希望の光

言葉では表現しがたい現実が今も進行中であるが、我が家では暗闇に光を灯すように、第二子が誕生した。長い間、お腹の中で守ってきた母親の心は本当に愛そのものだ。男も出産という経験を出来るのだとしたら、社会はもっと平和になるのではないか。一方でわからないからこそ、思いやりがうまれるとも言える。この世の仕組みに無駄はない。出産という新たな生命の誕生を通して、世界の神秘を改めて感じた。

社会の一員である私たち自身が、次の世代へどんな社会をバトンタッチするか問われている。今までの価値が逆転した今だからこそ、幸せな社会を創造する時だ。幸せは画一的でない。が、根底にあるものは同じだ。見た目は違っても、根っこの在り方は同じだ。愛があるかどうかだ。愛の表現は人それぞれ。違うからこそ美しい。
この世では、何事も完成という終わりがない。常に進化できるし、変化し続ける。自分の時代を精一杯生きて、次の世代へとバトンを渡していく。堂々と誇りを持って、次の変化、進化を願ってバトンを託す。バトンを渡したい人がいるから、責任も感じるし頑張れる。
自分と縁のある人たちとの繋がりを感じ、その繋がりに対して責任を感じる。人を救いたい、助けたいという気持ちは高貴だ。時にそれはお節介かもしれない。しかし、気持ちなんてもんは一方通行なんだ。完全な理解を待っていたら、タイミングを逃してしまう。
このような大変化の時に産まれてきてくれた子に感謝する。産まれてきてすぐに彼は仕事をしてくれた。人の暖かさ、繋がりを感じられる出来事をつないでくれたのだ。そして、産まれてくるまでにも、私たち夫婦、家族にとって、この子の存在が結びの働きをしてくれた。
まさに、ジョイントベビーだ。この時期だからこそ、破壊のあとの創造の象徴として産まれてきてくれたように感じている。愛の繋がりによる邦作りの始まりだ。

今の想い

 何度もBlogを更新しようと書いた。でも違和感が残り公開できなかった。

なんかしっくりこない。自分の冷静さが嫌だった。
深夜一人になると、この未曾有の出来事の前に、ただ泣くだけだった。
そんな感情の高ぶりも、情報の洪水に侵されて、非日常が日常となり、冷静になってしまう。都会にいると、感じるのが難しい。自然のなかにいれば感じられるのに。感じようと心に熱をもたなければ、頭だけのロボットになってしまう。
想いのない綺麗な言葉を書いたって、人の心には本当には届かない。
文章には限界があるけど、想いが乗っていたら伝わる。
今はただただ、とても悲しい。
理由なんてどうでもいい。この先なんてどうでもいい。
この地震のことを想うと、涙がでてくる。
もっと生きたかっただろうに。
思い出を作りたかっただろうに。
被災者でないから本当のところはわからない。
ただの自己満かもしれないが、そんなこともどうでもいい。
悲しい。今はそう感じている。

悪魔の誘惑

仕事においても、人生においても、美味しそうな話ほど罠がある。そのことを大体の人間は頭では理解しているが、自分だけは違うと思ってしまう。他人からみれば、あからさまに怪しい話で、一体どんな人間が信じるのかと見えるような話でもだ。だからこそ、ニュースをみると、如何にも怪しい事件で満ちているのだ。

お金が欲しいという欲からくる罠は、ここでは話題にしない。私がここで触れたい、美味しそうな話の罠とは何か?今日書きたいのは、悪魔の誘惑についてだ。霊的な成長を求めて修行をしていると、好奇心の罠、自己欺瞞の罠などに陥りやすい。
ダマされる人間、罠にハマる人間は、みなバカなのだろうか?そんなことはない。一見、悪魔の罠に見えないからこそ罠にハマってしまうのだ。知的な人間ほど陥りやすい罠でもある。情報というものは、人を簡単に魔界に連れていく。自分でハマっていることに気がつくことはほとんど出来ない。だから師匠、仲間が必要なのだ。

どんな話も、結局は自分自身の成長の材料に過ぎない。その材料を通して初めて体験ができる。ただの観念(考え)だけでは魂は成長しない。体験、実践をするために、この世があるのだ。恐れすぎても、体験から遠ざかってしまう。痛みが怖いあまりに行動できなくなってしまっては本末転倒だ。

罠を避けることが賢い生き方だろうか?その罠は本当に罠だろうか?成長のための試練と、奈落に落ちて行く罠とでは、どう違うのだろうか?
相手を変えようとするのか?自分が変わろうとするのか?
自分の価値観だけで判断するのか?相手の価値観をも理解した上での判断なのか?
各自の人生のステージに置いて、体験実践すべき課題は変わってくる。一概に言える解答などない。自分の中にしか答えはない。成長するに連れて、罠はどんどん高度になっていく。内面に向かっているようで、逃げていることもある。
痛みのない成長はない。しかし、この痛みが厄介だ。本当の成長につながる痛みは耐え難いものだ。ついつい、それを避けるために、無意識に楽の道を選ぶ。そして、それがあたかも正しいかのような理由をつける。知識があればあるほど、正しい理由をつくれる。それが当然だと思えるのだ。
世界は、知れば知るほど、裏があり、どこまで知っても切りがないように感じる。魔界に入っていれば、それが恐怖に感じる。本来、計り知れないからこそ面白いし、感謝ができるのにだ。
悪魔の誘惑はとても魅力的だ。魅力的な話に出会ったとき、心が浮ついて飛び乗りやすくなる。一度落ち着いて、話に飛び乗りたい自分の中に、嫌なことから逃げたい自分がいないか探してみる。辛い時こそ、誘惑はやってくる。
悪魔は自分なのだ。自分が誘惑を作り出す。霊的に見れば、自作自演なのだ。人間は弱いからこそ、すぐに解決に飛び込みたくなる。自分は弱いと知らねばならない。何に対して弱いのか?それを知らねば無意識の罠にハマり続ける。
逆に言えば、悪魔の誘惑の時こそ、自分を深く知るチャンスでもある。ピンチはチャンスなのだ。自分を追い込んで辛い状態の時こそ、本当の救いもある。悪魔の誘惑の救いにホイホイ乗ってしまっては、本当には救われない。救われなくてもいいと覚悟して向かうのだ。精神的切腹だ。
現代では、肉体的切腹ではなく、精神的切腹こそが武士道なのだ。勿論、自己犠牲という名の自己欺瞞もあるからこそ、自分だけで判断せず検証が必要だ。自己犠牲という名の自己欺瞞も厄介だが、これについては映画「容疑者Xの献身」でも見て深めて欲しい。