情報が出てくるときには飽和状態

世界の投資家にとって、ドバイは堅実な花形投資先であった。その逆に、北朝鮮はハイリスク・ハイリターンの投資先であった。投資とは、そのリスクの大きさによってリターンが決まってくるものだ。

しかし、昨今では投資家からのファンドに対する要望として、ローリスク・ハイリターンを求める声が多くなってきた。そんなことあり得るはずがないのに。しかし、ファンドも商売だ。口八丁手八丁の営業文句により、集められるだけ集め、後は額面割れしようが、

「預かってやってるんだから感謝しろ。自己責任だろ。」と思っているのが現実なのだ。

本来であればドバイは堅実なローリスク・ローリターンの投資先である。今までの金融工学的常識では、ポートフォリオを組んで資産を分配投資する一環で、ローリスク・ローリターンのドバイ、ハイリスク・ハイリターンの北朝鮮、の両方に投資するのが理論的に当たり前の世界であった。

しかし、今回の北朝鮮のあり得ない出来事によって、連鎖反応が起こり、堅実なドバイまでも潰れてしまった。これは、もうすでに今までの常識の投資の仕方では世界で通用しないということが証明されてしまったようなものだ。

例えば、私が尊敬するある投資家は、10年も前から風力発電に力を入れてきた。

10年前は「そんな風力発電なんかが流行るわけない!」と、散々言われてきたらしいが、今この時代になって、環境問題が取り上げられ風力発電はなくてはならないものになっている。

しかし、今から風力発電を始めようと考える人は星の数ほどいるので、今からやっても儲からない。市場はすでに飽和状態にある。投資するには、流行になってからでは、すでに遅いのである。

「これが儲かりそうだ!」
と情報が出てきたときには、そこはすでに飽和状態なのである。

ITバブルのときもそうだった。
「これからITが来そうだ!」という情報が一般に流れるようになったときには、すでにその世界は飽和状態であったのだ。

投資とは、そういうものだ。自分の目に見えるモノ、聞こえるコト、それだけを気にしたって何も始まらない。

大事なのは、時代の流れを読み、先の時代を見ること。そして、そういう世界に関わる人たちと関係を持つことなのだ。価値ある情報は人づてでしか流れない。

目に見えないモノ、そんなはずはない!と思わせるモノほど、大事なのだ。本当の投資についてもまたいずれ書こうと思う。

北朝鮮のデノミとドバイの崩壊

昨年12月の初め、北朝鮮が通貨切り下げ(デノミ)を行った。一世帯あたり15万ウォンまでしか交換できないことになり、それ以上持っていた者はすべて失った。これは、国民の隠し資産や不正蓄財の富を没収する意図もあったが、北朝鮮国民以外の世界にも衝撃を与えた。

ある日突然、日本政府が円を新円に切り替えます。100円が1円となり、30万円までしか新円に切り替えられません。となったら、皆さんはどう思うだろうか?恐らく国民と日本に投資している人は怒り狂い、政府を信用しなくなるだろう。

これを実施したのだから、失うもののない、ふっ切っている国だと改めて実感する。

今回は、以前香港で会った華僑の投資家に聞いた話を書こう。北朝鮮は2002年以降、限定的ではあるが経済自由化を導入したり、外国からの旅行客も受け入れるようになったりと、資本主義、経済自由化に向けての動きが進められてきていた。

それを見ていた世界の大投資家たちは、ここぞとばかりに北朝鮮に投資をした。北朝鮮がどん底であればあるほど、そのリターンは大きいことを知っているからだ。日本の投資家たちもどれだけ北朝鮮に投資をしただろうか?想像を絶する金額を投入しているはずだろう。

しかし、今回のデノミにより、その投資がすべてパアになった。世界中の投資家たちが度肝を抜かれた。だれも予想していなかった。

そして、これが起こる前の11月末に世界で何が起こっただろうか。そう、ドバイの破綻である。ドバイの破綻はこの北のデノミにより、起こった。という事実を知る人は少ない。

それまでは、ドバイも債務過多で失速していたとはいえ、世界中からお金が集まっていたので、乗り越えられないはずがなかった。ドバイが発展するのはどの投資家もわかりきっていたことなのだ。ドバイに投資をしていないと、
「え?ドバイに投資してないの?」と、言われるくらい堅実で、花形の投資先であった。

しかし、北のデノミにより、投資家らの投資資本がただの紙くずと化した。それにより、ドバイ債権に耐えうるはずだった資金がなくなってしまったのだ。だから、ドバイは破綻した。これも計画的だが・・・。

時間軸で見れば、ドバイショックがあり北朝鮮のデノミがあるため、関連するとしても、ドバイのせいでデノミがあったと思うだろう。しかし、実は逆なのである。世界に発表される前に、投資家にはすでに情報は流れているのだ。

当然のように世界の動きは国境を超え、すべてが繋がっている。北のデノミとドバイの破綻は世界的にみて時代の転換点ともいえるべき出来事であるが、あまり日本では取り上げられなかった。

実際に、この真実を事実として知ることができるのは、世界を創造している大投資家だけだ。

北朝鮮=閉じられた国(共産国)が、開かれたときにどれだけの莫大なリターンがあるのかを知っているのも、またそこに投資できる繋がりを持つのも、そういった人たちだけだ。

大衆には見ることができない、知ることもできない、特別な世界というものが存在しているのである。どこの世界も入ってしまえばインサイダーだけで動いているものだ。

なぜドバイショックが時代の転換点か?それは、年初にニュースとなった、世界一高いドバイタワーが開業したことを思い出してほしい。ドバイショックは開業前に起こった。これは信号である。何かに似ていないだろうか?

古代メソポタニアのバビロニアの首都バビロンにあったバベルの塔の話を思い出してほしい。

つまり、霊的に見れば、ドバイタワー=バベルの塔である。バベルの塔も、完成前に神よって言葉を混乱させられて、結局街から皆去って行った。同じようなことが起きるわけではないが、絶頂を極めた石油時代はもう終わりということだ。もっといえば、世界共通語だった、資本主義・会計・ドル・バレルといった概念がバラバラになっていくと言えるだろう。

世界共通の概念は崩壊し、世界観(コミュニティ)単位の概念が勃興してくる。想像もつかないから面白い。

さて、二度あることは三度あるというが、今まであり得なかったことが起こる時代である。
ドバイや北朝鮮で起こったことが、アメリカや日本、いわゆる先進国で絶対に起こらないとは言えないのである。

信じる信じないは自由だが、こうした見方で時代を捉えていったほうが面白いのではないだろうか?現実の世界も漫画のようなものなのだから。

運命と宿命の出会い

人生には、運命と宿命がある。自分で変えられるのが運命。変えられないのが宿命である。人生のスタート地点は宿命で決まる。アジア人とか日本人とか男か女とかである。

人生が始まり、宿命のターニングポイントがある。いつそれが起こるか?それを求めて占いも発達した。知ってもしょうがないことを求めるのが人間だ!

さてその宿命の出会いともいうべきポイントとポイントの間が運命だ。命を運ぶと書いて運命。命が宿るで宿命。言葉って面白い。

人生はあみだくじのようだ。分かれ道が必ずあって、その選択で人生は変わっていく。だから人生は自分で好きなように創造できるのだ。

人それぞれが自分の課題や体験したいことを持って生まれてきている。その中で、運命の出会い、宿命の出会いがある。この出会いはどちらだろう?などと気にしても意味がない。好奇心を満たすことより、その出会いから信号を受け取り人生に活かすことのほうが大事だ。

先日こんなことがあった。1週間以内の出来事だ。

1.道端で偶然Aさんに会った。
2.イベントを主催しているBさんからお誘いを受けた。
3.メールやニュースで占いという言葉が頻繁に目についた。

私は頻繁に偶然人に出会うことが多い。突然の連絡などもあるのだが、こうした出来事に出合った時、私はそれを信号と捉える。その時点で、その出来事を中心としたマンダラを描く。

3の時点で、1と2のマンダラを思い出し、ぱっと連想したのが占いという言葉だった。Aさんはかつて占い会社勤務だった。Bさんは占いが得意だった。それから、下記出来事が続く。

4.待ち合わせた場所の目の前に占い屋があった。
5.前から約束していた人にあったが、その人にあった時、占い師の話をされた。

といった具合で、「あ、占いのことについてBlogで書こう」と思った。信号は連鎖的で、また意味も一つではない。そうした信号を受け取り行動に変えていくと、更にシンクロが起きることがある。そうすると、その信号の理解はそれで良かったのだと感じる。

他にも、先日はふと気になって入ったお店で、10年前に行きつけだったお店の板前さんに会った。10年前にそのお店からいなくなって、その時どこにいったのかな?と思っていたら、10年後に会うとは!この信号は、10年近く前に出会った人たちから連絡がくるようになると捉えている。ここ数日昔の人からの連絡が続いたからだ。

ふとお店に入ってみたら、隣に知人や著名人がいたことも結構多い。出会いというのは不思議なものだ。私はご縁に恵まれているなといつも感謝する。

不思議なことなのだが、人のつながりがクモの巣のように絡んでくるのだ。5年ぶりに会った友人が連れてきた人の親が、沖縄に絡む官僚だった!といった具合だ。昔は気軽に人を紹介していたが、それが仕事になったり、会社になったりしたことが多かった。しかし、そういう人たちは成功しても、原点を忘れてしまう人が多かった。

「私はただ紹介しただけだ。あとは本人の頑張りだし、キッカケを作ったことは覚えていてくれればそれでいい」と思っていたが、それでは小さく利用されただけで終わってしまう。

また、キッカケの価値も軽く見ていた。0から1がなければ、その先はないのだ。宿命のキッカケだとしたら、とてつもない価値があるのだと感じるようになった。

私自身もっと大きく利用されるために、考えて紹介するようになった結果、今のいい循環が生まれるようになった。紹介が紹介を呼び、更なる発展をお互いがして、更に応援するという具合だ。

今年も益々、人の出会いが楽しみだ!

日本航空破綻に見るヒトとモノの本質

日本航空の出来事は何を意味しているだろうか?これはとても重要な信号だ。この信号が意味していることを考えてみよう。

JALは私にとっても思い入れが深い会社である。親戚、友人、知人と関係者が多数いるし、飛行機といえばJALだったのだ。

そもそも、もとは国の肝いりで作られた国策会社で、ブランド価値も高かった。テレビドラマの「スチュワーデス物語」はドラマ界の歴史に残る作品だった。最近ではCAと呼ばれているが、女性が憧れる職業になったのもこのドラマの影響が大きいだろう。

ラジオ番組の「ジェットストリーム」もとても好きな番組で、ナレーターの声と定番の音楽は耳に残り忘れられない。旅への気持を掻き立てられたものだ。

ビートルズが来日した時に着用していた、JALのロゴ付きハッピを着ている姿は何度も放映されている。

とてもブランド力のある会社だし、実際就職ランキングでも数年前まで一位だった。長年の人気企業ゆえ、優秀な人材も揃っており、数年前のJASとの合併で更に力が増すのではないかと思われていた。

そして日本の富豪のベストテンに入るであろう、投資家糸山氏が勝算もなしにあれほど投資するだろうか?誰よりもよく調べて、価値があると踏んだから投資したはずだ。

ほんの一年前まで、一般の人は誰も今の現状を予測できたものはいないだろう。

もっとも5年ほど前から、警告を発していた人もいるが、危険かもしれないがJALだから大丈夫だろうと誰もが高をくくっていたのだ。

ところが、去年くらいから、まるでタイミングを合わせたかのように映画「沈まぬ太陽」が公開され、この会社は問題なのではないか?という機運が高まった。そして、現在JALはすでに1兆円近い債務超過に陥っており、会社更生法が適用された。実質の破産。1兆円の債務超過など、幼稚園生が経営してもそこまではないだろう。

人間とはそういうものだ。ここで面白い例え話がある。
「茹で蛙」と「逃げ鼠」

■茹で蛙とは、カエルをいきなり鍋の熱湯に入れると火傷はするだろうが、必ず飛んで逃げ出す。しかし、常温の鍋にカエルを入れ、だんだんと温度を上げていくとカエルは逃げずに、茹であがって死んでしまう。

この例えは、カエル=大衆であり、水の温度=景気である。だんだんと悪化していく景気に大衆は反応することができずに死んでしまう。

■逃げ鼠とは、鼠が敵から逃げるときに、周りのネズミも一斉に逃げ出す。そして、前に走るネズミの後姿しか見えずに走り続け、前のネズミが消えたと思ったら、自分も谷底に落ちている。

この例えは、鼠=大衆であり、敵=バブルである。大衆はみんなが走る方向に走り、いつの間にかみんなで谷底に落ちている。

JALの話は、時代の転換を説明するのに根拠ある証拠であり、これほど今の日本という国、そこに安住する人間の本質を表している例えはない。

私には、一気に追い込まれた、太陽のロゴマークを付けたJALの行方と日本の行方がダブって見える。これは日本の将来を示した信号だろう。日本航空=日本国なのだ。

日本も同じように、価値があり大丈夫だと思っているけど、一気に追い込まれるだろう。株価の推移をみれば、価値なんてものは相対的なものだと否が応でもわかる。わずかの間に、200円が60円になり2円になる。お金の価値もそんなもんだ。

しかし、だからといって悲観することはない。世の中はよく出来ていて、器が備わってない場合は取り上げられて、器がある人に移っていくものだ。

芸術品が良い例だ。古代よりの価値ある資産は、長年その価値を守れる人を伝わって残ってきた。価値のないものは時代によって淘汰され、価値あるモノだけが残っていく。どんな富豪が所有していても、それは一時的に借りているのと同じだ。

必要な人が必要な時に借りられる(所有する)ようになっている。

皇居を見てみよう。今では誰も江戸城だとは思わない。徳川家の城であったことは知っているだろうが、江戸城とは呼ばないし、思いもしない。完全に天皇とイメージは一体化している。

まるで今では、天皇のために徳川家が作っておいたかのようだ。JALもJALが似合う人の手に渡るか、もしくは淘汰されることになる。

真に価値あるものだけが歴史の重みに耐えるのだ。

占いの功罪

占いが好きな人は多いだろう。古今東西、あらゆる時代で占いは活用されてきた。戦争から恋愛までその守備範囲は幅広い。かくいう私も昔から占いにご縁があって、学生時代に関係した会社は、占いコンテンツ制作会社の草分けだった。今では、占いコンテンツは儲かるとわかっているので多くの会社が制作しているが、時代に先駆けて占いコンテンツを作っていた会社だった。その会社を通して知り合った人たちは、今も様々な分野で活躍している。

何故か私は、昔から占い師や霊能者の方々を紹介されることが多く、そしてそういう人たちに私は好かれることが多い。例えば、見てもらったら普通はそれで終了だろう。しかし、のちにあなたに紹介したい人がいるからと人を紹介してくれたり、こういうことをやらないか?と奇抜な話を持ってきたり、はたまた占い師ゆえに知り得た内緒の話をしてくれたりする。

今はもう有料で占いにいこうとは全く思わない。当たるも八卦、当たらぬも八卦の世界だなと体験から理解した。占いの話は面白いけど、エンターテイメントでしかない。ゴシップと似たようなものだ。

確かに四柱推命などは統計学だから、確率的に参考になることは多い。そういう傾向にあるなと納得することはある。でもそれがわかったからといって好奇心が満たされるだけで、魂の進化や幸福とは何の関係もない。むしろ遠ざかるかもしれない。

外部の知識に判断を委ねると、自らの中にある直感を弱めてしまう。

また、言われたことに縛られて、自分でその予言を実現化してしまうこともある。不安なことほど人は気になって、不安に感じている事柄を引き寄せてしまいがちだ。予言の自己成就である。

心理セラピーとして占いを活用している人もいるから、それで救われている人もいるだろう。しかしながらそれで立ち直って人生を歩んでいく人は少ない。大抵は、益々占いにハマって人生をおかしくしたり、依存心が強くなったりする。好奇心、エンターテイメントで楽しむ程度なら良いだろう。

良くあたるという人ほど要注意である。蛇やキツネの霊が関わっているかもしれない。

それにしても、最近久しぶりにテレビである霊能者をみたが、随分と悪人顔になっていてびっくりした。彼のお陰で霊の世界もスピリチュアルと呼ばれて随分と世間の抵抗感がなくなった功績は大きい。そんな人だからこそ、魔界には気をつけないといけないのだが、それが一番難しいのだ。

成功者がその成功体験で失敗するようなものだ。

進化成長への早道は、目の前の出来事に思いを巡らし、自分の中の直感に照らし合わせて行動し、仲間に検証してもらうのが一番だ!

オウムの時代背景

過去の歴史を調べると、いつも歴史的大事件の背景には時代魂の存在が影響している。先日、六本木にてある有名なジャーナリストの方と「時代と魂」の話になった。その話を書こう。

1980年代後半、日本中がバブル経済に狂っていた。誰もが浮かれて、享楽と自信に満ちていた。多くの人間が、
「今、株を買わない者は馬鹿だ!借金しても土地を買え!こつこつ働く者は取り残される!」と。右肩上りの景気に正気を失っていた。日本中が今では考えられない程クレージーなそういう時代(サラリーマン、主婦、農家すら走った)だった。

そんな最中、真剣に
「これはおかしい!このままでは大変な事になる!日本が、未来が危ない!」
と感じる人々が必然的に現れ始めた。

世間の風潮に流されずに、
「みんな餓鬼のように金の亡者になっている。亡国となる!このままではいけない。とんでもない国になる。今、日本を変えなければ!」と感じた人たちの中で、かなりの優秀な人間たちがオウム真理教へと流れて行った。

東大を中心にトップクラスの大学の学生(事件当時はキャリア官僚まで)を始め、インテリも多かった。最初はヨガの先生の麻原であったが、ダライ・ラマなどを巧みに使ったことと、バブルという時代背景からインテリ中心の原理宗教運動が始まり、オウムは日本中が注目する勢いのある宗教団体となっていったのだ。ある意味、麻原は時代魂を持っていたのだ。

当時のオウムは、社会がバブルで金に熱狂している中で、真逆である精神的充実の世界を真剣に創ろうとしていた。それは傍から(大衆側)みたら麻原の風貌や布教活動から異様な集団であったが、マスコミ、財界、知識人も始めは、多少なりとも(バブルのお祭りに走れない人は)興味を持っていた。

勿論怪しいという見方も多々あった。それは、決定的に麻原が美的センスに欠けていたことが影響しているのではないか。麻原は目が不自由だった。今いるお洒落なオタクではなく、ダサい不潔な初期のイメージにあるオタクのようなものだ。

当時、知識層からは、今日の危険な「地下鉄サリン事件のオウム」でのイメージはもちろん無く、『インテリで精神修業などを真剣にしている特別な集団』という見方がされていた。

オウムに魅かれ、入ってくる人たちは、若いインテリ系、また女性達もたくさん入信し、可愛い子たちも大勢いた。信者が増えてきたころ、90年代に入りバブルが末期的な段階を迎え、彼らは政治の世界から世の中を変えようとした。

そして選挙。もちろん信者の票もすべて計算し、これだけの議席は必ず取れる!という予測を行い、それを上回る候補者を立てた。その選挙活動も、歌やキグルミ、アニメなど使ったオタク文化の総動員だった。よってマスコミも興味本位でこぞって取材し、ニュースなどからその選挙運動は社会現象にもなった。

その反省、もしくは政治的圧力からか、昨年の衆議院選挙で、幸福実現党は意図的にマスコミから取り上げられなかったほどだ。

そうした状況から麻原は自信満々に立候補したのだ。

しかし、結果、一人も当選しなかった。前回の衆議院選挙の「幸福の科学」と同じだ。代表一人も当選出来ない事実。彼らにしてみたら、岩より堅い「信者の票」が消えたのである。
まったく想定外の結果。あり得ない結果。

彼らは選挙から堂々とソフト革命を起こそうとした。しかし、なにものか(国家システム)によって、阻止されたと考えた。国家権力によりこの日本を変えることを拒まれたのだ、と。

選挙後、彼らは沖縄へ行った。沖縄にきて、最高幹部会を行い、特別幹部合宿を行った。

そこから彼らは劇的に変わった。日本という国は、もう手遅れになりつつある。生易しいソフト革命では変えられない局面まできていると確信した。自分達はまだ魂が未熟であると。

沖縄で何らかの、信号(啓示?)を麻原は受け取ったのであろう。しかし、向かったのはあの悲惨な全面戦争!攻撃は化学兵器「サリン」でターゲットは国家の中心、国会~霞ヶ関である。更に言うと、首都圏全体に散布しようとしていた可能性もあるのだ。

「サリン」は国家にとって、この世には存在しない事にしたはずの物質(第二次大戦での秘密化学兵器)であった。「存在しない」のだから、法律等(医学的にも)の対応も出来ていなかった。地下鉄サリン事件が起こった(直前の情報でも)時、国家はそれを真剣に恐れたのだ。

その物質が最初に開発されたのは、ナチス・ドイツ軍であった。ナチスでも結局使用しなかった毒ガスを世界で初めて使ったのだ。(余談だが、ナチスの英雄ヒトラーの妻の名は「エヴァ」である。)他にも、人類が作った化学物質の中で最も毒性の強い物質といわれるVXガスなども世界初で使用した。

ただでさえ作るのが難しい毒ガスを、オウムの信者達は創りあげ、実際に使用してしまったのだ。

まるで破壊神であるシヴァ神のようだ。怒りと破壊のエネルギーを国家に向けて、霊(パワー)が降りてきた証明でもあった。

麻原彰晃は沖縄で幹部に宣言したのだ。
「もうこの日本を変えるには、破壊しなければいけない!シヴァ神が降りてきたんだ」と…
この啓示、沖縄で受け取った啓示はなんだったのか?何故沖縄だったのか?何故今でも沖縄は基地問題等でニュースの中心なのか?

そして、あの歴史的悲惨なテロ、霞ヶ関地下鉄サリン事件が起こってしまったのであった。

今、日本はバブルから20年が過ぎ、いまだに政治経済も後遺症に悩んでいる。しかし、彼らの方向性(一番大事だが)が間違っていなければ、その情熱を社会のために貢献でき、ある意味、今の日本はもっと精神的に豊かな国になっていたのかもしれない。

少なくとも、あれだけのことを実行出来る(911テロも同じ)ほどの熱意と能力が別方面に活かされていたら社会にとっても・・・。

客観的に歴史をみると、新世紀の前には破壊が必要だ(スクラップ&ビルト)。まるで、その役割を担っていたかのようなテロ行為。

戦争行為は人間最大級の悲劇で、原爆のように人の心に長く残る。いつの時代も破壊のエネルギーは地獄の世界そのものである。私達は過去のあらゆる犠牲者の念の為にも、時代を考え真剣に生きていかねばならない。

オウムから始まった日本の崩壊が、いよいよ現象化しだしてきた。日本航空はその象徴だ。また詳しくこれについては書こう。

さて‥新年は坂本龍馬のドラマが話題。彼の時代は幕末から明治維新。シンクロするように、まさに現代も幕末のような雰囲気だ。時代が劇的変革を求めている。時代魂に注目しよう!

あやまちを繰り返さない為に今こそ冷静に、過去の事件と歴史から罪と罰を切りはなし、時代背景をしっかりと受け止めなければならないと思い、オウム真理教の事件を挙げた。いつも歴史から学ぼう!この出来事から学ぶことはたくさんある。
未来の人類、地球のために。

菩薩シザーハンズ

映画「シザーハンズ」は我々の世界すべてが表現されている。

如来、菩薩、菩薩道を歩もうとする人間、大衆、悪霊、ユタ。

シザーハンズでいえば、お城に住んでいた博士が「如来」である。博士は一見「手がハサミ」という化け物を作ったマッドサイエンティストのようにも見える。しかし、映画のなかをよく観察すると、可愛らしい暖かい機械たちが、ハート形のクッキーを焼いていたのがわかる。心優しいからそういう形の機械とハートのクッキーを作るのだ。

広大なお城に一人で住んでいて寂しいように感じるが、本人の博士自身は微笑んでいて楽しそうでもある。

またあれほどのお城を持っているのだから、経済的にも成功しているし、博士が死んだ後も、その城は治外法権のように残されている。エドワードがジムを殺しても、警察は立ち入らなかったし、その後もエドワードは住み続けた。

体制に守られているともいえる。特別な地域として残されている神社仏閣のようなものの象徴でもある。

神社仏閣といえば、シャーマン(巫女、またはユタ)も映画には登場している。彼女は最初からエドワードを悪魔の使いとみなしていたが、彼女自身も世の中では浮いた存在だ。

彼女のような人間も、社会には必ず存在するという信号だ。彼女のような感じやすい霊感の持ち主は、どこの社会にもいて、ある一定のパワーを超えた人をみると、悪魔とか天使とか言うが、その二つはパワーのベクトルが違うだけである。

自分を超えたパワーの持ち主のことは、当人には理解できないものだ。彼女は、目に見える物質的なことよりも、心が大事とわかっているから、大衆とも仲良く一緒にはいられない。

でも、エドワードのような愛そのものが来たら怖い。だから否定する。人より霊感があり、見えない世界をわかっている自信から、理解できない存在は認めないのだ。

大衆はなにか未知のものが来ると、興味本位と本来の噂好きでみんな集まってくる。そして、お祭りのようにゴシップで騒ぎ立てる。

エドワードが町にきたとき、町に住む人々は最初エドワードを賑やかに迎え入れてくれた。興味本位で彼に庭を整備させたり、髪を切らせたりした。使えると思うと本人の意思など関係なく事業をやらせようとして、果ては性的に襲いかかってきた。

しかし、どうだろう。一度悪い噂が流れると、それが事実ではなくとも、一気に悪者に仕立て上げる。あれだけ、みんなが喜ぶことをしていたのに、一変して「あいつは悪だ!」と騒ぎ立てる。無責任この上ない。

これを「大衆」と呼ぶ。
そして、大衆は何の罪悪感もなく、次の未知なるものをただ待つだけの生活に戻る。

最後にこの映画の最も大事なメッセージだ。

なぜ博士は最初から普通の手を作らなかったのであろうか?これも意味がある。

普通に考えたら、人型ロボットを作るのに一番苦労するのは「心」である。他のどのロボット映画も「心」を創ることができなくて困っている。それは現実のロボット工学でもそうだ。

しかし、博士が創ったエドワードは心は完璧なのだ。人間の心を完全に創りだした天才なのだ。その天才が普通の手を先に作れないはずがない。完成していないのは「手」だけなのである。

エドワードは手がハサミであるせいで、人間に近づけば近づくほど、文字通り人を傷つけてしまう。悪い者に利用されたり、愛する人を抱きしめてあげることもできない。

だからこそ、この映画はものすごい人間の深い心(愛しさ、切なさ、尊さ)というもの、つまりは、愛と自己犠牲というものを表現することができるのである。

つまり、博士はわざと手を完成させなかったのだ。
(映画ではそれだとわかりづらいから、演出として死んだことにしたのだ)

エドワードがそれによって苦しむことも知っていた。悲しむことも知っていた。(だから城の庭には手の形をした木があるのだ。あれは、エドワードが、せめて片手だけでもあったらという願いの表れだ)

しかし、如来である博士はエドワードに菩薩としての、「愛」と「自己犠牲」を教えたかったのである。本当の愛は深いのだ。

これもまた私が進むべき菩薩への道のりなのである。

新世紀エヴァンゲリオンの秘密

2010年が始まった!今年はさらに激動の時代となり変化が加速するだろう。今の時代のピークである2011年に向かって突き進む年だ。我々が生きている時代は、とてつもない時代なのだ。有史以来の変化が起きているといっても過言ではない。新年はまず少し時代背景の話からスタートしたい。

これからどんな時代になるのだろうか?それを理解するのに最適なのが、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」だ。

実はつい先日、エヴァ制作の中心的人物とお話をする機会を頂いたので、その時に聞いた話と合わせて、時代をできるだけわかりやすく解説していきたい。

「Neon Genesis Evangelion」
日本語では、新世紀となっているが、ラテン語タイトルを素直にとれば、「新創世記」となる。つまり、新創世記エヴァンゲリオン。「新しい時代の聖書」ということだ。

主人公である碇シンジは、新時代のキリスト、菩薩なのだ。

さて、そこに詳しく入って行く前に、今どんな変化が起きているか理解するために、大雑把だが時代の整理をしよう。わかりやすく言うと、1995年前後から前を旧時代、その後を新時代とする。

なぜ95年を境目としたかは、創造の前の破壊の働きをしたオウム真理教が、95年に強制捜査を受け、そしてエヴァンゲリオンが始まった年だからだ。

麻原は95年タイム誌の表紙を飾っている。日本人としては昭和天皇以来だ。それくらいオウムのインパクトは世界的に凄かった。今に続く宗教テロのさきがけで勿論、大罪も含め研究の価値がある。

オウムについてはまた今度詳しく書こう。

で、日本はバブル以降、宗教テロ、デフレ、ゼロ金利、高齢化等々、先進国の中で初めてという課題に直面してきた、先進国中の先進国である。つまり、日本は新時代の先導をしているというわけだ。

話を戻して、旧時代と新時代の話を続けよう。旧時代は、男性の時代で物質重視、競争意識、重厚長大の時代であった。そして、現実と空想の世界の狭間ははっきりとしていた。ここが大事である。

そうはいっても現実は理想と違う、という割り切りが世間にはあったのだ。

それに引き替え、新時代は、女性の時代で精神的重視、共生意識、軽薄短小の時代だ。そして、現実と空想はお互いに影響し合い境目はない。つまり、映画マトリクスのような感覚である。リアルとバーチャルが融合している感覚だ。

新時代は、アニメ脳とかバーチャル脳とかいうような人種が世界を創っていく。

旧時代と新時代の人の違いは、男女の違いのようなものだ。同じ人間でも、男性と女性は考え方や行動に当たり前の様に違いがあるように。

新時代のアニメ脳人種は、リアルの中にヴァーチャルでの世界を持ち込みたいのだ。だからコスプレなどをする。また、リアルとバーチャルの融合が出来ない場合は引きこもる。

100パーセントバーチャルの世界に浸かるのである。現実と空想、どちらが優先されるか?といったら、空想世界が優先されるのが特徴だ。

アニメ脳人種は、心のひだといった、人間関係の煩わしい部分は苦手である。でも興味はある。苦手だけど、自分の中の世界にある修業的要素と合致すれば向き合うことができる。自分の体験をアニメや漫画のシーンと関連付けられればいいのだ。

基本的に理想とするのは、ふわふわとした人間臭くない軽薄な人間関係なのだ。新時代では、映画やアニメなど様々な世界観があり、現実のモノの価値よりも、そうした世界観に入り込んでいることのほうが価値があるようになる。面白い世界を創るクリエイターが尊敬され、政治家は勿論、大統領だろうが社長だろうが、現在のこの世で重要視されていることは、実はどうでもいい。重厚長大な世界はとっくに、うんざりで面倒くさいだけなのだ。

人の価値も、自分の中の世界観でしか判断しない。いわゆるセカイ系アニメと呼ばれているものは、自分の主観が世界の中心というもので、そのさきがけがエヴァンゲリオンなのである。

エヴァンゲリオンには、オウム信者のインテリ層が関わっていたという話がある。劇場版ではないアニメ最終2話を是非見てほしい。それまでの24話までとはまるで違うアニメかと思うほど表現が変わっている。当時はかなりの論議が巻き起こった。

あまりにも哲学的で解り難く、批判的な意見が出ていたため、「劇場版」にて最終2話がわかりやすい「形」として、作り変えられたほどだ。しかし、あのアニメの本質はアニメ放映版最終2話に存在し、そこから全ての物語が創られていったのだ。主人公である碇シンジの内面世界=外的世界で、現実と空想の狭間がないのだ。

エヴァンゲリオンには、オタク受けするための技法が数多く取りこまれている。例えば、技法の一つとしてエヴァンゲリオンでは、少し難しくわかりにくい秘教的な言葉やイメージをわざと使っている。それによって、インテリやオタクは優越感を感じ、普通の人も理解していなければ恥ずかしいような状態になった。

エヴァンゲリオンはある意味ソフトオウム的なアニメだったのだ。またここから我々はすでにいつの間にかオウムの根本原理に触れている。地下鉄サリン事件の大罪により、徹底的に世間から非難されているオウム真理教の根本原理はその非難ゆえ知られていない。

しかし、その奥に隠されていた本当に伝えたかった根本の部分を、私たちはいつの間にか形を変えて知らずに自然と受け入れている。ちなみに、歌手の尾崎豊も当時、オウムとの関係性をいろいろと言われ、歌詞等が危険と評価された。しかし今も彼は人気がある。エヴァもまた今も人気が続いている。

エヴェンゲリオンにはパイロットがいる。エヴァンゲリオン自体は、人の形をした兵器である。実は、現実の人間にもパイロットがいるのだ。そのパイロットが人の形をした人間を動かしている。そのパイロットとは霊魂である。

人間を見るとき、その人の表面意識を見るのではなく、その人を操縦している霊を見るようにしなければならない。普段見ているのは、ただの乗り物であり、操縦している“霊”が必ずいる。少なくとも自分自身はそう捉え相手を見ている。

エヴァンゲリオンの闘いは、魂、霊力、イメージの力が勝負を決める。いちいち詳しく操作などしないのだ。自分の持っている見えない力が重要である。筋力など肉体的影響は受けない。脳力・霊力勝負と言ってもいい。これからはそういう時代だ。いかにすごい霊が降ろせるか?そこに興味が移っていく。

物質的な欲よりも、自分の世界を豊かにしてくれる世界観とそれに連動した現実を求めるようになる。究極的には、映画「マトリックス」「アヴァター」のような世界を求める。

実は、前時代に成功していた人間達は、ある意味で今のゲーム脳のようなモノの持ち主だった。現実をゲームと捉え、大胆に世間では無理だとおもう空想ごとを現実社会に持ち込んだ。その結果、そのイメージを現実化させることができた。

今は逆にゲーム脳が多すぎて、それが通用しない時代になったのだ。価値観が多様すぎるのだ。だから有史以来の大変化なのである。新時代の新しいルールに突入したのだ。

これからは、自分の中の世界と周囲の世界をジョイントできるかどうかが問われてくる。

特別な世界に住む人間はみなアニメの世界のキャラクターのようであり、それすらも超える存在だろう。その人の特性が活かされて、それぞれが想像の世界で生きているキャラクター達なのである。

誰もが特別な世界を創れる。そこに矛盾はない。自分の想像が現実化しているだけだ。

我々の活動で起こることは、想像の世界よりも面白く、興味深いことが起こる。

「事実は小説よりも奇なり」というが、当たり前の様に本当にそうなのだ。我々の世界は小説、アニメより遥かにダイナミックでエキサイティングである!さて、あなたの現実は小説、アニメに勝っているだろうか?

いつの間にか社会の歯車の一つになり、脇役にもなりきれていないのではないだろうか?あなたは自分の人生の主役にいつでもなれる。なんの矛盾もなく。自分が本気になれば、自分の人生はノーベル賞を受賞する小説なんかよりも、断然面白くなるのである。

Ps:
‥ちなみに、私、尾関茂雄は当時も今もオウム真理教との繋がりは、全くございません。

ただ係わりのある沖縄で知り得たことから時代、霊魂の繋がりを現在、未来に展開、記述してみました。