「知恵」カテゴリーアーカイブ

どんな現実を見たいですか?

 「人々は見たいと欲する現実しかみない」と7月Julyと皇帝Kaiser(カイザー)の語源となったカエサルことジュリアス・シーザーは洞察しました。冷静に物事を見極める前に、偏った視点で見てしまうのです。サングラスをしてモノゴトを見ているのと同じです。感情というグラスが入っていると特に冷静にはみれません。それを知っている者は、感情的になりやすい状況を作ることで、自分の欲する現実を創造するのです。

戦争など大衆は誰しも嫌なものです。だが、戦争が好きな人達もいるのです。命令する側とされる側。命令しやすい環境がなければ無理はできません。大衆は義憤に駆られたら、冷静な判断ができなくなります。911のようなことがあると感情的になるのです。尖閣諸島も竹島もしかり。報道は意図的にされていることを意識しなければ踊らされるだけです。911のあとに起こったイラク戦争は何だったか?最初に言われていた理由などすべてウソであったことが判明しても、過ぎたことだからもうどうしようもないと沈黙です。あれこそ陰謀ではないでしょうか。古くはルシタニア号事件なども未だに謎に包まれています。堂々とするからこそ陰謀に見えないのです。
今回のボストン事件も控えめに言って自作自演の可能性がかなり高いですが、きっと常識的な良識派を自負する方々は、そんなことあり得ないといわれるのでしょう。常識人が一番体制にとっては都合のいい人種です。あり得ないと思わされているとは思わないです(笑)どんなにおかしい情報があったとしても、それを深めることなく思考停止するのです。「陰謀論に乗せられるなよ」と冷笑しながら。そうした態度が賢く見えるのです。
自分の意志などなく、ほとんどが無意識に影響を受けて意志を作られていると思った方が現実に近いでしょう。私も含め、誰しもそこから逃れられないのです。環境という情報が人を作ります。だからこそ環境を作ることに価値があるのです。
サイコパスというアニメがあります。魔法少女まどか☆マギカの脚本を担当していた虚淵玄氏が脚本を同じく担当しているアニメです。虚淵玄氏は死にそうな体験をしたことが彼の飛躍のキッカケにもなっていますが、それはまた別の話ですね。
サイコパスの一部ネタバレになりますが、システムを逸脱するモノこそ、システムは欲するのです。そうした振れ幅を取り入れることで進化できる。相容れないものを受け入れる度量、器がなければ高みへとは登れません。矛盾の中に答えがあると何度も言っていることです。矛盾を受け入れなければ、小さな世界でお山の大将になるのが関の山です。中小企業の社長がハマリやすい罠ですね。半端な成功が妙な自信を持ってしまう。しかし、体制としても本当は突き抜けた人間を欲しているのです。半端な釘は打ちますが、突出するならば受け入れたいのです。
霊的な人にもハマりやすい罠があります。自分の感覚を過信するあまり、自分が一番神に近いと自負するのです。ユタ同士が仲良くなれない理由でもあります。宗教戦争も同じですね。自分の神こそ本物だと。半端な霊感が自分を小さくしてしまう。謙虚さを失った末路です。シザー・ハンズを見ればわかることです。
本当にそうかな?と自分で調べて考えて、誰が得をするのか?どんな意図があるのか?と多角的に考えることは大変疲れることです。頭脳は面倒なことが嫌いです。楽したいのです。それには常識人でいることがもっとも楽です。周囲に合わせていれば何の問題もないからです。
ある会社が成功したとします。たまたま時流に乗れただけなのか?時流を作ったのか?時流を知ってて利用したのか?今は同じ結果に見えたとしても、未来は変わってきます。一発屋が多い理由でもあります。
霊示は審神者(さにわ)が必要です。自分だけではその霊示がどんな意味を持つのか、悪霊なのか天使なのか、わからないのです。慎重に吟味しなければ、本人にそのツケが回ってきます。狂信者の末路はいつも悲劇です。
利用するもの。利用されるもの。利用されると知ってても、更にそれを利用するもの。あえて利用させてシステムの一部にしてしまうもの。下には下がいるように、上には上がいるものです。地球に生まれている以上、どんな人間も修行しているようなものです。道途中であることにはかわりはないのです。道を歩く同志、励ましたり喧嘩したり、様々なドラマを演じながら歩いているのです。
目の前の役割を真剣に演じることで、次の映画が決まるのです。悲劇のヒロインになるのか、英雄物語になるのか、ベニスの商人になるのか、すべては自分次第です。人はみな、楽して楽しく生きたいと願っています。そんな簡単ではないから面白いし、表面的な楽しさだけを追求するならば輩になるだけです。
かといって輩が悪いわけではありません。色んな役があるからこそ、映画も舞台も盛り上がるのです。善人だけの映画なんてつまらないだけです。悪役がいるから盛り上がるのです。そして悪役のほうが魅力的なものです。
イヤも嫌も好きのうちなのです(笑)

柱(はしら)

 素直さの話を前回書いた。素直を自分の都合の良いように捉えると、それは素直ではなく、単なるワガママとなる。悩み、苦しみ、本当にそうだろうか?と試行錯誤した上での判断は価値がある。どんな形になろうとも、そこから学ぶことは多い。

頭脳派の人間は、悩みすぎて逆に決断ができなくなる場合がある。直感派は、エゴからくる直感なのか、魂からくる直感なのかを慎重に見極めなければ、単なる気分屋にしか見えない。霊的な信号は、どのように捉えるべきか難しい。同じ信号でも、受け取る人間によって、全く正反対のことを告げているように見える。
視点の違いでそのようになるのだが、表から見るか、裏から見るか、横から見るか、上から見るか、下から見るか、で変わってくる。だからこそ、柱が必要となる。一つの基準がなければ判断がつかないのだ。それが、原点だ。原点を大事にすることで柱ができる。
人間関係においてはどんな答えも、その時は正しくても、いつもそれが正しいとも限らない。同じ時はない。同じ答えもないのだ。常に一期一会で、金輪際で、二度はない。だからこそ、その時というのが二度とないかけがえのないものとして大事になる。その時を大事にしないから、次があると思うのだ。
真剣であればあるほど、やるかやらないか、言うか言わないか、などの選択の判断は難しくなってくる。真剣だからこそ、二度とない時を大切にするからこそ、時と場所を選ぶのだ。常に矛盾する選択肢も同時に無ければ判断できない。
関わるというのは責任が伴うのだ。簡単に責任は負えるものではない。覚悟と器が問われる。人間力がなければ背負うことはできない。だから柱がある人間にしか責任は取れないのだ。言うは易し行うは難しである。
選択する前から選択後の保証を先に求めていたら、その時を生きることはできない。落とし所を探っていたら、真剣にはなれない。ただ普通に生きるだけなら、ここで書いていることはかえって有害だ。変人かもしくは馬鹿扱いされるだろう。世間の常識と反しているからだ。
普通の世界では、例えば給料は決まってから働くものとなる。だが、革命的なことはそんな考えでは限界が来る。自分がやりたくてコミットするのが先で、その後に何がついてくるかはわからない世界に賭けるからこそ、周囲も感動するのだ。見えない選択をするには、柱と信じる心が必要になる。
ほとんどの人間は都合のいい所取りをしたいのだ。しかしそれは無理なのだ。真剣になれない人間に本当の喜びは得られないし、チャンスもない。一生懸命だからこそ、諦めないからこそ、神は微笑むのだ。信じられない人間には信じた人間だけが見える世界は見えないのだ。
リスクがなければリターンもない。
あなたには、「白うさぎ」が見えているか?

素直に子供のように

 歳を重ねるごとに、経験も因縁も積み重なり、モノゴトに対して素直に受け取れなくなってくる。「そうはいっても、何々だ」と文句の一つを無意識につけてしまう。エゴがジャマをすることで、モノゴトの本質を感じづらくさせてしまう。

勿体無いことだ。過去がどうあれ、本当に素晴らしいモノは素晴らしい。それは意見だろうと提案だろうと、そのことだけを切り離して理性で捉えられているだろうか?誰が言ったからということに左右されてしまうのが現実だ。
人間は露骨だ。認めている人間に言われたら納得するが、認めていない人間に言われたら、
「お前に言われたくない」となる。その露骨さを認めた上で、モノゴトの価値を見極めようと謙虚に素直に考えてみる。
因縁関係であれば、余計に素直にはなれない。だからこそ、素直に分かり合えたときは誰よりも喜びを共感できるのだ。伝わりにくいからこそ、伝わった時の喜びは計り知れない。どんなモノを手に入れるよりも、自分が何かを成し遂げた時よりも、想いが伝わった時の喜び共感、幸福感は代えがたいものが有る。
因縁関係は本当に学びが大きい。因縁に対して素直になることが一番難しい。他人だったら冷静に捉えられるのだが、因縁だからこそ逆に捉えてしまう。良い提案も悪く感じるし、悪いほうがよく見えたりする。だからこそ、人は因縁で道を間違えるし、また逆に因縁で救われるのだ。
時代の潮目を感じる。ただ素直になるだけで道は開ける。今までやってきたからとか、捨てられない自分の小さなプライドなんか投げ捨てて、素直に光を求めたらいい。ゼロベースで今こそ、仕事も環境も何もかも考えてみたらいい時期だ。
311のように、否応なくゼロベースにされることもある。無理やりされるよりも、自発的に向かったほうが話は早い。今までの延長線で生きるのは楽だ。しかしドンドンと行き詰まる。北朝鮮のように、行き詰まって突っ走るしかないのは、本人も周囲も辛いことだ。
まずは意識からしか変わらない。意識が変われば、すべて変わる。自分一人素直になるだけで、波及効果は計り知れない。悔しいとか、ムカつくとか、認めたくないとか、様々な感情が理性を曇らせる。
素直にモノゴトを観るには、理性を働かせるには、感情は感謝の気持ちであればいい。感謝していれば、素直に受け取れる。自分が濁っていたら、他人も濁って見える。自分が感謝で澄み切っていれば、モノゴトの価値を見抜ける。
そもそもの原点を振り返り、今までの経緯を確認し、今があるのもそうしたことのお陰だと感謝できれば、モノゴトは自然にうまく回り出す。焦って、自我で何とかしようとすればするほど、悪循環になる。
素直にイイものはいい。本質を見抜ける目こそ、先がわからない時代に唯一確かな指針となる。
流行や現状に流されるのではなく、本質を掴んでいれば、必ず機会は訪れる。その時に、勇気を出して飛び込むのだ。人生は冒険。燃えて生きなければ面白くない!

初心忘るべからず

物事は表面と裏面、両方を見ることで本質が見えてくる。得てして、裏側のほうが深い。内面と言った方が適切かもしれない。表面では、ただの笑顔でも、内面は葛藤や切なさ、期待と絶望など入り交じっているかもしれない。

わからないからこそ、そうした内面の深さを美しく表現した文章に出会うと惚れ惚れする。
「よくぞこの複雑な心持ちを現してくれた」と拍手喝采したい気になる。日本語は美しい。その文化の中で発達してきた、俳句のような簡潔な表現に込められた想いを汲み取る力を養いたい。
どんな道でも、道を究めた者同士であれば、あうんの呼吸で伝わる。能の創始者、観阿弥親子が道を極める段階について「守破離」と説明した事をいつも思い出す。
■「守」師匠についてひたすら教えを守り、学ぶ時期。形が大事。
■「破」教えられた言葉から抜け出し、真意を探り、形の意味を知り形ができる。
■「離」型に一切とらわれず、自在の境地に入ること。形の共創造。一人でではない。
類は友を呼ぶという。そこに安住していたら成長はない。違う世界と混じり、新たな類との出会いによって、世界は広がる。違う世界と触れれば、不安や違和感を呼び起こされる。そこに自分の内面が鏡のように反射される。
この、守破離も簡単に書いたが、実際は深い意味が隠されている。求める心が深ければ、更に先人がどんな想いでこの言葉に行き着いたのかがわかる。元々は能の「序破急」から来ているという。ここですぐにエヴァンゲリオンを連想する人が多いのではないだろうか。こういうところがマニア受けするゆえんだ。
仏教用語にも守破離は出てくる。解脱を意味していたり、菩薩の道を極めるには勉強になる。どこまで意識を高く持つかで、満足したらそこでオシマイだ。かえって、現代人より過去の人たちのほうが教養もあり、意識も高いのではと思うこともある。
現代人だからこそできることもある。進化は決して時間の流れに沿って進歩し続けているわけではない。人間性という点で、人類は未だに争いあっている動物なのだ。折角この世に生まれてきたのだから、真剣に生きた人間たちの軌跡に触れ、自らもその足跡を残す一員たろうではないか。
能だけをみても、もう何百年と未だに続いている。ビジネスとして考えても大したものではないか。一過性の消えてしまう泡を追い求めるよりは、後世に価値あるものを残したいのが真情だ。
ある人は、「守」は下手、「破」は上手、「離」は名人といった。そして、それぞれが実は手本となる。教えることで学び、学ぶことで教える。共に信頼がなければ始まらない。道を極めたいと思ったら、生活のためという視点から離れなければならない。
生活のために囚われたら、ドンドンと視点は低くなり、そもそもなぜやっていたのかすらわからなくなる。魔界入りだ。いつも初心に帰り、心の立ち位置を確認する。そうしたキッカケに自分はこのBlogを活用している。

「初心忘るべからず」世阿弥の言葉だ。

「しかれば当流に万能一徳の一句あり。 初心忘るべからず。この句、三ヶ条の口伝あり。是非とも初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。この三、よくよく口伝すべし」

この言葉の意味も深い。皆が思っているような内容ではない。本来の意味を知れば、この初心の言葉の持つ意味が迫ってくる。道を極めたものだからこその意識なのか、原点への想いをいつも持てたからこそ道を極められたのか、鶏が先か卵が先か、面白いところだ。
最後にこの言葉で終わりたい。能の部分を想いに変えて自分は意識している。

「命には終りあり、能には果てあるべからず」(世阿弥「花鏡」)

「命には終りあり、想いには果てあるべからず」

想いの連鎖

 予期していなかったが、逮捕される前に書いた記事で、恐らく一番読まれた「人間の価値」というエントリーがある。結果として2011年6月の書き込みはこの記事だけだったので、自分にとっては意味深い数字を持った記事となった。後々、読み返してみて、内容もタイムリーでシンクロしていたなと感慨深い。事件当時、コメントが殺到したが、中にこんなコメントがあった。

もし、尾関さんを守るために頭数か必要だったり、自分が役に立てるならいつでも呼んでください。

ほとんどの人間は匿名でコメントしている中、実名で堂々と応援のコメントをくれた。勇気と覚悟のある人間にしかこんなことは出来ない。言うは易し、行うは難しだ。彼はコメントに書いてくれた通り、有言実行してくれた。自分の仕事よりも、自分たちを助けるために仕事も一緒にやってくれて、最大限の協力と参加をしてくれている。

こうした想いのある人間に囲まれていることが一番の幸せだ。かといって、狭い世界で仲良しこよしをしている訳ではない。想いがあるからこそ、それを欺瞞にしないために、逃げることなくぶつかれる仲間の有り難みがある。ぶつかり合う事でしか、人は磨かれない。想いがない人間とはぶつかる事も出来ない。適当なことを言って逃げるだけだ。

真剣になればなるほど、大事なことは、頭の良さや器用なことよりも、想いを感じる人間であるかどうかだとわかってくる。いわゆる、頭のいい人間ほど、目先のことにとらわれて、本当に大事なことを見失いやすい。信頼や愛といったものを。

見えない大事なもの以外でも、見える経済的なことももちろん大事だ。それについても、投資のことや沖縄の価値を伝えることで、価値あるものを残したいのなら、沖縄でやったほうがいいと伝えてきた。

地震も放射能もない、暮らしやすい土地というだけでなく、地元の人が経済活動にあまり興味がないゆえに(笑)ビジネスチャンスで満ちている。勿体ないことだらけである。今後、人口も増えていて、土地もあがっていて、米軍再編に絡み、いい土地がドンドン出てくる沖縄が発展しないわけがない。観光客は、今まで高い航空券であっても600万人もきていたのだ。格安航空会社のLCC参入で更に来県数は加速する。

そうした経済的な事に惹かれて、今後関わる人間は増えてくる。しかし、そうではない時から、経済的なメリットではなく、「想い」で繋がってきた人間の価値は計り知れない。
冒頭に載せた曼荼羅。これは6人の仲間が11日間昼間は仕事をしながら、徹夜で作り上げた作品だ。自分の想いに対して、彼らの想いを込めて応えてくれたものだ。実物を見ると、その細かさに驚かされる。形や数に想いを込めて制作している。お金で買う事は出来ない。その想いを感じ、更に想いを込めた行動で繋げていく。「想い」に、「想い」で返していく。
お金で返す事は容易い。想いで返すのは大変だ。大変だからこそ、誰にとっても価値がある。生活のためといった変な欲が絡まないからこそ、その体験を、その想いを純粋に味わえる。想いを感じた事のない人間にはわからない世界だ。
そういう人間は、かつて人間たちが神々に感謝を捧げて、儀式や芸術を奉納してきた気持ちなどわからない。想いがわからない人間は、感謝の気持ちを表現されても、
「そんなものより、お金の方がよかったな」と相手の想いを切り捨てる事だろう。
例え切り捨てられても、いつか亡くなったとしても、想いは残る。相手がどう思おうと、それは大した問題ではない。想いを感じる人間がいれば、いつでもその想いは蘇る。想いを感じる事の出来る、想いのある人間にしか世界は創れないのだ。我々は誇りを持って世界を創っている。その証拠の一つがこの曼荼羅なのだ。
311の日に記す

彩り

人はすぐに白黒つけたがる。それは良いとか悪いとか。ハッキリさせないと気持ちが悪いのだ。頭の弱点でもある。幼児脳だ。ハリウッド映画はわかりやすい。だから理解されやすい反面、子供向けとも言える。

「攻めろ」と「守れ」を同時に言われたら混乱するだろう。が、その葛藤の中に答えがある。
「一体どっちなんだー??」という悩みの中からしか、価値ある体験とはならない。答えがないともいえるし、両方とも答えとも言える。

答えをすぐに求めるから、ハッキリさせたがるのだ。ハッキリさせたがる自分との戦いだ。本当に大事な事は時間がかかる。実が出来るまでは熟する必要がある。

答えが大事なのではなく、プロセスの中に意味がある。プロセス、経過が大事とはよく言われる事だが、大抵の場合、結果を出す為に経過が大事と捉えている。

結果の為ではない。例えば起業したとして、起業を成功させる為にプロセスを大事と捉えると、折角体験できることが半分以下になる。結果に邪魔となる事は体験しないでおこうとなるからだ。

ネガティブに感じた事も、結果を優先するならば無理矢理ポジティブにしかねない。無理してどこかにひずみが生じる。結果にこだわらないのだが、その前提の上で結果にコダワルことができたら高度だ。

プロセスの中、感じた事で自分が見える。そうしたら、別に起業じゃなくても他の道に気がつけるかもしれない。人生一度しかない。どうせだったら、色んな体験出来た方が幸せだ。

同じ仕事ばかりしていてもいいが、そういう人はこのBlogを読んではいない。いっけん同じ仕事に見えても、進化していれば外見は同じでも全く違う仕事となる。形式的な事を言っている訳ではないからだ。

自分と縁がある人は、菩薩志向があるのだ。菩薩の道も色々だ。どんな仕事でも菩薩道を歩く事は出来る。今の仕事でも菩薩的視点で取り組めば、全く違う仕事となる。

お寺に行くと、様々な仏像がいる。仏像の数だけ役目がある。自分の役目を全うできるか?そもそも自分の役目がわかっているか?ハッキリわかっていると言えるならば、それは自分で限界を作っている。

かといって、強い信念がなければ人には通じない。強すぎてもエゴになる。進化に終わりはない。答えは常に変化する。決めつけたら終わりだ。楽をしては、その瞬間から後退を始める。

世界は広大だ。人が一生かけたところでわかる事はたかが知れている。しかし、一瞬で世界がわかる事もある。その一瞬を求めて人は歩き続ける。

毎日違う自分であっていい。ぶつかり合って、協力し合って、カラフルな色を表現し輝くんだ。色んな色を楽しみながら。

一瞬の価値

「みにくいアヒルの子」という童話がある。アヒルと思っていたら実は白鳥だったという話しだ。アヒルの世界においては、みにくかった子だが、違う世界の子だったからそう見えただけで、白鳥の世界においてはアヒルの子のほうがみにくいと思われたことだろう。同じだと思い込んでいたが為に、外見の違いからアヒルの子ではないと見抜けなかった。

人間も同じだ。外見はどの人も同じだが、魂は違う。アヒルの世界で生きていくのがいい人と、白鳥の世界で生きる人がいる。白鳥の魂でも、アヒルの世界が大半だから、自分もアヒルだと思い込んでしまい、アヒルの皮をかぶった白鳥となる。だからどこかお互いに違和感があるのだが、そんなものだと妥協して諦めて暮らしていく。

たまに自分は白鳥だと思い込んでいるアヒルもいるから面白い。どちらが良い悪いではない。向き不向きだ。どちらも、その世界での美しさはある。アヒルと白鳥の美しさは比べられない。人間の場合は外見でパッと変わらないから、わかりづらい。アヒルでも無理して白鳥の皮をかぶっていて頑張っている人もいる。

そうした無理は続かないものだ。いつかは化けの皮がはがれてしまう。そうしたときに、それぞれ自分の世界に帰った方が生きやすいのだが、執着や慣れがそうさせない。余計苦しむ事になる。

童話では、アヒルの子が白鳥になって、誰の目にも明らかな変化を遂げる。いつかはその瞬間がやってくる。

 どんなに平穏な日常を積み重ねようと一瞬ですべてが変化してしまう。それがこの世だ。311がいい例だ。地震が起こり、その前とその後では生活は一変した。いま日本は色んな意味で激動期に入っている。今後10年以内に、地震と富士山の噴火が起こると言われている。

大衆は嫌でも変化させられてしまう一瞬を恐れている。まさかの一瞬が起こらないかのように生活している。逆に、一瞬の為に備えて生きている人たちもいる。軍隊がいい例だ。あるかわからない、戦争という事態に備えて日々訓練している。

平和時においては、軍隊などムダ飯くらいだ。日々、訓練をして、装備を揃えて、無駄にお金を使っているように見える。役に立たないとか、何もないときは文句を言われるものだが、まさかの一瞬が起きたときには、その評価は一変する。
「いてくれてよかった。ありがたい」と。しかし、平和時に言われる文句のプレッシャーに負けていたら逆に、
「なぜもっと訓練しておかなかったのか?」
「準備が足りない」などと文句を言われることになるだろう。

大衆は長期的な視点などない。目の前の事で精一杯だ。人生でも同じ事が言える。どんなに今が良くても終わりが駄目であれば、それは悲しい人生だ。終わりよければすべて良しという。終わり悪ければ、すべて悪しになるのだ。

途中でどう思われようと、最後には伝わればいいのだ。途中の評価を気にしていたら何も成し遂げられない。出来ない上に、中途半端で先ほどの話しのように、どちらにせよいつも非難されてしまう。だとしたら、いっその事やらないほうが身の為だ。中途半端にやるから自分も苦しいし、周囲にも混乱を与えてしまう。

非難を甘んじて受け入れて、最後に納得させたらいいのだ。途中であれこれ言い訳しても無駄なのだ。それがわからないから周囲は文句をいうのだから。それに付き合うよりはコツコツと言い続け、実践し続ける事だ。そうすればいつかは、
「なんだ、そうだったのか」と分かる日が来る。そうすれば途中の事など吹き飛んでしまう。意味が分からないと文句を言われていた事が、
「さすが先見の明がある」と変化するのだ。

ブレずに自分の道を信じ続ける事は簡単ではない。信念なのか?自分のエゴではないか?自分の軸を信じつつ、常にその軸を疑わなくてはならない。矛盾の中に答えがあるからだ。軸なのか?枝葉の事なのか?信念を悪用していないか?相手のためになっているのか?

悩み、葛藤を続けたものだけが、自分らしい鳥として輝くのだ。

その心は?

歴史を見ると、戦争前の選挙はどうだったか?二大勢力と小さめの勢力、そしてその他といった感じになった。第二次大戦という国際関係の変化に押されるような形で、政党はなくなり軍部の政策を推し進めるだけの体制となった。奴隷を操るのに一番いい方法は、自分が奴隷と気がつかずに、自分で決めていると思わせる事だ。

自分で考え、判断していると思っている。しかし、その考えはどこからインプットされたのか?常識や価値観は無意識に人を束縛する。自分の考えで動いているつもりが、実は視点を変えたら、ある目的の為に動かされていたらどうだろうか?

最近見た、アニメ「氷菓」でもそんなエピソードがあった。自主映画の結末を巡っての話しだ。解決なのか?創作なのか?価値があるのは問題か?人の想いか?興味があれば見て欲しい。

自分の意志で選択しているつもりでも、実は選択させられているとしたら?そう誘導されているとしたら?そしてその方が実際深い考えがあって、本人にも周囲にも誘導された方が価値あるとしたら?下手な考え休むに似たり、ということわざがある。自分で何もかもしようとするのは無理だ。良い悪いを言いたいのではない。意識できるか?できないか?

選挙という一見公平に見える手段を通す事で、なんとなく正当化され、仕方がないと思うようになってないか?それをメディアが後押しする。本当に一票の価値を考えた事があるだろうか?真剣に国の事を考え、視野が広い人の一票と、自分の事しか考えずにイメージで判断してしまう人の一票が同じ価値だろうか?前の選挙で選択した側と選択された側の責任は?

選挙制度を作った人の真意はどこにあったか?流されやすい大衆が力を持っている方が操りやすいとは思わないだろうか?賢者は、直接よりも間接的に影響力を行使する。将軍になるより、将軍に影響を持つ人になった方が効率的だ。将軍が変わっても、影響力を維持できる。

いずれにしても、どの方向へと向かっているのか?その心がわからなければ、どう解いていいかもわからない。笑点とかで、
「○○とかけて、△△と解く。その心は?」という謎掛けがある。

基本の型でもある。法則でも同じ事が言える。人生でも時代でも問題でも、テーマを解く時、ほとんどの人はその心は?を忘れてしまう。

金持ちになりたいとする。手段としてなにするのか?パチンコするのか?事業をするのか?それともおれおれ詐欺?はたまた投資家?いつの間にやら、その心を忘れてしまうから迷走する。本当であれば、
「○○とかけて、その心は?△△と解く」でなければいけない。

私のBlogを読んでくれている人は、コメントを見ればわかるが、人生を真剣に生きようとしている人ばかりだ。真剣に一個の人生を考えて向かった方が面白いと感じているから、こんなよくわからないBlogを見ているんじゃないの?(笑)

その心を忘れてしまえば、よくあるパターンになっていく。金が欲しいとか、普通の幸せとか、そんな話しだ。本当にそういうのを望んでいる人はこのBlogに縁もゆかりもないんだよ。

本当に戦争になるのが悪いの?今の地球の問題は一体なに?日本の事だけではなく、地球の問題とは何か?そういうことを考えた事があるの?また、そういうことを考えている人たちの心を考えた事がある?心が違うから、「解く」も違ってくるんだよ。

戦争とかはそういう人たちの道具ではないの?それが良い悪いとか、どうこういいたいわけではなく、本当にそういうことを真剣に考えた事があるのか?そういう考えを持っている人たちが立派な人たちだとしたらどうなるの?私益の為でなく、公益の為に戦争を考えているとしたら?戦争は悪いと簡単に言えるけど、人類の歴史は戦争で発展してきた面はどうみるの?

万が一のときの為にある保険。保険と同じように、万が一に備えている軍隊や基地。万が一の為に存在し、ほんの一瞬のためにだけ存在する。ひょっとしたら、今がその一瞬かも知れないとは思わないの?普段はムダ飯食らいだが、万が一という、そういったときのために基地とかはあるんじゃないの?

恐ろしい話しだけど、その心を追求しないと見えない世界があるのだとしたら、違う展開が出来るようになる可能性も見えてくるんだよ。

奴隷の解放

今日は何から書こうか。映画の話しか、因縁の話しか、最近面白いコメントの話しか、時代の話しか、etc。映画で言えば、昔テレビアニメで放映された時に解説した、魔法少女まどか☆マギカが劇場映画として公開された。それに伴って、「魔法少女まどか☆マギカ」にみる不変の法則の仕組み の記事がよく見られている。

時が過ぎても価値があるものは、当初理解されないことが多い。例えば、西洋の城と言えばディズニーのシンデレラ城をイメージする人が多いだろう。その城のモデルとなったのが、ドイツのノイシュヴァンシュタイン城だ。この城を建造したルートヴィヒ2世は、歌劇王と言われた作曲家ワーグナーのパトロンでもある。ワーグナーもまた個性的で面白い人物だ。

ルートヴィヒ2世は、オペラと築城に明け暮れて、財産をそれに注ぎ込んだ。そのお陰で、精神病扱いされて、監禁されて、殺されてしまった。しかし、今や彼が作ったお城はドイツで一番の人気スポットとなった。タージマハルもそうだが、一人の狂気が後の人間に多大な影響を与えているのだ。狂ったと言われた人が後になれば、夢を追ったロマンの人と呼ばれるのだから面白い。

歴史(過去)を知れば、未来がわかる。今を知れば選択が出来る。プレッシャーやストレスがあるからこそ、価値ある選択ができる。負荷に負けたとしても、心が負けたことに学びがある。プレッシャーやストレスの環境がある事に価値がある。そこから逃げても解決はない。また次に更に大きな問題となって帰ってくるだけだ。飛び込む事でしか、本質的な解決はない。

飛び込む事が出来ない人もいる。世の中は、王様、貴族、将軍、兵士、奴隷、など色んな役目がいる。奴隷役の人に、信じて未知の世界へ飛び込めといってもコクなだけだ。飛び込む体験を望んでいないから奴隷なのだ。また奴隷が悪い訳ではない。今生で何を体験したいか?それが違うだけだ。良い悪いはない。役割が違うから世界は上手く回るのだ。

どうせなら、奴隷役をするにしても極めた方が幸せだ。誰に仕えるかで、体験できる質が大きく変わってしまう。誰の奴隷になりたいか?普通に考えたら、金持ちで優しい人の奴隷になりたいと思うだろう。それはそうだ。それもいいだろう。それはそれで難しさがある。

大事な事は、自分がどんな体験をしたいかを知る事だ。いまの自分の周囲に答えがある。いま体験している事にヒントがある。どの人に仕えたいか?表面的なことだけをみないで、愛と知恵がある人がいい。愛は時に厳しい。知恵は、受け取る側の準備が必要だ。本当の愛と知恵は分かりづらい。自分の側に受け取れるだけの準備がなければ、愛も知恵も気付く事がない。逆に、愛と知恵がある人ほど、愛と知恵がないと思われてしまうものだ。無知な人ほど、自分の視野が狭いから、相手をつまらない人間か、理解できない恐ろしい人だと見てしまう。

自分の柱(はしら)を持って行動できる人と、誰かに依存しなければ生きていけない人がいる。奴隷体質だ。自分に柱がなければ、柱となる人が必要だ。そうしないと、どうしようもない人を柱としてしまう。そういう人は利用されやすい。そして結局自分も周囲も振り回して苦しむだけである。同じ奴隷でも、意思ある奴隷と流されてする奴隷がいる。

大衆は何かしらの概念の奴隷である。奴隷である事にも気付いていない。奴隷である事に気がついて、それでも敢えてそれをするのなら、そこには選択という意思がある。奴隷である事に気がつかない奴隷は、利用されるだけである。価値ある奴隷とただの奴隷。

映画「イエスマン」のように、イエスイエスと受け入れて奴隷を超える事も出来る。半端な奴隷をするくらいなら、トコトン奴隷をやった方が良い。相手にしても、そこまで背負う覚悟のある主人は少ない。トコトン受け入れたら、逆に奴隷から解放される。受け入れられないと一部の概念しか受け入れないから、ある概念の奴隷になるのだ。わかるだろうか?

奴隷になりたがる人のなんと多い事か。日本はとても優秀な奴隷国家だ。国家を代表して会見する場でどんな紋章が使われているか?ご存知だろうか?

最近コメント欄でそれについて書かれていた。この事についても書こうと思っていたので、シンクロしていて面白い。今日はその話しに飛ばなかったのでまた今度書こうと思う。

因縁の世界

 進化を続けていくと、新たな壁にぶつかる。ところが、その新たな壁は今までの壁と同じに見えるから、同じようなやり方で対処してしまう。まさか、ルールが変わったとは思いつかない。

同じやり方でやっても、解決できなかったりする。問題は、問題そのものには答えがない。問題を解く一つの方法として、より大きな問題を持ってくるという高度なやり方もある。ルールが変わったときには有効な手段となる。

慣れてきた、得意になってきたら要注意だ。意味が分からないというのは良い信号だ。わかりづらいかな?いつまでも同じやり方をしているのでは能がない。進化しなければ利用されてしまう。大衆はいつも同じ過ちを繰り返す。考えないし、楽だからだ。わからないことに向き合い続ける人間だけが光をつかめる。

一方で、不変の法則を活用し、時代をリードし続ける人々もいる。ロスチャイルド家がこれほど長く語り続けられているのには訳がある。平清盛は一代で栄華を極めすぐに没落した。長い間栄え続けるには、表に立っては難しい。

裏に回る事で、長く影響力を持ち続けられる。密教的にもエネルギーを得られるやり方だ。存在するのか?存在しないのか?よくわからないから価値がある。ではよくわからないのに、なぜロスチャイルドやロックフェラーはよく名前が出てくるのか?

一体彼らは本当にユダヤ人なのか?時代は進んでいる。もはや、最先端ではロスチャイルドは古くて、タクシス家だと言われている。ロスチャイルドは金融で、情報を握っているのがタクシス家だ。更に言うと、テロとか暴力を担当しているのがサヴォイ家だ。

名前が出ているときには、既にその実態は他に移っているのだ。移っているからこそ、その名前を使えるのだ。今が良いと思われているものは、実はもう終わっているのだ。終わっているからこそ、それを使えるのだ。

最後は家に行き着く。因縁が結局は中心になってくる。その下に企業などがある。因縁に企業がひもつくのだ。因縁管理が出来ないと家は衰退する。因縁管理が世界で一番上手くいっているのが、日本の天皇家だ。世界で一番長く続いている王家だ。

因縁の力を国家は良く理解している。また因縁の力を利用しなければ、国家はうまく治まらない。因縁の作用を利用して統治するのだ。その証拠に、国家は近親婚を禁止する。表向きの理由は遺伝子異常がでるからとされている。本当は霊的な作用が起こるからなのだ。それは表で堂々と言えないから、肉体のせいにして規制するのだ。本当に問題なら、なぜ近親婚を繰り返してきた天皇家が続いているのだろうか?

長く続くのには理由がある。多くの壁を乗り越えたからこそ、継続できている。因縁にヒントがある。一番大変な問題だからこそ、その作用次第で大きな効果が生まれるのだ。論理では到底解決できないのが、因縁問題だ。

色んな方向からのアプローチがなければ因縁は難しい。近くて遠い問題。深くて浅く見える問題が因縁問題なのだ。ここに世界の秘密が隠されている。