無量無辺な世界

まだ弱い太陽の薄明かりの中、男が目を覚ました。一瞬、自分はどこにいるのかわからなくなるが、寒さと布団の感触で、いま自分がどこにいるか理解した。目が覚めた時、無意識からの贈り物である、夢のお告げを書き留める習慣があった、偉人の話を思い出す。さっきまで覚えていたのに、もう次の思考へと変化していて、昨夜の夢はまた無意識の中に沈んでいった。

男の朝は、法華経の読経から始まる。思考と体験の末にたどり着いた、思考を超えた信仰の世界。一心に読経を行い、自らの声と一体化する。その時、閃きもあるが、閃きを受け止めつつ、まだまだ没頭の余地があると精進を自分に戒める。
霊能は女性のほうが優れていることが多い。自らの感覚と霊的感覚の違い。共に生活をしている受信者と、会話とも打ち合わせとも言えない時間を持つ。霊告日記はそうして生まれた。今日も始まったばかりだ。明日どこにいるか、今の時点では何ともいえない。予定はあってないようなものだ。未来は何も決まってはいない。
平均的な日本家屋の居間で、親子が会話している。技術者である父は昔から、技術が、技術を知らない人間によって活かされないことを嘆いていた。技術を持って世界に影響を与えようとしてきた父は、社会の動きに敏感だ。
「一連の原発・地震関連被害などの問題を生み出した、真の犯人たちは逮捕されることもなく、堂々と生きている。かたや、たいした問題でもないことを、重大な問題のように仕立て上げて、罪に落とされる人間もいる。権力を持つ人間の罪を身代わりに払わされる。イケニエだよ。原始社会と何ら変わらない。いや、原始社会より更にたちが悪い。神に捧げるほうがまだましだ。自分のエゴために犠牲を捧げるのだから、イケニエにされた方も救いがない。これが今の社会だよ」
その話を聞いた娘は、もっともな話だと納得はしながらも、違和感を感じていた。
「そうだろうけど、お父さんも口だけの人間じゃないか。言うことは立派で反論はできないが、ただの評論家で、仕事はしているだろうけど、家族はバラバラで、権力者たちと本質は変わらないじゃないか。ただ立場が違うだけで、本質は同じで、目の前のことから逃げている」
しかし、その言葉を口にだすほど、娘は愚かではなかった。何度となく衝突してきた結果、思ったことを口に出しても、受け入れられないことは痛いほどわかっていた。娘も父も、心の壁を作り、あきらめの中にいる。
「もうすぐ50歳か。おれの半世紀は一体どんな意味があったのだろうか?」誕生日を間近に控え、日課となっているが、やらされているのでイヤイヤ掃除をしながら、背の高い男がぼやいていた。まるで昼ドラのような家族の争いのはてに、すべてが嫌になってお寺に入れてもらったのだ。ここにいれば、衣食住はある。しかし、それだけだ。自殺しようと思ったが、最後の最後で勇気がでない。子供という存在がなければ、とっくの昔に、自然に還っていたはずだ。寺の和尚の言葉を思い出す。
「この世には人間が作ったルールよりも、はるかに大きく、そして大切なルールがある。それは、生まれたからには、とことん人生を味わい尽くして、立派に死ぬということだ。途中で、自ら退場するということは許されていない。ルール違反だ。どんな悩みも苦しみも、またどんな繁栄も富も幸福も、永遠には続きはしない。いずれ過ぎ去るのだから、いま感じることを大切にしていきなさい」
「そんなことを言っていたような気がするが、自分の都合のいいように覚えているのかもしれない。てっとり早く、誰か教えてくれ!今って言ったって、何も感じないよ。意味が分からないよ。もう何でもいい。助けてくれ。ふー。しょうがないか。あー金があればなぁ。」どうしたらお金儲けできるか考えながら、とりあえず掃除を始めだした。またいつもの日常を繰り返す。
かつて体験したことがないほどの感動と幸福感を感じている若者がいた。一体この感覚はなんだろうか?説明は難しいが、今まで意味がわからなかった絵や音楽の意味が理解できたような気がしていた。こういう感覚を何度も感じたくて、きっと麻薬にハマるのだろうと思った。何を見ても、美しく見える。特に自然を見たときにそれは強く感じた。
波打つ海面。降り注ぐ陽光と月光。すべてが昨日までとは違って見える。今まで同じだとおもっていたものが、一瞬一瞬移り変わり、その姿を変えていくことが、心で感じられる。ただただ、涙が出てきて、胸が一杯になる。一体今まで自分が見ていたものは何だったのか?と自分を殴りたくなる。目玉の前に、何十ものフィルターを通して見ていたようだ。目からウロコが取れるとはまさにこのことだと、頭の中で、膝を叩いている自分が見えた。
いまこの瞬間でも、平将門を思えば、彼と繋がることはできる。時代を超えて、同じ想いを感じられるのが霊長類の特権だ。日本人は面影の中に、大切なモノを感じてきた。表面にあるモノの影にあるモノ。感じるしかないもの。感じる力を失っては、遺伝子や国籍は日本人だとしても、もはやそこに日本人の魂はない。感じた見方、見立てを楽しみ、風流に生きる。限界がある表面の世界から離れて、際限のない影の世界を楽しむ。
繋がりを感じ、それを表す。見えない糸を見えるようにして、また見えないものを更に繋げていく。終わりのない楽しい遊び。自分だけが感じることが、どんな人でも必ずある。同じ人はいないのだから当たり前な話だ。誰かの概念だけで表面的に生きることのつまらなさ。自分の世界を感じ、他の世界と繋げることで、更に豊かになっていく、心の世界。誰かの概念が自分の概念へと繋がっていく。人と人、人と世界、霊と魂の繋がり方は多種多様だ。たった一つの答えなどない。
世界はあなたが心をひらくのをずっと待っている。物語はいまから始まる。

因縁の力

 日付は節目となる。誕生日はいい例であろう。本当を言えば、毎日が誕生日で、同じ日など二度とないが、一年に一度だからこそ感慨深いし、自分以外の人間を想うキッカケにもなる。

自分の縁ある数字に触れると何か嬉しくなる。それが時間だろうと、整理番号だろうと、走行距離や、車のナンバーでもいい。そこから連想する人やモノゴトに、想いを飛ばしたりして、念を込めている。

人知れず、祈りをあげる。自分の場合、毎朝掃除をしているとき、必ず想っている人の名前を心の中で唱え、念を飛ばしている人たちがいる。実際には会っていなくても、いつも想うことは出来る。
お百度参りとかで、人に見られないほうがいいと言われているのは、表面的なことよりも、心の中の状態を重視してのことだ。真意(真実の意味)をはき違えて、形だけにこだわって、こそこそ見えないようにお参りしても意味がない。
お百度参りしたいと思う相手は、その人にとって因縁の相手だ。そうでなければ、そこまでの想いは湧くものではない。愛するにしろ、憎むにしろ、相手に対して深い想いがなければ、無関心で思い出しもしない。
そうした相手がいることは幸せなことだ。そのために人は頑張れたり、自殺を思いとどまったり、普通では投げてしまうことも頑張れたりする。悔しさで、あいつを見返すまでは死ねないというのもいい。そのエネルギーを生み出すのは因縁にしかできない。
あの人は今どうしてるだろうか?
苦しいとき、切ないとき、悲しいとき、嬉しいとき、その人と分かち合いたいと思う相手がいないことはとても寂しいことだ。実際にできなくても、想いを飛ばすことは出来る。彼女、彼らのために頑張ろうと思えるのが最高だ。
血縁というわかりやすい因縁であれば、分かち合いたいのは当然だ。それも目に見える表面的な分かち合いをしたがるのが普通だ。あえて、目に見えない形(心中心)で分かち合うことを選択する人間は少ない。自分たちの仲間で、特別な家族関係を作っている人がいる。
夫は沖縄。妻は東京。子供たちは父とも母とも一緒に暮らしていない。普通であれば、家族バラバラと見るだろう。しかし、そういう家族の形があってもいいし、またそうすることを魂は望んでいたからこうなった。普通であれば、そういうのは常識に反するとか真面目脳で判断してしまう。また、当人も「私は普通の人と違うからおかしいのか?」と悩んでしまう。
いろんな家族の形があってもいい。どういう形にするかは、当事者たちが決めればいいことだ。試行錯誤して、常に創造していけば、いつか各自が輝く形が見えてくる。大事なことは、相手を想えるかしかない。心が一番大事なのだ。形にこだわっても、表面は仲良し家族に見えるけど、内情はバラバラなんてこと、よくある話だ。
他にも、因縁である子供を、他人であるが仲間である人間たちに預けている親もいる。預けられたほうも、普通は面倒だし、とても責任とれないと尻込みするだろう。他人の子供に対しても、どこまで想いを持てるか?血縁である相手に想いがあるのは、ある意味当然だ。血縁でない相手に想いを持てるか?
因縁に対してのヒントは、感情が入ってしまう相手ほど冷静に見て、感情が入らない相手にこそ感情的になることだ。肉親は他人のように。他人を肉親のように。
私には、自分たちを信じて、自分に正直に生きることを選択した仲間も共に家族だ。血縁関係だけではない、大きな家族。中には、誰にも達成できないような金字塔を打ち立てた人間もいる。これもいつか書く。誰かの励みになるような因縁は貴重だ。赤の他人がいくら頑張っても、自分も頑張ろうとは思えない。所詮、他人ごとだ。因縁づけで繋がった仲間は、他人だけど他人事ではない。そうした人間を裏切ることは決してない。
因縁づけによって、肉親・家族と同等以上の因縁になった仲間たち。因縁であるからこそ、伝わる想いと伝わらない想い。両方ある。血縁因縁には伝わらない想いも、因縁づけによって繋がった因縁からは伝わることもある。また、血縁ではない因縁だからこそ伝わらない想いもある。
濃い因縁、薄い因縁。いろんな因縁があるから、人生は面白い。深い学びを感じ取れる。嬉しい思いも、嫌な思いも、全部魂が進化するための材料だ。どんな因縁であろうと、因縁から逃げずに向かうことで人生は輝くのだ!

深い愛の贈りモノ

6年ほど前の話だ。沖縄で初めてユタ(シャーマン)にあった。そのユタは、詳しくはかけないが、普通の人であればとても法的に住めないような場所に住んでいた。実際に、行政の人間などが、立ち退きさせようと働きかけても、そのユタに、
「私は意味があってここにいるんだ。それよりお前の家はこうだろう、ああだろう」と言われて、みんなビックリして立ち去ってしまう。そこに住んでいるだけで実力を証明しているようなユタだ。
そんなユタに、その時言われたことはさっぱりと意味が分からなかった。一体何を言っているのか?意味不明であった。時々、もっともだと思わせることもいっていたが、大枠では、変な人だけど、何か気になる。そんな印象であった。
それから3年ほどたって、ようやくその人の言っていたことの意味がわかった!本物はすぐにはその価値がわからないのだ。本物のユタであればあるほど、すぐに答えを与えない。自分で悩み、深め、体験してわかるように導くのだ。お金儲けのユタは、すぐに答えを与える。それも、わかりやすく、理解しやすく、相手が望んでいる答えを。だからそちらのほうが評価を得やすい。そして本物は、意味が分からないと誤解をされる。
すぐには理解できないからこそ、価値がある。それがわからないのが現代だ。よりわかりやすく、簡単に、お手軽にがはびこっている。だからこそ、本物の感動が得られない。漫画の感動は一瞬だ。実体験にはかなわない。
そのユタには、意味がわからないながらも印象に残る言葉を言われていた。その一つに、
「お前の眼はシシガミの目だ」と。右眼か左眼か忘れたけど、どちらかの眼に、シシガミの目が宿っていると。これで意味がわかる人いるだろうか?今となっては意味がわかったが、それはまた別の機会に。
のちにその話から、「シシガミの目」と名付けた施設ができた。この施設も、沖縄にいた仲間が、私を喜ばせようとして、真夏の暑いときに、熱射病でフラフラになりながらも作ってくれたモノだ。炎天下の中、1万16個もの琉球石灰岩を手積みで組んだ巨大構造物。
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20080731150655 posted by (C)Oz
生れてはじめて、そんなに巨大なサプライズをしてもらった。お金に換えられない愛をかけてこられたからこそ、私は沖縄に対して感謝の念を忘れない。1万16個という数も、偶然に自分の誕生日の数とシンクロしたのだ。後から気が付いたことだった。
今年の誕生日の本当のサプライズは、写真を見て気付いた人もいるかもしれない。

プールを最後まで完成をさせていないということが、一番のサプライズだ。
普通であれば、完成させてその姿を見せるだろう。それも大事だ。でもいつもそれがいいとは限らない。人に応じた対応が愛なのだ。今回の場合でいえば、
「尾関さんは、自分たちと一緒になってプールを完成させたいはずだ。完成形を見せられるよりも嬉しいと喜んでくれるに違いない」と信じてくれたということなのだ。あえて、
「えっ?と思われるかもしれないけど、きっとそのほうが後々いい」と信じた行動だ。
普通であれば、
「彼は肉体作業は苦手なほうなので、嫌がるのではないか?」と気を使ってやらないだろう。あえて、きっと彼はわかってくれるに違いないと信じて、途中で待つ勇気。想い、それが伝わる相手でなければ、引かれるかもしれないという恐れ。
そうした気持ちを全部踏まえた上での行為なのだ。私も最初はまず、あるはずのないものがあることに度肝を抜かれた。落ち着いてくると、それが作りかけ途中ということに気が付き、みなの想いが想像出来て、にやけてしまう。
「もー嫌だけど、嬉しいな」と。表裏一体だ。表面では大変そうだし、面倒だなという昔からの怠け者の自分もいる一方で、みなの想いで、あえてやる大変さも、ここまで仕上げる大変さも考えたら、おいしいところを残してくれている愛に感動する。
一人一人の葛藤と勇気、信念がなければこのプールは生れていない。
これが愛だし、本当の豊かさなのだ。
その後、一緒に作って、想像を超える大変さを実感した。さらにここまで作ってくれたことへの感謝が深まった。太陽や雨や風に襲われ、ビニールシートをそのたびにとったり、かぶせたり、水をくみだしたり、もうそれは体験しないとわからない価値。また一ついい思い出ができた。皆にとっても、これを作る過程で、ブレークスルーが起きて、本当に心が楽になった人間もいたり、一石三鳥以上の効果をあげたプールである。そして、これからもこれを見ることで、本当の豊かさを感じる人々がうまれることで、更にその価値を発揮し続ける。ただのプールではなく、アート作品なのだ。

舞台裏の内幕

昨日の朝、読売福祉文化賞の授賞式のために、沖縄から東京に来ていた仲間とミーティングをしていた。彼は数年間も沖縄にある我々の原点である大切な場所を守ってきた人間だ。純粋さゆえに、社会に嫌気がさし引きこもっていた人間が、ジョイントを通じて光を感じ、一緒に歩いてきた大切な仲間の一人である。

我々の世界は、居続けることが非常に難しい。ただ居ることは許されないからだ。常に何のために?が求められ、意志と覚悟や縁がなければ、他の世界で修業という道になる。それはこの世界だけが良いとか、他の世界が悪いというのではない。その人にとって望んだ道であれば、どの世界も必要な体験だ。

葛藤(かっとう)を通じて人は進化するが、ここ数年で磨き続けてきた魂が開花し始めているからこそ、彼はさらなるキッカケを欲しがっていた。もちろんこれまでにも魂を輝かせて、光を感じてきた。満足したらおしまいである。常に次の課題へと向かっていく中で、ときに節目となる大きな変化がやってくる。
彼自身は、人からやる気をもらって頑張ってきたからこそ、ここまで気付きを得てきた。一方で、自分以外の外部にやる気を求めていたから、常に外部からやる気を補充しないと心が苦しくなるという仕組みから抜け出そうとしていた。内側からの真のやる気はないのか?と自問自答を何年も繰り返し、そのたびに必死に目の前のことに打ち込んできた。
やりたいこともそんなにない。欲しいものもそんなにない。お金のためだけでは頑張れない。どうしたらよいかわからない。これらは多くの人が抱えている問題ではないか?
もがき、葛藤しなければ魂は開花しない。そうした苦しみの中で、自分を制約していたものを解き放ち開花していく。開花したと思ったら、また次の制約がでてきて、常に新たな花を咲かせていくのが進化だ。
「クーピーの仕事をやってみたら?」という仲間からのきっかけをもらって、読売福祉賞やみずほ福祉財団など、いくつかの募集に対して動きを起こした。彼が資料を作成して応募したら、次々と大きな賞をいただいた。この時期に、この評価を受けることの意味。彼にとっても、我々にとっても、社会にとっても、その意味は深い。大きな流れの中での、いま自分がやっている役割の自覚が芽生えたと彼はいう。

受賞したことより、彼がきっかけを活かしたことのほうが嬉しい。単なる受賞以上の価値があるのだ。自分が動いたことによって仕事がうまれ、いまこの時期に東京に来たことの意味。それを朝のミーティングで数人の仲間で深めていた。
沖縄と東京での役割の違いという話をキッカケに、それぞれの場所だからこそできることを追及していく。そして今目の前でしていることが、離れた土地にいる仲間とつながっていることを体感できたとき、つまりお互いが役割を全うしたとき、一つであることを体験できる。
言葉では簡単だが、実際には難しいことだ。そうした話の流れの中で、いま沖縄から東京に来ている仲間の意味を深めていたのだ。そして、それとは別の話の流れで、菩薩であり時代魂があるOZ(尾関菩薩の意)の存在と意味の話があった。
次に続く。

サプライズ

いつも言葉の限界を感じながら文章を書いている。出来るだけわかりやすく。難しい漢字や言葉使いをさけるようにしながら、いかにして言葉の奥にある世界観を伝えられるかを心がけている。

簡単な言葉ほど深い意味がある。「学ぶ心深ければ師は姿を現す」といわれるが、 同じ文章でも過去に読んだ時と、いま読むのとではまた違った感じを受けるだろう。自分の成長に応じて、受け取る内容が深くなっていく。少なくても、一つの文章で3回は違った視点を感じてもらえるよう意識して書いている。以前書いた、一石三鳥の話を覚えているだろうか?
面白いことに、意識して3つの効果を狙わなくても、自分の役目に徹して動いている人間には自然と一石三鳥の効果があらわれる。自然と無意識にシンクロが起こり、自分の予想を超えて価値を生み出すようになる。
仲間の体験した最近の事例をあげよう。クーピー体験を実施したいと感じた場所に、スタッフAたちが飛び込みで訪問した。突然にも関わらず、こころよく受け入れてくださったばかりか、心温まるショーを見ることができた。そのショーをしていた人々は、滅多にその場にはこない方々で、沖縄でも拠点がある人々だった。
 余談だが、面白いポイントとして、訪れたスタッフ全員が心温まったわけではなく、そのうちスタッフC一人は違和感を感じたと。この意味は深いがテーマがずれるので、そのうち書こう。今は読んだ人が各自で深めてほしい。同じ感覚だけの組織は弱いとだけ書いておく。
 そして帰り際に。たまたまその場に来ていた方から声をかけられたら、その方が福祉関係の関係者で、クーピーのことを説明したら、
「それって今朝読売新聞にでていた団体ですよね!」と自分たちも知らなかった情報を得ることができた。そしてまた新たなつながりもできて、はじめにつながろうとしていた場所とそれ以外の二つの接点の成果を得た。人のつながりだけでなく、ショーを見て感じた気づきや、自分たちも知らなかった情報の入手なども、動いた結果わかったことだ。一石三鳥以上の効果だ。
「自分たちの団体が今朝新聞に出ていることを知らないんて嘘だー」と思われることだろう。この点がいつも周囲から不思議がられるところなのだが、我々は相手のことを想って、その時、必要なことしか伝えないということを誰に対しても徹底している。魂にとって、一番良いタイミングということを意識しているからだ。なんでも情報共有のITの世界にいた私にとっては、この概念を受け入れるのには抵抗があった。
普通の世界では内部の人間から新聞掲載の情報は関係者全員に伝わっているのが当たり前だろう。外の世界と接するのが多いスタッフからしてみたら、「それを伝えてもらわなければ、宣伝材料として使えないではないか?」と取材を受けた人間に、「なぜ新聞掲載を教えてくれなかったのか?」と詰め寄ることだろう。それが普通の組織である。
我々の中では、必要なことは自然とわかるようになっているという価値観、スタンスが共有されている。伝えたければ伝えるし、そうでなければ無理する必要はない。今回は知らなかったお蔭で、動いた結果のご褒美ともなった。また、動いたほうも、そうした記事なしに話をすることで、自分の真価だけで勝負できる。外の価値(新聞という信用)に頼らずに、自分の存在だけの勝負をすることで力が付くのだ。
新聞掲載を上手に使えば、多くの人々にアピールすることができて、支援の輪は広がるかもしれない。しかしその一方で、真剣にかかわろうとする人間が見えなくなる恐れがある。今までは、真剣な少数の人間を集めるために、あえて間口を狭くしていた。そのお蔭で、核となる人間たちが育ってきた。これからは間口を広くしても大丈夫になってきたと感じていたら、今回の新聞掲載と自然と流れがやってきている。
あえて伝えない。そのことがサプライズになる。
極めつけがこれだ。

久しぶりに沖縄入りしたら、なんとプールのプレゼントのサプライズ。しかも全部人力で掘り作ったプール。硬い岩盤で大変な作業であったと聞いた。沖縄は日差しも暑いし、この作業で死線をさまよったという。仲間が想いを込めて掘ったプール。約40トンの作業をする大変さが想像できるだろうか?体験しないとわからないだろう。
プールを作っていたこともサプライズだが、本当のサプライズは・・・・。
長くなったのでまた次回に!

本当の豊かさ

 ふとテレビを見たら、昔にBirthでお会いした森泉さんがでていた。中古の別荘を買って、自分でDIY(自身で作る)しているという。ホームセンターで楽しそうにお買い物をして、プールサイドのデッキのペンキ塗りをしていた。

さすが時代を掴んでいるなと感心した。一昔前であれば、新築でデザイナー別荘のほうがイケていた。それに、眺めがいいとか、温泉があるとか、高級別荘地だとか、何かしらのウリがあってそこに建てられる。
金持ちであれば、山や海や温泉など、それぞれの条件ごとに別荘がある。それでも、全部条件が揃っているという物件は数少ない。不動産は人と同じで、同じ物件は存在しない。良い物件に巡り合うには、良い人とご縁がなくてはならない。いくら金を積もうと、真に価値があるものは抑えることはできない。本当に価値有る人は、金で動かないのと同じだ。
価値ある特別な物件は、お金よりも、人脈と人格が備わった相応しい人物のもとで活かされるものだ。そのことは、以前に「日本航空破綻に見るヒトとモノの本質」や「自然界の法則」で書いた。
特別な条件が揃った物件は手に入らなくても、特別な物件にすることは出来る。ではどうするか?簡単でいて簡単ではない。答えは、想いを込めるということだ。森泉さんが何百回と別荘に通い、自分で手を入れてきた価値。自分にとって思い出も深いし、その過程で物語が生まれる。これを製作しているときにこんなことがあったとか、これは誰ソレが作ったとか、人はただ綺麗とか表面的なものだけではないモノにひかれる。
物語という付加価値がこれから更に求められる。自分にとっても特別なモノになるし、それを欲しがる人もでてくる。星の王子さまが、自分の手をかけたバラは特別だと狐から教えられたことだ。想いを込めることで特別になる。
それは簡単ではない。手間暇と労力がかかる。でも、お金をかけなくても出来る。ある意味簡単である。別荘でも自宅でもいいが、立派な庭があるとしよう。それを自分で手入れするのは大変だし時間がかかるので、業者に頼むのが普通のお金持ちだ。
その結果、綺麗な庭にはなる。しかし、そこには想い入れがないから、飽きてくる。そしたら、違う木でも植えようかとなる。金で何でも解決できてしまうし、また金で解決しようとしてしまうから、金持ちほど虚しくなるのだ。
でも本当に豊かな人は、その人を慕って、是非庭を手入れさせて欲しいという人が出てくるのだ。金で作った庭より、慕って喜ばせたいという想いで作った庭のほうが想いがこもるのは当たり前だ。見た目はお金をかけたほうが綺麗に仕上げるかもしれないが、そこに物語はない。せいぜい、日本一の職人がいじったとか、金で買えるブランドに頼るしかない。
職人さんにしたって、日本一の職人というブランドを利用したいだけなのか、本当に豊かな庭をつくろうとしているのか、発注者の考えを見ぬくだろう。頼む方も器がないと、成金だと馬鹿にされるだけである。金を出して馬鹿にされる。間抜けだがこんなことはよくある話だ。
金で買えるブランド庭よりも、縁のある人が喜ばせたいという一心で念を込めた庭のほうが、価値があり、それが金では買えない特別なブランドになるのだ。想いで庭を作った人は、仕事として庭作りをしたのではないから、他の人がいくら庭を気に入っても他の人のために作ることはない。金のためでなく、自分が喜ばせたいと思った相手にだけするからこそ、それがブランドになる。
一点ものが一番価値があるのだ。他にはないのだから。アートと一緒だ。自分たちはそうした想いのあるモノに囲まれている。これが本当の豊かさだと伝えていきたい。金では買えない想いのこもった行為で生まれるモノゴト。
先月誕生日祝いのために、鳳凰の欄間を彫った話をした。誕生会も開いてもらえたのだが、数々のサプライズがあった。想いを込めた歌や、ダンス。それもまさかこの人が踊って歌うとは誰もが想像しなかったサプライズ。普段なら絶対にしないようなことを、あえてチャレンジする想い。その踊りと歌も勿論嬉しいが、その想いと姿勢に感動する。
今まで大人数でお祝いしてもらった時も嬉しかったが、その時と比べて人は少ないかもしれないが、本当に一人ひとりの想いが伝わり、最高の誕生日だった。心が豊かになる。大人数も少人数もいろんな体験ができて、なんと素晴らしい恵まれた人生だと感謝で一杯になった。
幸せいっぱいに久しぶりに沖縄入りしたら、更にとんでもないサプライズが待っていた。それについてはまた次回!

世の中は綺麗事では収まらない

世間では問題を起こさないことが良いことという認識がある。問題を起こすくらいなら、無難な反応が望まれる。行動も、発言も、波風立たせないようにすることを、良いことのようにとらえている人が多い。本当にそうだろうか?

 例えば、綺麗事の発言を考えてみよう。
 敵を作らないのが大事だとか、
 裏切られたのではない、自分が悪いんだとか、
 自分も昔はそう思っていた。
 しかし、今はそうではない。現実はそんなに甘くないし、もっと深いところで、人間関係を見据えたら、愛憎は表裏一体だ。自分も悪ければ相手も悪いのが本当で、敵がいなければ本当の味方もいないのだ。
 自然は冷徹である。そんな綺麗事は絵空事で、理想という頭の中にしか存在しないし、通じない。だからといって、モノゴトを悲観的にみる人になるのは簡単だ。そうではなく、現実を冷静にみつつも、そこから更に深めたら、冷徹の中に愛を感じることが出来る。
 大きな愛は時に冷たく残酷に見える。 耳障りの良い言葉は、表面的なことしか触れられない。 自分をよく見せようとするのは簡単だ。イイことを言っていればいい。 
心がざわつくこと、なんだこいつと思われるようなことを言ったり、書いたりすれば、嫌われるし、関係が不安定になる。それは恐ろしいことだ。また正直にして、問題が起きたら面倒だという意識もあるだろう。
 しかし、考えてみて欲しい。 世の中の大半は、自分と同じ意見の人を求めて、自分を認めてもらいたがっている。そこで敵を作らないというのは、相手に自分を合わせることしかないではないか。
 もしくは、納得していなくても、「そういう考えもあるよね」といった理解者だとしよう。 ほんとは納得していないのだから、その人の味方でもないし、敵でもない。
 敵を作らない=何でもない人だったら、関係を持つ意味がないではないか。
だったら、何のために出会いがあるのか? お互いがぶつけあってこその切磋琢磨で、そこには綺麗事など入る余地はない。真剣になればなるほど、甘い言葉など、ぬるく感じるし、時には怒りすら感じる。岡本太郎が、
「すこしづつ自分を殺して譲り合うことでなれ合う調和なんて卑しい」と言っているのもこのことだ。
今でこそ彼の言葉は、その通りだ、納得だと人気があるが、発言していた当時は叩かれ続けていたのだ。時間が経てば本物は残る。ある意味で、叩かれなければ本物ではない。
 どんな人間だって、完成されていないからこそ、この世でいろんな体験をしているのだ。厳しく見つめたら、進化の種は必ずある。その種に本人が気づくチャンスを<綺麗事>は見えなくさせてしまう。
 言っても無駄だと感じたならば、相手のために祈るだけでも違う。 自分のエゴで相手に伝えても、勿論それは伝わらない。 真に相手のことを想って伝えた言葉は、表面的には拒絶されようと魂には届くのだ。
 綺麗事は自分を良い人に見せたいエゴかもしれないと、自分を疑ってみる事だ。綺麗事で思考を停止させないで、本当にそうだろうか?と自分の霊に問い続けることから、本当の人生は始まる。どんな道も楽ではない。
綺麗事しか言わない人間は、表面的には味方でも、いざとなると簡単に去っていくものだ。輩(やから)も高度になると、
「ほんとは言いたくないんだけどねー」と、綺麗事に見えないように綺麗事を言って、本当の味方のふりをするから、また面白い。
この世は本当に上手くできている。