「知恵」カテゴリーアーカイブ

命の学校 「悲しみを聴く」奥野修司氏

ノンフィクション作家として実績ある奥野氏の講演をお聞きし、その後も麗王にて長く話す時間を頂きました。奥野さんは私が持っていた作家さんのイメージとは違い、ただ聴いて書くだけでは終わらない方でした。

作家さんは文章などにまとめ終わったら、そこで取材先とも終わりになるのが一般的ではないでしょうか。奥野さんはその後も関係が続き、時には自分から積極的に取材した相手に働きかけて助けようと動いたりするのです。ただ仕事の為に話を聞いている人とは違う、人間としての関わりを持つ覚悟のあるスタンスだからこそ、奥野さんだけに話す方がきっと多いのだろうと思いました。「聴く」と「聞く」の違いです。聴くは傾聴するという意味なんですね。

認知症への理解も深まりました。男性と女性とでは認知症になった時への反応は違うそうです。そして認知症に対して知識がないと、男性は引きこもりがちになるそうですよ。認知症といえども、すべてわからなくなるわけでもなく、人によって症状は全然違うそうなので、認知症について知っておくと、自分のためにも相手のためにも役立つので、自分とは違う世界のことと思わず知ろうとする心がけをしたいですね。無知の罪とも言いますし。

ちなみに、人の話に対して、反応するのではなく、受け止めるというスタンスは、どんな人に対しても通じるものですね。人の話を聴く授業というのもあったら、人間関係が大きく変わり、社会にとっても良い効果をもたらすのではないかと感じました。

あと印象に残った話で、悪人か善人かを認知症の人は見分けるという話がありました。人は欠損する箇所があると他のある部分が鋭くなり、人を見抜く力がすごくなると。わかりますね。死が近い人間の方も、鋭くなるそうです。嘘が通じないから、自分の内面が試されます。子供も見抜いているのかもと思います。

残念なことに認知症患者は、イギリスやアメリカは減っているのに、日本では増えているそうです。これは個人的には食べ物や、人間関係が影響しているのだろうなと思っています。食べ物や精神衛生には気を使っていきたいですね。

あ、そうそう、脳の角回を刺激すると幽体離脱が起こるという話は衝撃的でした。衝撃的といえば、こちらの話も衝撃!
 サイエンス誌に掲載されている論文でも40数パーセントは再現性がないというお話。科学ってその程度の客観性なのかもしれませんよ。脳みそは柔軟にしていきたいです。

個人的には、認知症の話より、奥野氏が農業についても本を出されているので、その辺のことを講演後に色々とお聞きできたのでとても勉強になりました。このこともまた次回に書きたいと思います。最後に、スライドの最後にあった言葉をご紹介

見ようとしなければ、見えないものもある。深いですね。

この本も是非見ようとしてみてください。

人の関心に関心を持つお話

命の学校 第5回目講義

定期的に自分を見つめ直すいい機会になっている、命の学校に行ってきました。前半は、琉球大学医学部附属病院長で、大学院の教授でもある藤田先生のお話は、想像よりとてもフランクで、ユーモアがあり、スピリチュアルな感じでした。後半は、主催者の樋口先生の講義です。

藤田次郎先生の講義感想

あくまで個人の感想ですが、女性の体に例えて作られた琉球大学病院の庭の話が印象的でした。設計の意図を知らずに、余計に植樹されて、本来の意図通りではなくなっていた庭。その木を切ることで戻そうとするのではなく、本来あったカナメの木の欠損を植樹され戻したら、自然と不思議と他の余計な木が枯れてきたと。説明下手ですいません。

一部のバランスを整えれば、自然と全体も整ってくるようなお話をされていたように私は感じました。これは後に樋口先生が触れていた最も根元的で本質的な一手と通じる話だと感じました。問題ごとに対処する方法では、本質を見ないから、手を打つごとに他の問題がまた起こってくる。生態系の中で、自然も人体も社会も同じことが言えるのでしょう。

医学的な話では、ウイルスの話をされていました。同じ人間に見えても、実は違う人間ということで、沖縄だけに多い疾患、はたまた宮古島だけに多い疾患など、知らない話で勉強になりました。

その地にとどまる人、その先に行く人、同じ人間でも違う性質があることを証明しているのがウイルスと言えるんですね。港町に多いウイルスというのが面白かったですね。

医学ぽい話はあまりなかったのですが、毒を薬にするのはタイミング次第という話が印象に残っています。同じ薬でも、受け取る側の状態で効きも変わってくるのは当たり前ですね。

言葉も、毒にも薬にもなります。子供の方が言葉の意味に敏感で純粋なのも、その場に学びにきている小学生の子から学びました。一言一言、素直だから、それに対する大人も下手な言葉は言えないことを忘れてました。

樋口耕太郎先生の講義感想

根元的でかつ本質的な言葉。適切な言葉を見極めるには、樋口先生が後半で話されていたように、相手に関心を持つだけでなく、相手の関心にまで意識を向けなければわからないこと。

相手は何に興味があるのかな?例えそれがつまらないことでも、意識を向け続けることができるか?自分はそれが苦手でした。つまらない話や興味ないことだと、途端に上の空になっていました。得手すれば、早く話やめろオーラを出していましたね。

自分のことばかりで生きてきた人生ですので、後半戦は他人のためにと思って、人の関心に関心を持つ訓練をしています。

そして、それがただ関心持てばいいわけではないので、また難しいです。その関心が本物でなければ、相手に見抜かれてしまう。言葉では説明できなくても、感覚的にはわかります。雰囲気に現れますからね。

自分のいうことを聞かせるために、関心を持っても相手には響く言葉は出てこないでしょう。私に限らず、多くの人がエゴから相手を見ていると思うので、この訓練は大変です。

経営者ほど、自分を変えずに相手や環境を変えることで望む結果を得てきているものでしょう。だから経営者は孤独だというのです。相手には関心を持たず、自分には関心を持ってもらいたい。私はそういうタイプであったので良くわかります。

自然の中にいると、土や植物のことを無視して、自分の都合で動いてもうまく生きません。人を機械のようにみると、自分だけの関心になってしまうのでしょう。人も自然の一部ということを忘れがちです。

関心の話から自尊心への話へと続いて行くのですが、これはまた面白いので、興味ある方は下記のリンク先もどうぞ。しかし、ヤクーバの話は何度聞いても心打たれるなぁ。

沖縄から貧困がなくならない、本当の、本当の理由

http://politas.jp/features/14/article/616

 

 

ぼくの学び舎

命の学校の講演を聞いてきました。徳永進氏は、医師であり作家でもある方の講演で、笑いが沢山散りばめられた気取らない講演ですが、話の節々に知恵や豊富な知識が光っていました。会場はお人柄を反映するように、堅苦しくなく、穏やかな笑みで満ちていました。

講演のタイトルが「ぼくの学び舎」ということで、徳永氏が臨床の現場やあちこちで気が付いたことをエピソードを交えて伝えてくれました。

冒頭から、
「病気が道を開いて行く」と刺激的な言葉にハッとしました。どこで何を学ぶか、学び舎はどこにもあり、問題意識がある方は出会う人が全て師になっている姿を実践されているのですね。

例えば、前科9犯の人が病院にきた話など、面白おかしく話しながらも、深い学びの話がありました。私が印象的だったのは、同じ数字の9でも、人によってはすごい犯罪者と思い、また違う人は二桁犯にならないうちは大したことないと捉えたりと、人によって見方が変わることでした。

自分の見方では気がつかない可能性や見方が実は眠っていることに忘れがちです。ダメだと自分は思っても、そうではないのです。私たちが今作っているコミュニティでは、可能性に満ちた見方で物事を見る力をつけていきたいと思います。

そして、前科9犯の人の家に行った話から、彼のいる環境が彼を作った話になり、それを既に見抜いていた人がいるとして、
ヴァージニア・ヘンダソーンの看護の基本14項目を話されました。ここに最後一つの項目を徳永氏は付け足していました。

話は飛びますが、あることを伝えるとか、伝えないとかの世界ではない、伝わる世界があることを知った話も面白かったです。言葉ってもどかしいけど、ときには匂いのように伝わることがあり、そうしたことを論理や科学では説明が難しいんですよね。

講演の感想も、全部書けないし、書いてないけど、感じたこととか、それを文字だけで伝えようとするのはとても難しいと思います。ここに書いてあることも、徳永氏が本来伝えたかったことではないかもしれないのです。私なりの理解であって、それで良いと彼はいうと思います。

私が勇気付けられたのは、卵焼きの話です。患者さんの気持ちが薬ではなく、卵焼きで救われる人もいる。面白いのは、医者が患者さんを救うために考えられることは、医療制度して点数が出ることばかりだけど、看護婦さんの卵焼きの話は点数がつかないけど、立派に医療として役立っていることです。

人によって効く薬が違うことを、
「心のくすり箱」として本を出されていたので読んでまた紹介しますね。

パイオニアは点数がない、売り上げがなかったりすることを連想しました。画一的にするってことは経済行為としては当たり前なんですが、手間暇のかかる個別対応の中にしか、愛、思いやりとかが入る余地はないのではと思います。

画一的とはマニュアル化ですが、ロボット化、コンプアライアンスとか、現代社会が志向している社会では嘘が多いと語ってくれた時は、我が意を得たりの思いでした。

徳永氏は、太古から続いている言葉が良いとおっしゃってました。患者さんが家族に寄り添って寝てと言っても、
「病院だからダメ」と返してしまうと。そういう言葉は昔にはないから違うと例を語ってくれました。本当に大事なことしか、死の淵の人は言わないと。死を目前にすると人は嘘がなくなるんでしょう。

太古からある人間が本来持っている感覚というものを大事にしたいですし、そうした感覚を研ぎ澄まされる場所を私は作りたいと思います。自然の中だからこそ、こうした感覚を感じるのです。焚き火とかしているとそんな感覚を覚えます。

他にも自分メモとしては、

  • モハメドアリの励まし人間
  • 相補性
  • Sit here now
  • パラチャーチ
  • タゴール 作られた道、湧いてくる道
  • 光合わせ 田口ランディ
  • どちらでも

などなど、彼の話に共感できる人と一緒に働きたいと思いました。お世話になっている人が誕生日だったので、この講演の話を伝えたら、

「良く死ぬことは良く生きることですから、やがて来るその日まで心身共に健康で生を全うしたいものです」とお返事が。

良く生きて、良く死んで行く場所。その過程を共にできる場をInahoで作っていけたら素敵だなと思いましたね。

さて最後に、徳永氏の著書と、推薦図書をご紹介します。まだ未読ですが、買いましたので読了したらまた報告します。ご興味ある方は是非ご覧ください。そしてそれについて話が出来たらと思います。

先生の可愛いサイン

推薦図書はこちら

Six Degrees of Separation

節目の季節ですね。出会いと別れ。出会って初めて気づくこと、別れて初めてわかることがあります。私は特に感じないとわからない馬鹿なんだなと実感しています。どんな体験も、どういう解釈するかで意味づけが変わってきます。同じ体験でも解釈が変われば、感じ方も変わります。過去に感じていたことと、今とでは全く違った感じ方をする体験もありました。
人の印象もそうです。冷たい人なのかなと思っていた人が、実はとても優しい人だったりしたこともあります。かつては、早急に判断を急ぎすぎていました。長い目で見ようということと、そうでないことの区別が曖昧で、自分にとって都合の良いように見ていたのです。そのお陰でというか、背負うべきではないことまで背負ったりして、身の程を思い知らされ、自分の器を知りました。
それでも、まだ期待をしてくれている人々がいることはとてもありがたいです。私は周囲の人間に対して、紹介して欲しいということを頼んだことはほとんどありません。紹介することはあっても、自ら求めることはあまりしてきませんでした。昔、Birthにはいろんな人種がやってきて、名刺の数だけは広がっても、そこから広げたいとも思えませんでした。つながる人は自然と繋がるだろうと思っていて、大体大きな出会いは相手からやってきてくれた恵まれた人生です。今だに紹介してもらって、新たな出会いをいただいています。
ツイテいるからこそ、その有り難みや価値に気がつかないのです。視点一つで人生は変わります。私はかつてタイの山岳民族の村で水道工事のボランティアをしていた時に、そのことを痛感しました。知っているか知らないかで、人生の選択や幅を大きく変わるのだと。時代は必ず変わります。次の時代のヒントが沖縄にあるという想いに変化はありません。
人がまだ気がついてない視点をわかりやすく説明してくれる講座が沖縄にあります。私にも暖かい想いをかけてくれている樋口さんの講座です。これからの未来を生きる指針の一つに、この講座で学べることがあります。沖縄まで行くことは大変です。しかし、それだけの価値はあると推薦します。
目の前の人間を好き嫌いで判断したら、その人と、その人につながる人間たちを切り捨てることになります。嫌いであるからこそ余計に自分にはないものを持っているとも言えます。愛があれば人は自然と集まります。自然と集まる中に、予想もしない出会いがあり、その出会いこそが人生を変えたりします。わざわざ沖縄まで行くという選択肢は普通はないです。しかし、その先に見えない可能性があります。沖縄で大変な経験をした私がまだ沖縄に関わることを不思議がられます。その答えの一つはこの講座にあります。すぐにでなくても選択肢の一つに入れておいて頂けましたら幸いです。
『次世代金融講座』第27期
http://www.trinityinc.jp/updated/?p=8500​
 

やせ我慢の美学

気が付けば私もいい歳になり、かつて私を引き上げてくれた先輩たちのように、刺激的な機会を創り出して呼ぶ側になったなと感じています。ちょうど、私より上の世代の方と下の世代の方たちとの中間管理職のような立場になったような気がします。なかなか双方が会う機会もないでしょうから、オシャレで粋な紳士たちと場の創造をしていこうと考えています。
先日、世界一服にお金をかける男たちを紹介している番組を見ました。彼らはサプールと呼ばれていて、フランス語で「おしゃれで優雅な紳士協会」の略だそうです。実際その姿は格好いいですが、彼らの信念がまた素敵でした。エレガントに生きるというお手本として刺激を受けましたね。貧しくても洋服にお金をかける姿は共感されないでしょうが、まさにオシャレとはやせ我慢を地でいってます。月収が3万ないのに、300万くらい洋服にかけてるという有様ですからね。
その中で、サプールという生き方を次の世代に伝えることをしている方がいて、その言葉が響きました。

「愛情があるなら大人はいい習慣やいい行いを見せてあげるべきなんだ。

いい服はいい習慣を生みそれで人は成長できるんだ。」

この心意気には感動させられました。そして彼は弟子のために、自腹を切ってスーツをプレゼントしていました。こういうお金の使い方は素晴らしいし、次世代に残るやり方ですね。稼ぎはなくてもお金の活かし方を知っている粋な大人でまさに紳士です。今まで私は服装には無頓着できましたが、少しは彼らを見習っていこうと考えるほど痺れましたね。
これほどの熱狂を生み出すファッションの持つ力は、人の根源的な部分に訴えかけるものがあります。ブランドは誕生してまだ数十年。大量生産されたものが高級品になるなど、当時の人たちには予想もつかなかったことでしょう。いまや、リアルのものよりデジタルなものが価値を持ち始めています。リアルな物よりデジタルな価値こそがクールだというアートをチームラボの猪子氏などは制作しています。以前、西麻布birthにデジタル屏風を設置しようと彼と話していたのですが、予算的な面で断念しました。先日彼と会ったとき、
「あの時作っておけば、いまや十倍以上の価値になりましたよ」と言われ、自分の不甲斐なさに申し訳ない気持ちになりました。やれば儲かったからではなく、初期に応援できなかった自分はお金の使い方を間違えた例ですね。
いいと思ったものは何があろうと貫くことが大事です。サプールのように、エレガントに参りましょう。
世界一服にお金をかけるコンゴのファッション集団サプール「貧しくても最高にエレガント」な生き様とは – モデルプレス

 

自然体であること

私は自然体だと見られることが多いのですが、修行が足りません。自然体というのはともすれば怠け者とも言えます。老和尚などの自然体とどこが違うのか。そうした自然について考える機会がありました。
先日、石笛(いわぶえ)奏者の方のお話と演奏を聞く機会を頂いた時のことです。初体験の石笛はとても素晴らしい響きを感じて浄化される感じがしました。目を閉じて聞いていると、違う次元に飛べるようなイメージが沸き起こります。また、人の声の響きに共鳴し、共に声を出したくなる感覚も味わいました。人間の声にはまだまだ明かされていない秘密を感じます。地球の自転の音は人間には聞こえません。同じく他の天体も音を鳴らしています。音はつまり神に通じ、言葉は神との交信のために発展したのかもしれません。石笛は神様のための音を鳴らすものですから、魂が感じるのも当然なのですね。
石笛・横澤和也の世界

音の話は長くなりそうなので、この体験の中で自分なりに解釈し心に残ったものをお伝えできればと思います。あくまで私が勝手に感じたことで、横澤氏の想いとは違う可能性のほうが高いかと思います。もっともそんなものも天にお任せしているのがあの演奏だとは思いますが。
■適当と即興の違い
普段の積み重ねがあってその上で臨機応変にできるのは即興。何もないままに対応するのは適当。とだけ簡単に言えないのが面白いところです。自然の会話も、経験や知恵が裏付けされていれば、どんな会話でも場になじむものになるのでしょう。ただ合わせただけでは、心に残るものとはならないのです。積み重ねしてるから大丈夫というわけでもなく、真剣に一期一会と向き合う勇気と心持ちが、自然と何か見えない覚悟を匂わし、伝わるのだと思います。自由なんだけど、何か導かれるものを感じることができるのか?自分の意志ではなく、音の意志とか場の意志とか天の意志とか、いろんな表現があるけれど、つまりは人為を超えたものを感じるかが問われるのだと思います。
■作為と想い
石笛は自然のままで何も手を加えていない楽器。人間はあるがままを受け入れるより、理想に近づけたり、工夫したりして作為を加えてきました。その作為は人の想いに通じます。想いがあるから作為をして、想いを表現しようとします。作為が悪いわけではないですが、自然はコントロールできないという本質的なことを錯覚しているのが私たちです。科学が進み、コントロール出来ているように見えるけど、それは自然のほんの一部をなぞっているだけなのでしょう。
かといって作為を放棄するのではなく、作為も楽しむことで自然体に近づくといいます。楽しみながら、そして自分に正直になることで自然になっていきます。真剣に楽しんでいる姿は自然と伝わるし、自分と向き合えば向き合うほど、周囲への意識は消えて、ただ感謝が自然と湧き出る表現になっていくように感じます。相手のためでもなく、ただその瞬間に表現できる喜び。無我の境地の片りんを感じさせていただきました。
■一期一会
同じ音はなくて、再現できているようでも、湿度や時間や空気など同じ状態は再現できないのです。CDで聞いても、CDでは伝えきれない雰囲気や耳には聞こえないけど体で感じた音は再現できません。リアルな場で聞くことが一番感じられるわけですが、さっきの曲をまたやってといっても、それは再現できないのです。
これは私もよく味について感じていたことですが、食事も脳が同じだと思っているから、同じ味に感じるけど、実は毎回違う環境で食べているのだから、同じ料理でも完全に同じにはできないわけです。実際には、毎回驚きや感動があるはずが、脳が同じだと認識するから感動もなくなっていく。本来生きているだけでこうした感覚を古来の人々は味わっていたのではないでしょうか。二度とない体験をより楽しむために、欲という思いが生まれて、作為が生まれたのかもと夢想しました。原点に戻って、あるがままを感じる意識を持ちたいと感じた演奏でした。
横澤さんのインタビュー記事も面白いので是非どうぞ。
Vol.03 横澤和也さん│Quest Cafe [クエストカフェ] 自分という人生を旅する。魂の物語。

 

環境の価値

大半の人はキッカケを待っている。自らキッカケを作ろうと仕掛ける人は少ない。選挙が終わった。立候補した人たちの中で、どれだけの人間が本気で当選しようと時間と労力をかけて準備をしただろうか。また、投票する側も次の選挙には誰を選ぶべきかと意識していただろうか?

出る方も選ぶ方も、その場その場で、時間が来てその時の気持ちで選んでいる。立候補を誘われたとか、今回の選挙ではこの人が好印象だなとか、深い考えや信念があるわけではない。それが悪いといっているのでもない。
変化のキッカケを期待して待っている。宝くじが当たらないかなと待っている感じだ。変化が欲しいけど、自分の望みどおりの変化が欲しくて、人は旅行をする。気晴らしだ。自分が望む変化を誰もが希望する。

人は環境の影響を受ける。昔から、「朱に交われば赤くなる」とか、「孟母三遷の教え」といったコトワザがあるように、付き合う人や環境の大事さは語られてきた。また、「類は友を呼ぶ」というように、似たもの同士が集まる傾向もある。

親からの影響も強い。子は親を映す鏡。因縁は繰り返す。親の背を見て子供は育つだ。同じ檻の中にいたら、檻の外はわからない。何時の世も、親は子を自分の檻の中に入れておきたいと心配して無意識にしてしまう。
逆境という環境を逆手に取り、人間の可能性を引き出した例もある。
ロレンツォのオイル」という実話を元にした映画がある。子供が難病になり、親は銀行マンだったが、独学で医学を勉強し、子供のために薬を作った話だ。専門家でもないのに、専門家よりも結果を出してしまった。
どんな人でも、一万時間練習したら天才になれるという法則がある。
興味ある方は読んでみたらいい。「天才! 成功する人々の法則
どのくらいの時間を毎日かけたら、一万時間達成できるか?
 2年:10000 / (2 x 365) = 13.7 時間
 5年:10000 / (5 x 365) = 5.4 時間 
10年:10000 / (10 x 365) = 2.7 時間
継続して、時間をかけられる、そういう環境にいることが大事なのだ。やり続けられる環境。
どんな人と日常的にあうか?毎日会う人、職場の人、友人知人。そして家族も。
人は環境を変えることで変わる。意図的にどこまで出来るか?
どんな問題も、各人それぞれの問題と思いがちだ。私には特別な理由があると。経済的なことや、性格的なことを言い訳にしてしまう。人は問題を複雑にしがちだ。それぞれにあった対処が必要だと。正しいとも言えるし、間違っているとも言える。
大半の人は、問題を、人間の個人の問題だと思ってしまうが、実は環境の問題が大きい。誰でも環境さえ用意出来れば、自然とそうなる。環境がいかに大事か。仕組みがいかに大事か。
キッカケを待っているだけでは環境は作れない。
環境が先か?想いが先か?
キッカケを待つか?キッカケを作るか?
人生は面白い仕組みで満ちている。

待つのも愛

人々の忍耐力がなくなっている。すぐに結果を求めたり、短期的なことしか考えられないよう、時代の雰囲気により仕向けられている。企業は四半期決算を要求され、3ヶ月ごとに変化を求められる。失言したものなら、名誉挽回の機会を待つことなく、責任の追及が始まる。その結果、貴重な教訓を活かす熟成の時間がなくなり、表面的な対応と理解に終始してしまい、公共財としての知恵はたまらない。とにかく、答えはすぐにと焦らされる。

辛坊さんの事件は、「自己責任とは」という価値観について考える良い機会であった。それをただのお金の問題にしてしまうあたりが、現代の貧しさを象徴している。助け合うことの大切さも、冒険に出る勇気も、すぐに育つ価値観ではない。学ぶ機会をみすみすドブに捨てているようだ。
まずはじっくりと考えるが贅沢になっている。問題は放置しておくことで自然と解決してしまうこともある。が、その時間が待てずに、問題をすぐに解決しようとして焦って動いて、さらに事態を悪化させてしまうケースをよく見る。
人には時間が必要なときもある。焦って答えを求めても、表面的な答えしか出てこない。じっくり深めるのは大変なことだ。本当にそうか?と何度も、自分の中で試行錯誤して、熟成させる余裕はない。また、熟成させるのは大変だから、簡単な答えに逃げたくなる。
ぽんと出てきた答えに飛びつかず、じっくりと噛み砕くのは簡単ではない。現代では一日でも同じ問いに対して考えられないのではないだろうか?一日考えてみれば大抵のことは見えてくる。3日でもそれをやれば、それはたいしたものだ。なかなかそれは出来ない。答えのないことを求め続けることは苦痛だからだ。
私が沖縄で初めて出会ったシャーマン(巫女)は、私には意味不明なことばかりを話してきた。一体あれは何の意味があったのだろう?とよくわからないままに、心の中にずっと引っかかっていた。
数年後、あの時言われたことは、このことだったのか!と思い当たることがあった。自分の深層意識では感じていたのだろう。だから気になった。ふと何かの拍子でそのことを思い出す。ずっと数年間考え続けていた訳ではない。本当に大事なことは自分の中に残るものだ。そういうこともある。答えをすぐに出さないというのも、一つの知恵だ。
わからない、意味不明。はい、価値がないとするのは簡単だ。自分にはまだわからないが、何かあるのかもしれない?という可能性を認めることで、理解できないことへの受け入れる力がつく。理解できない人間をすぐに、馬鹿だとか、死ねだとか、短絡的に判断する人が増えている。
マスコミによる、操作された情報はヒントでしかない。本当にその場でどんなことがあったのかは当事者にしかわからない。発言も、一部を切り出してしまえば、本人の意図とはまるで違って見えてくる。自分が感じているのとは違う可能性があることを常に認めることが、違う存在の価値を見つけることに役立つ。
良き導き手は、答えを与えない。相手に考えさせることをヒントとして提示するのだ。考え続けたいと思わせるような問いが、良質なヒントだ。
IT世界にいた私は、スピード優先の世界にいた。そこから真逆の沖縄で、忍耐力を学んだ。性格からしてセッカチで結果をすぐ求めるタイプであったが、待つことを嫌でも学ばされた(笑)
ビルゲイツに並ぶ世界の金持ちである、バフェットに、amazon創業者のベゾスが聞いた会話を最近読んだ。要約すると、
「あなたの投資スタイルは簡単なのに、なぜみなは真似しないのか?」と。バフェットは、
「誰もが最短で金持ちになろうとし、ゆっくり金持ちになろうとはしないからだ」と答えた。
慌てる乞食はもらいが少ない。
急がば回れ。
そんなことわざがある。スピード時代だからこそ、じっくりと考えることが裏道で、結果的には早く着くのではないだろうか。すぐに判断しないのも、長い目で見るのも、愛の形なのだ。

節目の活用

今日はスーパームーンの話題が出ても、沖縄の慰霊の日が話題になることは少ないだろう。沖縄は未だに戦争を引きずっている。実は日本も引きずっていて、もはや戦争など遠い過去のように感じるかもしれないが、戦争の影響は色濃くあちこちに残っている。

それがたまにマグマのように吹き出してきて、竹島や尖閣として認識される。自衛隊という存在も、日米安保も、日本の体制は戦後のまま続いている。どこでケジメをつけるのか。時代は次のパラダイム(認識の枠組み)を用意しだしている。
次第に次の世代のあり方を模索している人が増えてきている。今までのやり方が機能しなくなってきているので、既存のやり方から変えようとするのではなく、全く違うアプローチをとる人たちは目立たない形で増加している。
大変化ほど早い。あっという間に変わる。そして、その変化のスピードは情報化社会が加速させている。情報が情報を呼び、情報にまみれて溺れるほどインプットされる社会だ。誰かの意図にのせられたまま消化していくと、気がつかないうちに奴隷化している。
知識は増えても、知恵は簡単には身に付かない。
知識と知恵の違いはなんだろうか?
慰霊の日という情報から、どんな意識が見えてくるのか?
日本も、個人も、多くの人の力で支えられて今がある。その時々で節目の出来事があり、その節目があるから、思い返したり、感謝の気持ちを思い出すキッカケにすることができる。今日のスーパームーンを見たくても、見られない無念の想いでなくなった方もいるかもしれない。
今を生きる人間として、リアルにできることを意識して大事にすることの価値を前回書いた。いつも自分への戒めとして、自分へ伝えるために書いている。そして、その過程を共有することで、共に菩薩道を歩く同志としての応援でもある。
人それぞれステージは違えど、悩みはつきない。悩み、苦しみ、葛藤を体験しながら、喜び、幸福を感じていく。今は体験できない人たちからのバトンを受け取っているのだ。既に私たちは多くのものを先人たちから受け取っている。
今はとても素晴らしい時代だ。こんなにも学ぶに適した時代はない。過去かつて存在した王様たちよりも素晴らしい生活体験が出来る上に、学ぼうと思えば、中世の比にならないくらい簡単に学べる。隠されていた情報が開かれて、その気にさえなればある一定のレベルまでは到達できる。
そこからが、いつの時代も難しいのだ。達人と呼ばれる境地は、いつの時代でも時間がかかる。こればかりはITが逆にアダとなる。論理の先に到達できるものではないからだ。
体を使って、リアルにあって、話をして、感じて、体験を通してしか得られないものこそ、他の誰にもかえられない自分の価値となる。もちろん、人はそのままでユニークで意味がある。そこに安住していてはもったいない。
美人が努力しないようなものだ。それも一つの生き方ではある。ただ、自分は一生懸命に生きるのが好きなだけだ。戦争は有無を言わさず一生懸命にさせられる。強制されるのは辛いものだ。強制されるからこそ学べることも確かにあるが、自分は遠慮したい。
かといって、一生懸命になりたくないわけではない。自ら求めて、信念を持って生きる。そうした仲間たちと一緒に学べる今に感謝している。
自分たちの死が無駄ではなかったと思ってもらえるよう、心の支えの一つとして今日の節目を過ごすのが私なりの知恵だ。
こうしてBlogを書くことが、受け取ってきたものを次の誰かへのバトンとなれば幸いだ。たくさんの想いのバトンを渡し続けていく。

意識して生きる

運命と宿命。命を運ぶと書く運命と、命を宿すと書く宿命。どんな選択をしようとも既に決まっているのか?それとも選択の余地はあるのか?どのみち、人生は生きると同時に死へと続く道であることは間違いない。生死は隣り合わせ。誕生と同時に、終わりがくることは宿命づけられている。

はじめから終わりの間、どのような人生という道を歩いていくのか。喜怒哀楽があり、悲喜こもごもに、様々な出来事から感情が刺激される。辛い感情は受け入れるのが辛いものだ。どうにかして逃げたいと思うのが人情だ。
辛い、苦しい。そんなことは経験しない方がいいという人もいる。ひねくれてしまうとか、他人に無理強いするからとか、確かにそのような側面もあるだろう。では逆に、喜びの経験ばかりしたいのが世間の望みだが、麻薬と同じで、喜びばかりでは喜びを感じづらくなっていく。
人生にはスパイスが必要だ。そのスパイスをより深く味わうのに、意識して生きることが活きてくる。いま、自分は何を感じているだろうか?
考えはすぐ言えても、感じていることを表現することに慣れていないから、自分が何を感じているかもわからなくなっている。
会いたい人に会えなかったとする。最初、寂しいとか切ないとかの感情がおこったとする。そういう感情は嫌だと思っていると、その感情を消すために思考は動き出す。しょうがないとか、今は時期ではない、相手がどうしようもない人間だとか。すると、段々感情がいつの間にやら怒りに変わったりする。
はたまた、寂しいけど、何か意味があるに違いないと自分に返していく思考もできる。人を責めずに自分を責め続けてしまう場合もある。どちらも良い悪いではない。
いずれにしても、感情は思考とともに揺れ動きつつ変わっていく。嫌な感情でも好きな感情でも、
・嫌な感情から逃げたいと考えるか、
・好きな感情をできるだけ長く続けたいと考えるか、
思考を始めて、感じることより考えが優先になっていく。
感情は、いましか感じられない。落ち着いて自分の内面との対話をすることで、感じることができる。
「いま、悲しみや切なさを感じているなぁ。会いたいなぁ」と。感じていると、連想が起きる。幸福な感情へと連想するか、不幸な感情へと連鎖するか、それは自分の意識次第。
鍵は自分にある。良いときも悪いときも、そこから逃げたり、より追い求めようとせずに、自分が感じていることを感じる。何でもないときでもできる。
手を動かしているのを感じる。ゆっくりと呼吸を感じる。ゆっくり歩いて、全身の動きを感じる。感じるようにすると、意識の動きを感じる。どんな体験も無駄がない。せわしない時代だからこそ、ゆっくりと自分と対話する。たまに気がついたときにするだけで、そのときの体験がより味わえる。それが食事中なら、より味わえる。
意識するとは集中することでもある。本当に真の喜びを味わいたいなら、悲しみや苦しみも逃げずに味わうことで、感情が引き立つ。喜怒哀楽を思い切り感じることで、魂に刻まれるものがある。
うまくいっているときこそ、感謝できるか?
うまくいってないときも、感謝できるか?
自分の思い通りのときは、自分の力を過信して自己満足が優先しがちだ。
自分の思い通りにいかないときは、相手や環境のせいにして、自分ではない他者を責めがちだ。
そこに良い悪いはない。どんな感情も感じられるのが幸せではないか?不感症だとしたら?ロボットになってしまう。好きとか嫌とかも、表面上のさざ波のようなものだ。深い部分ではつながっていると信じている。
想える相手がいることにそもそも感謝だ。心も、体という相棒がいるからこそ感じられる部分がある。心は感じることで育っていく。その心が感じたことを魂がもつ意識の力で頭を誘導するのだ。魂が心を使って感じようとすればするほど、頭にとっても学びが深くなる。
自分をもっと感じられたら、他人のことも感じられる。逆もまた真なり。他人の感情を感じたら、自分の感情も感じる。つながっているのだから、自分のためも相手のためもなくなってくる。
意識することで、その対象とつながりを感じられる。新しいゆいまーるが生まれてきている。見返りのない、相互扶助、お互い様の精神が、心と社会を豊かにする。意識して、つながりを感じて自然と広がっている。