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名古屋よりのご来客

先日、稲穂に友人が遊びに来てくれました。お酒に対して熱い想いを抱いて、純米酒専門店や整骨院など幅広く楽しんで経営している、歳は違うけど同じ誕生日の山本将守氏です。

インタビュー記事はこちら

お店のホームページはこちら
https://junmaishu.net/

彼とは久しぶりの再会でしたし、どんどん進化している彼と会うのが楽しみでした。沖縄といえばと思い出して連絡もくれるのも嬉しい限りです。以前の私は何としても沖縄の実情を知ってもらいという熱意がありすぎるあまりに、窮屈な思いを来客にさせていたなと反省です。やはり無理はいけませんね。

今回は、創業以来初めての休みで沖縄に来られたということで、めいいっぱい楽しんでもらえたらいいなと。まずは古宇利島で待ち合わせ。この島は長い無料の橋が出来てからどんどんと栄えてます。人類発祥の島という壮大な言い伝えがあります(笑)他にも子宝に恵まれるウタキ(聖地)などがあります。

島には、ワンスイートリゾートホテル古宇利島という素晴らしいホテルを経営している貝塚さんが、これまた素晴らしい、LOTAレストランを二年ほど前に作りました。オープン以来お邪魔してなかったので行ってきました。ホテルもレストランもお勧めです。

Lota

橋がきれいに見えます。私と彼は同じ野菜ランチ。歳をとると健康を気にしだしますね。でも、このあとでこの写真に写っている外人さんたちが、美味しそうなフレンチトーストを食べていました。次はそちらを食べます!

美味しい食事と雰囲気を野郎たちで楽しんだあとは、古宇利島のウタキを案内しました。開発が進んで前とはすっかり道の雰囲気などは変わりましたが、ウタキの近くは昔のままにひっそりとしています。看板もないので、知らない人は絶対にいけません。私はウタキ巡りばかりしていたので、マニアックなウタキの案内なら得意です。折角ですからそういう文化に触れて、いわゆるパワースポットで感じてもらえたらと思います。写真は神聖な場所なので未撮影です。

さてその後は、占領時代からアメリカ軍の保養所としてあるオクマが、一般に解放されている日だったので遊びに行きました。北部ドライブです。

こんな感じで縁日みたいになってます。他にもミニ遊園地やゴーカートなどがあり、アメリカンな雰囲気を楽しめるのは基地が多い沖縄ならではです。もっといい場所で取ればよかったけど記念撮影。

ビーチもきれいで雰囲気は海外のような感じです。
そしてそのあとは、いよいよ稲穂産業です。

オクマから稲穂に向かう途中に大宜見を通ります。そこで思い出しましたが、牡蠣の養殖を世界で初めて成功した日本人は大宜見出身の沖縄の方です。彼がいたお陰で、私たちは安い牡蠣を食べることができます。感謝です。

http://oogimiclub.ti-da.net/e3467283.html

 

 

稲穂に到着後、中を案内したあとは、いよいよクライマックスイベントです。稲穂の中も色々と楽しいところ満載です。これまた今度紹介します。

前日に、悪戦苦闘の末に何か月かかけて取り除いた、棘だらけの植物をサークルの中に準備してました。それを一緒に燃やしました。まだ全部乾いてなかったので、これまた汗だくになりながら燃やすことに集中して楽しみました。今では焚火もなかなか都会ではできませんからね。

火を見つめているだけで夢中になります。

夜になり暗くなるまで、炎の宴は続きました。無心になり、感じるものがありますので沖縄に来た際は稲穂にも遊びにいらしてくださいませ。

様々な趣向を凝らしたアトラクションを用意してお待ちしております!

山本君もまた遊びに来てくれるそうです。心意気が男前な彼に会って、エネルギーをもらえました。真剣に生きている男は格好いいです。

かくかくしかじか

目まぐるしい変化の日々があり、あっという間に月日が経ってしまいました。 心境の変化もあり、潜水艦のように潜っておりました。 いよいよ浮上し始めております。相変わらずこの先がどうなるか謎ばかりですが、波瀾万丈は楽しいものです。 本日も予定外のことがあり、急に更新しようと思い立ちました。思い通りにならない方が学ぶことが多いように思います。 自分の中の計画は小さいものです。思い通りにならないとストレスを溜めがちになります。私ももちろんそうですが、また何か新しい出会いや、学びがあるのかなあと思うと楽しくなってきます。 新しいサイトも立ち上げました。今後ともよろしくお願いします。 稲穂産業

菩薩宣言(ぼさつせんげん)

「人が変わるのに時間は必要ないのだ。たった一瞬で変わってしまう。(中略)
石炭の時代から石油の時代へと変わったように、時代は確実に変わっていく。

人は、安心・安定を求めて行動をし、そこに成長という軸をもって三角形を形どり動いている。成長するから安定し、成長するから安心する。ところが、それがいつしか、やりすぎて、必要以上の成長、安定を求めだしたからおかしくなった。

必要以上のお金を欲しがるのは餓鬼道。
求められているのは、物質的な成長から精神的な成長に変わった。」

2009年10月20日のこのエントリーから、Blogのタイトルを「日々、菩薩の道」と変更しました。その時は菩薩の意味を説明しませんでしたが、当時「長崎出身の主婦」の方が調べてコメントしてくれました。

「菩薩の意味が分からなかったので、調べました。自ら修行し、衆生を教化する人。仏陀に次ぐ位」

一緒に学び、共に歩くのが菩薩で、何かを求めて何とかしたいと願う人はみんな菩薩予備軍です。社会に表立って影響を与えてきた人間は菩薩たちなのです。宗教家に限らず、経済人でも政治家でもスポーツ選手にだって菩薩はいます。善人にかぎらず、悪人であっても菩薩なのです。そこに良いも悪いはありません。長い目で見れば、どんな悪党にだって役割があるからです。ちなみに、影から影響しているのが如来的といえます。

人は、みなそれぞれの考え(思い込み)で生きています。しかし、決めつけては、見えるものも見えなくなってしまいます。自分の近くにはないと思い込んで、頭の上にメガネをかけたまま、メガネを探すことになるかもしれません。菩薩への第一歩は、

「これで本当にいいのか?」と疑問を持つことから始まります。

「本当にこのままの仕事のやり方でよいのでしょうか?」

「当たり前と思って、本当に大事なことを見逃してはいないでしょうか?」

「人生を本当に生きているのでしょうか?」

「必要以上にお金、時間、自由、平等、その他を求めすぎてはいないでしょうか?」

「本当に必要なものとはなんでしょうか?」

 改めて、菩薩の道とはどんな生き方なのかを考えて行きます。 共に学び、共に歩いていけたら幸いです。

人に全面的な変容をもたらすには

「人に全面的な変容をもたらすには、ハンマーを使わなければならない。人を形作っている多くの部分を削り落とす必要があるからだ。人はひどい状態にあり、現状では、すべてがおかしなことになっている。それを直さなければならない。だが、人は自分の生き方にたいへん固執しているので、それを変えようとする人物、表面的に変えるのではなく核心において変えようとする人物は敬遠される。怖がられる。少数の勇気ある者だけが、グルジエフのような人物に近づいていく。たいへんな勇気が必要だ。だが、この勇気があってはじめて、人は生まれ変わることができる」

引用元: バグワン・シュリ・ラジニーシ – Wikipedia.

日常を生きていると気が付かないことが、非日常になると気が付ける。例えば、自動車事故にあう、余命を宣告される、親しい人の死等など。ショックなことがあることで目が開かれる。グルジェフは、人は目を開けたまま寝ているようなものだといった。社会の常識という催眠にかかっている。社会がそのままで問題ないのなら、目覚める必要もない。

誰もがこのままではいけないと思いつつ、その社会を支えているのは自分で、自分を見つめることが近道だとは誰も思わない。自分以外の誰かのせいだと感じている。政治家や責任ある立場の人間たちのせいで、自分たちは何も悪くないと。

多くの人は、今に満足はしていないけど、そこまで変化を求めていないのが現実だろう。楽に自然に勝手に良くなっていけばいいと思っている。だからこそ、ショックが必要になるのだが。。

誰もが夏休みの宿題を最後の日までやりたがらない。宿題の存在にすら気が付かないようにしているから、死ぬ間際になって考え出す。

「こんな人生のはずではなかった」と。

 

 

人を本当に助けようとするならば

「人をほんとうに助けようとするならば、誤解されるのは避けられない。ほんとうに助けようとするつもりがないなら、誤解されることもない。崇拝や賞賛の的になれる。ただ話をし、哲学を説くだけなら、人は怖がらない。彼らの人生に立ち入ろうとしないなら。

複雑な理論や思想体系を人は学びたがる。それなら申し分のない体験になる。それはエゴを強化してくれる。それはエゴを養ってくれる。だれもが知識を増やしたがっている。それは微妙にエゴを肥やす。

だが、ほんとうにだれかを助けるつもりなら、厄介なことになる。いまと違った生き方へと導かなければならない。それは人のエゴの縄張りを侵すことになる。幾世紀もの歴史を背負った習慣や構造を相手にすることになる。これは反発を招く。人々は敵意を向けてくる。人々は怖がる。助けようとする人物を敵と見なし、ありとあらゆる方法で悪評をたて、誤解を広めようとする。」

引用元: バグワン・シュリ・ラジニーシ – Wikipedia.

人と深く関わることでお互いに学ぶことができる。表面的な浅い関係は楽だが、過ぎてしまえば記憶に残らない。深く関わると因縁関係になる。因縁なくして助けることはできない。

上っ面のいい関係で満足するのではなく、怖くても一歩踏み込む勇気が大切だ。衝突や誤解を恐れていては、本当の人生を生きることは出来ない。

「良い人良い人、どうでもいい人」というセリフが自分は好きだ。単なるお人好しではその人にとってどうでもいい人にしかならない。好きも嫌いも同じだ。愛の反対が無関心というように、関わってこそ道が見えてくる。

人を変えようとするなという。その通りだが、だからといって無関心でいていいと言うことではない。変えることを目的とするのではなく、本当のあなたを知ろうとするから触れようとする。その結果、お互いが変わるだけだ。

どんな人間も、本質は光だ。関わることを恐れるがゆえに、格言を言い訳に使うのはやめよう。勇気を持って飛び込むしかない!

 

神話の始り

 壬辰(じんしん)の年が始まった。じんしんという響きを聞くと、壬申の乱を思い出す。干支は違うけど、音は一緒。兄弟争いで、弟が勝った乱。兄弟喧嘩の題材は、神話に数多く登場する。親子・夫婦喧嘩と並んで、昔から人々の切実な問題だった。争いをどうおさめ、解決するか、これからは新たな神話を生み出す時期だ。兄弟争いも神話とは違う結果が求められる。

我々は、因縁の問題に数多く関わり、経験を積んできている。それが口コミで広がり、相談が増えている。因縁を通して、人は進化する。進化するための道筋も、神話の英雄物語が参考になる。このあたりは、ジョゼフ=キャンベルの「千の顔を持つ英雄」が詳しい。簡単にいえば、
1.セパレーション(旅立ち)
2.イニシエーション(通過儀礼)
3.リターン(帰還)
である。
ひな形を学び、現実に活かす。神話に限らず、歴史や由来を知ることで、過去の財産を有効活用できる。人類が残してきた無形資産を受け継ぎ、将来の糧となる無形資産を築いて残していくことが、今の時代に生きる人間の大切な仕事だ。エヴァの主題歌で、
「少年よ、神話となれ」と歌われていることの真意だ。
自分の中にある、意識と無意識の対立と融和。(自分を知る)
自分と他者との間(関係性)に生じる危機と機会。(自分と世界を繋ぐもの)
自分と社会との間にある溝の克服、境界線の設定。(世界を知る)
いま目の前にあるテーマを、過去の神話をヒントにしつつも、新たな神話を紡ぎだす。漫画や小説では、真の神話は生まれない。キッカケとはなるが、人が真に体験した感動にかなうものはない。事実は小説よりも奇なり。こうした物語こそが、心に残るし、深層意識に刻まれる。深層意識から、テーマを拾うことは漫画などでもできるが、深層意識に刻むことは体験しかない。
昨年11月の誕生日後から、妙見菩薩の信号を得ていた。妙見信仰はとても幅広く、簡単には書けないが、北極星信仰と通じている。妙とは、きわめて優れている意味がある。妙見とは、きわめてよく見える、先が見通せる、善悪の区別をつける、などの意味となる。
妙見菩薩は、別名、妙見尊星王(みょうけんそんしようおう)、北辰(ほくしん)妙見菩薩とも呼ばれる。龍馬が学んだ剣術の流派が、北辰一刀流で、教えていた千葉一族は代々妙見信仰を守ってきた一族である。千葉一族が龍馬をバックアップしていた。また龍馬の先見性と妙見は繋がるところがある。
千葉一族は、平氏の一族だったが、源頼朝を応援した。なぜか?単純に源平の戦いとは言えないのだ。今年は、平清盛が大河ドラマの題材に選ばれている。武家として初めて太政大臣になった清盛だが、それよりも前に、新皇を名乗った平将門に自分は注目している。将門は妙見菩薩により守られたと厚く妙見菩薩を信仰していた。
将門はたった数年だけの活躍にすぎない。しかし、今も密かに影響を及ぼしている。誰しも、皇居前にある将門の首塚の話は知っているに違いない。たった数年だけ表舞台にたった人間が、なぜいまも神田明神に祀られているのか?
そして、源頼朝がつくった鶴岡八幡宮と、彼を尊敬していた徳川家康が作った、日光東照宮の関係。妙見信仰が結んでいく霊的結界と世界観。日本の神話は古事記、日本書紀だけではない。時代を創ってきた人々の背景にある、信念や信仰こそが、日本の歴史を創ってきたのだ。彼らの意識を理解したとき、日本人である自分をより意識して、日本人ならではの創意工夫が生まれるのだ。妙見信者である葛飾北斎の絵が、欧米の絵画に影響を与えたように、日本的方法が新たな世界を作り出し、世界に伝えられることがあるのだ。
こうしたことを知らなくても、無意識に従って生きていれば、時代の流れを掴むことはできる。むしろ、知らないほうが概念に囚われずに、自由に創造できるとも言える。知ってもいいし、知らなくてもいい。いずれにせよ、求めるものには信号があるし、ご縁がある。
自分はただこうしたことが好きで調べているだけだ。そこに良い悪いはない。見えない信念と信仰こそが、世界を産み出す母なる大地と感じている。だからこそ、過去の菩薩たちが母体とした信仰や世界観を知りたいと思う。意識しなければわからないが、堂々とそうした秘密は開示されている。
何も知らないで出かけた先で、シンクロと信号があり、隠された一面を知ることが多い。そうした出来事がその人の物語となるのだ。自分しか知らない物語だとしても、それは世界を陰から見守っている無意識と繋がっている。
一人ひとりが、どう生きるか?世界を良くしたければ、それしかない。一人ひとりが神話になれ!どの物語が生き残るか?それも楽しい付録だ。生き残ることを意識したら、それは残らないだろう。人生を貪欲に、真剣に生きる人間の物語は当人も周囲も楽しいものだ。
世界は今年、更なる波乱で盛り上げてくれるだろう。舞台は整っている。激動の時代だからこそ、恐れず飛び込むしかない。守ればやられる時代だ。波乱万丈だからこそ、人生は楽しいのだ。
自身の原点への想いを忘れず、感謝と共に歩く人間には、必ず世界は応えてくれる。自分と世界を信じて、神話を創造しよう!

人生は芸術だ

お金持ちになると、アートに興味をもつようになる人が多い。投資目的の人もいれば、純粋に美や感動を求めて所有しようとする人もいる。どちらにせよ、過去から現在、未来へと美術品を橋渡ししていく人が、いつの世も必要だ。

美術品を収集していると、次第にそれに飽きたらず、自分で作ってみたくなるという。自分で作ってみて初めて、更に美術品の価値がわかってくる。自分の想いが入った作品は、世間から評価されなくても価値がある。いや、評価されるために作る作品は、本当の芸術ではないのだ。
現代では、すぐに
「それはおいくらですか?」と金銭への価値に変換しようとする。値段を聞いて価値を感じるのもいいが、そんなものはお金持ちや大衆に任せて、自分にとって価値あるモノゴトを極めたい。
「個性的なものだけが普遍性を持つんだ」と岡本太郎が語っているように。
かつて、「美術・科学・宗教」はひとつの様式として統合されていた。神殿文化と呼ばれていた時代だ。時代が経つに連れ、それぞれ分離していった。外面の変化は、内面の変化があるから起こる。人の心が、「思考・感情・意志」と分離していき、今では思考が親分となり、感情と意志を抑え込んでいる人が大半だ。
内面がそうなので、外面は科学(思考)中心の世界となっているのが現代だ。もっと細かく、もっと理由を、もっと目的を、と細分化と対策が進む、色気のない世界になっている。
合理的に幸せになれるだろうか?
普通に考えたらおかしい事を、よく考えもせずに実行しているのが現代人だ。
クーピー活動のことに触れると、
「それってどんな意味があるの?」「何の得があるの?」「ふーん偉いね」とよく言われる。意味が無いといけないのだろうか?得がないとやらないのだろうか?偉いってなんだろうか?
最初は、縁があったから始めた。続けている内に、自分の中で価値が生まれてきた。私にとってのクーピーは、概念という壁を壊すキッカケであったり、人間の価値とは何かを深めるキッカケになったり、今では世界の新しい文化にとって芸術が持つ大事なハタラキを感じる原点にもなった。芸術的感性こそが、宗教と科学を結びつけるのではないか?
想像力、ビジョン、夢の世界が持つ力。今こそ、そうしたハタラキが必要なのだ。感性をいかに豊かに深めていくかが問われている。モノへの欲求は限界があるが、モノゴトは限りない。
人生という芸術を共に創造しようではないか。
このBlogを読んでくれているだけで、既に縁がある。その縁を信じて、まずはCoupiiに飛び込んできて欲しい。そして、自分なりの価値を感じて人生に活かして欲しい。最初から分かる人はいない。やっていく内にわかるものだ。まずは一歩ということで、今月イベントがあるのでそのお知らせを転載する。
■ビッグアートイベント in 0101 シブヤ大学共同
時間:2011.10.29(土)13:00 受付開始
場所:渋谷丸井前
E-mail:masanori18@gmail.com

岡本太郎とクーピー

以前『沖縄文化論』を書いたように、過去岡本太郎は沖縄にかなりハマっていた事が容易に理解できる。

障がい者はアーティストだ!と、太郎も語っていた。
そしてさらに、「人間だれしも障がい者だ!」とも言っていた。

岡本太郎の存在感は、今の日本社会で太郎の死後益々増してきている。これからの時代、太郎の存在はあらゆる意味で、もっともっと大きなものとなるだろう。

岡本太郎は、著名な両親の元に産まれ、ある意味、かなり恵まれた環境で育った。外国にも留学し、帰国後も周囲の期待は高かったはずだ。そして、その時代の日本でのイメージはエリートで大人しく、周囲の受けもよかったはずだ。つまり太郎には、全てが備わっていた。お金も教育も肩書などもあらゆる意味で‥。

しかし彼は、それらを全部捨てた。
あえて全部捨てたのである。
太郎は破壊しなければ進化はない事を知っていた。
恵まれた環境のメリットが致命的デメリットになると気付いていたからだった。
既成概念に挑戦し、あえて社会の体制に真っ正面から逆らった。
異端者、変人、嫌われ者を自らアピールした。

フランスで巨匠ピカソに影響され、その時、魂を入魂されたのだ。
そして、人生の意味、道を見つける。
生まれ変わったのだ!
DNA、概念を飛び越え完全に‥。

自分を高く評価する人からあえて離れ、認めない人にどんどん向かい、徹底的に社会と戦い続けた。そして、なにより自分と闘い続けた。ここで、自然に最大の敵は常に自分自身となっていった。アートは辛い作業だ。帰国後、己との熾烈な戦いを既に確信していた。概念を完全に捨てないといけないのだから。

極端に表現すれば、ある意味で障がい者のためにあるのがアートなのだ。
彼らにとっては、アートは一体で不可欠。自然で普通のことなのだ。
また他にストレートな表現方法がない。
太郎は、書くことも話すことも出来ない人の人生をイメージしていた。アートでの表現しかないのだから。

太郎は、わざと顔をゆがめて、ありったけ障がい者のように堂々とふるまった。
「芸術は爆発だ!」と。

この有名な言葉の本質を理解している人は世の中にどれくらいいるだろうか?

彼こそが究極の菩薩だ!
これから太郎がどんどん必要とされる時代になる。時代が変われば、あのヒトラーだって次第に英雄になる可能性だってある。ナポレオンや織田信長達を今考えてみてほしい。

太郎の『太陽の塔』は、当初酷評された。と言うより熾烈な闘いから生まれた。
しかし今はどうだろう?
ある意味歴史のシンボルそのものである。

しかし、思うに岡本太郎の本質は、恐れずに言うと、絵画や彫刻よりも彼自身のイメージ、パフォーマンスや言葉などから、直接つたわる魂にあるのではないだろうか??作品はその延長線上にあるのでは?と常日頃感じている。彼の言葉の中には、常に『人間』としての本質が含まれている。

その彼が注目し、入魂していた沖縄。
太郎はその時代に沖縄ですでに本土では失われつつある人間の本質を垣間見たのだ。
今の日本社会を読んでいたのだ!

クーピーはそれらの繋がりから、自然に血となり肉となり沖縄の地でこれからの時代の受け皿となるべく設立されたのだ。

新生クーピーアート

いよいよクーピーアートが本当の姿を現し始めてきた。
先日横浜でビッグアートイベントを行ったのだが、かつてのイベントとは全く違う本当のクーピーアートの一面を披露した。

さぁいざ絵を書こうとした途端に、遮りすべての段取りを破壊する者。
奇声を発する者。泣いている者。憤っている者。常識的な観点から見れば、近寄りたくない姿の人々が登場した。

さてどうだろうか。そのような人々が現れたとしたら、引いてしまうのが一般的であろう。関わりたくないと思い、去っていくのが普通だ。実際そうする方々もいた。

人は自分の概念を超える出来事が起こったとき、固まり、思考停止になり、否定しがちだ。そこからが人間の真価が問われる。

目の前でいきなり訳のわからないものを見せられたときに、その事象から「逃げる人」と「向かう人」に分かれる。

受け入れることが難しいことほど受け入れてみる。そうして向かい続けることで、人は成長し、進化する。

障がい者と呼ばれている人たちは、概念や常識が多くの人とは異なっている。だから、突然発狂したり、何をするのか予測ができない。本来、人間は予測がつかない生き物であり、それが人間の本質である。一人ひとり、感じてることや表現したいことが違うのが当然なのだ。

実は、健常者と思っている我々も、障がい者なのである。論理思考しかできない障がいだったり、感情を表現できない障がいだったり、金儲けだけが得意な障がいというのもあろうだろう。人は皆万能なのではないから、出来ることは限定されている。

皆が共通して持っている、概念と常識を取り払えば、そこには何ら障がい者と変わりがない世界が見えてくる。あるがまま、感じたままの世界である。アーティストはそれを表現している。

誰でも思うことだが、ピカソなどの芸術とされている絵を見て、「意味がわからん」「何の価値があるのだろうか?子供の落書きと何が違うのだろうか?」と考える人はたくさんいるであろう。

子供や障がい者が感じている世界を大人になると感じきれないから、理解しようとするのだ。知ろうとせず、感じることがアートだ。そして感じたことをまた表現することで連鎖していく。

本当に才能ある芸術家とは、高次の霊が降ろせるかどうかにかかっている。類は友を呼ぶというように、それぞれの意識レベルにあった、霊=才能を呼び寄せる。

真の芸術家というのは、普通の人が理解できないものを表現するので、その描いている内面や姿は、なかなか理解することができない。それはピカソや岡本太郎など著名な芸術家と呼ばれる人たちの歴史によって証明されている。

要はその状態こそがクーピーであって、普通の人にとっては理解できない過程を経て、本物のアートが生まれる。アートは、何も絵画だけでなく、人生こそが最大のアートだ。

ビジネスだってアートになる。だからこそ才能開花のために、ジョイントやクーピーというものがあるのだ。

普通の人から見たら、「大の大人があんなに発狂して・・・。」とか、「公衆の面前であんなことするなんて・・・。」と思うかもしれませんが、クーピーは障がい者(アーティスト)の団体なのであって、障がい者は大人でも発狂するし、公衆の面前なんていう概念もない。

「あの人たちは障がい者で絵を描くときはいつもあんな感じですが、何か問題ありますか?」といわれたら、自らに潜む概念が浮き彫りにされ、またとない気付きの機会となるだろう。

クーピーに参加した人は、
「不思議だな~と思ったのは、最初はボランティアみたいな気持で参加したのに、逆に癒されたのは僕の方で、クーピーを楽しそうにやっている障がい者の方や子供の方から学ぶ事が多かった気がします」という意見が多い。

人間の本性が出て、それを感じた時、普段眠らされている感性が出しやすくなるし、出せなくても感じるのです。そこから才能開花の旅は始まるのだ。

長くなったので、クーピーの由来についてはまた今度!

那覇空港

2009021811500000
2009021811500000 posted by (C)ふぁーふぁ
もう終わりましたが、那覇空港にクーピーアートが展示されていました。
全国の空港でも展示できるよう広げていけたらと思います。
さて、昨日、海兵隊のグアム移転協定が閣議決定されましたが、
議論は起こりませんでしたね。28億ドルまでお金出すことに
なるのですから、もう少し話されるかと思いましたが・・。
甘やかすのは、相手のためにもよくないですね。
しっかりと向き合って、面倒なことにも立ち向かわないとと
かつての自分を反省して思います。