正子の愛

 白洲次郎は、海外で好きに遊ばせてもらっていた。実家はお金があったので、その資金力のお陰で次郎はイギリス人脈が出来た。そこで目を付けられ彼はある秘密の仕事に携わる事になる。そのことについては後に触れるとして、彼は好きに遊ばせてもらった代わりに、政略結婚をさせられる。

そのお相手が、樺山正子。文句なしの貴族の家柄だ。彼女は家柄も良く才女で、何も不満もないようにみえる。今でこそ、白洲次郎と正子夫妻の関係は理想の夫婦関係のように見る人が多いが、最初から良い関係であったわけではない。

正子の苦悩を語るには時代背景を理解しないとわからない。当時は、貴族というものが残っていたように、重厚長大な時代だ。戦艦であれば大和のように、でかくて重くて存在感あるものこそが素晴らしいという価値観の時代だ。人の姿形も、重鎮といったような趣きが求められていた。当時の上流階級はそういう落ち着いた雰囲気の中でパーティなどをしていたのだ。

幼い頃からパーティ三昧の正子にとって、もうパーティーは飽き飽きだった。しかし、次郎はパーティー大好きで女遊びも激しかった。はしゃぐ次郎を見る正子の気持ちがわかるだろうか?

次郎は今でこそ、ジーパンを日本で初めて履いた男などと呼ばれオシャレなイメージがあるが、それは現代の時代感覚でみるとである。重厚な時代にジーパンは軽薄なイメージだ。実際、若い頃の次郎は重厚とはほど遠い、どちらかというとヤンキー的な軽い男だった。

想像してみて欲しい。白洲次郎と正子がデートをしようとレストランに行くとする。立派な車から出てくるのは、いかにも貴族の正子とチンピラ風の次郎。ボーイは面食らう。この似つかわしくない取り合わせはなんだろう?と。下手すると、正子がジゴロの男を連れているのかと見られてしまう。

正子はそれが嫌で嫌で仕方が無かった。自分が下品な人間と見られる事は貴族としてのプライドが許さないし、そんな人間と行動しなくてはならない事が辛くてしょうがない。苦しくて苦しくて、益々趣味の世界や古寺に救いを求めていった。寺に行くにしても、正子は自分のコネを使えば有名寺にいけるのに、あえて名も無いような寺ばかりを回った。

一方、次郎は得意な英語を駆使して、欧米人の間を立ち回ったり、女性にモテまくっていた。しかし、周囲の人間はそんな次郎を認める事は無かった。どんなに彼が頑張ったとしても、その風貌や発言、仕草から、軽い人物に見られていた。女性にモテたのもよくなかったのだろう。

さて彼の秘密の仕事はなんであったか?一言で言うと、彼はスパイだった。だから吉田茂にとっても使い勝手がよかったのだ。次郎の威勢のいい話しは種がわかってしまえばなーんだとなってしまう。「従順ならざる唯一の日本人」と呼ばれ、連合国に楯突いたという話しがあるが、当然である。出来レースなのだから怖くも何ともない。

さて話しは正子に戻る。正子は苦悩があったから随筆家として名を残したとも言える。岡本かの子もそうであったように、苦悩があるから光を生み出せるのだ。苦悩なき偉人はいないのである。

正子は夫である次郎の事が因縁だからこそ余計に嫌でしょうがなかった。夫は正子の家柄を利用して好き勝手に遊んでいるだけではないかと。だが、ある時ハッと正子は気がついた。

いつものように、「このチンピラが偉そうに」と、次郎のことを見ている人をみたときである。いつもなら「またか」とイラつくところだが、正子はその人から目をそらし、ふと次郎の顔を見たときに、その表情に苦悩を発見したのだ。

次郎は自分がチンピラのように見られてしまう事に苛立ちがあった。イギリス留学し、秘密の仕事もしているプライドがあるのに、自分が軽く見られてしまうのが許せず、人に対して傲慢に接してしまう始末だった。そしてそれが益々チンピラぽく見える悪循環である。その事に正子は気がついたのだ。

「この人は誤解されてしまう人なんだ。私しか彼の本当の姿を理解してあげられる人はいない。私だけが理解して支えてあげよう」と。そこから本当の夫婦として歩みだすのだ。正子の愛によって、白洲次郎は自分らしく生きられたのだ。

たった一人でも、自分の事を理解して支えてくれる味方がいれば幸せだ。それだけでどんな敵とも戦えるのだ。

太郎の背景

生誕100年を祝して、つい最近まで展覧会が行われていた二人の人物がいる。岡本太郎と白洲正子。時代を超えて再評価されている二人に新時代のヒントがある。そして面白いことに、この二人の人間関係がまた似ているのだ。

岡本太郎は「職業は人間だ」と言ったが、私に言わせれば、彼の職業は菩薩だ。彼の表の歴史は調べればわかるだろうが、普通ではわからない歴史に触れていく。

以前に書いた、調べてもどうしてもわからない壁の先の話だ。

まず、太郎の絵は本当に評価されていたのだろうか?実は才能がないと学校では散々だったのだ。日本で画家として活躍することなど到底無理だと宣告されていた。

しかし、そんな太郎に入魂とも、呪術とも、念とも言える情熱を注いでいたのが母かの子である。彼女が特別だったからこそ、岡本太郎は誕生したのだ。彼女自身は夫との関係に苦悩し、精神も病むが、苦悩したからこそ魂は磨かれた。晩年は夫の一平から観音菩薩と崇められていたほどだ。彼女は仏教学者として仏教に造詣も深かった。

その狂気とも言える愛情を受けて太郎は「岡本太郎」になったのだ。

学校から才能がないと烙印された太郎を連れてパリに行く。学校の評価など気にしない。太郎には何かがあると信じ、そしてそのままパリに置き去りにするのだ。

パリでもやはり才能がないと批判されて絵も描くのが嫌だった太郎は、最初遊び呆けて暮らしていた。そして景気よくお金を使う日本人として、お金のない貧乏な画家たちのパトロンのような、道化師のようなことをしていた。さて、そのお金はどうしたのだろうか?
当時はかなりの資産がなければ、海外留学など、ましてや遊学などできるわけがなかった。皇族や華族などのエリートだけがヨーロッパでの生活を満喫できたのだ。一体そのお金はどこから?

これはどんなに調べても、その資金の出処はわからない。両親である、かの子と一平にそれほどの収入があっただろうか?普通に考えたら、ただの新聞社員の一平には到底無理である。ましてかの子の実家は元々大地主とはいえ傾いていた。実家からの支援は受けられず苦労していたのだ。

太郎はお金の力で出版や展覧会もしている。お金があるから相手にされたようものだ。結論から言うと、父の一平はただの新聞社員ではなかったのだ。

当時の一平は、大人気の漫画家であった。大衆への影響力を持つ一平を利用して、世論を誘導する目的で機密費が使われていたのだ。その機密費を一平は太郎のために流用したのだ。

いわば、国のカネで太郎を創り上げたと言える。こうして、現代では多くの人間に影響力を与えているのだから、その投資は意味があった。不思議なものである。

帰国してからも、太郎は美術界からも評価されず、逆に戦いを挑んだ。そんな彼が、いまや芸術家においては人気ナンバーワンなのだから面白い。しかし、晩年の太郎は忘れ去られていた。今のように人気がでて、再評価のキッカケを作ったのは、岡本敏子だった。

敏子は、元々太郎の母である小説家であるかの子に憧れていた。太郎との出会いは、かの子がキッカケなのだ。敏子は、太郎の中にかの子をみて、一心同体になろうとした。彼のために生きることを決意し、岡本太郎の文章は全部敏子が書いていた。かの子の霊が敏子に降りたのだ。かの子の霊は敏子に引き継がれた。

そして岡本太郎は、絵ではなく文章がキッカケで再評価され注目されるようになった。太郎の母である「岡本かの子」の文学を裏で受け継いだのが、敏子。表で受け継いだのが、瀬戸内寂聴だ。実は、太郎と敏子、寂聴は三角関係であった。それがキッカケで寂聴は出家したのだ。因縁という凄さの一端が理解できるのではないだろうか。「岡本かの子」の影響力は現代にまで続いている。

長くなったので、岡本かの子と同じく仏教研究者だった白洲正子についてはまた次回に。