを得ないということだ。金持ちは問題をお金で解決できる。それは金で覆われて一見綺麗な聖杯に見える。が、実はヘドロカップでしかないのだ。見た目で騙される罠だ。

聖杯はパワーの象徴でもある。パワーをどう使うかで、聖杯にもヘドロカップにもなるのだ。更にわかりやすく例えるなら、お金もパワーだ。そのパワーをどう使うかによって、光にも闇にもなる。
錬金術とは本来、世界の神秘、人間の神秘を追求するところから始まった。人を錬金するという視点でみてみよう。
AがBに1千万投資したとする。普通の視点であれば、1千万が5千万とかに増えたら成功。無くなったら失敗と見るだけだろう。しかし、金額が増えたとしても、それによってBもAも慢心したとしたら、汚物を生み出しているのと同じだ。同じ慢心の汚物だとしても、この場合Aのほうが罪が重い。Bを慢心させてしまったキッカケを作ったと見るのだ。成功したとしても罠はある。
であるならば、失敗したとしたらどうだろうか?Aはそんなものだと諦めたとする。Bは自信を失くす、もしくはAに対してやましい気持ちを抱くとする。この場合も、AがいくらBに対して「気にしなくていいよ」と言ったとしても、Bの中では気にしない訳にはいかない。また、本当に気にしないのであれば、それはそれで罪だ。この場合も、Aのほうが罪深い。きちんとBの本質を見極めずに投資したことも、失敗してそこで諦めても良くない。
表面的な成功や失敗では見えない、無意識の功罪があるのだ。だからこそ、AはBに対して光を見せることも、闇を見せることも出来る、素晴らしいチャンスなのだ。チャンスはピンチということもこれでわかるだろうか。
成功したとしても、AはBに原点や感謝を忘れないように意識させ続ける努力が必要なのだ。そうすることで、Bは光を感じ続ける成功者となれる。
失敗しても、Bに向き合い続けて、チャンスを作り続けてあげることが大事なのだ。もういいやと諦めては絶対にいけない。失敗した人間ほど、Aから離れたがる。Aにしたって、会いたくなくなってくる。どちらも相手をヘドロに感じるだろう。
ヘドロだと思ったら、中から金がでてきた!とするのが錬金術だ。どんな人間も、金を含んでいるのだから。失敗しても向かい続けることで、ピンチをチャンスに変えられる。かえって失敗してよかったということになる。
金を出す側のほうが実は大変なのだ。人を活かすも殺すも出来るからである。そして、いっけん金持ち喧嘩せずのように、「損切りしてしまえば済む」と考えたとしたら、一番罪づくりなのだ。
視点を変えて、投資を受けたBがAに対してはどうだろうか?BがAに対して、投資をキッカケに光に導くか、闇に導くか、同じように出来るのだ。この場合、先ほどのケースよりも難易度は高い。投資するほうが大体立場が強いからだ。
上から目線の人に向かっていくことは難しいのがわかるだろう。教師と生徒を考えてみたらわかりやすい。教師も生徒を、聖杯にもヘドロカップにも導くことができる。だから聖職というのだ。
生徒が教師を導くのは一見難しい。しかし、意識が高い生徒であれば教師を導くこともできるのだ。本来、教師と生徒という立場は、人格の差で決まっているわけではない。その原点を意識して、相手に対して向かうことで、変化が起きる。
まず、相手に真意を伝えるためには、教師の意識の壁を破壊しなければならない。
「おれは教師だ。上なんだ」という意識と
「おれが投資家だ。金出してあげたんだ」という意識は、無意識にあるものだ。口では綺麗事をいうものだ。
「生徒に教えてもらっています」という感じに。
いざ、意見すると、途端に受け付けない。だから難易度が高いのだ。
人に影響を与えるというのはとても難しい。人の錬金は料理に似ている。煮立つ前に味付けるのか?煮立った後なのか?塩の量はいかほどか?隠し味は何が必要か?素材によって、美味しい調理方法が違うように、人によって錬金の方法も違う。
一人ひとりをきちんと見て、料理しないと美味しくならない。
我々は、難しいことから挑戦してきたと書いたが、生徒が教師に向かうようなことをイメージしてもらえたらわかりやすい。だから、教師になったとしたらとても楽に出来るのだ。
錬金術に興味ある人は、アルケミストから読み始めるのをオススメする。

菩薩ファンドはじめました!

以前、「本当の投資とは」で、投資の本質について触れました。更に「特別な投資をされたい人へ」という内容で、特別な投資について説明した。そして、「仕事の本当の意味」で菩薩の仕事を書いてきました。

その上で、AMEMIYAさん風にタイトルを読んで見てね。
想いを込めて「菩薩ファンドはじめました!」なんです。
そうです。いよいよ投資活動を解禁します。この冷やし中華のように、ここまで来るのに語り尽くせない物語がありました。かつての自分は、なんとなく話しもたくさん来るし、頼ってくる人を助けたいからという安易な気持ちで、投資したり人を紹介したりしていました。
そのツケを学んだ6年間でした。人の行動、行為には作用・反作用があるのです。そして、お金という物質にも、見えない作用があることを学びました。「一石三鳥」などもその学んだことの一つです。
そうした経験を踏まえて、今だからこそ、あえて投資活動を積極的に行なっていきたいと考えています。元気がなく、先が見えない社会だからこそ、希望の光を発していきます。
心の修行を重ねてきて、自分たちの価値観を共有できる仲間も増えました。敵味方もハッキリと別れてきた今だからこそ、想いのある人たちとトコトンやります。受け止める土壌ができたので、後はその土壌に種を植えたり、移植したりと生態系を創っていくイメージです。
土づくりが一番難しいのです。それをせずに、いい苗をとりに行っても無駄なのです。そして、どこにその種や苗を配置するか、美意識が問われてくるのです。オウムなどは美意識がないために、あんな結果となったのです。センスは大事です。イケてるか、イケてないかを見抜く意識につながってきます。
ITだろうと、飲食だろうと、アパレルだろうと、結局はどんな投資案件でさえも、どんな人かということにつきます。自分たちは、人との信頼関係の作り方、潜在能力の開花の仕方など、数多くの経験を積んできた実績があります。
自分を応援してくれている人たちは、資産家から学生まで幅広く、かつジャンルを問わず存在しています。世界が違う人間同士は普通なら繋がることはありません。違うからこそ、新たな価値が創造できるのです。
自分を信頼してくれている資産家たちと組んで、新しい特別な投資の仕方をしていきます。目に見える形がないと信じられない人もいます。そういう人たちにとってはわかりやすくなるでしょう。そこを入り口にして、真理を求めるキッカケとなれば幸いです。
我こそは特別な投資をされたいという人がいたら、門を叩いてください。精神的にも物質的にも豊かなコミュニティを築いてきたので、あとはこれを広げていくだけです。ひな形は完成したので、解禁します。今年は攻めていきます。お楽しみに!

宗教とビジネスの間

旧暦のお正月を迎えた。そして新月の日。今年は貴重な天体ショーも多い。自然と密接に関係していた農業時代から工業・情報化時代となるにつれ、暦(こよみ)や天体による影響を意識しなくなってきた。意識しなくとも、人は無意識にその影響を受ける。

また意識していないつもりでも、意識していることに自覚していないこともある。例えば、初詣、結婚式、お葬式など節目節目で宗教儀礼に参加している。祈るとかお祝いとか、心に関係している儀式と宗教は密接に関係している。無宗教と日本人はよく言うが、日本人ほど宗教好きはいない。ただ、それを自覚していないだけだ。
それはそうと、一般的に宗教というと怪しいとか、怖いとかステレオタイプな反応が生まれるよう、戦後は刷り込まれてきた。宗教アレルギーになるように洗脳されてきたわけだ。宗教にハマっている人は危ないとか、そこで宗教的なモノに対して拒否の壁が生まれ、冷静に考えることもできない。
よくよく考えてみて欲しい。これは何度も言っていることだが、儲かるとはなぜ信者と書くのか?製品にしろサービスにしろ、それが好きな信者がいなければ儲からない。最近ではAppleがいい例だ。アップル教ともいうではないか。
ビジネスとしてアップル目指す人でも、アップル教を理解できなければ、ビジネスとしても実現できない。多かれ少なかれ、信者がいないような会社は発展しないのである。一昔前であれば、松下電器産業が松下教と言われたものだ。
松下幸之助も、天理教に影響を受けてビジネスに活かした。明治維新に始まる国家神道も、国民を一つにするための施策として、神道を利用したに過ぎない。
心がテーマの時代になっていくのは間違いない。だから昨年は絆が流行語を取った。でも、絆の作り方がわからなくなっている。心をテーマにした時、宗教的要素は切り離せないものなのに、アレルギーがあるために、絆も限界がある絆になってしまう。
宗教にハマっている人からみると、ビジネスなんてくだらないと見える。あの世に持っていけない金を稼ぐことに血道をあげて時間の無駄使いだと。
ビジネスにハマっている人からみると、宗教は現実からの逃避や馬鹿な人だと見える。どうせ現実に打ちのめされて逃げているだけだろう。もしくは、論理的ではない、科学的ではない、無知な未開人たちだと見ている。
どちらも間違っている。ビジネスで成功した人ほど、宗教に走っていく理由がわかるだろうか?物質の満足は限りはあるが、心の満足はきりがない。どこまでいっても先が見えない。市場としては底なしだ(笑)
心に偏りすぎても、現実が見えなくなる。現実に偏りすぎても、心が見えなくなる。宗教どっぷりでも、ビジネスどっぷりでも、真理は見えない。人間としての価値は何だろうか?高貴で理解力と包容力がある人格者だけが価値ある人だろうか?
どうしたら価値ある人になれるか?
どうしたら価値ある会社になれるか?
これは密接に関係している。会社を構成しているのは、人間だから当たり前な話だ。
いまはカネを稼ぎ、人格者である人間が価値あることになっている。本当にそうだろうか?本当の人格者とは何だろうか?
私はこの広い日本の中でも珍しい立ち位置にいると自覚している。
ビジネスもわかるし、宗教もわかる。
東京(頭の世界)もわかるし、沖縄(心・霊の世界)もわかる。
大衆もわかるし、特別な人間たちもわかる。
いま自分が手がけている会社たちでは、特別な新時代のやり方を体現している。そうしたことも今後は書いていく。

錬金術の秘密

2012年に入ってから、今まで封印してきたモノゴトを解禁しだした。情報を公開したり、自分からアクションしたりと、新たな流れを作ることを意識している。
今までは、あえて真っ向勝負でやってきた。まずは人生を賭けて一緒に戦える仲間を創ろうとしてきた。これに限らず、とにかくやり方も難しいことから挑戦してきたので、どんな問題も余裕を持ってむかえるようになった。仲間が面白い例をあげていたので紹介しよう。
「今までは、ただの紙コップを100万円で売っていたようなものですよね。でももう既に100万の価値があるコップなら、余裕で1億円で売れるくらいの実力がついたと自信がありますよ」
誤解のないようにいうが、価値のないものを伝えていたわけではなく、真に価値はあるけど、価値がわからない人にとってはただの紙コップと同じにしか捉えられないからだ。
まさに豚に真珠、猫に小判である。しかし、そうした人にさえも、価値を伝える努力をしてきたのだ。由緒書きとか保証書、血統書など、わかりやすい表面的な形式が揃っていると誰でも納得しやすい。しかし、そうしたものをなしで、人間力だけで価値を伝える努力をしてきた。
わかりやすい説明をしない、もしくはできない(真理は体験するまでわからない)ことで、真に信じるとはなにか?を追求できた。情報を与えて、それで信じるというのであれば、それはただの取引だ。取引で大事なことは、人を信頼するのではなく、その情報やモノが信頼できるか?だ。第三者機関や裁判所といった組織が保証していたら信頼できるというのは、要は情報が大事で、人は誰でもいいということだ。
その人を信用出来ないから、契約書が欲しいのだ。とことん信じたくないのだ。限定で信じたいから、限定された契約という形にして、そのことだけを信じる形を取る。契約期間が終了すれば、あとは知った事ではないということだ。
「こいつは価値あるコップではなく、紙コップを売りつけているのだろうか?」モノゴトの価値もわからないし、人も信じられないから、
「鑑定書見せろ」となる。だとすると、売る方だって、
「信じてくれない人に売りたくないな」とか、
「だったら高く売りつけてやれ」となるのが人情だ。
人の気持ちを悪用した詐欺があるから、契約や目に見える保証を欲しがる気持ちもわかる。信じるものはバカを見るということわざがある。しかし、それは途中で信じるのをやめたからだと言いたい。自分も途中で沖縄詐欺にあったのかもと悩んだものだ。しかし、詐欺にしては真剣な熱を感じたので、
「もうこうなったら信じ続けるしかない」と決めた途端に、道が見え出した。信じるものは救われる、のだ。
例え、最初は紙コップの価値だったとしても、それを特別な紙コップに出来るということも学んだ。それがわかった途端に、実はそれが紙コップなどではなくて、とてつもない聖杯だったと気がつくのだ。聖杯は一見、紙コップに見えるのだ。これが真の錬金術の秘密だ。
インチキをやろうとしても、すぐに化けの皮は剥がれる。しかし、本物の価値ある人間になれば、紙コップでさえも価値をつけられるようになる。わかりやすく言えば、レディーガガが飲んだ紙コップだとしたら、欲しがる人はたくさんいるとわかるだろう。
真の錬金術で創った価値であれば、時代を超えて残る。錬金術を表面だけ悪用して作ったモノは、消え去るか、価値がわかる人の元へと流れていく。いずれにせよ、この世に無駄なものはない。
いま住んでいる庭にある、お気に入りの苔の生えた岩。雪化粧してるのは初めて。この庭も長い間、たくさんの人の想いを入魂してきて今がある。今も変化を続けている。こうした価値がわからず、時代を超えて残るモノなど創れるわけがない。庭全部を紹介したいが、それは実際に見てのお楽しみにしておこう!

2012年01月17日のつぶやき

03:28
2012年01月16日のつぶやき: 04:01
2012年01月15日のつぶやき: 11:16
『基地はなぜ沖縄に集中しているのか』 疑問積み重… http://t.co/2O67Uf7f
12:29
筥崎宮。元寇の際に神徳があったとされる宮。三大八幡宮のひとつ。黒田長政建立の一の鳥居。 http://t.co/AuD0HxS6
12:31
12:33
樹齢800年の大楠 http://t.co/5NAsnLxp
12:37
敵国降伏の額が http://t.co/AHCncuVS
12:38
敵国降伏のいわれ http://t.co/LeG0XloL
13:43
13:47
御神木の綾杉 http://t.co/QLzSMunD
14:06
14:20
仲哀天皇 訶志比宮趾 http://t.co/3etYB1n6
14:41
この狛犬、顔小さっ! http://t.co/GvZCbrSJ
15:36
三位一体の住吉宮 http://t.co/qeJAEKIG
16:36
生チョコチーズ饅頭。美味かったよ。 http://t.co/l7X9jUIE
17:12
太宰府名物の梅ヶ枝餅も美味しい。名物に美味いものなしというけどね。夕日と餅 http://t.co/o3kR2Pnh

2012年01月15日のつぶやき

11:16
『基地はなぜ沖縄に集中しているのか』 疑問積み重ね丹念に追求 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース http://t.co/rFVxMWaF
11:34
今日は朝から研究会した。朝から、信号の取り方、曼荼羅のやり方、悪霊の使い方など、危ない会話で、はたからみたら気持ち悪い人たちだと再確認。
12:21
これ面白かったな。高野 和明 の ‘ジェノサイド’ を Amazon でチェック! http://t.co/YdTw3Lnt @さんから
12:24
これもオススメです。伊藤 計劃 の ‘虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)’ を Amazon でチェック! http://t.co/YhNx9aet @さんから
21:46
沖縄密約の山崎豊子さんの原作ドラマ。http://t.co/DMt3Wr1M

聖と俗の境目

 13日の金曜日だ。不吉だとか気にしている人もいるだろう。誰かが作った概念に支配されて、気分を左右されるのは面白く無いではないか。その裏の意図、もしくは、ある世界観による理屈を理解することで、その概念を逆に使えるようになったらどうだろうか?

東日本大震災も、鬼門の方角だからだという人もいる。正しいといえば正しいし、正しくないといえば正しくない。じゃあ、そこからどうするか?が大事なのだ。鬼門だとしたらどうするのか?裏鬼門に気をつけるのか?気をつけて何とかなるものなのか?自分にとって何の意味があるのか?そうしたことを深めずに、危ない危ないと避けようとしても、全く意味が無い。
忌み嫌われるものは、同時に聖なるものでもある。聖なるものは、普通ではないゆえに聖なるものとなる。異端もまた、普通ではないゆえ異端となる。キリストも、最初は忌み嫌われ、後に聖なるものとなった。
今の世界は、悪を許さないという、ひどく狭い世界になっている。そういう意味では、人類は退化している。聖なるものと俗なるものは、本来は切り離せないのだ。正負のバランスを上手にとってきたのが日本人なのに、いまや善か悪か、単純なハリウッドスタイルしかない。
差別は悪いで思考停止。江戸時代であれば、貸金業は目の見えない人だけに許された職業で、勝海舟の祖先はそれで成り上がって旗本の権利を買った人だった。歌舞伎の興行だって、汚物の処理を担っていた人の許可がなければ、興行できなかったのだ。汚物処理という人の嫌な仕事をする代わりに、利益と人気を得ていたのだ。歌舞伎という芸能に彼らが関わっていることに、妬みや嫉妬が湧いたとしても、所詮は汚物処理屋だと思うことで、大衆は胸のつかえを下ろしたのだ。
差別や悪を、無批判に拒否するのではなく、現実にどう活かすか?その視点を忘れて、切り捨てようとしても、そのしっぺ返しは必ずくる。知恵のない世の中だ。
弱い者たちや、世間とは違う生き方しかできない人たちの居場所がドンドンと奪われていく。しかし、そうした弱い者たちこそが、普通の人たちが超えない境界を超えて、新たな活力を生み出してきたのも事実だ。
昔は、河原者と呼ばれた、どこから来て何処へ行くのかわからない人たちがいた。役者や革職人たちが多く、そうした流れ者たちの中から、芸能は生まれてきた。元からアウトローだと誰もが自覚することで、自ずと役割は見えてくる。
それを忘れて綺麗事を言った所で、何か時代を作るものは生まれないのだ。わかりやすいラベルを貼って、感じることを忘れてしまえば、そこには常識という非常識があるだけだ。この意味がわかるだろうか?
日本人の常識である、お正月には鏡餅と門松、注連縄。一体それらはなぜ飾るのか?と疑問を持たないのが一般常識だ。これについては、面白いコトタマ理論もあるが、知っても好奇心が満たされるだけだろうから、書かないでおこう。
聖なる日々が去り、俗なる日常がやってきた。ハレ(非日常)とケ(日常)の狭間が面白いではないか。ケが枯れて、ケガレというが、活力を再生させる装置は、両極がハッキリしないことには機能しない。
ハッキリさせたり、清濁併せ呑んだりと、矛盾の中にしか、真理はない!

ひとつになること

人に伝えること。知識(頭)を伝えることがあっても、想い(心)を伝える機会は少ない。それが現代ではないだろうか。例えば、会社に新たな仲間を迎えるとしよう。普通の会社のやり方では、想いは伝わらない。想いありきではなく、仕事ありきで入社となるからだ。
普通の組織では、売上や利益などの拡大・増大が成長の指針となる。勿論、それが間違いではないが、利益と想いのどちらを取るか?となれば、利益を取るのが普通の会社だ。想いの成長という指針は目に見える形にしにくいからでもある。心は見えないからと、どれくらい想っているのかを感じようとすることはない。感じるためには手間暇がかかるのだ。
じゃあ想いは測れないのか?測れるのだ。覚悟という形で、想いを見せることはひとつの例として出来る。他にも、必死に訴える。信じる。委ねる。などなど行動で想いを測ることもできる。勿論測れない想いもあり、それは感じるしかない。
普通の会社であれば、給料があって当然だというスタンスだ。生活のために入社するのだから当たり前だ。受け入れる方も、入る方も、どこまでいっても契約という形の中での、想いということになる。生活が保証された上での想いだ。ないよりはあったほうがいいという立場だ。となると、想いがある人が作った会社も、段々と想いが薄まり、想いがある人と、想いはないけど、人の想いを今だけ手伝う人とに別れていく。
当初は生活よりも想いを優先して始めたことも、同じ熱をもって一緒にやる人はそうはいないのだと気がつくにつれて、自分の想いを実現するために、お金をあげるからやってくれる人を探そうとなり、その中でも、想いを比較的持っている人にお金を払おうとなる。最初からお金を儲けようという想いであれば、同志は見つかりやすいだろう。しかし、そうした気持だけでは発展しないのが相場である。誰しも、自分の得になると感じない限り、応援することはない。「一緒に儲けようぜ」も、うまくいっているときはいいが、上手く行かなくなった途端に破綻する。
社会では、露骨や正直であると問題が生じるため、本音を隠した社交辞令で動いている。会社に入る人も受け入れる人も、それぞれ別なことを欲している。
・楽して金が欲しい人(ほぼ全員)
・自分の成長のための職場を求めている人
(自分の想いが優先だけど、今は金のために妥協している)
・好奇心を満たしたい人(知識欲のため)
・言うことを聞いてくれる奴隷が欲しい人
(自ら考えたくないので奴隷になりたい人も)
・自分を儲けさせてくれる人(傭兵)
こうしたことを露骨に言うとカドがたつ。
それを隠して、綺麗な形式的な形に変えて伝えていく。綺麗事を言っても、入ってしまえばそれが嘘だとすぐにわかる。それでも、綺麗事の戦いはやめられない。お互いに暗黙の了解で、最初から綺麗事だとわかっているからだ。狐と狸の化かし合いである。
こうして現代人は、心が感じなくなっているので、表面的な言葉にとらわれて、本音を見抜けないまま、頭を使った化かし合いを続ける。想いなんてことよりも、いかに期日までに形を作るかのほうが優先される。だから、心ない人でも、形にできる方が評価されていく。
家庭で言うと、女性がただ寂しいだけのことが言えずに、
「約束したじゃない。なんで帰ってくるのが遅いの!!」と怒るようなものだ。そこで男性は、寂しいという心を理解せずに、
「仕事だったんだからしょうがないじゃないか。金がなければ暮らせないぞ」と、相手の表面の怒りに反応した、自分の怒りを隠して、形式の戦いに入っていく。
なるべく本音に近いほうが、人も熱心に働くということで、やる気の動機づけを一生懸命あとからつけようとする。順番が逆である。本来であれば、自分がやりたいから入ったのなら、お礼としてお金を自分が払うのが筋だ。昔は、だから丁稚奉公で住み込みで奉仕しながら学ばせてもらっていたのだ。自分のために学ぶから、自分の時間を売るに意識が変わったから、今の考えが常識だと勘違いしている。
「経験させてもらえて有難いから授業料を払わないといけないな」そういう気持ちであれば、給料をもらえたら、
「本来自分が払うところなのに、逆に貰えて有難いものだ」と感謝を忘れない。
「自分のためじゃない。お前のために時間を売ってやってるんだ」という本音を隠して、綺麗事で上手く回そうとするから、どこかにひずみが生じる。想いのある仕事を成し遂げようとするのではなく、金儲けのための仕事をするためと割りきっていれば話は早いのに。
そのことを隠して、「お客のためにこうしよう!」と方法論を押し付ければ、押し付けられた方は心では拒否しながら、そのことを隠して、真面目にやっているフリをする。しかし、心のなかではイヤイヤに仕事するので、創意工夫もなく心が入らない。
次に相手に気を使って、優しく相手の気持を引き出すようにしてみると、今度は自分を舐めてつけあがり、楽して終わらそうとしてまたまた出来が悪くなる。
それではと、自分の姿を見せて解ってもらおうとしても、そもそも想いが伝わっていないのだから、誰も見ていない・・・。
「一体どうすりゃいいのだっ!」 と自暴自棄となり、あの手この手で言うことを聞かせようと益々敵対的になるか、自信をなくし、うつ病になってしまう。
優しい人間は、元々自分を責める傾向にあるため、こうした反応で魔界入りしてしまう。仲間同士でこんな話をしていた。
「自分に自信を持てない人間は、弱いところを突かれて弱ったらそこまでよ」と。チームに責任を感じれば感じるほど、どうにも一つにまとめられない現実に打ちのめされてしまう。

良い人はこういう風に考える。
「頑固にならないように、相手の言い分にも聞く耳を持つようにしなければ」と。自信があって聞くのと、自信がなくて聞くのとで、結果は変わってくる。信念がなければ、結局相手の言いなりになってしまう。
かといって、無理に自信や信念を持とうとしても、作った姿勢は不自然となり、相手に違和感を感じ取られ、違和感のある人間の言う事には耳を貸さない結末となる。違和感がある人が、このBlogで掲載しているようなやり方を表面だけ真似してもおかしなこ
とになる。
我々の世界でよく使われている言葉でも、悪用したら、エゴの想いが広がってしまう。
「敢えて」を自分にも向けてではなく、相手だけに強要する。
「自分で深めて」と真に相手のことを想ってではなく、自分が楽するために突き放す。
「共有」を「ただの情報共有」としかとっておらず、
「相手の想いを共有する」感じる事をしない。
現代は、バラバラな状態だ。国も会社も家族も、個々に切り離されている。バラバラにしなければ金が儲からないからだ。一家に一台より、一人に一台なのだ。繋いでいくのは大変な作業だ。例えば携帯を一家で一台にするための労力を考えてみて欲しい。説得、譲り合い、我慢、不便利、もう想像するだけで大変だろう。一人一台にする方が圧倒的に簡単だ。お金で摩擦を避けられる。
愛と感謝がなければ、お互いに繋がることはできない。
自分と相手、どちらか一方だけでは無理なのだ。双方が共に繋がる努力をしなければ、ひとつになることはできない。目の前で一つになれなければ、世界も一つにはならない。
ふたつ以上がひとつになった時の喜びは、個人が追求する喜びを超えるのだ。元旦の駅伝が素晴らしい教訓を伝えてくれたではないか。個人の偉業よりも、集団で成し遂げるからこそ、喜びも深いのだ。駅伝の結果という知識ではなく、青春を賭けたというそれぞれのチームの想いを感じることだ。それを感じることができたら、見知らぬ彼らともひとつになれる。
自分の縁がある人と、小さくてもいいから何かを一生懸命に一緒に成し遂げ、ひとつになる感覚を味わうことが、世界を繋ぐ糸となる。

占い師や霊能者が必要とされる政治的な理由

 以前、藤田小女姫という占い師の話を書いた。その時に、それなりの人間が占いに頼るのは信じがたいという意見を頂いた。
普通に考えたらそうだろう。

まさか、トップの人間が占星術で方向を決めていたと聞いたら驚くし、そんなトップを信じられなくなるかもしれない。勿論、そう思われることは熟知していて、あえてそのことを出す人もいれば、怪しいと思われると困るからこそ隠す人もいる。
 堂々と「霊的情報を活用しているよ!」と出しても、聞いた方は、
「まさかそんなことないだろう」と信じなくて、面白い冗談をいう人だと思われることもある。
 霊の世界が当たり前の人は、ユタの活用などは当然の話だ。霊的なことの活用方法を知らない人は、周囲の人間が「あの人に霊的な話を言ったら怪しいと思われるに違いない」と判断して言わないだけかもしれない。実際、沖縄に足しげく通っている本土の人でも、ユタのことを地元の人から聞いたという人は少なかった。
最近は、そうしたことを表にだそうとしていることもあるので変わってきているが、ウチナンチュだって遠慮して話さないことはまだある。しかし、こちらが先にユタや御嶽の話をすると、面白いくらいに、
「実は行きつけのユタがいてさぁ」とか「家族がユタ狂いで困っている」と告白する人は多い。沖縄では、相談するなら弁護士半分、ユタ半分とか、医者半分・ユタ半分、警察半分・ユタ半分などといって、専門の職業の人間に相談するより、ユタに相談することを選択肢の大部分も占めているのだ。本土の人からしたら信じられない話だろう。それだけにユタの偽物も多い。これはまた別の機会に。
  企業も役所も、組織というものは大きくなればなるほど、決めるということが難しくなっていく。どちらも正しいと言えたり、そもそも答えがないような事例が増えてくるからでもある。そして、その決断によって、得する人、損する人、それぞれ利害関係が絡む人が多数になるから決めづらい。そんな時、鶴の一声が求められるのだ。
 以前、ある省庁の官僚に聞いた話だ。その省では、小女姫(こととめ)案件と呼ばれていた案件があったと。小女姫案件であると、異議もいえず、とにかくやるしかない面倒で嫌な案件だったという。
「これは小女姫案件だから」と言われてしまうと、有無をいわさず実行させられてしまうのだ。面白くないだろうか?霊とか占いというのは検証が不可能な世界だ。だからこそ、これを逆に利用することができるのだ。
そのことを政治的に利用して、決断を正当化することも出来るというわけだ。
小女姫が言っているのだから仕方が無い。これほど便利な言い訳はない。
小女姫が関与したという松下電器の山下飛びをご存知だろうか?
経営の神様と呼ばれている松下幸之助の指名で、序列25番目の平取締役から社長に抜擢したごぼう抜き人事のことだ。東京五輪の体操で「ウルトラC」を出した山下にちなんで「山下飛び」と言われた。
 当時はもう幸之助といえども、組織が大きくなりすぎて誰がいいかわからなくなっていた。でも社長を決めなければならない。実際は誰にしたってそう大差はない。でかい組織というものは、そういうものだ。誰がいいのかわからない、論理や、まして好き嫌いでは決められない。そんな時に、占い師や霊能者の出番がやって来る。
 末席からごぼう抜きするという話を聞いた時、幸之助は「これは面白い」と思った。そういうセンスはあるからこそ、名を残しているのだ。使えるものは何でも使うのが概念のない人間だ。
霊的な人たちは、しがらみや常識から自由である。だからこそ、普通の人たちにはない視点でモノゴトが見えるのだ。全部が全部占い師や霊能者の言うとおりにする人間は失敗する。
一方で、霊的な世界を活用できない人間も限界がある。人智を超えた現象を利用して、勝利に導いたリーダーの例は、歴史を調べたらいくらでもある。それを本当に信じていたかどうかなど、どうでもいい話でもある。勿論自分はそうした世界があることを信じているし、その方が面白いと感じているから、信号を活用しているのだ。