「映画」カテゴリーアーカイブ

バッド・ジーニアス 危険な天才たち

タイ映画史上歴代NO1だったという、バッド・ジーニアスを観てきました。ノリが良くて最初から最後までハラハラドキドキさせられます。

青春時代を思い出したい、または青春真っ盛り中な人にオススメします。若い時って、目先のことで振り回されたり、短絡的だったり、はたまた正義感だったり、わかりやすく思慮浅く行動しますよね。その若さゆえの美しさが垣間見得ます。正直に生きるのって覚悟がいるし、大変。人は普通に生きることよりも、犯罪映画の方が好きなもの。自分には出来ない憧れでしょうか。考え抜かれてバランスが取れてる映画だから130分があっという間に終わりました。

映画終わった後にネットで感想見てたら、エンドロールに小ネタがあるらしい。途中で出てしまった。残念。。。

監督さんもまだ若いし、どんな人か経歴見たらエリートでした。この映画の元ネタは、実際に中国であった事件から着想を得たみたい。中国の競争は想像を絶する激しさだろうし、今や経済力もあるから、この映画で描かれているよりもっとドラマティックなことがアリそうだな。

アジア各国の勢いを感じますね。もうどの国とも、そんなに隔絶した文化もなく、おしゃれと感じるものも、面白いと思うものも近くなっているから、きちんと良い物を作れば評価される良い実例なんでしょう。

アジア中の才能ある人たちが集結して、精魂込めた映画を見ていたいなぁと妄想させられました。面白いに国境なし。

この中国人のアニメのプロが作成した、風の谷のナウシカなんて完成度高いですよ。宮崎駿の映画が日本語で楽しめるって素敵なことだと改めて感謝です。パヤオさんありがとうございます!

沖縄戦前田高地の映画「ハクソー・リッジ」公式サイト|6.24 Sat. ROADSHOW

情報源: 映画「ハクソー・リッジ」公式サイト|6.24 Sat. ROADSHOW

遅ればせながら、メルギブソン監督のハクソーリッジを見てきました。メルギブソンは、ブレイブハートやパッションで感動したことがあったので、どんな風に沖縄戦を描いているのか?と気になっていました。

凄惨な戦闘シーンは流石ですが、70年も前に、軍隊という規律を重んじる場で、個人の信念を通そうとし、またそれが実現できたことがアメリカの底力ですね。現代でさえも日本では難しいことではないでしょうか。

映画では日本軍が強そうに見えますが、現実を見ると、よくぞこんな状況でここまで奮闘したと現場の人たちの勇気に敬服します。こんな戦場に送り込まれたら自暴自棄になります。

http://www.okinawa-senshi.com/maeda-new.htm

アメリカ軍が各州から来ていたように、日本軍も各県から来ていて、双方命を落としています。地元じゃないからこそ、容赦ないところもあったと思います。お互い命をかけて戦った人たちの中には、自分のためではなく、家族や国と言った同胞のために戦った人たちが多いことでしょう。

時代が違えば、私も前田高地で戦っていたかもしれない。私はデズモンドのように信念を持って銃を拒否することはできない。有事の時より、平時の時の信念の方が貫き通しやすいのでしょう。殺されるわけでも、投獄されるわけでもない。

多様性のある社会を実現するためにも、失敗した人や、他人と変わっていても、安心して居られる場所というのを作って行きたいな。

インターステラーと予告犯

「2001年宇宙の旅」、「コンタクト」、に続く映画である「インターステラー」はもうご覧になりましたでしょうか?監督であるクリストファーノーランは「ダークナイト」で善悪二元論では語れない話を表現しました。彼の映画では、以前も書いたヒースレジャーや、今回のマシューマコノヒーのように、ただのイケメンではない人物が重要な役割をしめています。
マシューマコノヒーは、「コンタクト」では宗教学者役。今回は科学者の役。「コンタクト」では、主人公であるジョディフォスターの科学者に向けて「君が父を愛していた証拠をあげよ」と語っています。そして今作「インターステラー」では、まさに父が娘を愛していた証拠を幽霊として見せるのです。

「インターステラー」では、父娘の絆編というPVがあります。


因縁の想いは重いのです。だからこそ数々の人間ドラマが生まれ、血族が大切にされてきました。想いは強いほど重くなります。そしてそれはまるで重力が時空を超えるように、想いも時空を超えていきます。時を経ても、人が残した想いは引き継がれていくのです。



コンタクトでもインターステラーでも、女性の科学者がキーマンになっています。女性が時代を開いていく、新たな世界を感じさせます。先が見えない時代に、信号を受け取りやすいのでしょう。直感というものによって道が開かれていく様子は、本映画でも描かれています。
人は誰かのためになら死ねるのです。人類のため。家族のため。大義なのか、愛なのか、人それぞれでありましょうが、想いは自己犠牲へつながり、愛となります。それは伝わるか伝わらないかは問題ではないのです。
本作では、人間関係からチャンスが生まれ、そしてまたそれゆえにピンチが生まれます。ピンチでさえも諦めない姿勢が次のチャンスへとつながる様子が描かれています。壮大で前向きになれる映画です。
本作のキーワードには「マーフィーの法則」があります。
"起こる可能性のあることは、いつか実際に起こる”
その根底には、逃げずに向き合うものには必ず神は見ているという信頼があるように感じます。
「インターステラー」と対照的だなと感じた作品が日本にはあります。「予告犯」という漫画をご存知でしょうか?来年映画化もされますが、本作も誰かのためにという想いがキーワードとなっています。
 

「日本の社会は人と違う生き方をする者たちに残酷です。仕事に就かなければ世間の目が冷たいし、失業すればそのまま社会からはじき出されてしまう可能性だってある。『予告犯』を通じて読者に訴えたいのは、こんな社会が正常なのかよく考えてほしいということなのです」。

引用元: ネット世代の漫画家、筒井哲也がフランスでウケる理由 – ローラン・ルフェーヴル.

と作者は語っております。「インターステラー」がエリートたちの想いだとすれば「予告犯」は庶民の想いと言えるでしょう。
「インターステラー」ではディラントマスの詩がよく朗読されます。
「穏やかな夜に身を任せるな。老いても怒りを燃やせ、終わりゆく日に。怒れ、怒れ、消えゆく光に」
どんな時でも諦めるなと励ましているような詩です。
予告犯では、よく言えば終わりの美学があり、足掻いたり見苦しいまでに執着したりはしません。マン博士のようなことは起きないのです。極限ではエリートだろうが何だろうが人間的な性質が垣間見えます。どちらも、誰かのためにという想いがありながら、紡ぐ物語は対照的です。
どちらも深く考えさせられる作品です。作者の想いを感じ、自分なりに活かしたい作品です。
 

オズ:はじまりの戦い

後に続く物語にも最初のキッカケの話がある。今回、ディズニーはオズの魔法使いのはじまりの物語を創りだした。国造りのキッカケだ。原題は、「Oz: The Great and Powerful」で、主人公のオズ役は、スパイダーマンのハリー・オズボーン役をした、ジェームズ・フランコ。

個人的には好きな俳優だ。勉強好きで有名な役者だ。この映画、オープニングから万物を見通す目が出てくる。いわゆるピラミッド・アイだ。フリーメーソンのシンボルとして有名で、一ドル札にも描かれている。ちなみに、右目が絶対神ヤハウェの目で、左目が堕天使ルシファーの目と言われている。陰と陽だ。どちらかの目がでているか、ご自分の目で確認されたらいい。影絵の中にも今後の未来を予言している部分があるので遊び心で発見してもらいたい。
元々の原作者も神智学協会で開眼したと言われている。そこで霊感に目覚め、「オズの魔法使い」を書き上げた。この世とあの世の構造は、千と千尋の神隠しと同じだ。似ているところが多々ある。構造は同じだから当たり前だが。今回の映画では、白黒がこの世。カラーがあの世、または特別な世界となっている。日常と非日常でもいい。
因縁の流れで非日常へと誘われる。因縁付けから後に続く禍根となる。因縁を学ぶためにも面白い映画だ。羽の生えた猿はなにの象徴か?
原作でも、知恵と心と勇気がない象徴が、カカシとブリキとライオンで表されていた。原作もこの機会にもう一度みたら面白いだろう。見方が変われば、全く違う映画になる。
まだ公開したばかりであることだし、細かいことを書くのは野暮だろう。我々の邦創りとシンクロしていることが多々あった。邦作りの基礎は、愛と信頼が始まる。基礎のない建物はすぐに壊れる。簡単に基礎はできない。基礎ができてしまえば、あとは楽だ。やっと自分たちも建物を立てられる状態まで来た。あとは一気に加速できる。
新ローマ法王が誕生した時期に合わせて公開は偶然か?意図的か?

この映画は男向けのおとぎ話だ。邦作りに燃える男に観て貰いたい。

千と千尋の神隠しの密教

先日、千と千尋の神隠しについて触れたところ、ちょうど7月6日に放映されるという。きっと今回も多くの人々が見るだろう。ジブリの映画は現代の神話である。何度も放映されて深層意識に監督の世界観が刷り込まれていく。

監督自身、無意識の世界からの感応を受けて、まるで宣託を受けるかのように制作しているようにみえる。宮崎監督は初めから結論ありきで映画作りをしない。自分自身でもわからないまま導かれるように作るのだ。無意識がキャッチした信号だから、本人が意図した内容を超える啓示もある。ポニョなんてまるで津波の予言だ。

映画に込められている暗号は、作者本人でさえも自覚していないこともある。時代に影響を与える作品というものはそうした深さを持っている。無意識をキャッチできるのだから、宮崎監督はシャーマンでもある。

さて、「千と千尋の神隠し」はどんな映画だろうか?世界の真理は堂々と現れているが、それに気がつかないものにとっては隠されているように見える。ここでは解釈のすべてを書く事はしない。あえて隠しておく。本当に求める者だけが、冒険をして得られることに価値がある。どんな神話も試練があるから盛り上がるのだ。

いきなりだが、神によって隠されていることはなんだろうか?
神とは誰だろうか?
千尋は千という名前となり、本来の名前が隠される。我が国も、日本、にほん、にっぽん、ひのもと、やまと、一体本来の名前は何だろうか?

名前を失う事は、自分を見失うことをほのめかしている。日本国民が本来の民族性を見失っていることを象徴している。本性が神隠しされている。原点や経緯といった歴史も隠され、奴隷となっているのだ。

テーマも隠されている。意図的なテーマと、監督自身も自覚していない無意識なテーマ。優れた神話は多様な解釈ができるものである。この世の仕組みを表しているという解釈も一つの見方で、そうといえばそうだし、そうじゃないといえばそうじゃない。しかし、そう見た方が筋が通っていたり、より面白く見える。

では、隠された名を取り戻すとはどういうことだろうか?

名実ともに、本来の自己を取り戻す事だ。ギリシャ神殿に「汝自身を知れ」と書かれていたように、本来の自己を知るものは少ない。本来の自己は自分だけでは発見できず、愛をもって接してくれる他人のお陰で気がつくのだと映画は教えてくれる。千尋とハクの関係が良い例だ。そして、そこには見えない因縁があった。

千尋がコハク川に落ちたことは、因縁付けしたと同じ事だ。因縁付けした相手に助けられ、因縁の相手だからこそ感情が入るのである。川に落ちて死にそうになった事は、一見悪い出来事と言えるだろう。でも実は逆で、悪いと思っていた事がかえって良かったわけだ。出来事の善悪は、長い目で見なければわからない。

なぜハクも千も危険を冒してまで、相手を助けようとしたか?単純に愛だけでは計れない。千はハクのことを信じられるかどうかの試練もあった。敵だか味方だかわからない、意味が分からないことをしたりするのは因縁の証拠だ。


神隠しは非日常の世界、異界への旅だ。非日常だからこそ、日常では気がつかない真理に気づけるのだ。昔は神が非日常に連れてってくれた。今は自然という神が都会からは隠れてしまった。一体誰が非日常へと誘ってくれるのか?非日常は怖いものだ。そうした怖さを都会はなくしてしまった。

興味がある人がいるようであれば、この続きはまた次回に書こう。

潜在意識への刷り込み

沖縄にいると日本が奴隷状態である事が、目に見えてわかる。しかし、最近のニュースを見ていたら、沖縄にいなくともおかしい事に気がつくだろう。きちんと審議もされずに法案が通ったり、身内びいきが露骨に見えたり、やったもの勝ちの世界になっている。

それと共に、AKBや携帯ゲームに象徴されるように資本主義も露骨になってきている。歴史を見ると、市場が発達をして経済が盛り上がったときに、モラルが崩壊していくのをどう抑えていくかが問われているとわかる。大体そういう時に宗教や政治の力で、経済の獣をコントロールしてきたのが、人類の歴史だ。

欲望という獣は簡単には抑えられない。抑える方向ではなく、むしろ促進する方向でその力を利用して、勢力を拡大して来たのがユダヤ教とその子供のキリスト教である。資本主義の父はユダヤ教、母はキリスト教のようなものだ。

話しは変わるが、日本は既に知らず知らずのうちに魂を売ってしまっている。その事自体に気がついていない。そうした日本のあり方を皮肉り、自らも魂を売って大成功した映画がある。

その映画は、日本映画興行成績で圧倒的一位を記録した。ちなみに、2位3位も同じ監督で占めている。2001年に公開され、2300万人以上が映画館を訪れ、テレビで公開された時も紅白並みの視聴率を記録した。10年以上経ってもその記録は更新されないどころか、人口が減っている今となっては不動の一位だろう。海外でも評価された映画である。それも理由がある。

そう、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」である。これほどまでに見られて、日本人の潜在意識に影響を与えている映画はない。この映画は、日本の象徴である八百万の神様が、ユダヤ人が経営する遊郭に通っている映画だ。監督自身は、神様は霊の象徴と言っている。

10年以上前から今日の姿を予測し、だからこそ自らも錬金術を行い、壮大な呪術を人々にかけたのだ。その謎に多くの人が引き込まれ、解説本やネット上ではたくさんの解釈で満ちている。10年前より、より露骨になって来ている今だからこそ、この映画が示している内容を学ぶことができる。改めて見てみると、いろいろと発見があって面白い。

世界の真理を知りたい方には、「千と千尋の神隠し」から学ぶ事は大きいとお勧めする。

「悪霊喰 The Sin Eater」3

今日はアレックスの相棒である、トーマスの話から始めよう。
トーマスは最初の登場シーンから悪魔払いしていた。そこで、「闇の教皇が光臨する」との信号を得る。トーマスは既に何かを察知し動いていたわけである。そこにアレックスからの電話という信号を得るのだが、その電話は途中で切れる。トーマスが切ったのか?切れてしまったのか?興味深い。そして、いくら悪魔払いとはいえ、相手は車に突っ込み死んでしまうのだ。トーマスの行為は善なのか?悪なのか?簡単には評価できない。
場面は変わって、アレックスとトーマス、マーラで話していたとき、罪喰いの方法について書かれた羊皮紙をみて、
「同じものをみた覚えが」とトーマスはいう。その続きは、闇の権力者であるシラクのもとにあったわけだが、シラクとのつながりが既にあったのはトーマスで、闇の世界とアレックスは繋がっていなかった。トーマスの導きによって、展開が開けていく。しかも、闇の権力者に、アレックスを連れて会いに行った時、
「借りを返せ」とトーマス。一体闇の権力者にある貸しとは何であろうか?かなり関係が深いことが伺える。
にも関わらず、闇の権力者の正体をトーマスは知らなかったし、3人で話している時に、初めて枢機卿が訪れてきた際、枢機卿はトーマスと初対面のふりをした。徹底している。このことについて、以前「肩書きの限界」という記事を書いた。これを参照して欲しい。
前回、我々もあえて伝えないことがあると書いた。このことと似ているのではないかと思う人もいるだろう。実際、天使のやり方も悪魔のやり方も、表面だけを見れば似ていることがある。違いは、何のためにそのやり方を使うか、だけだ。エゴの為か、相手の為か。自分がやりやすいようにか、相手にとって価値ある体験にするようにか。
方法が似ているからこそ、堕天使に落ちやすいのだ。特別なやり方は実際力がある。ゆえに勘違いを起こし欺瞞になれば、気付かぬ内に、自分は正しいことをしていると堕ちてしまう。だから自己欺瞞は恐ろしい。
トーマスは、闇の権力者であるシラクに会うためにアレックスを地下室へと案内する。「コンスタンティン」にも似たような場所がでてきたのを覚えているだろうか?そう、パパミッドナイトのクラブである。どちらも地下だ。そして、我々の世界でこうした場所はどこかといえば、西麻布Birthである。勿論ここも地下にある。最近起こった事件も西麻布。西麻布は、東京の中でも特異な場所にある。もう一つ符合する信号もあるのだが、今はまだ触れないでおこう。
地下に入ったトーマスがまず探したのが、ロザリンダ、うつろめの女だ。彼女がまた面白い存在だ。男か女かわからないような風貌をして、謎な存在。しかし彼女を通さなければ、シラクには会えない。目利きである。霊を見ているからうつろにみえる。ただの案内人でもない。最後のほうで、シラクの椅子に座っているのがみえる。
ちなみに、役を離れた彼女は実は絵描きだという。この映画に出てくる絵は全部彼女の作品で、マーラが手でひまわりを書いていたやり方も、彼女独自の描き方なのだ。

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「悪霊喰 The Sin Eater」2

Sin Earterはアレックスたちのカロリング修道会を破門された人間が元々始めたことだった。因縁の関係だ。仕組んだのか、仕組まれたのか?映画においても、枢機卿がイーデンを利用しているのか、はたまたイーデンに利用されているのか、その真実はわからない。利用していようが、利用されていようが本来は関係のないことだ。そこに答えはない。
そこにハマりすぎると魔界に入って、ドミニクのようになってしまう。知りたい欲求を抑えられず、魂を売ってしまう。そこまでいかなくとも、知りたい気持から疑心暗鬼も生まれやすい。なぜすべてを教えてくれないのか?と。

私も昔は、ITを活用することで、どんな情報も共有することが無条件に良いことだと信じていた。しかし今は、何でも無差別に情報や物資・資金を提供することは、本人にとって学びとならないこともわかった。
我々の世界では、あえて全てを伝えないことが多々ある。そのせいで、仲間であるのにその気持ちを疑ったり、騙されているのではないか?と疑いの心が起きやすい。でもだからこそ、その人の本質が現れやすいのだ。隙がなければ、人は本心を隠したままだ。それではお互いに表面の付き合いとなり、魂の学びがない。喧嘩や疑いは起きたほうがいいのだ。それも魂の向上のキッカケとなる。我々はあえて相手が攻撃しやすい隙を作ることもする。だから誤解されやすい。それが菩薩の道なのである。
「知識は信仰の敵だ」と本屋の主人が言った。信仰は信頼・愛と言い換えてもいい。すべてを教えることが信頼へと繋がるわけではないのだ。しかし、求める者はその人に応じて知ることになる。それが物足りないからと言って疑うようであれば、それは信じていないということだ。ここまで知ったから、ここまでは信じようでは取引だ。条件付きの信頼は本当の信頼ではない。真理をいえば、何も分からなくても信じるのが本当の愛だ。
更に本屋の主人は、
「奈落を覗き込むと、奈落と目が合うよ」とも言った。彼は「奈落の底」とは言わないのは何故だろうか?その意味をよく考えてみてほしい。奈落とは何か?不安、恐れ、疑い、闇の知識、これらは人が信じられなくなり、自分すらも信じられなくなる。これらの力は下に引っ張る引力のようなものだ。浮き上がる力と落ちる力、どちらが強いか?地上に住んでいる我々はよくわかるだろう。
アレックスが入った不思議な本屋はヴァチカンの周囲に実際いくつかある。どうやって生計を立てているのか?そんなにお客がいるとも思えない。謎ではないか?入った瞬間に、異端のカロリング修道会の名前を出すくらいだ。来店する人は限られている。偶然入った人間は、裏の世界である地下の書庫へと案内されることはない。
我々の世界でこの本屋の存在を例えるならば、それは猫寺だ。表の入り口から入った人間は、そこにあるアートや場所の意味を知ることはない。繋がり、縁がある人間だけが裏の入り口から入れる。猫寺は完全予約制で、普通の飲食店として考えたら赤字確実で三日と持たないやり方をしている。猫寺の存在意義を理解し、必要としている人間の支援があるから存在していけるのだ。裏のつながりがなければ維持できないのは、映画の中の本屋も同じである。
この本屋の店主も只者ではない。初対面だとしても、アレックスを地下へ案内する資質を備えた者であると、一目で判断し導いている。また、すべてを見せるわけでもない。意味深い言葉を伝えながら、今のタイミングで見せて良いものだけしか見せない。
「君の値打ちは?
知らぬ方がいいこともある」
といいながら、アレックスが見ていた本を閉じる。
自分の役割、持ち場をしっかりと理解している。またアレックスも無理やり見ようともしない。どんな人間にも値打ちはある。その持ち場に応じて。それがその人の使命であり役割なのだ。
このシーンの時、本屋の主人とアレックス、どちらが偉いとか優れているとか判断できるだろうか?そんなものはないのだ。この状況では、店主とアレックス、二人がいないとシーンが成り立たない。二人とも必要だし、またこのシーンだけでも映画は成り立たない。前後のシーンと他の登場人物がいて初めて成り立つのだ。繋がりによって世界は成り立っている。自分の値打ちや役割が今はわからないとしても、必ず登場シーンはあるし、必要な役割がどんな人間にもあるのだ。

そして本屋の地下通路。線が引かれていて、その線を越えないようにと店主は警告する。線を超えてしまうと、犬が襲ってくる。前回書いた、イーデンの兄が破門された話を思い出してほしい。歩いて良い道、これはつまり戒律に守られた道だ。それを踏み外すと痛い目にあうのだ。アレックスは道を外れるが間一髪で助かっている。世の中不公平なのである(笑)

これは差別でもないし、区別でもない。その人の値打ちや役割は、その責任を全うするかどうかで決まる。例えば、本屋の主人と言う役割を貰ったとしたら、それを極めることができるかどうかなのだ。極めてしまえば、もう主人公なのだ。すると彼を主人公にした、「世界の秘密を握る本屋」という興味深い映画になる。
我々の世界では、誰もが自分の映画の主役になって欲しいとチャンスを作っている。自分を知り、自分をプロデュースしてくれる仲間がいて、その導きを信じて、新しい自分を創造すると自然と主役になっている。
主役になるには、今までの自分が持っている概念を捨てて、新しい概念を信じて実践することが要求される。今の自分は人生の主役ではないのだ。世間に合わせた自分像を演じているのだが、それに気付いていないだけ。
プロデューサーに、本屋の地下で、
「この道を踏み外さないように歩いてみて」と言われた時、理由がわからなくてもそれが信じられるか?そして実際に歩けるかがすべてだ。
自分は自由に歩きたいとか、自分勝手な役柄を気分に応じて演じていたら、一体何の映画なのか意味不明の映画になるだろう。今まで自分が演じていた映画から、新しい映画の主役の演技を掴むまでは、監督やプロデューサーの指導を聞くのが当然だろう。そうして初めて役に成りきれるのだ。
話を戻そう。ドミニクがこの本屋で最後に買ったのは、アラム語で書かれた羊皮紙。羊皮紙も信号だ。羊の皮と言えば、羊の皮をかぶったオオカミという表現が有名だ。これについて面白い話がある。
ある羊の皮をかぶったオオカミが悔い改めることを決意し、そのために儀式をすることを望んだ。神父もそれを大層喜び、大事なことだからと念には念を入れて準備をして、儀式を行った。羊の皮をかぶったオオカミ本人も望んだことで、本当に悔い改めようとしていた。
神父は一生懸命やり過ぎて、いつもよりも長く時間がかかってしまった。そのせいで、羊の皮をかぶったオオカミは退屈してしまった。その時、神父が力を入れ過ぎて怪我をし、少々血を流してしまったのだ。その血を見た瞬間、羊の皮をかぶったオオカミの血が騒ぎ出し大変なことが起きた。
血が騒いでしまっては、自分ではもうどうにも抑えられなかったのだ。羊の皮をかぶったオオカミは、神父を殺してしまった。どうしようもない性(さが)というものがある。これは一体誰が悪いのか?熱心にしすぎた神父のせいか?血が騒いでしまった羊の皮をかぶったオオカミのせいか?答えは簡単に言えないのがわかるだろう。良い悪いではない世界があるのだ。そうした寓話を含んだ羊皮紙に、悪霊喰のことが書かれているのだ。

書きたいことが山ほどある。質問があればコメント頂ければ幸いだ。
続きは次回!

「悪霊喰 The Sin Eater」

「悪霊喰 The Sin Eater」

賢者風の容貌をしたドミニクから物語は始まる。ドミニクはどんな人間だったか?
ドミニクは知識を追い求め、自分のためにアレックスを裏切ってしまう。教会からは破門され、異端とされるカロリング修道会に所属していた。ドミニクが死んだあとは、アレックスとトーマスしかいない小さな会。にも関わらず、アレックスはNYという大都会で堂々と司祭として活躍し、トーマスも簡単ではない悪霊払いを日常のように行っている。つまり二人ともかなり優秀な人間なのである。器があるということだ。
我々も異端の小さな会みたいなものだ。だからこそ本物が集まる。普通にしていればメインストリームを歩ける人間も、あえて求めて異端に居るのである。アレックスたちもそうである。真実は裏に隠されており、裏が中心で動いている。罪喰いも彼らと同じ異端の出身である。
ドミニクが死んだとき、アレックスのもとへわざわざドリスコル枢機卿が訪れている。次の法王と呼ばれる人間があえて訪れることの意味。またアレックスもそれほど驚いていない。普段からただの司祭では会えないような、それなりの人間に接しているからだ。そのアレックスは「見かけは若いが、魂は古い」と言われる。これはアレックスを演じたヒースレジャーもそうだった。
アレックスが悪魔払いをした女性マーラ。悪魔払い中にアレックスを傷つけてしまい精神病院に入院中であったが、アレックスの身に「死よりも悪いこと」が起こる予感がし、彼を助けようと病院を抜け出してきた。
彼女は因縁だろうか?トーマスはアレックスに散々警告した。最後は、
「名前を変えて一緒に逃げろ」と。トーマスのほうが世界がよく見えているのだ。マーラはアレックスを助けたかった。彼女は天使だった。しかし、天使では力が弱く、結局はより大きな力を持つものに利用されてしまう。アレックスとマーラは元々因縁ではない。マーラの悪魔払いをすることによって因縁付けとなったのだ。映画「コンスタンティン」でのイザベラとマーラは似ている。どちらも主人公にとって重要なキッカケを作り、自殺という大罪を犯している。それにも関わらず、どちらも最後は救われた。
アレックスが最後の秘跡をマーラに行った際、罪を食べたが、それは少なかった。逆に言えば、アレックスが悪魔払いをしても全部は取りきれなかったということだ。罪喰いが悪魔払いの上を行く証拠だ。
アレックスの人生を操り、因縁付けまで計画して行った罪喰いSin Eaterであるイーデンは何者だろうか?コンスタンティンでいえば、ルシファーのようにも見えるが、実はガブリエルである。ガブリエルはマモンを解き放とうとしてロンギヌスの槍を使おうとした。イーデンを殺すことのできる道具は何だったか?あれも槍なのだ。その槍を、イーデンは酔っぱらった際に紛失した。ちなみに一緒に飲んでいた相手は画家のカラヴァッジオ。イーデンの兄は建築の設計士だった。教会の建物に絵画、彫刻は欠かせない。アーティストにとってヴァチカンはお得意先だ。その後槍はヴァチカンに保管される。教会の策略である。
どんなに隙がないように見えても、イーデンの槍にあたるような弱点は必ず用意されている。我々はその人間にとっての槍が何なのか?の仮説を立てる。その視点を持つだけで実際槍を使わなくても意味が出てくるのだ。
「悪霊喰」では槍をトーマスが最後は持ち去り、「コンスタンティン」ではアンジェラに託される。コンスタンティンはその際興味深いことを言っている。
「ルールだ。隠すんだ」と。そして槍は何処かへと隠される。
普通に考えたら、それ使えばいいじゃんとなるが、特別な世界にも特別なルールがあるのだ。それが分らなければ、特別な世界で登場人物にはなれない。
ルールと言えば、ヴァチカンの表の世界では厳格すぎるほどにルールが守られている。そのせいで、ドミニクは破門された。イーデンの兄も教会から破門されていた。イーデンがSin Eaterになるキッカケとなったのも、因縁の兄の事故で最後の秘跡を受けられなかったからだ。それでSin Eaterが呼ばれた。
「神の家を建てさせておいて、神の家には入れないのか!」
普通は入れてやれよと思うのが人情だろう。では何故許されないのか?
イーデンの兄は何をしたか覚えているだろうか?
エジプトで神殿作りをしていたとき、瀕死のアラブ人に、本来は与えてはいけない聖水を与えたことで破門された。その場に聖水しか水は無く、死に行く者に最後の水をと情けをかけたのだが、そういった事情でも許されないほど厳格なのだ。それくらい厳しい世界なのである。勝手な判断で、世界の仕組みを理解していない人間が、何かをしてしまうと取り返しがつかないことがあるのだ。厳しくすることは、半端な行為による悪影響から守ろうとする愛でもあるのだ。ちなみに、兄の名はフィリップ。そう、「フィリップ、きみを愛してる」と同じだ。
アレックスは、教会の掟を破り、夜中にこっそりとドミニクを埋葬する。そのとき、二人のシスターが手伝っていたのを覚えているだろうか?彼女たちも天使で、二人は両翼の羽を象徴しているのだ。
そのシスターが去り、登場したのは子供の姿をした悪霊。ドミニクの家の前に居た二人の子供だ。子供の姿に化けられるのはかなり高位の悪霊だ。考えてみてほしい、子供に対しては人は無防備ではないだろうか?子供が仕掛けてきたら、あっという間に騙されてしまう。
その強力な悪霊に対して、アレックスはやられそうになる。しかし、ここでトーマスが登場だ。映画では、アレックスが悪魔を追い払った後、登場しているが、実はこれはトーマスが悪霊を払ったのである。映画の画面をよく見てほしい。後ろの方にトーマスが歩いているのが見える。悪霊払いの能力はアレックスよりトーマスの方が上なのだ。
映画では、悪霊が登場する前に天使は去っている。教会の掟を破って、有力な派閥でもない異端の会を支援するのは簡単ではない。それでも協力したシスターたち天使は、なぜ最後まで埋葬を手伝わずに去るのか?これは持ち場の厳守を表現している。
彼女たちは己の器と持ち場を理解しているからこそ、ここまでしか出来ないことを痛いほど理解しているのだ。情で考えたら、最後まで埋葬してあげたいのが人情だ
。しかしそこまでしていたら、悪霊の登場に出くわしてしまい大変なことになっただろう。
コンスタンティンのチャズを思い出してほしい。
自分の器を知らず向かった結果どうなったか?
一瞬で消されてしまった。
我々の世界でも似たようなことがつい最近あった。
天使も自己欺瞞に陥ったらやられてしまう。悪霊のほうがパワーあるのだ。
長くなったので続きは次回に。

ニッチな世界の時代

正直かなり驚いている。コメントの質が高すぎて、私の代わりに菩薩Blogを書いてもらいたいくらいだ。

このブログでテーマにしている話は、普通の世間では怪しがられる類いの話だ。こうした話題を出来る相手がいることは幸せなことだ。ましてや、何人かは深いコメントを頂いたのだからなおのことだ。コメントをしてくれた方々、本当に有り難う。心から感謝する。
映画「悪霊喰」は、日本語の題名ではホラーを意識していて、内容と違和感を感じるのではないだろうか。我々の世界では、日常で悪霊という言葉が飛び交うので、まさに!というタイトルなのだが、ドイツ版の「The Sin Eater」のほうがシックリくるかもしれない。
この題名も二転三転してやっと決まった題名だ。この映画は、エクソシストのときもそうであったように、関係者が謎の事件や事故に巻き込まれている。一説によると、スタッフの二割が何らかの事故にあったという。そして、最終的には主演であったヒースレジャーも死去している。ポストブラッドピットと呼ばれ、オーストラリアのヒーローであった天才俳優が、事故なのか自殺なのかよくわからない形で亡くなっている。彼はどんなに疲れていても二時間ほどしか眠れず、不眠症に悩まされていた。まさに映画の中でSin Eaterは「他人の罪で眠れなくなる」とされていたことと一致する。
劇場公開もミレニアムに合わせて公開する予定が、事件や事故のせいで5回も公開延期になっている。最終的に映画シーズンを外して公開したのだが、そのような悪条件においてもヒットした映画なのだ。しかしそれでも知らない人は多い。
宣伝では、
「エクソシスト」「スティグマータ」そして、「悪霊喰」。
信じることさえタブーとされる三つの存在、最終章。
とある。最終章と言い切っているのだから興味深いだろう。
この映画は、実話をもとにしているとしたらどうだろう?
いまや、バチカンもエクソシストが足りないとして、堂々とエクソシスト養成の学校を開校している。この映画は、そのエクソシストを超える秘密を公開してしまえと作られた映画なのだ。その世界を知っている人間が、こうした映画を作ろうと実行できるところに凄みがある。こうした裏の世界を求めている人間が実はかなりいるのだ。興行的にも成り立っているところが面白い。演歌の世界と似ている。ニッチなファンがいるのだ。
何度も繰り返して見る価値のある映画だ。その度ごとに学びがあるだろう。
世界観を共有できる仲間のコミュニティが時代を作っていくようになる。
我々の世界では、映画の中の登場人物に周囲の人物を当てはめて理解している。すると、その人間の役割や性質がよく見えてくるのだ。知識だけを追い求めがちな彼はドミニクだなといった具合だ。しかし普通の世界では、この映画に出てくるような人物に例えられるほど、キャラクターの濃い人間は少ない。
我々の世界では、キャラクターの濃い人間も多いが、一見普通の人間もいる。どんな人間にも役がある。無駄な人間などはいない。普通ぽい人やいわゆる世間的な出来る人ではなくとも、熱い志や愛がある。そうした人間は天使なのだ。
このBlogを読んでいる人は観客だ。しかしながら、その気にさえなれば、舞台に上がり出演者となることも出来る。どの道を選ぶのも本人次第である。
次回はいよいよ本編の話に入っていく。私が書く解釈だけが唯一の正解というわけではない。時と場合によって解釈も変わるし、その人にとっての理解が一番のヒントになる。あまり正解不正解に拘らずに楽しんでほしい。
さぁ、その前にもう一度「悪霊喰」を見てみよう!