「情報」カテゴリーアーカイブ

フィリピンと沖縄の未来

◾️過去を知り、未来を夢見て、今を生きる

フィリピンと沖縄は似ている部分があって、比較すれば未来を考える上で、とても参考になると思いました。沖縄からフィリピンへの距離と、沖縄から東京への距離は同じくらいです。近いから一緒に発展する仕掛けが出来ないものかと夢見ています。あと、実は台湾も含めて、かつて琉球と呼ばれた地域つながりで考えるのも面白いと思っています。

でも、日本人はフィリピンのこと、歴史などを知っている人は少ないでしょう。大抵の人にとっては、フィリピンといえば、フィリピンパブなイメージではないでしょうか。調べて見たら、今後の沖縄の行方の参考になるかもしれないと思ったのでまとめて見ました。沖縄、日本はこれからどうしたらいいの?というのを考えるキッカケの一つになればいいなと思います。

◾️似ている部分

  • 島国である
  • 日本軍の戦争に巻き込まれた
  • 宗主国に長期支配されてた
  • 米国に統治されていた
  • アジア最大の米軍基地(かつてあった)
  • 出生率が高い
  • 芸能民族
  • 南国気質
  • フィリピン、台湾は小琉球と呼ばれたこともある

もちろん異論もあるでしょうが、他にも思いついたら追記していきます。酒とか台風とか、コンクリ造りの家とか、そういうのは省きました。

◾️余談ですが、最古の人骨が出土している地域としても似ています。
まずアジアで最古のホモサピエンス の化石が発掘されているのは、はい、フィリピンです。6万7千年前のカヤオ人という化石人骨が発見されています。日本国内の最古の人骨は、沖縄で発見された、山下洞人で3万2千年前と言われています。最古つながりですね。

日本においては、大体3万8千年前以降から遺跡が増えだしているので、それくらいから移住してきたと言われています。日本の歴史よりも前にフィリピンでは人が住んでいたわけです。先人たちはよく冒険しましたね。土地はたくさんあっただろうに。命をかけていた昔と違って、いまは冒険しやすいのですから、挑戦していく楽しみを伝えたいです。

ちなみに国立科学博物館の人類進化学者・海部陽介氏によると、ホモ・サピエンスの日本への渡来について、
「北海道ルート」(2万5千年前)
「対馬ルート」(3万8千年前)
「沖縄ルート」(3万5千年前)の3ルートが考えられるそうです。そのなかで最も長い距離で、黒潮が邪魔して難しいのが「沖縄ルート」と。来年、実証実験が行われるのが楽しみです。

参考:三万年前の航海再現プロジェクト

話が少しそれましたが、フィリピンの歴史を軽くまとめてみます。スペイン統治前の時代はあまり資料が残っていないのと、群雄割拠状態に近いので割愛します。

続きを読む フィリピンと沖縄の未来

大海の波打ツ如シ

またこの季節がやってきました。なぜか、226事件のことは必ず思い出すのです。きっと前世で関係していたのかもしれないと夢想してしまいます。魔王と呼ばれた男、北一輝。こんな面白い男はそうはいません。もはやその存在は風化して、忘れ去られているのでしょうか。彼が熱心な法華経信者であったことも、そして、そもそも法華経自体をわからない人が増えているのが現代です。彼の書いた本をバイブルにして、青年将校たちは226事件を起こしました。
法華経と言えば日蓮。日蓮も北一輝も佐渡ヶ島と縁があり、あの島にはいつか行きたいと思っています。ついでにいうと世阿弥も流刑されて佐渡ヶ島に縁があります。法華経で触れられている地湧(じゆ)の菩薩を自認していた彼らは、熱烈な使命感で人生を全うしました。評価がどうあれ、人生としては生き切ったと言えるでしょう。世の中が乱れているときに、仏法(仏の教え)を守る役目を持つと言われている地涌の菩薩。この菩薩は修行の身ではなく、仏なのにわざわざ降りてきている大菩薩と言われています。大義を持った時、人は命さえ惜しみません。それは最近ではイスラム国を見ればわかります。
純粋に貧困な農民たちを救いたいと願った、貧困層出身者の多かったエリートではない叩き上げの青年将校たちの想いは忘れてはならないと思います。行為の良し悪しは後で何とでも言えることです。実際に行動したこと、想いがあったことは感じます。想いだけで突き進んだ青年将校の純粋さには共感すれど、もうそれは経験したので、私自身は私なりのあり方を示していこうと思います。

過激派の日蓮は、法華経の敵を殺すのは第一の善行としばしば語っています。満州国の立役者の石原莞爾も、宮沢賢治も熱烈な日蓮信者です。昭和の血なまぐさい時代は日蓮信者たちがプロデュースしていました。そうした生々しいところから離れて、北一輝はシャーマンの奥さんと自らの霊夢を「神仏言集」に記録していました。それは霊告日記と呼ばれています。
理論的革命家と知られている北一輝が、オカルティストで宗教にハマっていたとは面白いですよね。私は仏教もキリスト教も神道も縁があるので、それぞれの違いというか、好きなところがあって、形にとらわれないで本質を掴んでいきたいと思っています。北一輝も素直な心があったからこそ、神仏を感じられたのではないでしょうか。
「大海の波打ツ如シ」これが北一輝の最後の「神仏言集」の言葉です。何を感じていたのか色々と感じ入ります。226事件の二日後の記録です。この後彼は逮捕され投獄されてそのまま刑死しました。直接、事件に参加していないのにも関わらずです。ファンが勝手にやったことで責任取って殺されるなんて、普通であれば無念でありましょう。魔王はもちろん違いますが。それだけ権力者に恐れられていたわけです。
大海の波には岩をも砕く力も、大船を転覆する力もあります。波打たせるのは風の力です。沖縄でよく波を見ていたのを思い出します。一つとして同じ波はありません。ただの海ではなく大海の波です。どんな音が北一輝の中では響いていたのか夢想します。きっと佐渡の海の音なのでしょう。
松岡正剛氏はこんなことを書いています。
弟は兄の危険な思想にいっさい近寄らず、早稲田の教授から温厚な衆議院議員となり、戦後の自民党長老の一人となった。そういう弟を北一輝はずっとバカ呼ばわりをした」
兄は死刑にされ、弟はこの世では成功したわけです。どちらが本当の成功なのかは、人によることでしょう。私は自分が尊敬する人間に、時間も空間も越えて出会ったときに、誇れるような人生を送りたいと思います。
 

シンクロニシティ

 いわゆる偶然の一致が起こると、ただの偶然だと思ったとしても、何かしら少しは意識するのではないだろうか。それが意味するものは何なのか、わからないことが多いに違いない。シンクロというと良いことのように思うかもしれないが、最終的には良いことでも表面的には最悪ということもある。

今日は7月30日。かつて、沖縄では730キャンペーンがあった。1978年に右側通行から左側通行へと県内の道路で一斉に変更した日だ。それを知っている人で、今日何か特別なことが起きた人にとっては、人生の切り返しのように感じシンクロに感じるだろう。この時代を知っている人間にとってはただの懐かしい思い出にしか過ぎないかもしれない。
シンクロニシティは個人的なものだ。本人にとっては、人生の鍵となるかもしれない価値がある。だがその鍵はわかりづらい。曼荼羅を書いて深めることも以前書いたが、そこまでする人は少ない。真剣に求めていたら、どんなキッカケも活かそうとする。それが善い悪いではない。
意味づけするもしないも自分次第だ。逆に、今日をキッカケに自分の人生を切り替えようとしてもいい。ふとしたキッカケで、今日この文に触れたとして、まるで左右逆にするように、正反対の考え方をしてみるシンクロニシティと捉えることも出来る。
自分の良いと思っていることがそうではないかもしれない。
自分が悪いと思っていることが、実は良いことかもしれない。
物事の本質から送られた信号がシンクロニシティとして現れるときもある。全部が全部そうであるわけではないし、シンクロニシティにも種類がある。
深層意識からのヒントだと思って、シンクロニシティと接したほうが面白いと私は思うだけだ。去年の7月は死にかけた。今年の7月も生死を意識することが多かった。夏は霊が騒ぐという人もいる。それが本当かわからないがどちらでもいい。
大事なことは受け入れられるか。器の問題だ。どんな視点も何かしらの真実を含んでいる。受け入れないで世界を狭くしてしまうのは勿体無い。偶然の一致をコジツケだと思うよりは、何かしらのまだわからない法則や世界があるのかもしれないと、1%でも可能性を認めたほうが世界は広がるではないか。
ほんのすこし受け入れるだけで、劇的な変化が起こる。蟻の穴から堤も崩れるというコトワザがある。自分の硬い概念を壊すキッカケにシンクロニシティは応援してくれる。見えない世界にこそ雛形があり、そこからのつながりでシンクロニシティが起きていると信じている。
慣れ親しんだ考えを変えるのは大変だ。右側通行から左側通行へ変わるのもそうだ。かわってしまえばまたそれに慣れる。慣れてきたらまた変化を起こす。形にとらわれないで、心が感じることを大事にしていきたい。

支配者の視点

紋章の話しで前回は終わったが、日本の家紋から影響を受けてルイヴィトンの模様は生まれたと言われている。ルイヴィトンが中核であるLVMHは今やブランド帝国として君臨している。ファッションからお酒、デューティーフリーまで幅広い事業を展開している。帝国を築いたのは、元々不動産開発をしていたベルナールアルノー氏であるが、実はその帝国の基礎は他人が築いたものだ。

彼はNYのタクシー運転手との会話で、フランスで有名なのは大統領でもなく、クリスチャンディオールだと気がついたところから始まったと言っている。気がついたとしても、不動産開発を仕事としていた人間が、ファッションビジネスを手がけることは普通ではない。普通ではない選択をするからこそチャンスは訪れる。

人生は連続しているが、中身は非連続していることがある。まるで別人のようになったりするのだ。最近では橋下氏がそうだ。外から見たら一つの物語でも、演出や監督、俳優が途中で変わっていることがあり、そのほうが面白い物語になることがある。現実をまるで映画のように捉えている人たちがいる。シナリオが決まっていて、出演者も演出も決まっているとしたら?

映画の中で俳優がある役を演じる。誰もそれが彼の本当の姿とは思わない。では映画の中ではなく、実社会では誰もが本当の姿を見せているだろうか?人に限らず、国でも会社でも、表と裏があるのが普通だ。表裏がないのだとしたら、底が浅いだけだ。

どうして今ある国民国家というものが生まれたのか?昔から国はあるように見えるが、実態は全然違う。国民国家というものが誕生してから愛国心が生まれた。愛国心を生む為に、国家が生まれたとも言える。昔、戦争は傭兵が行うものだった。

戦国時代、信長はなぜ弱小国から天下人になれたのか?人間50年とうたっていた通りに、まるで計算されたかのように50歳を目前にして死んだ事になっている。本当に死んだのだろうか?確定論で動いていて、表での人生を50歳までと既に決めていたとしたら?

死体が見つからないと言えば、ヒトラーもそうだ。本当に死んだのだろうか?ヒトラーの第三帝国はオカルトでも人気の話題だ。映画のモチーフにもよく使われている。それだけの根拠があるからではないだろうか?ヒトラーを知りたければ、ヒムラーを知らなければ始まらない。同じように、ナチスを知りたければ、前身であるトゥーレ協会がわからないと見えてこない。

信長に話しを戻そう。信長と言えば、南蛮風の鎧やマント、鉄砲のイメージが強い。簡単に言えば、ヨーロッパの進んだテクノロジーと考え方を受け入れたから、あれだけ短期間に躍進できたのだ。刀の時代に鉄砲を出されたら無敵だ。進んだ思考パターンに触れて、こんな小さい国で争っていては、とても欧州にはかなうわけがないと悟ったことだろう。信長が海外のエージェントだとしたら?安土城はそうした知識の博覧会場だったのだ。だから残しては置けなかった。

昔からこの国は舶来品、海外に弱いのだ。特に白人には弱い。精神的にもう既に奴隷なのだ。それで幸せなのだからそれだけだ。良い悪いの話しでもない。ただ、主人の都合で振り回されるだけだ。奴隷とはそういうものだ。

目の前の事に振り回されていては何も見えない。沖縄戦のとき、アメリカ軍はペリーが測量した地図を参考にしたのだ。レベルが違う。明治維新のときには既に、多国籍企業が誕生していて、国家創造をプロデュースしていたのだから、日本が最初からかなうわけがない。

戦後、A級戦犯たちがみな実力者になった。これがどういう意味か深めてみたらわかるだろうか?日本はもうとっくに終わっている。それに気がつかないように巧妙に支配されているだけだ。戦後60年はA級戦犯たちがエージェントとして仕切る時代だった。いまは違う人間たちが仕切る時代になってきている。その仕組みがわからなければ、振り回されるだけだ。

単純に言っても、日本はアメリカとの関係は欠かせない。そのアメリカと一番近い場所はどこか?世界的に沖縄はなぜ有名か?それは最大のアメリカ軍基地があるからだ。本当に何かしたいのであれば、アメリカを無視する事はできない。外国との繋がりで、この国は昔から変わってきたのだ。現代における出島はどこか?現代の薩摩、長州はどこなのか?

なぜLVMHのアルノー氏はベルギーに国籍を移そうとしているのか?なぜベルギーに重要な国際機関が集まっているのか?疑問に思えば面白いことで世界は満ちている。ブランドから国家まで、同じようなやり方で動いている。

ああ無情!に見えるからこそ価値がある

  横手志麻さんが事故のニュースにはビックリした。何度も会った事もあるし、沼津で花火大会で一緒の時もあった。旦那さんも知っているので、丸っきりの他人事と思えない感じだ。亡くなった方と自分が同じ年というのもあり、これも信号だと深めていくと見えたことがある。

それは今回書かないが、こうした事件の場合、加害者は全面自粛するしか道がなくなるのが日本だ。本来は加害者だからこそ出来る事もあるだろうし、被害者の分まで生きる為にも、事件から逃げない方がいいはずだ。でも、そうすると、事件を売り物にしているとか言われてしまう。

理性よりも感情が優先される。加害者を減らす意味で、当事者の言葉というのは重いが、それよりは被害者への感情が配慮される。未来へと活かすことが悪いような気がしてくる。本来は当事者同士の関係で決まる事だ。実際にどうだったか、当事者にしかわからない。

でも、生け贄となることで社会に材料を提供し、未来へと活かす事が出来る。ただの好奇心から来るゴシップにするのでは意味がない。

「なぜチノパンは逮捕されないのか?」という記事を見た。本人が有名だからとか、父親や配偶者が実力者だから、逮捕されないのではないかというような憶測記事だ。

逆に自分の場合は、配偶者が有名だったから逮捕されたと同情された。面白いと感じないか?かたや、本人が有名だから逮捕されないと言われ、かたや有名な人が配偶者だから見せしめで狙われて逮捕されたという。一方は被害者がいる事件。自分は被害者がいない事件。

証拠隠滅の恐れがないから逮捕されないという。自分の場合は被害者もいなくて、関係者は既に逮捕済みで、関係ない自宅の私物もあれこれ持ち去った後で、自分だけ10日以上遅れて逮捕。しかも事件に協力するために出頭する日時を約束していたのを、先方の都合で変えられて、それでも出かけた警察署で、話しも聞かずにいきなり逮捕だった。

警察を非難したいわけではない。逮捕という事実だけみていては見逃してしまうことがある。なぜ逮捕したのか?という、その心がわからなければ、
「事件とかけて、逮捕と解く」の解くを間違えてしまう。逮捕ということを日本人は重く捉えている。だからこそ、大衆はそれを恐れて法を守ろうとする意識が強い。治安の面では有効だ。だからといって、いつまでも恐れの意識だけでは成熟社会にはなれない。かといって、社会は幼稚な人間で満ちているのも事実だ。本質では体罰問題と似ている。

ケースバイケースが本当だ。でもそんなのは面倒だし、手間もかかる。多少間違いがあっても誤差の範囲内というのも必要だ。そうした現実的なこともわからなければ、理想論になってしまう。まただから生け贄というのもが必要になってくる。

逮捕されている人間は反社会的な人間だと思われて、関わるだけで損をしてしまうと思ってしまうのが、普通の人々の性(さが)だ。だから当時は、私に役員を辞任してくれとか、投資を引きあげてくれという話しがあった。

当時はそうした動きに怒りや悲しみを感じたが、今となってはそれが人間らしいなと思うようになった。そうした感覚だからこそ、普通に仕事ができるのだ。原点を大事にし、想いで動く人間は少ないからこそ、価値がある。それを相手に求めるほうがコクというものだ。少ないから良いのだ。皆がそうだと社会も困ってしまう(笑)

今となっては自分は逮捕されて本当によかった。鍛えられたし、今まで会う事もなかった人々と話す事が出来た。こうしてネタにすることもできる(笑)貴重な経験のオンパレードだ。取り調べなどでも、検察や警察の違いもあって非常に興味深い内幕がみれた。逆に警察に同情したくらいだ。私が接した警察官は良識的な人が多かったのも感じた。

妹の子供の為にパン一つ盗んだだけで20年投獄された、ジャン=バルジャン。レ・ミゼラブルの映画がいま上映されている。最近Blogのコメントに、ジャン=バルジャンの名前で、ミスチルの「過去と未来と交信する男」の歌詞が投稿された。面白い歌詞だ。また、微罪で人生を台無しにされた男の名前で投稿しているのが面白い。彼は最後には栄光に包まれた。終わりよければすべて良しだ。ひどい経験をしたからこそ、魂が磨かれたとも言える。

この映画を観た人は、フリーメーソンのマークに気がついただろうか?堂々と出されていた。さて何のためか考えてみると面白い。フランス革命にフリーメーソンの関与をアピールしたいだけだろうか?フリーメーソン的な思考を理解すれば、なぜ逆に自分が逮捕されなければならなかったのかも見えてくる。

「逮捕=悪い」という理解だけでは一面的だ。浅すぎる。そうした仕組みを通して伝えられる事がある。あえて起こして将来に活かす事も出来る。本人や当事者たちもわからない意図というものもあるのだ。

それを神の見えざる手という。神的な視点が普通の人はわからない。善も悪もない超越した視点。普通の人にはジャン・バルジャンの人生は試練の連続で、神なんていないのではないかと呪うだろう。

でも、試練が必ず活かされると霊をみて見抜いていたとしたら?もっと言えば、見抜いていなくてもいい。同じような試練を何千人にも与えたら、確率の問題で乗り越える人が出るとわかっていて、あえて無情なことをしていたとしたら?

たった一人の魂の輝きを生む為に、数千人、数万人犠牲になったとしても、それ以上の価値を生む事がわかっていたとしたら?頭で理解できたとしても、果たして実際に決断ができるだろうか?レ・ミゼラブル(悲惨な人々)を生む事が愛があることだとしたら?

マーク、象徴というものは、その真意がわかる人が見なければ、全く意味が分からないものだ。わかる人にはわかる。だから堂々と出す。ある思考パターンを象徴する物として、記号やイメージはある。フリーメーソンはそのわかりやすい象徴の一つだ。コンパス、定規、そしてピラミッドに世界を見通す目。

紋章も象徴の一つだ。なぜ政府の記者発表の演壇には、五七桐花の紋章がかかげられているのか?なぜ十六八重表菊の紋章ではないのか?

日本政府とかけて、桐紋章と解く。その心は?

このお題が解けるだろうか?
そして、最後にこの話しをもってきた意味も。

擬態

時代の動きが速すぎて大変だ。なかなか落ち着いて書けない間に、随分と動きが出てきている。表面の動きに目くらましされて、気が付いたら大衆は誘導されているだろう。なぜ突然小沢氏の報道は消えたのか?このことだけ見ても、いかにメディアがある意図をもって動いていることがわかる。

ミスチルに「擬態(ギタイ)」という歌がある。

富を得た者はそうでない者より
満たされてるって思ってるの!?
障害を持つ者はそうでない者より
不自由だって誰が決めんの!?
目じゃないとこ
耳じゃないどこかを使って見聞きをしなければ
見落としてしまう
何かに擬態したものばかり

表面だけに捉われていたら、見落としてしまう。政治も経済も、表に出てくる情報だけを見ていたら本質はわからない。何かに擬態したものばかりだからだ。擬態とは、簡単にいえば偽の姿だ。本当の姿を隠して、偽の姿を本当だと思わせている。

小沢が消えて、話題になっているのが橋下市長だろう。朝日との間にその出自をめぐって戦いをしていたのが新しい。彼の名前は、戸籍上はハシシタと読む。差別を嫌ってハシモトと自称している。数年前までは、彼がこのように政治の注目の的になるとはだれが想像しただろうか?

弁護士だった彼が注目されたキッカケは、法廷に立つのが弁護士の華であるのに、示談専門の弁護士でやっていたことにある。弁護士なのに法廷に立たないのは面白いと注目されてテレビに出だした。仲間が昔、彼と番組をやっていたことがある。その時は大人しい人で、今のような攻撃的な姿は全く想像つかなかったと口を揃えて言う。

一体何が彼を変えたのか?目立つ人間には試練が訪れる。人によっては、逮捕だったり、脱税だったりと国が影響力を行使する手段は色々ある。橋下氏も例にもれず、脱税で因縁づけされた。それがキッカケで彼は別人のように大きく変わっていった。

本来なら今こそ小沢氏のように責められてもおかしくないはずだ。言いたい放題いっても、浮気がばれても、堂々と注目され続けている。さぁそこに何があるのか?

いまや、彼にはSPといって、ソフトバンクとパソナがバックアップしている。パチンコのPでもある。資金力も付け、次の選挙では橋下旋風が起こるのではないかといわれている。さて本当にそうなるだろうか?

選挙といえば小沢が強いという話はどこにいったのだろうか?面白いことに、橋下氏自身は選挙には出ないという。これは歴史上のある人物のやり方にそっくりである。わかるだろうか?歴史は繰り返すのか?彼が本当にあこがれている人は誰かわかるだろうか?

一連の尖閣諸島問題の火付け役である石原都知事。彼はどこで尖閣諸島買い取りを発表したか知っているだろうか?わざわざアメリカにいって、ヘリテージ財団主催の講演会で言い出したのだ。この財団はどんな財団か調べてみたらいい。しかもその発表の数日前に、中国では薄熙来が攻撃されだした。関係ないと思うだろうか?じゃあなぜ、日本政府は尖閣国有化を盧溝橋事件の日に発表し、911に国有化したのか?9月18日は満州事変の日で問題となるはわかっていたのにだ。

いまや、尖閣諸島では中国と揉め、竹島で韓国と揉め、北方領土ではロシアと揉め、日本の周囲はもはや敵しかいなくなっている。大東亜戦争前夜とそっくりではないか。まるでABCD包囲網の再来だ。もはや種はまかれてたのだ。いつ戦争という芽が出始めてもおかしくない。

戦争したがっている人がいたとしたらどうだろう?少なくとも石原氏は戦争しなければならないという使命感に燃えている。腐った日本に活を入れるために戦争を望んでいるかもしれない。もしくは借金を帳消しにするためかもしれない。いずれにせよ、自分と同じ考えの人が当たり前で普通だと思わない方がいい。いつの世も、先を見通せる人間は少ない。少ないからこそ価値がある。大衆は数に惑わされる。

質より量に走るのだ。質も量も揃えようとしたらすぐには出来ない。質はすぐには高まらないが、量はすぐに作れる。このBlogの読者は少ないが、その分真剣に読んでいる人が多い。コメントしづらいとよく言われるが、気軽に書けないからこそ、書かれたコメントには価値がある。その反面、アイドルのBlogは読者数もコメントも多いだろうが、中身はほとんどない。広告をして、アイドルのBlog並みに私のBlogが読まれたとしても、その価値がわかる人は少ないから、そんな無駄なことはしない。

擬態を見破る眼力は、求める心によって導かれる。いまの空気を感じておくことだ。後で振り返って、とんでもない時代に生きていたと思う時が来るだろうから。

事実は小説より奇なり

 大変な時代になってきた。交代したばかりの駐中国大使がわずか数日で亡くなった。あり得ない話しだ。中国では略奪まで起きている。その最中の大事な中国大使を任命するのに身体検査もせずに任命するだろうか?当然、健康問題などない人を厳選して選んでいる。なぜ突然路上で倒れ、そのまま亡くなったのか?不思議と思わないだろうか?

数日前にも、松下金融担当大臣が自殺した。本当に自殺だと思うだろうか?なぜこうもタイミングよく続いて死亡事件が起きているのか?愛人に手紙をばらされたからといって、自殺するような繊細な人が金融大臣などできるだろうか?インサイダーやお金儲けの渦の中でする仕事がそんなヤワな精神で出来る訳がない。これはある検査がキッカケで起きたことだ。そのまま書くと関係者に差し障りがあるから書けないが、ある金融企業が関係している。この流れは、松岡農相が自殺した時と似ている。

中川一郎、昭一氏の死も不審点だらけではないか。中川昭一に至っては、G7という大舞台でもうろう会見をさせられていた。これも不思議ではないか。国を背負ってる人間だ。日本の恥となるようなことをなぜ側近は止めないのか?もうろうとしていたら、体調が悪くて欠席にするのが普通だろう。なぜ敢えて恥をさらさせるのか?この意味は何か?仕掛ける側の考え方がわかれば納得できる。これはメッセージだ。

メッセージといえば、変わったばかりの中国大使は亡くなったが、前任の中国よりの発言をしていた丹羽大使は、車の国旗を取られただけだ。片方は生きて、片方は死ぬ。これはどんな意味があるか?これは露骨すぎるくらいわかりやすい例ではないか。

堂々とやってしまえば逆にわかりづらいのだ。コソコソのほうが意図がバレやすい。湾岸戦争だって、堂々と鳥がオイルまみれになっているインチキ映像を流して、戦争へと誘導した。最近ではプーチン大統領もやらせを告白している。演出は当たり前なのだ。大衆を誘導する為にメディアはある。

だから、価値ある情報は人づてにしか入らない。自分の概念を超える見方も、自分からは出てこない。これは深い話しだ。イエスマンとも通じる話しだ。イエスマンの世界は、アメリカにあるのか?日本にあるのか?

世界はより露骨になってきた。よく考えて欲しい。個人主義の国、中国で大半の人は金儲けに夢中だ。そんな人間たちが、今まで聞いた事も見た事もなかった尖閣諸島の事であそこまで騒ぐだろうか?ましてや、何か問題があればすぐに死刑になる国だ。何かしらのお墨付きがなければ怖くて騒げもしない。政府に雇われて、お金貰えて、合法的に騒げてストレス発散できるのだとしたらどうだろうか?今の動きが計算通りだとしたら?その先にあるものは?国民の眼が外に向くメリットは?中国国内の経済成長にかげりが出てきた事と無関係だろうか?なぜ毛沢東が出てくるのか?先日失脚した熙来氏との関係は?考えたら不思議なことだらけだ。彼らは愛国無罪というキーワードまで用意して誘導している。

この世は全くの偶然で出来ているのだろうか?それとも、確定してすべて決まっているのだろうか?仕掛ける側と仕掛けられる側があるとしたら?企業でも事業計画があるのに、政治や国に影響を与えている人間たちには計画がないのだろうか?

いずれにせよ、大変な時代に我々は生きている。昭和初期と同じようなものだ。時代の変革期に直面している。が、しかし、あまりにも日常のぬるま湯に浸かりすぎて、感覚がもう麻痺している。実感が湧かないのだ。気がついたら死んでる、それでは手遅れだ。

まさかそんなこと起こるわけないとタカをくくっていたら、まさかの事態が起きて、エスカレートしていく。311を思い出して欲しい。起こる前はまさか日本で原発事故が起こるとは思わなかっただろう。戦争も起きてしまえば、憎しみの連鎖が起きて止められなくなる。そして、火をつけられた国同士がいがみ合い、引くに引けなくなり、行くところまでいってしまう。

中東の急変が遠い出来事だろうか?中国と日本が揉めてどこが一番得するだろうか?本当に戦争が起こらないと言えるだろうか?歴史を見るがいい。ちょうど18日は81年目の柳条湖事件の日ではないか。これは良い悪いではない。仕掛ける人がいて、事変は起きている。

別にここで書いてある事を信じなくてもいい。自分にとっても、フィクションかノンフィクションかは問題ではない。だが、仕掛ける側の思考がわかれば、同じように世界を創れる。自分たちはそれを実践しているだけだ。

どうやって世界を創るのか?言葉や表面だけを見ていては絶対にたどり着けない。ここで、ただゴシップを書いているのではない。松下金融の大臣の真相がわかったところで、活かせないのだとしたら何の意味があるだろうか?どうして、そういうことが起こるのか?また何の為にそれを起こすのか?この世を動かす側の思考は巧妙だ。考えれば考えるほどわからなくなり、思考停止へと誘導される。その意図と仕組みが分かれば、世界の動きが見えてくる。

「あーもう、よくわからないや」と大衆は思考を止めて、日常に戻り流されていく。仕掛ける側は、意図的にカオス(混沌)を創りだし、世界を動かしている。よくわからないことを追求する人はほとんどいない。適当に、
「これはこういうコトだよ」と決めつけて納得する。レッテルを貼れば分かった気になる。それに矛盾するような情報があっても無視する。

世界を知るキッカケにして欲しいから、一見ゴシップのような陰謀論にも見える話しをあえて書いているのだ。自分は沖縄を通して、世界の構造を学んでいる。まだまだ奥が深い。しかし、一部分かっただけでも心の財閥が出来たのだ。

実践して既に形になっているからこそ、自信を持って伝えている。自分たちの周囲で起きている事もまるで漫画のようだ。だからこそ、変な形で報道されたり、伝わったりする。あまりにも漫画過ぎる出来事だと、それが真実と思われないからだ。

分かりやすく言うと、不良が愛に目覚めたとする。でも普通の人はそんなことあり得ないと思う。不良だったんだから、愛ではなくお金目当てで愛のあるフリをしているだけだと考える。その方が自然で自分の考えになじみやすいものだから、信じやすい。自分が愛に目覚めた事がなければ、尚更不良にそんなことが起こる訳がないと思い込む。さもなければ、不良を洗脳した黒幕がいてそいつのせいだと決めつける。

信じやすい情報が嘘で、信じにくい情報が本当だとしたらどうだろう?信じる事より疑う事の方が楽だ
と何度も書いてきた。本当に日本は資源がないのだろうか?もし豊富に資源があるとしたら?実は日本は大産油国だといっても、常識に凝り固まった人間は信じないだろう。

好きなだけ疑えばいいが、世界の真実を知り、実際にそのやり方で世界を創っている。他に面白い世界があるのだろうか?科学も宗教も戦争も歴史もビジネスも、すべて関係してくる世界だ。

だから、世界中でフリーメーソンやユダヤのことは話題で、興味を持たない人はいない。ダヴィンチコードの例を見ればわかるように、世界中秘密が好きでたまらない。だが、知れば知るほどわからなくなる世界でもある。カオスだ。だから面白いし、本当にわかるには実践して確かめるしかないのだ。

最近では、テレビで鳩山邦夫氏が鳩山家はフリーメーソンだと話しているくらいだ。フリーメーソンもイルミナティもよくわからないだろう。少しわかっても実践できないのが関の山だ。秘密結社を創った人が周りにいるだろうか?あったら入りたいと思わないか?

映画も事実の方がよっぽど面白いから、事実からネタを取っているものばかりだ。「フィリップ、きみを愛してる」なんて実話でいい例だ。すぐ近くに非日常はあるのだ。

歴史の裏に因縁あり

 少し前に何かの記事で、岡田克也副総理の実弟が東京新聞の政治部長をしているという記事を見た。有名なことだが、岡田副総理の兄である岡田元也氏はイオングループの社長である。その記事を見て面白いと感じたのは、弟の氏名が岡田ではなく、高田昌也なのだ。こうした例はいわゆる上流階級にはよくある話だ。

一般的な感覚では、名字が違えば別人だと思う一方で、名字が同じであれば一族だと思い込んでしまうこともある。結婚に関する意識も、政略結婚という言葉があるように、ただの恋愛だけのこととは見ていない人間たちが時代を作る。因縁関係を作るというのは古今東西を問わず、勢力を作るのに有効な手段だ。岸信介元首相と佐藤栄作元首相が兄弟であることを知らない人もいる。

本名のほかに、通名を持って使い分けている人も居る。芸名も似たような効果がある。言葉のイメージとは意外に大きいものだ。事業で成功した人が、いわゆる名家と繋がろうとするのは、ただ格を得るだけではなく、メリットがあるからだ。どこの世界でも、因縁で世界は回っている。広瀬隆氏の「赤い楯」という本を読むと、ロスチャイルドの系図をよくぞここまで調べたものだと驚嘆する。

東急の創業者五島慶太。彼の元の名前は小林慶太である。彼は婿養子に入ったのだが、義父は久米民之助。二重橋の設計施工に関わったとして有名だが、国内の中国地方や海外では朝鮮、台湾などで鉄道事業に関わっていた。長女であった万千代は、久米民之助の祖母の実家であった五島家を再興するために養女になって、五島万千代となり、その万千代と慶太は結婚し、五島慶太となったのだ。久米民之助は、代々木御殿と呼ばれるほど広大な屋敷を持つほど成功した人間で、その後押しがあったから五島慶太は成功したのだ。ちなみに、恵比寿ガーデンプレイス、赤坂サカス、岡本太郎美術館などを手がけた久米設計は、久米民之助の次男が創業した会社だ。

人間一人では生きていないものなのだ。陰に因縁があり、それが応援することもあれば、足を引っ張ることもある。五島慶太に可愛がられた、小佐野賢治も華族の血族を嫁に迎え入れて発展したのだとしたらどう思うだろうか?それを入れ知恵したのが五島だとしたら?普通に伝記やWikiだけを見ていては裏側はつかめない。

当事者や関係者だけが知っているのだ。歴史の裏側は因縁で回っている。内助の功という言葉があるが、表に出ている人間の裏で関係している人たちがいるから、表面だけ見ても成功の要因はわからない。

今や経済界の大物となった、稲盛和夫氏も面白い。彼は京都の代表選手のようなイメージがあるが、元々は鹿児島出身である。大学も鹿児島大学で、生粋の薩摩っ子だ。勿論、西郷隆盛が大好きで、彼は出家したことからもわかるように、経営よりも宗教に興味がある人間だ。彼の経歴は華々しい。京セラというセラミック(陶磁)の会社をキッカケに、10年で上場したのだ。あの時代にしてはとても早い。そしてまた時代に先駆けて、第二電電(今のKDDI)も立ち上げ成功している。NTTを敵に回してなぜ平気なのか?そしてJALへと続く。華々しく成功しても、なぜ彼はライブドアのように叩かれないのか?それは彼が人格者だからだと不思議に思わないならセンスが無い。

稲盛和夫は、朝子という女性と結婚している。朝子の父は、バイオの神様と呼ばれた禹長春博士だ。長春博士がまた数奇な運命の持ち主だ。博士は朝顔の遺伝研究をしていた。そこから名付けられたのが朝子だ。博士の想いが入っている名前だ。博士の父は、朝鮮で閔妃暗殺に関わったことで日本に亡命していて、そこで出会った日本人と結婚して、長春博士が生まれた。禹長春博士は、日本で生まれ、日本語しか分らなかったが、後に韓国へとわたり、農業の父、キムチの父として有名になっている。国家が認めるほどの才能で、国を挙げて招聘されたのだ。後に、日本に帰られては困ると母の危篤でも日本へ出国させなかったくらいだ。博士の論文「種の合成」はいまだに古典として認められている。これが今まで存在しなかった植物を作ることができる理論として、バイオの神様と言われるゆえんである。

種の会社で有名な、サカタのタネも博士がいなければうまれなかった。彼のお陰でという功績は山ほどある。京都の千枚漬けにも貢献している。植物のプロということは、植物とは切っても切れない土壌にも詳しいということだ。稲盛和夫の研究を朝子も手伝った。セラミックも土と関係している。朝子という因縁を通して支援があったのだ。

数奇な人生を歩んだからこそ得た見識を禹長春博士は持っていた。そうした見識に触れるだけで人生はがらりと変化する。縁とは不思議なものだ。人が歴史を作るのだから、人のつながりこそが豊かな土壌となり花が咲くのだ。

陰謀論のウラ側

天体ショーが続いている。そのイベントがどういう意味を持つのか?といった解釈は他の人に任せて、そうした現象がどんな影響を及ぼすのかについて考えてみる。

例えば、今日6月6日は約6時間かけて金星が太陽面を通過する日だ。6がつ3つ並ぶから獣の数字だとかミロクだとかいう人もいるだろう。大事なことは、そうした出来事を「重要な信号に違いない」と捉えて行動する人がいるということだ。
信号が当たっているかどうかはどうでもよくて、普通の人は恐らく気にしないことを本気で信じて動く人がいる事実を知らないと、モノゴトの一面を見逃すことになる。普通の人は、普通に考えるから、普通の結果しか生まれない。
普通じゃない人は、普通に考えないから、普通ではない結果が出る。成功して物質的な欲求より、世界の真理に興味を持っている人ほど、こうした天体ショーや霊的なことに敏感だ。
笑い話のように思えるだろうが、6が3つ並ぶ話も、意味があるといえば意味があるし、ないといえば意味はない。どちらとも言えるなかで、どちらの話が面白いかで動いていくのだ。もしくは、例えばその人の潜在意識に破滅願望があれば、世界破滅的な物語を受け入れていくのだ。
スピルバーグがどんな世界を信じているのかを聞いたら、普通の人は危ない人だと思うだろう。でも実績ある人間が荒唐無稽な話を信じて動くと、実際に世の中に影響を与えていくのだ。彼が本気で普通からしたら危ない話を作っても、観客はSFだと思いながらも概念として刷り込まれていく。
力がある人間は、自分の周囲に世界を作ってしまう。その世界にいたら、その世界観が当たり前になる。常識とはそんなものだ。聖書の黙示録的終末世界を信じている超金持ちがいるとする。その人間が真剣に、今日のイベントを666の獣の数字、反キリストの信号と捉えていたらどうなるだろうか?
いま世の中は乱れている。世に啓示を与えるためにも、バベルの塔がなければならないという信念をもって、実際に建築してしまう金持ちがいたらどうだろうか?最近出来たスカイツリーを日本のバベルの塔と呼ぶ人たちがいる。
日本の終わりの始まりの象徴として、スカイツリーを創ろうと企画した人がいたらどうだろうか?普通に考えたら、有り得ないで終わるだろう。あり得ないかもしれないし、あり得るかもしれない。普通じゃない人たちはあり得る方を信じるのだ。
実際、スカイツリーは何のために建てられたのか?電波塔のためだとみんな思っている。本当にそうだろうか?電波を届けたいのなら、携帯の基地局のようにしたほうが安いし、早いのではないだろうか?本当の目的は隠され、後から大義名分をもってきて、もっともらしい理由をつけただけではないだろうか?
世界の仕組みがわかってくると、必ず表と裏があることが見えてくる。だからこそ、先を見通せる人間、成功した人ほど、裏を見るのだ。現実はフィクションを超えている。よく考えたらおかしいことはたくさんだ。
よく考える人がいないから気が付かないだけで、日々流されるワイドショーによってじっくりと考えるということが不可能になっている。次から次へと流れてくる話題に圧倒され、ひとつひとつじっくりと考えられない。そのあいだに、大事なことは表で堂々と進められていく。隠さないことが一番の隠し方だ。
天体騒ぎにうつつを抜かしている間に、小川元法相がした爆弾発言などは気にされないまま流れていく。別にそのことを隠すために、天体ショーがあるといいたいわけではない。天体の動きは事前に予測できる。この時期になれば必ず騒がれるのはわかっている。なぜ金環食の日ではなく、次の日にスカイツリーをオープンさせるのか?オープン日だって、事前に決められる。なぜあの日だったのか?天気予報だって、統計で快晴になりやすい日もわかっている。当日は雨だった。
話が事実かどうかは問題ではないのだ。どちらでもいいのだ。大事なことは、そうした視点で動く人間がいるという事実だ。不自然であり得ないことも、堂々とやれば自然であり得ることになる。
世の中は吹っ切ったモノ勝ちなのだ。

考察

いざというとき、柱がある人間は強い。核となる信念や信仰がある人は、困難や問題に対しての抵抗力がある。人生を意味づけするのに、宗教や哲学は強い力を有する。意味を感じられたら、困難や問題を心の儲けの種にできてしまうからだ。
世界をどういう枠組みで見るか、自分自身を世界の中でどういう位置に置くか、そうした視点を持っている方が、何も考えがない人よりも強い。逆に、何も考えないで、無でやり続ける選択肢もある。中途半端が一番厄介だということだ。現代日本においては、馬鹿正直にやり続けて報われる環境はない。だからこそ、自分たちはそういう愛すべき馬鹿が活かされる環境を作っている。真面目なものが報われる世界を、まずは自分たちの周囲から作っている。
器用で思考しがちな人であれば、あえて不器用にひたすら体を動かしてみる。自分もどちらかというと思考しがちだ。自分たちはワークという手段を通して、自分と向き合う体験を積んでいる。
先日、自分も一人でプール掃除をした。普通に考えたら、水をくみだすのもポンプを使うだろう。そこをあえて、バケツを使ってくみ出す。バケツを使う方法も色々やってみる。腰を入れて連続してくみ出してみる。はたまた、一つ一つコップですくってバケツ一杯にしてみる。ただ、綺麗にすることが目的なのではなく、そのプロセスを体験することで、自分の糧にできるかどうか、自分のもうけにできるかどうかを自分に挑戦する。そしてそのプロセスが美しいか?を意識することで美意識が磨かれる。こうした作業自体がストーリーになり、自分を表現するアートとなる。
信仰は依存へとつながりやすい。ただ、宗教団体に簡単に所属して、そこに埋没することは、人間の集団化、個性の放棄へとつながる。一人一人の意味、個人の価値を希薄化してしまう。同質性に依存するのは楽だし、安心ではある。皆で経済活動に励んでいる現代をみれば、経済教の信者がいかに多いことか。ビジネスしていれば安心安全である。であれば、それを逆手に取ればいいのだ。相手の力を利用する合気道のようなものだ。利用されるか、利用するか、器の大きさが立場を決める。同質化していたら、利用される羊のようなものだ。牧場の羊のように暮せば、日々の心配はないかもしれないが、ある日突然運命が相手によって決められてしまうことがある。毛だけ剃られているつもりだったのが、ジンギスカンが流行って、命まで取られることになるかもしれない。
本来、人はこの世に生まれ、家庭や学校で教育を受ける中で、その国特有の文化や風習を身につけていく。個人の習慣の中に、宗教的な要素が育っている。だからこそ、先ず個人が習慣という無意識から脱出することが始まりとなる。その人の存在の意味、役割、使命が問われるのは、無意識から意識的な生を生き始めてからになる。
自分自身としっかり向き合った人間には、その個人の能力が最大限発揮できるタイミング、場所が用意される。その時には、捨て去った体験さえも生きてくる。捨てた時に初めてそれは使えるようになる。この意味がわかるだろうか?
日々個人が、自分自身とワークを通じて向き合い、そのチャンスを待っている。 だからこそ、チャンスの時には真剣勝負!待ったなし! 生きることに懸命になる。いつもあるわけではない、そのチャンスを決して無駄にしないように。
自分という人生のストーリーの脚本や演出が自分の発想だけでは限界がある。タレントにもマネージャーやプロデューサーが必要なように、どの人でも自分より他人のほうが、その人の価値が本人よりも見えることがある。人が活かされるタイミングも、自分で作る部分と人によって作られる部分とがある。どちらが欠けてもうまくいかない。必死で努力して信じてくれる姿を見たら、託される方も燃えるのが人情だろう。適当にやっていたら、誰があいつのために準備してやるものかと思うのが当然だ。
努力も体験もしていない人には何も見えない。ではどういう努力や体験をしたら、本質を見抜く力を身に着けられるのか?そのような問いを自分に問いかける人は少ない。自分が知らない世界に飛び込みたいと願ったとき、知恵がどういう価値を持つのか初めて知ることになる。そのスタートラインに立つまでは、知恵は豚に真珠なのだ。