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嫌なことに価値がある

人間関係のストレスで悩む人は多い。相手と自分、違うからこそ価値があるのだが、やっぱり自分は正しい、相手は間違っているとなりがちである。また、自分が間違っている、相手が正しいとだけなっても、自分のほんとうの人生を歩めない。
自分の時期や相手によって、自分の信念に従うときなのか、相手を受け入れるときなのかと自問自答して、悩み苦しみ、間違っているかもと恐れを抱きながら、勇気を持って進むしか無い。魂から納得して進む限り、どんな失敗も失敗でなくなる。それは学ぶべき課題となる。
 「いい人」というのは大抵揉め事が苦手だ。
 揉め事を好む人間は、揉めたら見返りがあることを知っている。
 自分の思い通りにしたい時には、相手を嫌な気分にさせるのは有効な手段だ。
 いい人やお金で問題を解決しようとする人は、妥協して解決を図ろうとする。しかし、それは相手の思うつぼである。毅然と対応しなければ、身も心もすり減ってしまう。
 輩が、この世は揉めたもん勝ちだと思ってしまうのも無理も無い。
 良い人間ほど、信念を持って戦わなくてはならないのだ。誰よりも争いを嫌う人間だからこそ、 争いを起こして利益を得ようとする人間には毅然と立ち向かわなければならない。 
 いい人にとっては、それは苦痛なことだ。自分さえ我慢すれば良いと考えてしまう。それが相手に付け入る隙を与え、増長させてしまうのだ。間違ってる人間に、あなたは正しいとお墨付きを与えているようなものだ。
「あいつはそういうやつだ。しょうがない」は逃げである。
 勿論、ただ喧嘩すれば良いと言っているのではない。向かい方も千通りある。一番大事なのは、方法論よりも、
「相手のためにも、自分の心とも戦って、問題に向かうぞ!」という自分の心のあり方なのだ。
 自分が嫌だなと思うことこそチャンスなのだ。今回は、揉め事を例にしたが、嫌なことは何でもヒントになる。お掃除が苦手とか、料理が苦手とか、書類作成が苦手といったことでもそうだ。
 自分の思い込みを超えて、新たな自分を創造するチャンスだ。
最初はどうしていいかわからないだろう。意識高く実践する内に体験することだが、それでもわからなければ、このブログからヒントをつかんでほしい。

イメージの力

災害は非日常を意識する。社会の変革期には天災も連動して起こりやすい。そうしたどうしようもない圧倒的な自然の力によって、人間の小さな概念(考え)は壊される。自分から概念を壊せる環境にない人間は、自然によって壊されるのだ。もはや、何が起きてもおかしくはない。富士山の噴火さえも不思議ではないと感じる。
概念が壊されたら、新たな概念、世界を生み出せばいい。311以降、古くて新しい「絆(きずな)」という言葉をよく耳にするようになった。私が以前から訴えてきたことだ。我々の仲間の絆は、試練を通して更に強くなった。心の財閥は着実に広がっている。

普段会わない人同士でも、お互いを想ってイメージできるなら、そこに絆はある。それこそ、会ったことない人同士でさえも、想いで繋がっているのが我々の世界だ。勿論、この文章を読んでくれている方とも絆は存在する。
相手を想ってイメージする。現代の人が忘れてしまった、祈りという行為。私は、この文章を読んでくれている人たちをイメージしている。顔が浮かぶ人もいれば、まだ見ぬ人へのイメージもある。コメントを書いてくれている人を私なりにイメージする。そのイメージで書き始めることもある。
シンクロが起きて、何かの気付きとなりますように。
少しでも、自分と戦う勇気が湧いてきますように。
怠けたい時、人が信じられないとき、辛い時、諦めたくなるとき、新たな世界からモノゴトが見ることができたら、その瞬間に世界は変る。なんであれ光を感じてもらえたら幸いだ。
歴史を学ぶと、同じような想いで世界を進化発展させようと努力してきた先人達を知る。
今日が宮沢賢治の命日だと、友人が「農民芸術概論綱要」を送ってくれた。以前この文章に触れたとき、賢治の世界観の大きさを感じさせる、この言葉がずっと私の心に残ってきた。それは、
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉だ。
絆によって、人は感じることが出来る。なんてこの世界は素晴らしいのだろうと。人類全体が幸福になることはすぐには実現できない。だからこそ、世代を通して、想いのバトンを渡していくのだ。賢治も勿論菩薩である。彼は法華経によって開花したのだ。
求めなければ開花もない。時代が後押ししている今だからこそ、真剣に人生を求める時期ではないだろうか?真剣に自分の人生をイメージして欲しい。

悩んだ時こそ原点想起!

原点は忘れやすい。自分が感動した想いや、大事にしていたことなどは、日常という生活の中で、いつの間にやら忘れ去られていく。日常は恐ろしいほどに心を慣れさせていくからだ。どんな生活を選んだとしても、慣れという檻は付いて回る。だんだんと当初の大きな気持は失われ、小さく細かいことにハマっていく。
繊細で感じやすい人間だけが、
「こんなはずではなかった」と日常とのギャップに苦しみもがくのだ。多くの人は不感症になって、やり過ごす。いちいちそれを感じるのは苦しいし辛いからだ。自分の正直の気持ちを感じて、それを追い求めるのは辛いことなのだ。そんなことより、日常の我慢のほうが楽でそれに慣れてしまう。
青春時代に感動した想い。時がたてば、青臭い思い出として、ただ懐かしむだけになってしまう。
愛を信じていたのは瞬間で、気持ちが盛り上がっている時だけとなるのが当たり前になっている。盛り上がっていない時こそ、愛が試されるのに。どんな時でも愛するということを貫くのは大変なことだ。
多くの人は、
「その時とは条件が違う」などといって自分を正当化して言い訳をする。それはむしろ自分の良心にたいして行われているが、本当の自分を説得することはできない。
逆境や試練の時こそ、原点に立ち返るのだ。
その時の想いを再体験することで、勇気が湧いてくる。自分が感動した気持ちは自分で取り戻せる。
「そんなこともあったなぁ。もう忘れたよ」というのは簡単だ。本当に感じたいと本気になればいくらでも感じることはできる。要は本気かどうかだけだ。
言い訳で自分を納得させても、魂は納得しない。
結局、自分で自分の首を絞めるだけだ。
本当に大事なことは何なのか?
細かい小さいことにハマって意識が小さくなってないか?
自分の原点は何なのか?
常に考えてもいい問いかけだ。

困った時、悩んだ時こそ、自分の原点に戻って考えると道が開ける。

自分が敢えて、この道を選んだことがわかれば、悲劇のヒロインになることからも抜け出せる。自分は悪くない。誰かが悪いでは進化どころか、退化してしまう。
なぜ悩むような状況になったのかを始めから辿っていけば、今の状況に進化の種があることに気がつける。どんな選択も自分が選んだことを忘れないことだ。受け身で全く選んでないという人も、敢えて選ばないことを選んだのだ。
 

菩薩は誤解からうまれる

さすが2011年。激動の夏だった。 
以前、「どんな菩薩も誤解からうまれる」と聞いた。菩薩道は誤解されてからが本物だということだ。
確かに、誤解をうまない生き方は無難である。無難な選択をしていれば、留置所に入ることもなかっただろう。 ちなみに、修業の場として、「刑務所」「病院」「寺」がある。どこの場所も不自由だからこそ、魂が磨かれるのだ。
 
刑事さんとも話したのだが、 
「こうしておけば逮捕されることもなかっただろうに」と言われたとき、 
「人を信じた末の結果なので後悔はないし、そうすることで人が救われる可能性もあった。たまたま今回はこうなっただけだ」と話した。 
一度信じたらトコトン信じて向かうのが、私の信念だ。途中であきらめたら終わりである。捕まったからといって、人を信じなくなってしまえば、 それこそ、その程度の信念だったのかということになる。
 
普通の考えでは、リスクを避けようとするのが当然である。しかし、私は岡本太郎のように、あえて危険な道に飛び込んだ。 
問題が起こったとき、自分と周囲、それぞれ試される。 
私の場合、今回のことが起きて、自分の中のいろんな執着に気が付かされた。
無理やり手放されたものもあるし、自ら手放したものもある。 
試練や迫害がなければ、信念は育たない。留置所という貴重な経験を得て、改めて自分の原点を再確認できた。
 
どんなに経済的に成功したとしても、そこに満足はない。私は普通のビジネスには関心がない。 自分の原点は、弱者救済である。高校生の時に読みふけった、本田勝一やタイの山岳民族での水道工事体験が忘れられない。 
これからも自分の菩薩道をすすんでいく。 
誤解されるのは、わかりづらいからである。わかりづらいから、一般の人はわかりやすい世間の枠に当てはめて、その人間をみる。だから誤解されるのだ。私はいつまでたっても、IT実業家でラベルされる。そんなものはとっくに捨てているのに。 
今の風潮や常識に合っていれば、誤解などされない。人と違うことを行えば、怪しい人と決めつけられる。 
何かコトが起こったとき、信じ続けるのは大変だ。疑うほうが簡単である。 
困難な時ほど、人間の本性は露骨にあらわれる。 
私の周囲でも、去って行った人間もいれば、逆に困難な時だからこそと応援してくれる人もいる。 事件がリトマス試験紙のようになり、信じ続けてくれる人々と、私を疑い離れていくものたちと分別することになった。 
敵と味方がはっきりした。本当の意味では、敵味方もないのだが、現実世界においては役割というものがある。 
自分の事件がきっかけで、あちこちに飛び火して、多くの方に迷惑をかけているのが本当に心苦しい。 
創造は破壊から始まると書いた。これからの創造に期待していてほしい。 

研究と実践の違い

 先日、プロ野球が開幕した。その開幕の数日前に、私は沖縄で楽天野球団のオーナーである島田さんを迎えていた。ご承知の通り、開幕の楽天の勝利は、東北の復興に捧げられた象徴として報道されていた。時代のまっただ中にいる球団である。そのオーナーがこの時期に沖縄入りする、という信号は興味深いものがある。
プロ野球は昔で言えばグラディエーター(剣闘士)だ。古代ローマの剣闘士に多くの市民が熱中した。スポーツは現代のグラディエーターで、魅力的な世界だ。オーナーであれば、多くの魅力的な人間に触れている。人を見る目が肥えているのだ。
今回、普通の観光ではわからない、地元の人でも知らない沖縄の裏側に触れ、目が肥えている彼でさえも喜んでくれた。そして嬉しい事に夕食を共にした際に、彼は私の仲間に対して、
「尾関の目が忘れられない。沖縄と言えば彼しか浮かばなかった」と言ってくれたと後から聞いた。
そう、人間は目が大事。目にすべてが現れるのだ。目、雰囲気、オーラだけで、その人間の事がわかってしまう。隠す事が出来ないのだ。
菩薩は、人間の生き様の強烈バージョンである。人が人生で何度かしか味えないものが凝縮しておこる。街を歩くだけでも、誰かに遭遇する、新たな気づきがある、シンクロ信号がバンバンやってくる。
菩薩修行というと、お寺にこもっての修行を想像するだろう。しかし、寺の中で修行したとしても、菩薩道の実践はできない。私は実際に菩薩の道を歩くことで、これまで魂の器を広げてきた。自らの概念を壊し、自らを創造し、実践を通して磨いてきた。菩薩の道を歩いて、実際に人を救うことをしてきた。
我々の仲間も、ただの遊びで沖縄に来ているのではない。それぞれの仕事や大切なものを捨ててでも、人を救うキッカケを作りたいと修行しているのだ。いわゆる修行とは違う、我々には実践の場がある。
セレブである島田さんのような人間と魂の話しができる場があるだろうか?
普通に生活してたら出会う事も無いだろう。彼の周囲には居ない人間達だからこそまた価値があるのだ。
事業家でも、アーティストでも、発明家でも、偉大な人物を研究していくと壁にぶつかる事がある。突き詰めて調べていくと、どうしてもわからない不可解なことが出てくる。そういった際に、霊的な見方、スピリチュアルな見方が注目をされる。見方を変えることにより、なるほどと納得できたり、解決できたりするのだ。
なぜ彼はこんな行動をしたのだろうか?
どうしてこんなことを言ったのだろうか?
そういった不思議な事も、視点を変えるだけで何の矛盾もなくなったりするのだ。普段まわりにいる人達だけでは得られない視点を我々は提供しているのだ。

311後の世界

いよいよ我々の時代がやってきた。放射能が来るかもしれないと怯えている中で、社会はどこへ向かっているだろうか?

2011年。私が如来に教えられた多くのことの中で、唯一具体的な数字として信号を貰っていたのが2011年だった。その証拠はいくつかあるが、それよりもこうした数字はただの偶然だろうか?カバラ数秘術などにみるように、数字に意味があると捉える人たちは、それを元に世界を理解する。ちなみに11は再生だ。で、9が終わり。だからNYでの911は終わりと再生と捉える。ポルシェの911だってそういう概念の影響を受けている。ちなみに11月9日に起きたベルリンの壁崩壊とNYの9月11日同時多発テロは鏡合わせの数字のようになっている。そして、ムバラク大統領退陣も2月11日。

こうした世界観をすごい信じて、日頃から本気でそればかり考えて話しているのがスピルバーグだ。そうした人間が映画などで大衆に影響を与えている。311は日本が終わる象徴とか経済が終わる象徴とか、そういうストーリーが影響力ある人間たちに伝播していく。

いま先見性のある人間たちは早々に沖縄に目を付けている。私が沖縄に関わっているからそういっているのではなく、実際に条件の良い住宅などはなくなっているのだ。放射能の影響も無く、アジアにも近く、特区が数多くあり、人口が増えており、アメリカ軍がいるし、ひょっとしたら独立しちゃうかもしれない沖縄という場所が投資先としても魅力的になってきている。

人気が沸騰してから投資するのは馬鹿だ。人気がないときに投資するからリターンがあるのだ。そして、いま沖縄に居ると全くの平和で、本土の出来事は他国のようだ。それは、これからは沖縄だと言う見込みが当たっていたからで、わからないままに本土にいたら平和では居られない。読みが当たっているからこそ、平和なのだが、逆に当たったからこそ、その有り難みも忘れてしまう。また、ノアの箱船ではないが、読みが当たっても素直に喜べない。

だから言ったじゃないか。これからは経済も変わるよ。攻めから守りになるよ。お金よりも絆が大事になるよ。信頼できる仲間、コミュニティの時代だよと。嘘だと思うなら過去の記事を読んでみたら良い。これからは沖縄だよ、ベトナムだよとずっと言っている。生死を前にした時、本当に救われるとはどういうことなのか?魂の救済こそが一番の関心ごとになるんだよと。

本当のところを言えば、日本経済なんて借金だらけで、今更原発の話しをしたって始まらないところにいる。内閣がどうしたとか、東京電力がどうだとか、部分の話しをしたって意味が無い。根幹がおかしくなっているんだから。政治なんて末期症状もいいところで、水面下では亀井静香を立てようかなんて話しもでてるくらい、もうやけくそなのだ。民主党の中では、少なくても仙石か、などとあり得ない話しが最低ラインなのだ。順当に言って仙石、まさかの亀井静香だ。どちらにしたって先が思いやられる上に、もっとすごいのが、石原慎太郎を持ってこようかと話しているのだ。都知事になったばかりの石原を総理大臣に据えようかという話しまであるのだ。もうこれくらいしないと、このどうしようもない閉塞感は抑えられないんじゃないかと感じているのだ。これが現実なのだ。とても政府には期待できない。

放射能にしたって、アメリカは80キロ避難といっているのに、日本は30キロで本当にいいの?チェルノブイリは20年以上経っても死の町だけど、本当にそうはならないの?政府は本当に情報をだしてくれるの?今や、素直に信じる人間は少ないだろう。わざとじゃないにしろ、色んな思惑が交差して、結果的に何で今更みたいな話しばかりだ。結局は原子力に対する利権が絡みすぎて、国内も世界(アメリカ、フランス)も利権の確保に走りまくっている。

余震というよりは、本震じゃないの?という規模の地震が続き、次はどこなのか?という不安がある。東北よりも危ないとされてきた、東海沖地震や関東地震が起こったらどうなるのか?東京が巨大地震に見舞われれば、それはもう日本の終わりではないか。そんな状況の先行きが不透明の中で、事業しようとか金儲けしようと長期的に考えられるだろうか?

人々はいま、真剣に人生を考える淵に立ちだしている。
いざとなったら誰が頼りになるだろうか?どこの場所がいいのだろうか?本当に救われる、または救う事ってなんだろうか?今まで私が書いてきたような事を話したいし、知りたい気分になってきたのだ。安心、安定、確実だった東電の価値が一瞬で吹き飛ぶような時代に、本当に価値ある投資ってなんだろうか?誰を信じたらいいのだろうか?嫌でも考えざるを得ない状況に追い込まれてきたのだ。

あくせく働いてきて積み上げて来たものが一瞬にして価値がなくなる。絶対だと思ったものが、土台が崩れた途端に崩壊するのをみた。今の経済は極めて脆い幻想の上に成り立っている。それを見越して活動してきたのだ。我々は、実際に本当の意味で人を救って来たし、その仲間と共に社会変革の雛形を作っている。社会がどうなろうとも航海できる船だ。いざというときに、受け入れられるように、もっともっと器を広げる挑戦を今もやっている。この文を読んで何かを感じたのであれば、ドアを叩いて欲しい。我々はいつでも歓迎する。

魂の修行方法

魂の修行と一言で言うが、それはどうしたら良いのかと聞かれた。
分かりやすくするために、具体例をあげよう。先日こんな話があった。
ある社長が部下に対して仕事上で不満があった。まぁどこの会社でも不満がない上司はいないだろう。そして、大抵上司のほうが実績経験があるので、上司のほうが結果が出る見方をできることが多い。指摘が誰の目から見ても正しければ、なおの事怒るか諭すか教えるだろう。
当たり前の話だ。言わなければ伝わらないし、絶対に外してはならないこともある。しかし、大抵の問題は上司が頑張ればフォローできるようなことだろう。フォローするのは面倒だ。思い切り失敗させて、本人に経験を積ませるよりは、事前にあれこれ伝えて上手くいかせて結果をださせたほうが上司のためにもなる。部下が成長するなんて悠長なことをいっていられないのが大多数だ。自分で気がつくまで待っていることが出来る上司はそうはいない。
今、相手に言うべきか言わざるべきか、真剣に相手を見て判断している人は少ない。上司であれば、言いたいことを我慢する忍耐も修行になる。そして、部下を背負っている覚悟があるならば、部下を守り共にプレッシャーと戦うことが人に向かう修行になる。社長なら株主に。部長なら役員に。
下に向かうより、上に向かうのが修行だ。下に向かうのはたやすい。部下に文句をいう方が、上司に文句をいうより簡単だ。でも、楽をすれば学びはない。部下をかばって上司に向かうから、大変だし学びがある。
弱い相手より、強い相手に向かうことだ。弱い相手に対しては、弱点などを指摘をしやすいものだ。強者に対しては、指摘するのはかなり難しいだろう。「実績出してからな」とか、「まだ経験がないからな」とか言われてしまえば、その通りだけに言いづらい。
だからこそ、頑張らなければならないから好都合なのだ。自分から向かっていく人間しか何かを掴むことはない。
苦手な相手こそ向かうべき相手だ。嫌だなと避けたくなる相手に向かうときは、胃が痛くなったり、憂鬱になったりする。しかし、一度覚悟を決めて、向かってしまえば終わったあとにはスッキリする。達成感や満足感がある。
得意な相手、むしろ向かいたい相手に向かっても、学びは少ない。
胃が痛くなるのはいい信号だ。それに向かえということだ。しかしただ向かえばいいというわけではない。それは無謀なだけだ。無駄死してしまっては元も子もない。自分が苦手だと思った相手を得意としている仲間に作戦を考えてもらえばいい。
自分以外の力を借りるチャンスでもあるのだ。キッカケがなければ相談することもできない。問題があるから相談ができるのだ。それを活かして深まっていけばいい。
嫌な相手ほど、愛をかけてあげたくないものだ。こちらも嫌な対応をしてしまいがちになる。無理に愛をかける必要はない。嫌な相手でも普通に接するだけでも向かっていることになる。気持ちが逃げていなければ、それは向かっているのと同じだ。
逃げたいこと、嫌なことから、逃げずに立ち止まってみる。消極的でもいい。まずは立ち止まり見つめることからしたらいい。忍耐も修行の一つである。
何かのヒントになれば幸いだ。

背負うということ

自分ひとりだけは楽だ。
一人でご飯を食べるなら、好きなモノを食べられる。
一人でいれば、煩わしい会話に付き合うこともせずにすむ。
相手の言動で、イライラさせられることも、悩むことも、一人でいればない。
でも寂しい。喜怒哀楽がなくなっていく。テレビやネットなどで喜怒哀楽を得ても、表層的で心に残りづらい。関係が薄いと楽だ。楽に逃げやすい時代である。インターネットはとても便利に楽を加速してくれる。
だからこそ、楽ではないモノを魂は求めている。
目の前の人間の人生を背負ってみる。
何があっても一緒に向かう。一緒に立つ。一緒に泣き笑い、怒る。
どんなことがあっても見捨てない。だからこそ厳しくも向かう。ただの仲良しごっこではない、本物の関係。そんな関係に憧れて、大衆はワンピースなどを読む。
背負い背負われる。両者は同じだ。委ねてくれなければ背負えない。背負っているつもりが、気がついたら実は背負われていたりもする。助けて助けられる。救うものこそが救われるのだ。一心同体になってしまえば、もうそこに自分と他人という壁はない。
今日一人の人間が、背負う覚悟をした現場に立ち会った。そんな現場に立ち会えるのはとても幸せなことだ。映画のようだが現実だ。相手が背負われたいのかどうかは関係ない。自分が背負う覚悟をするかどうかが問題だ。相手を思うとおりに動かしたいから背負おうとするのではなく、相手を信じ愛するがゆえに背負うのがホンモノだ。間違っても、相手がこれをしてくれるから背負うといった取引の気持ちでは断じて背負えない。何があっても向かい続けると決心する。どんなことがあっても信じ続けると誓う。
決心も誓いも楽ではない。だが、決心や誓いをした気持ちは揺らぎやすい。多くの人間が、永遠の愛を誓った結果がどうなっているだろうか?問題が起きた時ほど、その決心や誓いが試されるのだ。問題に負けてしまう決心や誓いのほうが多い。
困難なときほど、
不安なときほど、
信じられないときほど、
相手を背負う覚悟でいられるかどうか、相手を信じ委ねられるかどうか、なのだ。
背負えば背負うほど、人は力を得る。人や組織を背負っているとき、困難に立ち向かうエネルギーを与えられる。この人間のために頑張ろう!このチームのために頑張ろう!この地域のために頑張ろう!この国のために頑張ろう!この地球のために頑張ろう!この宇宙のために頑張ろう!となる。
究極まで行けば、地球、宇宙を背負うのだ。

忍耐の効用

先日、ある政府関係者の配偶者の方にお会いした。以前共通の知人より紹介されて軽く話しただけであったが、久しぶりに連絡をいただき会うことになった。

当初はNPOのことでご相談という話であったが、感じるところがあり、因縁の話をしたところ、「実は因縁の悩みが私にもありまして」と告白された。

家族の悩みというものは、人には相談しにくいし、また解決方法があまりないゆえ、単なる愚痴になりやすい。一般人でもそうだが、著名人であれば余計に、ゴシップを恐れて隠している。

当人たちは誰にも話せないので、思い違いをしてその状況を捉えていることが多く、私が違った視点で話をするだけで気持ちが楽になったりする。

相手がどうしてそんなことを言うのか意味がわからない。不快なことばかりする、または喧嘩をする。仕事で調子がいい時に限って、身内が足を引っ張る。などなど。

仕事の悩みより、そういう因縁関係の悩みは特にテンションが下がるものだ。

辛いこと、嫌なことからは逃げたくなる。

因縁以外でも、人から攻撃されたり、理解できない言動や行動を受けて苦しんだりすると、その相手を否定することに一生懸命になりやすい。

今回も言葉を選んではいたが、相手の考えや主張が理解できないのでどうしたらよいかわからないということであった。

相手のアラさがしをすればするほど、自分の考えを正当化できる。そして益々自分は正しくなり、相手や問題が悪くなる。

その結果同じことを繰り返す。

その繰り返しから逃れるためには、まず一度受け入れることが重要だ。なぜ自分にこのようなことが起きたのか?内なる反省をしてみる。

自分のどのような性質が、問題を呼び込み、引き起こしたのかを考えてみる。

そこで気づきが得られたら儲けもの。折角やってきた問題なのだから何を得したほうがよいのではないだろうか?辛いだけだと損である。

辛いことを魂の糧にしていくことが本当の錬金術である。

考えるのも嫌だという場合は、まずはすぐに反応せずに耐えてみることをお勧めする。耐えているうちに冷静になれる。そうしたら内省してみる。

因縁の関係であれば、脊髄反射的に反応をしやすい。だからこそ、忍耐して受けてみることに価値がある。

私自身、すぐに反応したい性質であった。IT業界はスピード命であったから尚更だ。今ではどんな問題も一呼吸おいて捉えることにしている。じっくりと向かうことで今まで見えなかったことが見えてきた。

相手(問題)に振り回されて、相手(問題)のペースになってはいけない。

抵抗が大きければ大きいほど、飛躍する。高く飛ぶためにはその抵抗に耐える忍耐力が必須なのである。溜めるからこそ飛べるのだ。

本質の問いとは?

人間は一人では生きていない。都会にいて周りを見渡せば、目に見えるものすべて、誰かが作ったものだ。道路、電柱、家、車、等など。

いま目の前にあるご飯だって、作ってくれた人は勿論のこと、農家の方、輸送業者の方、販売店の方、商品を並べる方、レジを打ち会計する方など、挙げていけばたくさんの人間が関わっていることがわかる。
呼吸できるのも、酸素を植物などが光合成してくれているからだ。そもそも、地球や太陽がなければ、我々は一瞬たりとも存在できない。惑星が存在し、その上で生命が命を繋いできたからこそ、いま我々は生きている。
その原点への感謝を忘れて、つまらないことに一喜一憂して人生を送っているのが大衆だ。本当に大事なことは何だろうか?この人生で何をしたら満足するのだろうか?いま目の前の問題は何を示唆してくれているのだろうか?
本質への問いは忘れやすい。また本質の問いを自分に問いかけてくれる人もそうはいない。突然事故に会うとか、病気を宣告されたりしない限り、真剣に自分に問いかける人は少ない。
それでよいのだろうか?
目先のことに振り回されていても、充実して毎日を送ることはできる。ちょっとした達成感と満足感に浸れる。ではそれで何が残ったのかを検証したことがあるだろうか?
自分の何がわかって、何が進化したのか?またはしなかったのか。次は何をチャレンジしてみるか?
時には検証することも大事だ。独りよがりの検証は意味がないが、自分がわからなければ、同じことを繰り返す。その為に仲間はいる。自分を見つめてくれる仲間が欲しければ、まずは西麻布Birthか、沖縄のBirth lilacに是非きてほしい。
真剣に向き合ってくれる人間がそこには集まっている。自分と向き合うのは大変だ。心のコストもかかる。しかし、一番投資効果が高い。幸せになりたければ、自分と向き合うのが近道である。