「人々は見たいと欲する現実しかみない」と7月Julyと皇帝Kaiser(カイザー)の語源となったカエサルことジュリアス・シーザーは洞察しました。冷静に物事を見極める前に、偏った視点で見てしまうのです。サングラスをしてモノゴトを見ているのと同じです。感情というグラスが入っていると特に冷静にはみれません。それを知っている者は、感情的になりやすい状況を作ることで、自分の欲する現実を創造するのです。
「知恵」カテゴリーアーカイブ
柱(はしら)
素直さの話を前回書いた。素直を自分の都合の良いように捉えると、それは素直ではなく、単なるワガママとなる。悩み、苦しみ、本当にそうだろうか?と試行錯誤した上での判断は価値がある。どんな形になろうとも、そこから学ぶことは多い。
素直に子供のように
歳を重ねるごとに、経験も因縁も積み重なり、モノゴトに対して素直に受け取れなくなってくる。「そうはいっても、何々だ」と文句の一つを無意識につけてしまう。エゴがジャマをすることで、モノゴトの本質を感じづらくさせてしまう。
初心忘るべからず
物事は表面と裏面、両方を見ることで本質が見えてくる。得てして、裏側のほうが深い。内面と言った方が適切かもしれない。表面では、ただの笑顔でも、内面は葛藤や切なさ、期待と絶望など入り交じっているかもしれない。
「初心忘るべからず」世阿弥の言葉だ。
「しかれば当流に万能一徳の一句あり。 初心忘るべからず。この句、三ヶ条の口伝あり。是非とも初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。この三、よくよく口伝すべし」
「命には終りあり、能には果てあるべからず」(世阿弥「花鏡」)
想いの連鎖
予期していなかったが、逮捕される前に書いた記事で、恐らく一番読まれた「人間の価値」というエントリーがある。結果として2011年6月の書き込みはこの記事だけだったので、自分にとっては意味深い数字を持った記事となった。後々、読み返してみて、内容もタイムリーでシンクロしていたなと感慨深い。事件当時、コメントが殺到したが、中にこんなコメントがあった。
「もし、尾関さんを守るために頭数か必要だったり、自分が役に立てるならいつでも呼んでください。」
こうした想いのある人間に囲まれていることが一番の幸せだ。かといって、狭い世界で仲良しこよしをしている訳ではない。想いがあるからこそ、それを欺瞞にしないために、逃げることなくぶつかれる仲間の有り難みがある。ぶつかり合う事でしか、人は磨かれない。想いがない人間とはぶつかる事も出来ない。適当なことを言って逃げるだけだ。
真剣になればなるほど、大事なことは、頭の良さや器用なことよりも、想いを感じる人間であるかどうかだとわかってくる。いわゆる、頭のいい人間ほど、目先のことにとらわれて、本当に大事なことを見失いやすい。信頼や愛といったものを。
見えない大事なもの以外でも、見える経済的なことももちろん大事だ。それについても、投資のことや沖縄の価値を伝えることで、価値あるものを残したいのなら、沖縄でやったほうがいいと伝えてきた。
地震も放射能もない、暮らしやすい土地というだけでなく、地元の人が経済活動にあまり興味がないゆえに(笑)ビジネスチャンスで満ちている。勿体ないことだらけである。今後、人口も増えていて、土地もあがっていて、米軍再編に絡み、いい土地がドンドン出てくる沖縄が発展しないわけがない。観光客は、今まで高い航空券であっても600万人もきていたのだ。格安航空会社のLCC参入で更に来県数は加速する。
彩り
人はすぐに白黒つけたがる。それは良いとか悪いとか。ハッキリさせないと気持ちが悪いのだ。頭の弱点でもある。幼児脳だ。ハリウッド映画はわかりやすい。だから理解されやすい反面、子供向けとも言える。
「攻めろ」と「守れ」を同時に言われたら混乱するだろう。が、その葛藤の中に答えがある。
「一体どっちなんだー??」という悩みの中からしか、価値ある体験とはならない。答えがないともいえるし、両方とも答えとも言える。
答えをすぐに求めるから、ハッキリさせたがるのだ。ハッキリさせたがる自分との戦いだ。本当に大事な事は時間がかかる。実が出来るまでは熟する必要がある。
答えが大事なのではなく、プロセスの中に意味がある。プロセス、経過が大事とはよく言われる事だが、大抵の場合、結果を出す為に経過が大事と捉えている。
結果の為ではない。例えば起業したとして、起業を成功させる為にプロセスを大事と捉えると、折角体験できることが半分以下になる。結果に邪魔となる事は体験しないでおこうとなるからだ。
ネガティブに感じた事も、結果を優先するならば無理矢理ポジティブにしかねない。無理してどこかにひずみが生じる。結果にこだわらないのだが、その前提の上で結果にコダワルことができたら高度だ。
プロセスの中、感じた事で自分が見える。そうしたら、別に起業じゃなくても他の道に気がつけるかもしれない。人生一度しかない。どうせだったら、色んな体験出来た方が幸せだ。
同じ仕事ばかりしていてもいいが、そういう人はこのBlogを読んではいない。いっけん同じ仕事に見えても、進化していれば外見は同じでも全く違う仕事となる。形式的な事を言っている訳ではないからだ。
自分と縁がある人は、菩薩志向があるのだ。菩薩の道も色々だ。どんな仕事でも菩薩道を歩く事は出来る。今の仕事でも菩薩的視点で取り組めば、全く違う仕事となる。
お寺に行くと、様々な仏像がいる。仏像の数だけ役目がある。自分の役目を全うできるか?そもそも自分の役目がわかっているか?ハッキリわかっていると言えるならば、それは自分で限界を作っている。
かといって、強い信念がなければ人には通じない。強すぎてもエゴになる。進化に終わりはない。答えは常に変化する。決めつけたら終わりだ。楽をしては、その瞬間から後退を始める。
世界は広大だ。人が一生かけたところでわかる事はたかが知れている。しかし、一瞬で世界がわかる事もある。その一瞬を求めて人は歩き続ける。
毎日違う自分であっていい。ぶつかり合って、協力し合って、カラフルな色を表現し輝くんだ。色んな色を楽しみながら。
一瞬の価値
「みにくいアヒルの子」という童話がある。アヒルと思っていたら実は白鳥だったという話しだ。アヒルの世界においては、みにくかった子だが、違う世界の子だったからそう見えただけで、白鳥の世界においてはアヒルの子のほうがみにくいと思われたことだろう。同じだと思い込んでいたが為に、外見の違いからアヒルの子ではないと見抜けなかった。
人間も同じだ。外見はどの人も同じだが、魂は違う。アヒルの世界で生きていくのがいい人と、白鳥の世界で生きる人がいる。白鳥の魂でも、アヒルの世界が大半だから、自分もアヒルだと思い込んでしまい、アヒルの皮をかぶった白鳥となる。だからどこかお互いに違和感があるのだが、そんなものだと妥協して諦めて暮らしていく。
たまに自分は白鳥だと思い込んでいるアヒルもいるから面白い。どちらが良い悪いではない。向き不向きだ。どちらも、その世界での美しさはある。アヒルと白鳥の美しさは比べられない。人間の場合は外見でパッと変わらないから、わかりづらい。アヒルでも無理して白鳥の皮をかぶっていて頑張っている人もいる。
そうした無理は続かないものだ。いつかは化けの皮がはがれてしまう。そうしたときに、それぞれ自分の世界に帰った方が生きやすいのだが、執着や慣れがそうさせない。余計苦しむ事になる。
童話では、アヒルの子が白鳥になって、誰の目にも明らかな変化を遂げる。いつかはその瞬間がやってくる。
どんなに平穏な日常を積み重ねようと一瞬ですべてが変化してしまう。それがこの世だ。311がいい例だ。地震が起こり、その前とその後では生活は一変した。いま日本は色んな意味で激動期に入っている。今後10年以内に、地震と富士山の噴火が起こると言われている。
大衆は嫌でも変化させられてしまう一瞬を恐れている。まさかの一瞬が起こらないかのように生活している。逆に、一瞬の為に備えて生きている人たちもいる。軍隊がいい例だ。あるかわからない、戦争という事態に備えて日々訓練している。
平和時においては、軍隊などムダ飯くらいだ。日々、訓練をして、装備を揃えて、無駄にお金を使っているように見える。役に立たないとか、何もないときは文句を言われるものだが、まさかの一瞬が起きたときには、その評価は一変する。
「いてくれてよかった。ありがたい」と。しかし、平和時に言われる文句のプレッシャーに負けていたら逆に、
「なぜもっと訓練しておかなかったのか?」
「準備が足りない」などと文句を言われることになるだろう。
大衆は長期的な視点などない。目の前の事で精一杯だ。人生でも同じ事が言える。どんなに今が良くても終わりが駄目であれば、それは悲しい人生だ。終わりよければすべて良しという。終わり悪ければ、すべて悪しになるのだ。
途中でどう思われようと、最後には伝わればいいのだ。途中の評価を気にしていたら何も成し遂げられない。出来ない上に、中途半端で先ほどの話しのように、どちらにせよいつも非難されてしまう。だとしたら、いっその事やらないほうが身の為だ。中途半端にやるから自分も苦しいし、周囲にも混乱を与えてしまう。
非難を甘んじて受け入れて、最後に納得させたらいいのだ。途中であれこれ言い訳しても無駄なのだ。それがわからないから周囲は文句をいうのだから。それに付き合うよりはコツコツと言い続け、実践し続ける事だ。そうすればいつかは、
「なんだ、そうだったのか」と分かる日が来る。そうすれば途中の事など吹き飛んでしまう。意味が分からないと文句を言われていた事が、
「さすが先見の明がある」と変化するのだ。
ブレずに自分の道を信じ続ける事は簡単ではない。信念なのか?自分のエゴではないか?自分の軸を信じつつ、常にその軸を疑わなくてはならない。矛盾の中に答えがあるからだ。軸なのか?枝葉の事なのか?信念を悪用していないか?相手のためになっているのか?
悩み、葛藤を続けたものだけが、自分らしい鳥として輝くのだ。
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その心は?
歴史を見ると、戦争前の選挙はどうだったか?二大勢力と小さめの勢力、そしてその他といった感じになった。第二次大戦という国際関係の変化に押されるような形で、政党はなくなり軍部の政策を推し進めるだけの体制となった。奴隷を操るのに一番いい方法は、自分が奴隷と気がつかずに、自分で決めていると思わせる事だ。
自分で考え、判断していると思っている。しかし、その考えはどこからインプットされたのか?常識や価値観は無意識に人を束縛する。自分の考えで動いているつもりが、実は視点を変えたら、ある目的の為に動かされていたらどうだろうか?
最近見た、アニメ「氷菓」でもそんなエピソードがあった。自主映画の結末を巡っての話しだ。解決なのか?創作なのか?価値があるのは問題か?人の想いか?興味があれば見て欲しい。
自分の意志で選択しているつもりでも、実は選択させられているとしたら?そう誘導されているとしたら?そしてその方が実際深い考えがあって、本人にも周囲にも誘導された方が価値あるとしたら?下手な考え休むに似たり、ということわざがある。自分で何もかもしようとするのは無理だ。良い悪いを言いたいのではない。意識できるか?できないか?
選挙という一見公平に見える手段を通す事で、なんとなく正当化され、仕方がないと思うようになってないか?それをメディアが後押しする。本当に一票の価値を考えた事があるだろうか?真剣に国の事を考え、視野が広い人の一票と、自分の事しか考えずにイメージで判断してしまう人の一票が同じ価値だろうか?前の選挙で選択した側と選択された側の責任は?
選挙制度を作った人の真意はどこにあったか?流されやすい大衆が力を持っている方が操りやすいとは思わないだろうか?賢者は、直接よりも間接的に影響力を行使する。将軍になるより、将軍に影響を持つ人になった方が効率的だ。将軍が変わっても、影響力を維持できる。
いずれにしても、どの方向へと向かっているのか?その心がわからなければ、どう解いていいかもわからない。笑点とかで、
「○○とかけて、△△と解く。その心は?」という謎掛けがある。
基本の型でもある。法則でも同じ事が言える。人生でも時代でも問題でも、テーマを解く時、ほとんどの人はその心は?を忘れてしまう。
金持ちになりたいとする。手段としてなにするのか?パチンコするのか?事業をするのか?それともおれおれ詐欺?はたまた投資家?いつの間にやら、その心を忘れてしまうから迷走する。本当であれば、
「○○とかけて、その心は?△△と解く」でなければいけない。
私のBlogを読んでくれている人は、コメントを見ればわかるが、人生を真剣に生きようとしている人ばかりだ。真剣に一個の人生を考えて向かった方が面白いと感じているから、こんなよくわからないBlogを見ているんじゃないの?(笑)
その心を忘れてしまえば、よくあるパターンになっていく。金が欲しいとか、普通の幸せとか、そんな話しだ。本当にそういうのを望んでいる人はこのBlogに縁もゆかりもないんだよ。
本当に戦争になるのが悪いの?今の地球の問題は一体なに?日本の事だけではなく、地球の問題とは何か?そういうことを考えた事があるの?また、そういうことを考えている人たちの心を考えた事がある?心が違うから、「解く」も違ってくるんだよ。
戦争とかはそういう人たちの道具ではないの?それが良い悪いとか、どうこういいたいわけではなく、本当にそういうことを真剣に考えた事があるのか?そういう考えを持っている人たちが立派な人たちだとしたらどうなるの?私益の為でなく、公益の為に戦争を考えているとしたら?戦争は悪いと簡単に言えるけど、人類の歴史は戦争で発展してきた面はどうみるの?
万が一のときの為にある保険。保険と同じように、万が一に備えている軍隊や基地。万が一の為に存在し、ほんの一瞬のためにだけ存在する。ひょっとしたら、今がその一瞬かも知れないとは思わないの?普段はムダ飯食らいだが、万が一という、そういったときのために基地とかはあるんじゃないの?
恐ろしい話しだけど、その心を追求しないと見えない世界があるのだとしたら、違う展開が出来るようになる可能性も見えてくるんだよ。
奴隷の解放
今日は何から書こうか。映画の話しか、因縁の話しか、最近面白いコメントの話しか、時代の話しか、etc。映画で言えば、昔テレビアニメで放映された時に解説した、魔法少女まどか☆マギカが劇場映画として公開された。それに伴って、「魔法少女まどか☆マギカ」にみる不変の法則の仕組み の記事がよく見られている。
時が過ぎても価値があるものは、当初理解されないことが多い。例えば、西洋の城と言えばディズニーのシンデレラ城をイメージする人が多いだろう。その城のモデルとなったのが、ドイツのノイシュヴァンシュタイン城だ。この城を建造したルートヴィヒ2世は、歌劇王と言われた作曲家ワーグナーのパトロンでもある。ワーグナーもまた個性的で面白い人物だ。
ルートヴィヒ2世は、オペラと築城に明け暮れて、財産をそれに注ぎ込んだ。そのお陰で、精神病扱いされて、監禁されて、殺されてしまった。しかし、今や彼が作ったお城はドイツで一番の人気スポットとなった。タージマハルもそうだが、一人の狂気が後の人間に多大な影響を与えているのだ。狂ったと言われた人が後になれば、夢を追ったロマンの人と呼ばれるのだから面白い。
歴史(過去)を知れば、未来がわかる。今を知れば選択が出来る。プレッシャーやストレスがあるからこそ、価値ある選択ができる。負荷に負けたとしても、心が負けたことに学びがある。プレッシャーやストレスの環境がある事に価値がある。そこから逃げても解決はない。また次に更に大きな問題となって帰ってくるだけだ。飛び込む事でしか、本質的な解決はない。
飛び込む事が出来ない人もいる。世の中は、王様、貴族、将軍、兵士、奴隷、など色んな役目がいる。奴隷役の人に、信じて未知の世界へ飛び込めといってもコクなだけだ。飛び込む体験を望んでいないから奴隷なのだ。また奴隷が悪い訳ではない。今生で何を体験したいか?それが違うだけだ。良い悪いはない。役割が違うから世界は上手く回るのだ。
どうせなら、奴隷役をするにしても極めた方が幸せだ。誰に仕えるかで、体験できる質が大きく変わってしまう。誰の奴隷になりたいか?普通に考えたら、金持ちで優しい人の奴隷になりたいと思うだろう。それはそうだ。それもいいだろう。それはそれで難しさがある。
大事な事は、自分がどんな体験をしたいかを知る事だ。いまの自分の周囲に答えがある。いま体験している事にヒントがある。どの人に仕えたいか?表面的なことだけをみないで、愛と知恵がある人がいい。愛は時に厳しい。知恵は、受け取る側の準備が必要だ。本当の愛と知恵は分かりづらい。自分の側に受け取れるだけの準備がなければ、愛も知恵も気付く事がない。逆に、愛と知恵がある人ほど、愛と知恵がないと思われてしまうものだ。無知な人ほど、自分の視野が狭いから、相手をつまらない人間か、理解できない恐ろしい人だと見てしまう。
自分の柱(はしら)を持って行動できる人と、誰かに依存しなければ生きていけない人がいる。奴隷体質だ。自分に柱がなければ、柱となる人が必要だ。そうしないと、どうしようもない人を柱としてしまう。そういう人は利用されやすい。そして結局自分も周囲も振り回して苦しむだけである。同じ奴隷でも、意思ある奴隷と流されてする奴隷がいる。
大衆は何かしらの概念の奴隷である。奴隷である事にも気付いていない。奴隷である事に気がついて、それでも敢えてそれをするのなら、そこには選択という意思がある。奴隷である事に気がつかない奴隷は、利用されるだけである。価値ある奴隷とただの奴隷。
映画「イエスマン」のように、イエスイエスと受け入れて奴隷を超える事も出来る。半端な奴隷をするくらいなら、トコトン奴隷をやった方が良い。相手にしても、そこまで背負う覚悟のある主人は少ない。トコトン受け入れたら、逆に奴隷から解放される。受け入れられないと一部の概念しか受け入れないから、ある概念の奴隷になるのだ。わかるだろうか?
奴隷になりたがる人のなんと多い事か。日本はとても優秀な奴隷国家だ。国家を代表して会見する場でどんな紋章が使われているか?ご存知だろうか?
最近コメント欄でそれについて書かれていた。この事についても書こうと思っていたので、シンクロしていて面白い。今日はその話しに飛ばなかったのでまた今度書こうと思う。
因縁の世界
進化を続けていくと、新たな壁にぶつかる。ところが、その新たな壁は今までの壁と同じに見えるから、同じようなやり方で対処してしまう。まさか、ルールが変わったとは思いつかない。
同じやり方でやっても、解決できなかったりする。問題は、問題そのものには答えがない。問題を解く一つの方法として、より大きな問題を持ってくるという高度なやり方もある。ルールが変わったときには有効な手段となる。
慣れてきた、得意になってきたら要注意だ。意味が分からないというのは良い信号だ。わかりづらいかな?いつまでも同じやり方をしているのでは能がない。進化しなければ利用されてしまう。大衆はいつも同じ過ちを繰り返す。考えないし、楽だからだ。わからないことに向き合い続ける人間だけが光をつかめる。
一方で、不変の法則を活用し、時代をリードし続ける人々もいる。ロスチャイルド家がこれほど長く語り続けられているのには訳がある。平清盛は一代で栄華を極めすぐに没落した。長い間栄え続けるには、表に立っては難しい。
裏に回る事で、長く影響力を持ち続けられる。密教的にもエネルギーを得られるやり方だ。存在するのか?存在しないのか?よくわからないから価値がある。ではよくわからないのに、なぜロスチャイルドやロックフェラーはよく名前が出てくるのか?
一体彼らは本当にユダヤ人なのか?時代は進んでいる。もはや、最先端ではロスチャイルドは古くて、タクシス家だと言われている。ロスチャイルドは金融で、情報を握っているのがタクシス家だ。更に言うと、テロとか暴力を担当しているのがサヴォイ家だ。
名前が出ているときには、既にその実態は他に移っているのだ。移っているからこそ、その名前を使えるのだ。今が良いと思われているものは、実はもう終わっているのだ。終わっているからこそ、それを使えるのだ。
最後は家に行き着く。因縁が結局は中心になってくる。その下に企業などがある。因縁に企業がひもつくのだ。因縁管理が出来ないと家は衰退する。因縁管理が世界で一番上手くいっているのが、日本の天皇家だ。世界で一番長く続いている王家だ。
因縁の力を国家は良く理解している。また因縁の力を利用しなければ、国家はうまく治まらない。因縁の作用を利用して統治するのだ。その証拠に、国家は近親婚を禁止する。表向きの理由は遺伝子異常がでるからとされている。本当は霊的な作用が起こるからなのだ。それは表で堂々と言えないから、肉体のせいにして規制するのだ。本当に問題なら、なぜ近親婚を繰り返してきた天皇家が続いているのだろうか?
長く続くのには理由がある。多くの壁を乗り越えたからこそ、継続できている。因縁にヒントがある。一番大変な問題だからこそ、その作用次第で大きな効果が生まれるのだ。論理では到底解決できないのが、因縁問題だ。
色んな方向からのアプローチがなければ因縁は難しい。近くて遠い問題。深くて浅く見える問題が因縁問題なのだ。ここに世界の秘密が隠されている。