ヘルタースケルター

人生の最後はどんなシーンだろうか?そのことについて思案すると、私はいつもあるシーンが浮かんでくる。実際に見たことがないのに、多分それは自分の臨終のような感じがする。今回の生でそうなるのか、前世だったのか、よくわからない。

その時、満足して微笑んで死ねれば本望だ。

またそれとは別に、自分には自殺願望といったら変だけど、死をもいとわず何かのために死ぬことに憧れがある。

生のための死。
死のための生。

どんな死を迎えたいか?
どんな生を送りたいか?

生き甲斐のある生。
死にがいのある死。

穏やかな長寿もよいが、今は短くても強烈な印象の死に惹かれる。映画やアニメなどで、そういうシーンに出くわすと無性に切なくなり感動する。

信念があれば、善悪を超えてしまう。

ただそれが独りよがりの自己欺瞞であれば、悲しみしか生み出さないであろう。

本気とはなにか?

今の日本では、本気になりもしないで、諦めてしまう人が多すぎる。あなたは今までの人生、一度でも本気になったことがあるだろうか?

この世の中は、本当に本気になればできないことなど何もない。

例えば、あなたが映画を創りたい!と思ったとする。しかし、創りたいと思ってもあなたは途中で諦める。諦める自分を認めたくなくて、諦めるための理由を必死で探すようになる。

そうはいっても自分はそんな能力を持ってない。
そうはいっても自分は映画を作るようなお金をもってない。
そうはいっても仕事があるから、そんなこと考える時間は無い。
そうはいっても家族がいるから、自分勝手には動けない。
そうはいっても親にそんな夢のようなことできるわけないと馬鹿にされるから。

すべて情けない自分を認めたくないための、言い訳でしかない。本気ではないのだ。

では「本気」とはなんなのか?自分の人生すべてを「賭ける」ことである。それしかできないように自分をまず追い込むことだ。背水の陣だ。それをしないと、「死んでしまう」状況に自分の身を投げ込むことだ。

例えば、先ほどの「映画を創りたい!」という目標があるのであれば、全てを賭けてそれを創るためだけに生きることだ。

それが成功するかどうかは問題ではない。とことんやれば、どんな結果になっても魂は満足する。人生の最後で、
「ああ、おれは映画を創りたかったのになぁ」と後悔したくなければ、どんなものでもいいから、作ってみればいいのだ。

人間死ぬ気になれば、大抵のことはできる。会社も辞めて、生活費もなくなり自分は「死んでしまう」状況になれば、人間は本気になる。そして、本当にやりたいのかどうかもわかる。

自分にとって、何が必要で、何が必要ないか。切羽詰まれば自然と判明する。

この世の中で何かしら意義あるものは、そういった本気の人間たちが、生き死にを賭けて作り上げてきたものばかりだ。魂が込められたものだけが時間の重みに耐えていく。

必死になれば、どんな道も開けてくる。

映画を創るために投資家と知り合う機会が欲しい人は、機会を本気で作れば良い。「そんな機会は簡単にないだろう」と思っている人は、単にアンテナを張っていないだけだ。本気になれば、そんな話はどこにでも転がっている。本気でないから、その機会に気付いていないだけだ。

本気になれば、不思議とシンクロが起き、すべてがその方向に動いていく。これは「自然界の法則」でもある。

今、あなたがあなたの人生に満足していないのは、ただ単にあなたが「本気」ではないからだ。本当にそれだけだ。

一つでも言い訳をするであれば、それは本気ではない。言い訳をするのもよいだろう。ただ、一生そのまま言い訳を続けるだけだ。

しかし、本気になるのは簡単ではない。そこには、人間としてどうしようもない自我が存在し、それが邪魔をする。沖縄的にいえば、霊が邪魔をする、ということだ。

本気で求めていれば、背水の陣を取ることによって、それすらも越えられるのだが、大抵の人はそこまでの選択をいきなりできないであろう。

一歩ずつ本気になる方法もある。邪魔をする霊に気付き、徐々に取り除くきっかけとなるのがジョイントである。だから、「本気でこうなりたい!」と思っているが、現時点でまだ本気になれていない人はジョイントを受けてみるのも良い。それが全ての始まりになるはずである。

ジョイントをきっかけに、過去も現在も未来も全てが繋がっていることに気付く。そして、「本気になりたい」と思っていた自分すらをも超越した自分を発見することになる。

本気ということを知った人にだけに与えられるご褒美である。

原点

自分でも不思議なのだが、飽きっぽい自分がこれほどまでに一つのことに燃え続けていることに改めて気がついた。

沖縄でのことに出会うまでは、何をやっても好奇心が満たされると飽きてしまう。そしてまた、新たな好奇心を満たす何かに取り組むといった連鎖だった。

結局同じことの繰り返しだと気付き、当時の私の口癖は、「何か面白いことないかな。つまらないな」だった。

真剣に人生を賭けて取り組むことが出来ることがあるのはとても幸せなことだ。そしてそれを共に真剣に向かう仲間がいて分かち合うことができる。

それぞれが、言葉にはできなくても、「ここしかないんだ」と感じて人生を賭けてきている。だからこそお互いに緊張感もあるし、馴れ合いのない真剣勝負が出来る。

自分が間違っていないか?欺瞞に陥っていないか?常に自分をかえりみながら向かっていける。

恐怖がなければ感動もない。

安全安心だった当時の自分では燃えることが出来なかった。危険な環境だからこそ、面白いのだ。勿論怖いけど。

でも、かつての自分を思い出すと、煮え切らない、燃えきれない時の辛さよりは全然今のほうがよい。

私が沖縄に関わるキッカケの原点は、沖縄の為に必死に動いている人の姿だった。

今まで会ったどんな人々よりも熱意を感じた。

その熱に自分の心が動いた。

本当に人を動かすのは、論理や利益などではなく、想いの強さ、情熱なんだ。

人は、人の為にしか燃えることは出来ない。そしてそれが自分の為でもある。

魂の喜びを伝えたい。人生は素晴らしい体験だと心から感動したならその瞬間の為にほかのことはどうでもよくなる。

人はその瞬間の為に生きている!

如来の世界

この世には、人の数だけ、人それぞれの概念の世界がある。同じ人間の中にも、いくつかの世界があり、使い分けたりしている。例えば、趣味の世界、仕事の世界といった感じだ。

そうした意識できる世界(表)の他に、意識していない世界(裏)がある。我々が気づかないだけで、重力や太陽といった自然の世界に包まれて生かされているように、人間である以上、誰でも平等に包まれている世界がある。信じようと信じまいと関係はない。

どの世界を中心に意識して生きているかで、見えてくる世界はかわってくる。例えば、恋人のことばかり意識している世界では、政治の世界などどうでもよいだろう。

人によって、見えている世界が違うからこそ、この世は多様性に満ちている。どんな人も必要だ。無駄な人などいない。

私が面白いと思って飛び込んだ世界の一つに、如来の世界がある。如来の世界では、私は菩薩という役割があり、その世界において面白いことがあった。

ある日、如来から
「これから菩薩道のために特別なシーンを用意する」と言われ、行き当たりばったりでないことを証明するために、映画でいえば予告編の話をされた。

そしてそのあと、映画でいえば本編の出来事があった。これだけでもすごいのだが、そのあとその本編に対する解説があった。まるで上質な映画を何本もまとめてみたような感覚。

あまりの意外さと、完全な出来事に衝撃を受けていると、そのあとには自分がそれを体験でき、実行できる機会まで与えてくれた。

映画に感動したら、そのあとその映画に出演したようなものだ。

如来の世界では、進化のスピードが桁違いに早い。起こることすべてに、矛盾がなく、無駄がない。前に書いた「一石三鳥」が普通にあるからだ。

如来の世界は、すべてが用意されている世界だった。そして、これは裏の世界だ。これだから、この世界はやめられない。