生け贄という仕事

 世界は生け贄(いけにえ)を通して進化する。

わかり易い例で言えば、イエスキリストだろう。近代で言えば、ヒトラーが一番の生け贄といえる。最近で言えば、小沢一郎氏や堀江氏などがわかりやすい。生け贄は、非難されることで、人々や社会に学習の種を提供するのだ。
生け贄は二種類いる。
意識して自ら生け贄になる者と、自らは望んでいないのに生け贄にされてしまう者だ。
前者の例が、岡本太郎だ。自ら進んで、自分を生け贄としてきた。太郎の突拍子も無い言動を、大衆は血祭りに挙げ、ボロボロに引き裂く。大衆は残酷だ。大勢の中の一人として埋もれながら、石ころを投げつける。よく知りもしないのに、変なやつだ、悪いやつだ、おかしい奴だと決め付ける風潮を自らも作り出し、それに乗って生け贄の儀式に参加する。
何かしようとするならば、どうせ非難されるのだ。どうせケナサレルなら自ら飛び込んでしまえばいい。この行動は、ただの「勇気」などという言葉で済ますことはできない。人間の尊厳に関わる、尊い価値あることだ。
誰でも、突然生け贄にされてしまうかもしれない。自ら望まなくても、誰かに狙われて、生け贄にされてしまったとしたらどうする?その時は、逃げまどって、泣き叫んだとしても無駄だ。大衆(相手)が満足するまでそれは続く。
しかも、現代は次から次へと生け贄を要求するから、生け贄にされる時間も短くなり、生け贄としての効果はもはや失われつつある。先週の事件のニュースを覚えているだろうか?そこから何かを学ぶことは少ない。共同体のための生け贄でなく、ただの公開処刑では、生け贄にされた方も報われない。報われない処刑をされるくらいなら、自ら飛び込んで生け贄の儀式へとリードするのだ。
突然生け贄にされてしまうからこそ、その日を怯えて過ごすのではなく、今、この瞬間から自らが恐れていること、嫌なこと、感じていることなどをオープンにして、立ち向かうのだ。痛みや辛さを感じることが一番の成長の種となる。そして、自分を犠牲にして、周囲に学びの種を蒔くのが、価値ある生け贄となる。
こんな質問をしたら馬鹿だと思われるし、相手にも悪いからと黙っているよりも、バカにされて傷つくことを恐れずさらけ出すのだ。バカにされたとしても、同じように感じていた誰かを助けることになるし、痛みがあるから心に刻まれるのだ。痛みなき成長はない。
あいつは馬鹿だと思っていたけど、時間が経ってみたら、実は敢えて馬鹿な質問をしていたのだと気づかれるかもしれないし、気付かれないかもしれない。いつかわかるかもしれないし、わからないかもしれない。生け贄とは、将来の成果を求めてするものではない。
信念の結果、そうせざるを得ないのだ。自分に正直に由って(よって)生きる、これが自由だ。自由に生きると、生け贄という仕事を引き受けることになるのだ。そして面白い事に、自ら進んで生け贄になった場合、時間が経てば必ず復活があるのだ。岡本太郎がいい例だ。短期的に本人は報われないかもしれないが、歴史的に見たら報われるのだ。

真面目脳の罠

 良い人はたいてい真面目脳だ。

世間の常識を良しとし、人に迷惑をかけないように気をつける。
そういう無数の良い人が日本を支えている。満員電車でも我慢して、通勤しているのを見ると頭がさがる思いだ。311の災害の際にも、暴動など起きないことに海外からは驚きの目で見られていたのも、日本人は真面目脳な人が多いからだ。
これは素晴らしいことだ。長年培ってきた文化で誇りである。明治維新後も、名も無き真面目脳の人達が日本の近代化を支えてきた。
しかし、光があれば闇もある。美点の裏側には、真面目さから生じる負の部分も必ずある。真面目な人だからといって、時代の変化は容赦しない。こつこつ真面目に農業していたとしても、工業化という時代が来れば、その波にさらされてしまう。真面目=型通りとなりがちだからだ。真面目脳であると、自分と言うよりは相手や環境に左右されやすい。真面目脳は受身の傾向がある。
 また、真面目脳は世間という常識に影響されやすい。だから一斉に戦争賛成と真面目に突き進んだりする恐ろしさもある。真面目脳というのはある意味楽なのだ。周りに合わせて、問題を起こさないようにする守りの思考だ。
 例えば、受けたメールに返信しないということは真面目脳からしたら有り得ないことだ。
「無視は相手に失礼だ」とか、
「返信を待っているのに待たせたら悪い」とか相手に気を使い、とにかくすぐに対応しようとする。IT化が進むに連れて、益々早く対応するように心がける。それが大事な時もあるだろう。しかし、どんな時も真面目脳が考える対応が一番であるとは限らない。
相手を救おうとする意識がある人なら尚更だ。表面的な人柄の良さは捨てないと、より大きな悪霊には対応しきれない。悪霊はずるがしこい。相手を焦らせて、自分の思い通りにしようとする。そんな時、焦って急いで対応したら、悪霊の思うつぼである。
先程の例で言えば、メールを返信しないことが愛であることもある。目先の常識にとらわれず、本当に相手のためを思うなら、自分が恨まれたとしても、敢えて返信しないという選択をする場合もある。低レベルのメールに合わせてしまえば、自分も魔界に落ちてしまう。ただのストレス発散メールなど、相手を想ってしてきたメールではない場合などは、真面目に返してもいいことはない。無視することで、送信者が今までの経緯を振り返り自分の行いを深めると信じて、無反応という反応を真面目に選択するのは深い愛だ。しかし真面目脳にとっては、無反応は常識外なので嫌なことである。嫌だからこそヒントがあるのだ。
このスピード一番の時代だからこそ、落ち着いてじっくりと相手に向かうのだ。昔、手紙を人が運んでいた時代のようにしてみるのだ。手紙を待つ間に想いが募るし、一度出したら取り返しがつかないのだから、じっくりと想いを込めて手紙を書くようにメールをするのもいい。
本当の真面目は、常識や概念をいつも疑い、相手のためにどの選択をすればよいかと真摯に向き合うことだ。それが真の誠実だし、真剣である。変化の激しい時代だからこそ、真面目脳を破壊して、本当の真面目とは何かを極めるのだ。そうしなければ、時代が移り変わり、次の世代の真面目脳にやられてしまう。
いつもしていることをコツコツと何も考えずに実行する真面目脳ではなく、今日していることは本当に大事な事なのか?を真面目に日々問いかけることが真の真面目である。
いつもそうしているからといって、今もそうするべきだとは限らない。一瞬足りとも同じ状況はないのだから、その場その場で感じて選択をすることに真剣になるのだ。それを真面目にしなければ、真面目脳は結局自分の首を絞めることになる。
真面目に返信したのになんでこんなひどいことをされるのだろう?といった具合に。

選択するという意識

日々誰しも何かしら選択をしている。

どの道を歩こうかに始まり、何を食べるか?誰と話して、何を読み、何を聞くか。
無意識にしていることも含めたら一日に多くの選択をしている。自分は気がついていないだけで、実は無意識にした、その行動で、何かを選び、何かを捨てている。同じ選択は二度と来ない。それぞれが主人公の、人生という映画の中を生きている。
 たまには思い切って、違う選択をしてみたらどうだろうか?
 違う道を通ったり、いつもなら食べないものを食べたりと、普段なら選択しないであろう行動をしてみるのだ。小さい選択の冒険に慣れてきたら、もっと大きな選択も苦にならなくなってくる。
 人間は慣れていないことを体験すると新鮮に感じるか、苦痛に感じるのだ。この世は一時も同じではない。常に変化しているのが常なのだから、見せかけの安定など求めず、常に変わり続けることで、逆に安定するのだ。
安定を求めるから、変化に弱くなる。サーファーのように変化の波を求め乗りこなすのだ。
よく人は、一期一会だという。頭では、二度と同じ時間と状況はないとわかっていても、また次があるものだとどこかで考えてしまう。頭でどんなに、今しかないのだと思っても、心は真剣にはならない。何か重大な出来事があった時や、心に残る本や映画をみたときなどにやっと感じる程度だ。一期一会を感じたかったら、背水の陣を取るしかない。
しかし、それは簡単ではない。また、非日常を求めすぎても、世間からは浮いてしまう。例えば、毎回人と会うたびごとに、もう二度と会えないと思って、その時感じたことを後先考えずに伝えられるか?これは大変な精神的労力だ。毎回などとても無理である。メリハリをつけるのも意識した選択だ。
大体において、人間は辛いことのほうが心に残る。辛い体験をするからこそ、今という瞬間を愛おしく感じるのだ。どんな辛い体験も、必ず過ぎ去る。耐えるだけで、時は流れて行く。すると、不思議なことに、辛い体験も過ぎさってしまえば、
「なんでもっとトコトン体験しなかったのか」と思うこともある。
後悔のないように、瞬間を意識して生きる環境が今はある。同じように、今しかないという意識を持った仲間といるからだ。そうした環境こそが、真の豊かさだと私は感じる。どんなに楽で、苦痛がない生活があったとしても、そこに魂の喜びはない。
人は本来怠け者なのだ。肉体の怠惰より、精神の怠惰のほうが見えないだけにわかりにくい。自分の中に潜んでいる怠ける心と戦う選択こそが価値ある選択だ。

執着というキッカケ

人は自分が何に執着しているか、気付いていない。わかっていないから、執着を捨てることもできない。

この世が幸せに回るのは実は簡単だ。執着を皆が捨てればいい。自分の所有にこだわらず、分けあえば足りるのだ。言うは易し、行うは難しである。また、満たされてしまえば資本主義経済では儲からない。それではお金は困ってしまう。だからこそ、人生は面白い。愛着があるモノであればあるほど、捨てるときに複雑な感情が胸に湧き起こる。切ない、悲しい、離れがたい、怖い、懐かしいなどなど。

しかし、執着を捨てた人のほうが、捨てない人より強いのだ。この世の面白い仕組みの一つだ。失うものが無い人ほど怖いものはない。命さえ執着せずに投げだしてしまうテロリストを想像してみたら、その怖さがわかるだろう。持っている人間のほうが有利に見えるが、持たない人間の強みもあるのだ。
 面白いことに、大きい家に住める人ほど、その家にはいないものだ。忙しくて家にいる時間がない。大きい家に住むことにこだわっていないから、その人の器の大きさに合う場所が向こうから自然とやってきて、そこに収まるのだ。そういうものは失われることがない。だが、大きい家に住むことに執着して、ガムシャラに働いて、やっと大きい家に住んだとしても、幸せなのは一瞬で、次からはその家を失う恐怖に怯えることになる。執着すればするほど、失う恐怖が増える。
 ブッダが、お金持ちに全財産を賭けさせたのは何故だろうか?
キリストは、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」といったのはどうしてだろうか?執着があるうちは、心が真の喜びを体験できないからではないか。
だからといって、全部裸になれといっているのではないし、金持ちだからといってお金に執着していない人間もいる。
 企業の上には国家があり、国家の上には宗教があり、宗教の上には、無執着の人間たちがいるのだ。
表に出ることも名誉も求めることもなく、悪く言われようとも気にせずに。まるでイルミナティのような人たちが。
執着を捨てたからといって、すべてが正しく見えるわけでもない。どんなときも無執着が正解でもない。執着があるからこそ、必死になって成長できることもある。大事なことは、自分では気が付かないことを指摘してくれる仲間がいるかだ。
同じ指摘をされても、
「お前には言われたくないよ」ということもある。魂は露骨だ。見下してる相手のいうことは聞かないものだ。
ビジネス社会にいると、売上や成績で優劣を判断しやすい。同じような価値観を持つ中にいては、その中で優劣ができるため、下から上への指摘は難しい。部下の言うことを素直に受け取るより、部下に教えようとする意識のほうが強くなりがちなのだ。価値観も執着の一つだ。
だからスティーブ・ジョブズだって、ビジネス世界にいないお坊さんに意見を求めたのだ。自分が何に執着して、それをどう活かすか?もしくは捨てるか?そうした視点で、執着を活かさなければ、執着に自分が使われてしまう。
世間から見たら成功者に見えても、ただ執着に使われている人も一杯いる。執着のために働いて、本当の自分のためには働かない。すると魂は死んでいくのだ。
本当の自分の人生を生きるために、執着を利用して自分を知る。そして執着をキッカケとして使い、一回り大きい自分を創造しよう。執着は階段だ。上に登るも下に登るも自分次第である。

人生は芸術だ

お金持ちになると、アートに興味をもつようになる人が多い。投資目的の人もいれば、純粋に美や感動を求めて所有しようとする人もいる。どちらにせよ、過去から現在、未来へと美術品を橋渡ししていく人が、いつの世も必要だ。

美術品を収集していると、次第にそれに飽きたらず、自分で作ってみたくなるという。自分で作ってみて初めて、更に美術品の価値がわかってくる。自分の想いが入った作品は、世間から評価されなくても価値がある。いや、評価されるために作る作品は、本当の芸術ではないのだ。
現代では、すぐに
「それはおいくらですか?」と金銭への価値に変換しようとする。値段を聞いて価値を感じるのもいいが、そんなものはお金持ちや大衆に任せて、自分にとって価値あるモノゴトを極めたい。
「個性的なものだけが普遍性を持つんだ」と岡本太郎が語っているように。
かつて、「美術・科学・宗教」はひとつの様式として統合されていた。神殿文化と呼ばれていた時代だ。時代が経つに連れ、それぞれ分離していった。外面の変化は、内面の変化があるから起こる。人の心が、「思考・感情・意志」と分離していき、今では思考が親分となり、感情と意志を抑え込んでいる人が大半だ。
内面がそうなので、外面は科学(思考)中心の世界となっているのが現代だ。もっと細かく、もっと理由を、もっと目的を、と細分化と対策が進む、色気のない世界になっている。
合理的に幸せになれるだろうか?
普通に考えたらおかしい事を、よく考えもせずに実行しているのが現代人だ。
クーピー活動のことに触れると、
「それってどんな意味があるの?」「何の得があるの?」「ふーん偉いね」とよく言われる。意味が無いといけないのだろうか?得がないとやらないのだろうか?偉いってなんだろうか?
最初は、縁があったから始めた。続けている内に、自分の中で価値が生まれてきた。私にとってのクーピーは、概念という壁を壊すキッカケであったり、人間の価値とは何かを深めるキッカケになったり、今では世界の新しい文化にとって芸術が持つ大事なハタラキを感じる原点にもなった。芸術的感性こそが、宗教と科学を結びつけるのではないか?
想像力、ビジョン、夢の世界が持つ力。今こそ、そうしたハタラキが必要なのだ。感性をいかに豊かに深めていくかが問われている。モノへの欲求は限界があるが、モノゴトは限りない。
人生という芸術を共に創造しようではないか。
このBlogを読んでくれているだけで、既に縁がある。その縁を信じて、まずはCoupiiに飛び込んできて欲しい。そして、自分なりの価値を感じて人生に活かして欲しい。最初から分かる人はいない。やっていく内にわかるものだ。まずは一歩ということで、今月イベントがあるのでそのお知らせを転載する。
■ビッグアートイベント in 0101 シブヤ大学共同
時間:2011.10.29(土)13:00 受付開始
場所:渋谷丸井前
E-mail:masanori18@gmail.com

朝生まれて、夜に死ぬ

一人の菩薩がこの世を去った。ジョブズ氏は、仏教徒でインドを放浪したことも知られている。深い求道心がなければ、これほど世界に影響力を持つことはなかっただろう。彼自身は、デザインできるでもなく、プログラムできるわけでもない。だが人間が持つ、創造力を多分に発揮したアーティストだといえよう。彼の世界を創造したのだ。

我々もいま、一つの邦(くに)を創造している。今後の社会には、芸術的要素が必要になるのは間違いない。我々がクーピー活動をしていることも関係している。このことは改めて別に書くことにする。
今年は自分の周囲で亡くなる方が多い。

特に最近、同級生が亡くなったので、改めて死を意識するキッカケになった。ある意味私も、社会的には殺されたようなものだったが、実際に死んでしまうことを考えると、そんなことははるかに甘いことだ。
 人間が人間としての道を極める際に、求められる本来の意識は、 
「朝に初めて生まれた気持ちで目覚め、悔いのないように全力で日中を過ごし、安らかな死を迎えるように眠る」のが理想だ。
 この気持で過ごすよう意識してみると、本当に大事な事は何なのかを嫌でも考えさせられる。 
例えば、愛する人に会いたいとする。今日しかないとしたら、今すぐにでも会いたいだろう。が、会ったとしてもお互い満足するだろうか?自分は今日で最後かもしれないという気持ちだったとしても、相手がそうでなければ、ただの自己満足で終わってしまう。
それであるならば、あえて会わずに、自分の想いを手紙に込めたほうが、お互いの幸せにとって大切なきっかけになるかもしれない。今日しかないのだからこそ、大きな流れの中での今日という意識を持つのだ。
今はそばにいるべき時期なのか?
離れて想うほうが良い時期なのか?
自分を深める時期なのか?
 自分と相手の幸福、進化を求める気持ちから、今日という日を見つめるのだ。
目の前の幸福を取るのか?
長い目で見た幸福を取るのか?
自分の使命を意識しなければ、そんな視点は持てない。
この世は、限られているから面白いのだ。無限にお金があったり、時間があったり、健康があったりしては、人は真剣になれない。
一瞬として同じ時はないからこそ、本当は大きな流れも一瞬で作れるし、一瞬でどんな人間にも変われる。
今ここで真剣に生きる事しか人生の秘訣はないのだ。
一期一会が真理なのだから。

人はすぐ経緯を忘れる

人はすぐ経緯を忘れる。勿論、そうなると原点も忘れる。

 本来、いまの一点だけを切り取って判断などできない。
 原点と経緯があって、今がある。
地球があって、祖先がいて、親がいて、世話をしてくれた人々がいて、自分も生きてきて、今という自分がいる。どんなことにも、原点と経緯があることを忘れてはならない。そこを外してしまうと、モノゴトの筋道を間違えてしまう。
大衆は目先のことで頭いっぱいになり、どうしてこうなったか?と考える余裕を無くしてしまう。そうした人間は、人間魂より動物魂が優勢なのだ。
以前、「罪にならない罪」という記事でこう書いた。

想いを無視する言動は、罪にならない罪なのだ。そして、想いこそが一番価値があり高いものだ。それをお金の為に踏みにじったりするのは、人として最低だ。昔は義理や人情として大事にされたものが、経済論理で踏みにじられている。

原点や経緯を忘れて、そのことを棚上げにして、自分は正しいと責める人間は、罪にならない罪を犯している。人間社会においては法的な罪に問われないが、霊的な世界では真の犯罪者だ。いまの社会はそうした人間で満ちている。自分勝手に、気ままに、義理も人情もあったもんじゃない。
最近こんなことを相談された。
・心と心で交わした約束を、契約書の形にしていないことをいいことに、状況が変わったなどと都合のいい事をいって平気で破られた。
相手が破ったことを自覚しているならまだいい。罪を自覚していない相手、自分は間違っていないと確信を持っている人間を自覚させるのが「本当の仕事」だ。
 人はコロコロ変わるのが当たり前だと思っている。確かに、この世は一時として同じ状況は存在しない。それを正当な理由(言い訳)にして正義を主張することもできるだろう。しかし、不動の心を持っている人もいる。そういう人間は信念という柱があるからブレないのだ。
やる気と真剣さで向かった経緯があって、約束を果たせないのか?
そこまで真剣に向かうことなしに、すぐ諦めて約束を果たせないのか?
結果としては同じ約束破りかもしれないが、経緯に誠意があるかないかで、気持ちは違う。
変わるのが当たり前と、諦めてしまうか? 
心が変わる度に、ぶれる度に、相手に向かうことが大事だ。それが菩薩道である。
どこでだって、菩薩の仕事はある。
 普通の仕事をしていたって、目の前の出来事だけを見るのではなく、原点と経緯に想いを巡らせ、どう感じるか?まずこれが難しい。しかし、一つ一つ目の前の出来事に真摯に向かえば、感じられるようになるのだ。
原点と経緯を意識して過ごすことから菩薩道は始まる。
本当に大事な事を忘れないのが菩薩なのだ。