告白

私は普通の人が考えているような世界の見方をしていない。だからこそ特別な世界を伝えたいと、このBlogを書いてるわけだが、逆にいうと、普通の世界の見方が時々わからなくなる。特に、ビジネスの世界にドップリと浸かっている人からしてみると、私は有り得ないことを言っているように見える。

ビジネスの世界においても、特別なビジネスのやり方もある。私はその方が究極の錬金術だと考えているが、世間一般のビジネス書が教えているような世界とはほど遠い。であるから、普通のビジネス世界の人間と仕事をするとき、スタンスが違うために気をつけねばならない。そもそも「仕事」という言葉の意味すら違う。(参考:仕事の本当の意味
魂とか霊に全く興味がない。もしくは、怪しいと思う人達と、「仕事」に対する価値観がどう違うか?我々は、魂を成長させる、霊が喜ぶために仕事をするが、普通のビジネスマンは金を儲けるためにする。
しかし、ここであえて言いたい。本当に儲かるとはなんだろうか?
信者と書いて、儲かると書くが、この文字の意味するところはなんだろうか?
頭が喜ぶのと霊魂が喜ぶのでは、どちらが儲かるのだろうか?
今の会社のほとんどは、千年を超えて存在することはないだろう。
それに対して、キリスト教は?何年続いているだろうか?また、ヴァチカンの資産はどれほどだろうか?仏教は?イスラム教は?神道は?
神とは何か?人の本質とは何か?人類が長く追い求めてきたテーマでモノゴトを見ている人間と、四半期決算で見ている人間とでは、利益に対する見方が変わってくるのも当然だ。
違う世界観を繋げていくのは難しい。だからこそ、繋がったら価値がある。全然違うからこそ、結びついたときに共創造が起こる。どちらが良い悪いという話ではないのだ。持ち場が違うだけなのだから。
今日誕生日の岡本太郎が産み出した、太陽の塔。当時は猛烈な反発があった。しかし今や、大阪万博は知らなくても、太陽の塔を知らない人間はいないのではないだろうか。何十年たっても、その価値は高まるばかりだ。未だに生み続ける経済効果はどれほどあるだろうか?ましてや、今も人の意識に働きかける、太陽の塔の存在が持つ力を金に換算することなど出来ない。
我々は、数年で左右してしまうようなトレンドを意識していない。真に価値のあるものを創造している。それは今は理解されづらいものだ。だからいいのだ。別に理解して欲しいから書いているわけではない。理解されなくて当然だ。
しかし、一人その世界に浸り、他の世界を見下すのは器が小さい。理解されづらいからこそ、向かうのだ。どのような手段を取ってでも、社会と関わりを持つことが大切だ。そうした葛藤を通して、人間の器は広くなり、愛の実践が出来るのだ。
具体例を挙げよう。
ビジネスマンにとって、投資は投資した金額以上のリターンがあれば成功といえる。我々は、極端なことを言えば、リターンがあろうとなかろうとそれで成功か失敗かを決めることはない。お金という媒体を通して、関係性が出来たことが重要なのだ。
その関係性を通して、魂が救えるかどうかが重要だ。お金はキッカケに過ぎない。しかし、かなり強いキッカケになる。昔、私はお金の関係を嫌がっていた。金を借りることも貸すことも嫌だから、株式投資という形でリスク限定していた。が、今はお金の関係があるからこそ、お互いの人間性の本質が見えると認識している。
ドロドロしたところに、人生の本質がある。泥の中から蓮の花が咲くのだ。
関わった人間とは、いつかは一緒にその花を咲かそうといつも思っている。
その日を楽しみに私は仕事をしている。

国つくり

朝、太陽がのぼり生まれる。夜、太陽が沈み死ぬ。

毎日生と死を繰り返している。
今、戦後日本という日が没しようとしている。
もうすぐ日没だ。暗く先の見えない時代だ。
不安でいっぱいだろう。
が、明けない夜はない。もう既に次の日は登ろうとしているのだから。
産みの苦しみがあるから、誕生は歓喜となる。

逆に言うと、今しか苦しめない。その感情を心に刻むことだ。
あとで懐かしく感じるだろう。辛いことのほうがいい思い出になる。
いつか、笑って想い返せる日が来るのだから。
今しかできないことを味わおう。
苦しんでいる貴方のそばで、私は一緒に支え戦うことが出来る。
自分が苦しい時、貴方もそうしてくれる。そこに創造の絆がある。
時代は些細なことから作られていくのだ。

負のエネルギーの活用方法

 人間の感情の中で、怒りのような感情は出すべきでないと一般では教わる。怒りに限らず、嫉妬や妬み、ヤッカミなど負の感情エネルギーは抑えるべきで、それが大人であると。その通りだ。わめき散らしていては幼稚だ。だが、いつもがいつも感情を抑えることが正しい訳ではない。

時には負の感情だろうと遠慮無く、所構わず出さなければいけない時もある。調和を乱すことを恐れるあまり、自分の気持を無視していたら、誰が自分の心を守ってくれるのか?誰が本当に自分の味方なのか?自分の心を大事にして欲しい。
気がついたと思うが、今回のメッセージは優しい、いい人に向けて書いている。エゴが強い人間は自分を守りすぎて人の話を聞かない。傷つかないように強大な鎧を着ている。その鎧のお陰で抑えられて感情を出さない場合もあるし、調和を乱そうが平気で感情をだせる人もいる。
では時には出さなくてはの「時」とはいつか?一概に簡単には言えない。ケースバイケースだからだ。だがそのタイミングは魂だけが知っている。だから常に感じていれば自然とその時がわかる。頭で考えすぎていては、そのタイミングを逃してしまう。
人を自分の都合の良いように丸め込むのが上手な人間は、切れられないような雰囲気をつくるのが上手だ。あたかも正当な論理を組み立てる。相手の話を聞き過ぎると、納得してしまい動けなくなる。その雰囲気に飲まれて、自分を出せなくなるのを突破するには、エネルギーが必要だ。論理には論理でも対抗できるが、それをしてしまうと、奈落の罠に落ちてしまう。頭には頭ではなく、頭には心や魂で向かうのだ。
心や魂で向かうと相手にとっては意味不明になる。当たり前だ。心や魂は眼に見えないし、説明もできない。なぜむかつくのかを説明せよと言われても、ムカつくモノはムカつくのだ。感情を出すことに慣れれば、上手に論理でも表現できるようになる。すると、愛の気持ちで負のエネルギーを使えるようになる。しかしそこに一足飛びはない。まずはエネルギーを出せなければ始まらない。いい人ほど、自分を責めて出せないからだ。
相手に怒るより、自分を見つめて自分を変えれば相手も変わるとも言う。その通り。だがしかしだ。例をあげよう。
G君が失礼な言動をAに対してした。Aはムカツイて、「Gの野郎め許さん」と思ったが、自分の言動を振り返ってみた。すると、AはかつてGに対して失礼なことをしていたことに気がついた。あれからこんな言動をGはするようになったのかと理解出来たら、自分のほうが申し訳ない気持ちとなり、急速に怒りのエネルギーがなくなった。それ以来、何かムカツイても振り返れば自分の側にも理由が思い当たり、自分を責めるのにエネルギーを使って、相手に出すエネルギーはなくなっていった。
いい人ほど何も言えない理由の一つだ。自分を責め続けるとどうなるだろう?すべて嫌になっていく。当たり前だ。真面目な人ほど自殺しやすい訳である。喧嘩両成敗というように、どちらにも言い分はあるものだ。それを自分だけが反省していたら、片手落ちだ。相手のためにも伝えないといけない。反省していたら、自分も悪いしなーとなって、感情の伝え方が弱くなる。あとで自分では反省するとして、その場では反省を後回しにしてぶつけたほうがいい。確かに、Gには失礼なことをしたから、いまその仕返しをされたのかもしれないが、これとそれとは違う話なのだから、伝えなければ魂はスッキリしない。その後で反省して謝ればいい。
また、カチンときたからと全部が全部反応する必要はない。溜めてためて、ここぞという時に一気に出すのが伝わりやすい。いつも怒っている人間の言葉など周囲の人間は真剣に聞かない。しかし、そんな上級者向けのやり方はすぐには出来ない。まずは、ムカっとしたら、その時に「すいません、今自分むかつきました。何でかはまだわからないので、深めてみますが、貴方も考えてみてください」と言えたら上等だ。これでも難しいのなら、一度その場を離れるなり、不愉快そうな表情をするなり、まずは相手に自分の気持を伝えることから始める。最初は理性を使って冷静にでもいい。段々と出していくうちにわかってくる。
先程の例で言えば、AはGの為にもエネルギーを溜めるのが愛だ。その時、因縁であれば別だが、そうでなければ愛のエネルギーは高度すぎるから、彼のためにとそこまで高尚な気持ちにはなりにくいし、反省してしまったら益々想いは続かない。段々と無関心になってしまう。するとお互いにドンドンと距離が離れていく。それを縁がなかったと言う事では済まされない。Gに向かわずAは逃げてるだけだ。
Gの為にも、その場で出せなかったのであれば、機会がくるまで「あの野郎見返してやる」とか「とっちめてやる」でも、関心を持ち続けることが大事だ。その為に負のエネルギーを使えばいい。そういう感情のほうが長続きする(笑)
本来、エネルギーに善い悪いもない。コンプレックスなどの感情も一見負のエネルギーだが、それを活かしている、いわゆる成功者は多い。だがそれだけでは金を得ても、心は安らかにならない。成功を維持するためにコンプレックスを持ち続けても寂しいだけだ。せっかくのエネルギーだ。負のエネルギーだろうがなんだろうが、自分と相手のために上手に活用しよう。